三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「SISU 不死身の男」

2023年10月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「SISU 不死身の男」を観た。
映画『SISU/シス 不死身の男』公式サイト

映画『SISU/シス 不死身の男』公式サイト

10月27日(金)TOHOシネマズ日比谷にて全国公開|ツルハシ一本でナチスを討つ。“世界一幸せな国“フィンランドから届いた、爆風マッドエンターテインメント!

映画『SISU/シス 不死身の男』公式サイト

 ほとんど死語かもしれないが、負けじ魂という言葉がある。本作品の伝説の英雄について語る女たちはSISUという言葉を使う。SISUは日本語の負けじ魂に似ている気がする。しかし決定的な違いは、フィンランドのSISUという言葉は現在でも生きているようだが、日本の負けじ魂は言葉が死語に近いだけでなく、その精神性も絶え果てようとしていることだ。それが悪いことなのかというと、諦めが肝心という言葉もあるし、よくわからない。時代はそんなふうに変わっていくのだろう。
 作品中ではナチスが英語で喋っていて、老兵について「inmortal」と言っていた。「mortal」は賛美歌の「Amazing Grace」に「mortal life」という歌詞で出てくる。意味は「限りある人生」だから「inmortal」は不滅という意味なのだろう。本作品の字幕の通り、不死身でもいいと思う。
 
 君子危うきに近寄らずを日常の信条にしている当方としては、本作品の主人公の行動には驚愕するしかない。たしかに、長い間の労苦の末に見つけた金塊である。誰でも取り戻したいと思うが、相手はナチスだ。情けも容赦もない。凡人ならすぐに諦めるところだ。命あっての物種である。ところが本作品の老兵は、ナチスをモノともせずに立ち向かう。恐ろしいほどの忍耐力と意志の強さである。
 
 戦場アクションとしては新しい。主人公が老人というのも珍しいし、ゴア描写が生々しい。しかも敵だけではなく主人公のゴア描写もある。感情移入している分だけ、とても痛そうに感じてしまう。そこらへんが新しいと思う。
 フィンランド映画というと、今年公開の「ガール・ピクチャー」や2022年日本公開の「ハッチング-孵化-」、2021年日本公開の「TOVE/トーベ」などを鑑賞したが、いずれも世界観がひと味違う。本作品もこれまで鑑賞した戦場アクション映画のどれとも異なる不思議な味わいがあるし、とにかく痛快だ。おすすめの一本である。

映画「道で拾った女」

2023年10月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「道で拾った女」を観た。
映画『道で拾った女』公式サイト - レジェンドピクチャーズ

映画『道で拾った女』公式サイト - レジェンドピクチャーズ

映画『道で拾った女』の公式サイトです。10月21日(土)より新宿K’s cinema 他にて全国順次ロードショー

レジェンドピクチャーズ -

 終映後に助演の佐々木心音がロビーで11月公開の主演作「クオリア」のチラシを配っていた。ちゃんと化粧すると、それなりに見えるのだなと、少し感心した。

 人生は辛い。たくさん失敗した。大体は自分のせいだけど、運が悪かったのも少しはあると思う。過去は取り戻せないし、戻りたくもない。早く死にたい気もするが、美味しいものを食べているときはそうは思わない。食べて元気になると、性欲もモリモリだ。道徳なんてクソ食らえだが、ルールは守らなくちゃならない。浮気はバレないのが大事。違法行為じゃないし、バレなければ、なかったも同じだ。

 そんな感じの二人のロードムービーである。小さな出来事がダラダラと続くが、トラックに積んだバッグのせいで、妙な緊張感が続く。浜田学の竜兵が思いがけず寛容な男気を見せるところがクライマックスで、一転して収束に向かう展開がいい。

映画「愛にイナズマ」

2023年10月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「愛にイナズマ」を観た。
映画『愛にイナズマ』オフィシャルサイト

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大切な夢を奪われた花子と正夫―どうしようもない家族の力を借りて、二人の反撃が始まる! 松岡茉優 窪田正孝 池松壮亮 若葉竜也 / 佐藤浩市 監督・脚本:石井裕也 プ...

映画『愛にイナズマ』オフィシャルサイト

 石井裕也監督の前作「月」は、辺見庸原作の実話ベースの作品で、テーマも雰囲気もかなり重かった。10月13日の公開だったから、本作品の公開の2週間前である。おそらく2作品を並行して編集作業をしていたのではないかと思う。「月」が重すぎたので、石井監督は本作品で自身の精神バランスを整えていたのかもしれない。映画の編集は昼夜を忘れるほどの作業興奮をもたらすが、同時にかなりの負担を与えるに違いない。

 本作品は石井監督のオリジナル脚本で、尾野真千子が主演した「茜色に焼かれる」に似た雰囲気がある。それは、人は多かれ少なかれ人間関係の中で演技をしているという世界観である。それと、生きていく上ではどうしても金が必要だという、忌々しさやもどかしさみたいな感覚だ。不条理と言ってもいい。

 前半のMEGUMIと三浦貴大の人物造形がやや類型的だが、世の中の嫌な感じを出すために敢えてそうしたのだろう。三浦貴大は、底抜けの善人から本作品の底意地の悪い小物まで、幅広く演じる。本作品のパターナリズムの助監督とMEGUMIのプロデューサーは、主人公折村花子が演技を捨てて本当のことを言うための反面教師の役割だ。大抵の場合は嫌な連中の圧力に負けてぺしゃんこになってしまうところを、そうならないための人物として、窪田正孝の正夫を設定する。この辺りの立体的な脚本は流石に石井監督である。

 本音で生きていくのは高いところから翔ぶのと同じで、勇気がいる。翔ぶためには助走も必要だ。花子は自分の幼い頃の記憶まで遡って、力を溜めようとする。実家とその周辺が舞台の後半の展開は、螺旋階段のようにリフレインしながら盛り上がっていく。松岡茉優の演技は振り切っていて、とても見応えがある。
 石井監督の作品ではおなじみの植松壮亮が演じた長男は、地球の長い歴史から見たら、人間の存在なんて一瞬だと、そんなふうに語るくせに、高級車を自慢するという矛盾を抱えている。ある意味で貧乏人の典型だ。妹が翔ぼうとしているのを感じて、自分も翔ばなければならないのではないかと考えはじめる。若葉竜也は父親の安定剤の役割を果たしていて、佐藤浩市は深みのある父親を軽妙に演じてみせる。それぞれ人格的に奥行きのある家族と接しながら、思いもしなかった昔の事情が花子を勇気づける。

 世の中を動かしているのは底の浅いクズばかりである。連中は拝金主義で差別主義だ。大金を稼いでいる自分がエラいと思っている。そういうパラダイムが猖獗を極めているのが今の世の中だ。金がなければ人間性まで否定されるし、金を得るためには尊厳を捨ててクズにヘーコラしなければならない。ともすれば死にたくなるのも当然である。
 それでも死なずに生きていく。貧しいけれど、清く正しく美しく、そして地面を這いずり回って生きていく。人生なんて一瞬だ。金のために自分を売るのは、生きていないのと同じじゃないか。
 そこはかとなく元気が出る作品だった。

映画「Hypnotic」(邦題「ドミノ」)

2023年10月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Hypnotic」(邦題「ドミノ」)を観た。
映画『ドミノ』公式サイト

映画『ドミノ』公式サイト

娘を探す刑事は、その鍵を握る‘絶対に捕まらない男’を追い、〈世界〉に迷い込む。かつてない映像体験! かつてないギミック! かつてないどんでん返し! - 10.27 FRI

映画『ドミノ』公式サイト

 面白かった。原題の通り、催眠術を使ったSFアクションである。かつて超能力ブームの折には、サイコキネシスやテレキネシスといった言葉が社会性を持った。ユリ・ゲラーなどという人もメディアに登場したものだ。

 触れずに物を動かすのは、物理学の法則に反するし、直感的にも信じ難い。しかし相対性理論が説明することも、直感的には信じ難いところがある。物の速度には限界があって、光の速度は超えられないとか、ブラックホールはスプーン1杯の重さが何十トンにもなっていて、光も時間も進めないとか、重力加速度で上昇する無限エレベータに光が入ると、上昇している分、光が曲がって見えるから、即ち光は重力で曲がると結論づけたりする。知れば知るほど、人間が説明できることは広大な時空間のごく一部に過ぎないのだと思い知る。
 本作品はそういうことを踏まえた上での、大人向けの映画である。ところどころで理解し難いシーンがあるのはご愛敬だ。
 その他大勢が無慈悲なシーンで殺され、主要人物たちは情緒に従って行動するというハリウッドお馴染みの展開だが、ベン・アフレックの芝居が見事で、それなりに楽しめる。続編があったら、多分観ると思う。

映画「唄う六人の女」

2023年10月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「唄う六人の女」を観た。
映画『唄う六人の女』公式サイト

映画『唄う六人の女』公式サイト

映画『唄う六人の女』公式サイト

 女たちが森の生き物の代表ということはすぐにわかるが、森の生き物は他者に何も強制しないし、あんなに暴力を振るわないと思う。

 本作品が成り立つのは、主人公萱島森一郎の果てしない寛容さがあってこそである。聖書には「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と記されているが、本当にそんなことができる人がいるとは考えられなかった。
 萱島は、人類はいつの日か風みたいな存在になるのかもしれないと言う。繁栄した生物の末路は常に絶滅だ。人類も将来は必ず絶滅するのだろうが、だからといって自然環境を壊していいという訳ではない。父親の自然愛に惹きつけられ、宇和島のエゴイズムに反発するように、萱島は数日のうちにグローバリストになっていく。

 随分と強引な展開だし、寛容にもほどがあるが、そうでなければ物語が成り立たない。これほど主人公におんぶにだっこの作品も珍しい。しかし竹野内豊は大したものだ。海のように広い精神性を見事に演じきった。
 萱島のグローバリズムに対し、エゴイズムの塊みたいな宇和島を演じたのが山田孝之で、こちらも熱演だった。こういう典型を演じるのはお手の物かもしれないが、根っからの悪人にしか見えないところが凄い。

 弁護士の話が急に出てきたり、彼女がいきなり殴りかかってきたりと、下地作りや説明に欠けているシーンがある。女たちの暴力性もリアリティが乏しい。もっと大人しくて色気に満ちた女たちであれば、声を上げたくても上げられない、受け身一方の地球環境や、タイトルの「唄う」がよく理解できただろう。竹野内豊と山田孝之の演技が見事だっただけに、ちょっと惜しい。

映画「almost people」

2023年10月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「almost people」を観た。
映画『almost people』

映画『almost people』

映画 | Movie「almost people(オールモストピープル)」4人の監督が紡ぐ『感情の欠けた4人兄弟姉妹』を描いた1本の映画A film about "four brothers and sisters w...

映画『almost people』

 いながききよたかが脚本を書いた映画「忌怪島」が不出来だったので、本作に期待するみたいなレビューを書いたが、タイミングが合わなくて、公開から3週間過ぎてようやく鑑賞することができた。しかし4話のオムニバスだから、どの作品の脚本を担当したのか、不明である。喜びがテーマの長男の話「Voice Recorder」か、怒りがテーマの長女の話「Humanoid」のいずれかだろうとは思う。一方は感性の話で一方は理屈っぽい世界観だが、いながききよたかなら、どちらも書けそうだ。

 現代ではAIの登場で、人間とは何かという疑念が、社会全体に霧のようにたゆたう。論理的に思考を積み重ねていく人もいれば、ぼんやりと無意識の中で想念を巡らせる人もいる。AIが人間に代わって仕事を担うのであれば、人間にしかできない仕事をするしかないとか、そうではなくて、例えば将棋やチェスのように、AIが人間より強いことが判明しても、人間同士のゲームが楽しまれているように、AIのできる仕事でも、人間がやる価値があるかもしれないとか、そういったことを考える。
 人間の思考においては、自分が人間であることを前提にする必要はない。地球にとって一番の害悪は人類の存在だと、人類の現状を否定することもできる。思考は常に自由でなければならない。日本の現状を否定すると日本から出ていけと怒る人がいるが、思考も表現も肯定も否定も、人間の精神的な活動として、それらの自由が保障されなければならない。
 無条件に人間や人類を肯定する人々は、人間や人類が自らを滅ぼす方向に進み続けていることを指摘されたくないらしい。自己矛盾は怒りを呼び、暴力に結露する。フランクな車座会議が一瞬にして暴力の場となるのは、人間の醜さと浅ましさの表現だろう。出産を否定されると、自分が否定されたように感じるのだろうか。

 喜怒哀楽の感情が抜け落ちていても、人間は人間である。当方は高校生のときに、国語教師が言った言葉をいまでも覚えている。それは「親が死んで泣かない奴は人間じゃない」というものである。国語教師の一元論的な決めつけは不快だったし、自分は親が死んでも泣かない予感がした。その後、その予感は的中した。
 子供の頃から、飼っていた犬猫の死に多く直面している。自分で鶏を殺して捌いたこともある。植物が枯れるのを何度も見たし、親族の葬式には何度も参列した。親の死とはいえ、生物の死に何の違いがあろうか。いちいち泣いていたら生きていけない。

 エピクロスによれば、最高の快楽=喜びとは、心の平安であるらしい。心の平安をもたらすものは不安と恐怖だから、不安と恐怖の欠如が喜びという訳だ。随分と消極的というか、引き算の喜びであるが、人間の不幸が不安と恐怖に由来すると考えれば、エピクロスの言葉は真実を突いている。喜怒哀楽がないほうがむしろ幸せなのだ。
 つまり本作品は、不幸を背負っていることが人間の条件なのではないかと、そう問いかけている訳である。不安と恐怖に苛まれ、顫えながら生きるのが人間で、そうでない者は人間としての資格がないのかもしれないというアンチテーゼが前提にあるのだ。
 しかし顫えながら生きる人間は、暴力に走り、別れに泣き、束の間の喜びに我を忘れる。そういう結末を示しつつ、改めて人間とは何かを突き詰めると、むしろ喜怒哀楽から解放されたところに存在価値があるのではないかと、そう思えてくる。そんな作品である。

映画「La Syndicaliste」(邦題「私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰?」)

2023年10月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「La Syndicaliste」(邦題「私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰?」)を観た。

 原題は「La syndicaliste」(直訳=組合活動家)である。邦題は少し気負い過ぎの感があるが、穿った見方かもしれないと思った。誰が正義で誰が悪なのか、誰が真実を話して、誰が嘘を吐いているのか、そこを考えながら観ると、実に奥の深い物語であることが分かる。

 原子力に関する利権は、構造的に日本もフランスも同じだ。原子力ムラのようなものがあり、関係者は利権で潤っている。関係者の中には政府の機関も当然含まれているから、反対する人は、学者でもジャーナリストでも人権を脅かされることになる。
 本作品では、その被害者は労働組合の書記長だ。イザベル・ユペールが颯爽と演じるモーリーン・カーニーは、原子力施設への中国の参入が、世界最大の原発会社アレバ社の5万人の雇用を脅かしていると訴える。そして何者かによる被害を受ける。

 本作品は、あえて曖昧さを残していて、もしかしたらモーリーンが嘘を吐いているかもしれないと思わせるし、逆に、あるいは警察が嘘を吐いているかもしれないと思わせる場面もある。
 もし警察が嘘を吐いているとすれば、現場にDNAも指紋も他の物的証拠も何も残されていない理由が分かる。現場を調査するのは警察で、あったものをなかったことにするのは簡単だ。証拠は捏造するよりも隠滅するほうが遥かに容易である。警察が証拠を隠滅する理由を考えると、戦慄の推測が成り立つ。つまり犯人も警察だということだ。
 モーリーンの自動車からバッグを奪った犯人はバイクに乗っていた。そして取り調べの中心となる憲兵もバイクに乗っている。こいつが犯人だと観客を誘導しているのかもしれない。本当のことがわからないままというのは、いかにも実話がベースの物語である。事実は小説よりも奇なりだ。

 人類はもはや、電気のない生活を送ることが考えられないほど、電気に依存している。マサイ族もスマホで仕事をしているくらいだ。電力の安定供給は人類にとって最も重要な課題のひとつである。原子力発電は効率的かもしれないが、事故の発生や核のごみ処理の問題が解決されていない。国民の安全が第一のドイツが危険な原子力発電から撤退して、再生可能エネルギーにシフトしたのは賢明な選択だと思う。

 アレバ社の労働組合はアレバ社の存続がないと雇用が維持できない訳だが、一方では原発の危険性もよく認識している。モーリーンは組合員の代表の立場を一ミリも崩さないが、内心では原発の将来性について危惧していた面もある。イザベル・ユペールは、この微妙な役柄を微妙なままに演じきった。流石としか言いようがない。

映画「悪い子バビー」

2023年10月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「悪い子バビー」を観た。
映画『悪い子バビー』公式サイト

映画『悪い子バビー』公式サイト

10月20日公開!『悪い子バビー』公式サイト。第50回ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞受賞。35年間、社会と隔絶され続けた「地獄育ち」の男がはじめて出会う「刺激」だらけ...

映画『悪い子バビー』公式サイト

 生まれてから35年間も閉じ込められて、母親以外の人間と会ったことがない男という設定はユニークだ。そのうえで彼の精神性を想像した結果が本作品である。
 外界と接することで人間は何を得るのか、同時に、何を失うのか。バビーは外に出た途端にあらゆるものを吸収する。初めて聞いた罵声、初めて聞いた歌声、初めて食べたピザ、初めて聞いたロック。感動は強烈で純粋だ。
 母親のインセストのせいで巨大な乳房にしか興味が湧かないが、バビーのバイアスはそれだけだ。あらゆる言葉を受け入れ、真似する。その結果、他人がどう反応するかを見て、自分が言われた言葉が表す精神性を理解する。バビーの世界観が形作られていくのだ。
 敵意ではなく親愛を示しながら近寄ってくる猫の姿に、愛おしいという気持ちを初めて体験する。バビーにとって世界の魅力は、音楽とピザと、それに猫だ。愛おしさの気持ちは拡大し、やがて巨大な乳房に収斂する。
 いい子は真似してはいけない食品ラップの使い方といい、それとかけたのかもしれないが、初期のラップみたいなバビーの歌といい、描き方はとても斬新で、驚きに満ちている。成長物語であり、ラブストーリーでもあり、音楽映画でもある。すごくよかった。

映画「シェアの法則」

2023年10月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シェアの法則」を観た。

 当方が鑑賞したのは公開10日目だが、上映後に舞台挨拶があった。本作品は単館上映なので、毎回舞台挨拶をしているようだ。登壇した岩瀬顕子が、シェアハウスの住人である加奈子を演じていたのはわかったが、この人が脚本も書いたということに少し驚いた。多彩な人である。

 世界観は単純だ。パターナリズムの夫と、多様な価値観を受け入れる妻を対比させて、シェアハウスの人々が織りなす人間模様の中で、頑なな夫の価値観が徐々に変わっていくというものだ。とは言え、夫の変化は僅かである。その辺はとてもいい。人はそう簡単に変わるものではない。
 主演の小野武彦にとっては、パターナリズムの昭和の男は、やり慣れて堂に入った役柄だと思う。観ていて既視感があった。同じく宮崎美子も、いつもの優しい役である。この人のこういう役も、何度か観た気がした。
 そういう面で、安心感のある作品だ。ドラマにするためには危機が訪れなければならないから、プチ危機を設定して、一波乱を演出する。そして収まるべきところに収まる。あまり心を揺さぶられるところはないが、ホッとする物語である。こういうほのぼのした作品も、たまにはいい。古い頭の持ち主は、気づかされる部分もあるだろう。家父長主義が蔓延する日本の政治家も、本作品を観て少しは変わってほしいものだ。

映画「カンダハル 突破せよ」

2023年10月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「カンダハル 突破せよ」を観た。
カンダハル 突破せよ - 株式会社クロックワークス - THE KLOCKWORX

カンダハル 突破せよ - 株式会社クロックワークス - THE KLOCKWORX

タイムリミットは30時間 400マイル先の救出地点を目指せ

株式会社クロックワークス - THE KLOCKWORX

 イスラム教徒が世界的に増えているらしい。イスラム教徒が即テロリストではないことは分かっているが、ハラルを守ってハラムを犯さないという戒律が、結構面倒くさい気がする。豚肉が好きだが、イスラム教徒とは一緒にキムチ鍋をつついたり、餃子を巻いて食べたりすることは出来ない。
 イランは正式名称をイランイスラム共和国というくらいで、憲法その他の法律の上にイスラム法がある。イランに生まれたら自動的にイスラム教徒になる訳で、信教の自由などない。イスラム教徒は他人に戒律を守らせるのがよほど好きみたいで、道徳警察が市民を監視して、戒律違反を犯している者を捕らえて罰を与える。
 女性はヒジャブの着用が強制されているが、正しい着用の仕方をしていなかったということで、2022年に拘束された女性がその後死亡したことで、抗議のデモが起こった。参加した人の内、数百人が当局に殺されたと報道されている。デモがあまりにも大規模になったので、イラン当局は道徳警察を廃止したという噂があるが、本当かどうかわからない。
 イランに生まれなくてよかったと思った日本人女性はたくさんいると思うが、それは日本の状況を知っているからで、イランに生まれてイランの社会しか知らなければ、そんなふうに思わないだろう。21世紀になってからのインターネットの急激な普及で、自国の不自由さを知ったイラン人が多いのかもしれない。
 では日本は自由かというと、そうでもない可能性がある。自民党の埼玉県議団が提出した虐待防止条例案は、驚くべき内容だった。子供の世話を片時でも怠ると虐待に当たるというもので、最初は努力義務、将来は罰則も設けるという。シングルマザーは埼玉県から出て行けという条例と言っていい。幸いにも、抗議が殺到して提出を取り下げたようだが、その理由は説明不足らしい。説明不足というのは逆から言えば、理解を得られなかったということで、要するに埼玉県民がバカだから、この素晴しい条例案が理解されなかったという意味だ。どこまでもおごり高ぶった自民党県議団である。

 世界銀行の発表によると、日本の合計特殊出生率は1.3で世界186位だが、イランは2.1で102位である。日本よりもイランのほうが、子供に未来があると考えているのか、それとも強姦で子供が増えているのか、または避妊具不足なのか、理由はよくわからない。しかしイスラム教の国は、国民が不幸に見えても人口が増えている事実はある。
 もしかしたら、ドストエフスキーの小説の登場人物が言うように、人間は自由を怖れているのかもしれない。自由になって飢えるくらいなら、パンのために喜んで自由を投げ出すと彼は書いた。
 つまり、自分で考えて実存を生きるのが辛いから、イスラム教の戒律に従って生きる。自由の重荷を背負わなくていいから、その方が楽である。しかし人間から考えることを取り去ったら、人間性が希薄になる。理性的な面が減少して暴力的になる。ニュースで映される映像のように、やたらに銃を構えている人が多い中東の様子そのままだ。

 さて、本作品はそういう不自由なイスラム世界が舞台だ。シーア派とスンニ派の争いの他に、クルド人やダーイッシュ(ISIS)やタリバンもいて、勢力図は混沌としている。そこにCIAも絡んでくるから、もはや収拾がつかない。不幸なのはそこに住む民衆で、人権などありはしない。
 ではアメリカに人権があるかというと、黒人をはじめとする有色人種には厳しいし、貧乏人は滅多に這い上がれないという現状だ。しかしそれでも服装は自由で、ヒジュラの被り方で殺されることはない。
 CIAのエージェントである主人公のトムにも苦悩はある。自分は他国に来て、本当に人々のためになることをしているのか。今の政情は土地の人々が選んだ状況なのではないか。やっていることは本当にアメリカの国益になるのか。
 だが現状は逼迫していて、悩んでいる場合ではない。兎に角脱出するのが先決だ。現場エージェントとしての経験を総動員するトムの逃避行がはじまり、物語は一挙に佳境に突入する。アクション俳優ジェラルド・バトラーの本領発揮である。トムはスーパーマンではなく、戦闘はリアルだ。必ずしもハッピーエンドでないところもいい。
 バトラーとリック・ローマン・ウォー監督の相性はかなりいいみたいだ。「エンド・オブ・ステイツ」も「グリーンランド-地球最後の2日間-」も面白かったし、本作品も十分に楽しめた。