三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

舞台「エノケソ一代記」

2016年11月30日 | 映画・舞台・コンサート

世田谷パブリックシアターで三谷幸喜演出の舞台「エノケソ一代記」を観た。
http://www.siscompany.com/enokeso/

喜劇王と言われていたらしい榎本健一は、戦中から戦後にかけて活躍していた人で、リアルタイムで見たり聞いたりしたことはないが、♬ラーメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ♬でおなじみの「東京節」や、♬俺は村中で一番モボだと言われた男♬ではじまる「洒落男」など、聴いたことのある歌は沢山ある。
市川猿之助が愉快な踊りとともに、これらの歌を歌う場面がいくつもあって、とても楽しい芝居だ。流石にその場で踊りながらの歌唱は厳しいようで、あらかじめ録音した自分の歌を再生していたように見受けられた。咎めるつもりではなく、むしろ録音の方が、スピーカーを通して劇場全部に歌が響くのでよかったように思う。

エノケンこと榎本健一の真似をして各地を巡りながら興行するエノケソ一座。「ン」と「ソ」の違いは、本物に対する敬意と、あわよくば間違えて客がたくさん入ってくれればという思惑と、追及された時の逃げ道などが入り混じった目的のようだ。

座長エノケソを演じる市川猿之助、その妻役の吉田羊、エノケソ一座を迎える劇場や学校の人たちをひとりで次々に演じる山中崇など、出演者全員の演技が、とても生き生きとして楽しそうだった。喜劇王の芝居らしく笑う場面がたくさんあるが、やはり喜劇の王道に倣って人情劇でもある。

どうでもいいことだが、ひとつだけ気になった点がある。終演時の横に並んでのお辞儀で、吉田羊さんは膝を曲げてお辞儀をしていた。着物姿の立礼は膝を曲げてお辞儀するものなのだろうか。そういえば、映画「小さいおうち」の黒木華も、同じお辞儀の仕方をしていた。お辞儀の仕方を云々すると韓国文化の好き嫌いにも繋がったりするので深く追及するつもりはないが、気になったので備忘的に記しておく。


レース結果~ジャパンカップ

2016年11月27日 | 競馬

ジャパンカップの結果
1着キタサンブラック   △
2着サウンズオブアース  ▲
3着シュヴァルグラン   △

私の印
◎ルージュバック     9着
〇リアルスティール    5着
▲サウンズオブアース   2着
△キタサンブラック    1着
△ゴールドアクター    4着
△ディーマジェスティ 13着
△シュヴァルグラン    3着

馬券はルージュバックリアルスティールの頭からだったのでハズレ
平均よりも遅めのペースでやや力のいる馬場だったことがキタサンブラックには幸いした。この馬のパワーとスタミナは他馬の追随を許さない。ルージュバックはロスなく進み、内側から伸びかけたが、止まってしまった。ジェンティルドンナやウオッカといった歴代の名牝の域には遠く及ばないということだ。いい馬だが、人気先行が過ぎた。早めに引退して優れた仔を産んでほしいものだ。
だいたい思った通りの結果に近かったが、ディーマジェスティの凡走は意外だった。最近では皐月賞を勝った馬が結構強いのである程度期待していたが、残念である。もう少し短い距離の方が向いているのかもしれない。 

さて来週はチャンピオンズカップだ。6連勝中の絶好調アウォーディが断然人気になるだろうが、毎週武豊だと面白くないので、560キロを超す大型馬のアポロケンタッキーに期待してみたい。


ジャパンカップ~天皇賞組から

2016年11月27日 | 競馬

◎ルージュバック
〇リアルスティール
▲サウンズオブアース
△キタサンブラック
△ゴールドアクター
△ディーマジェスティ
△シュヴァルグラン

前走G2組が1、2番人気という珍しいメンバーになった。
1番人気のキタサンブラックは全12走のうち11走で3着以内と非常に安定した成績だが、12走で1番人気になったのは前走が初めてという人気のない馬だ。唯一の着外が今回と同じ府中2400mの日本ダービーの14着だ。
その日本ダービーで2番人気4着だったのがリアルスティールキタサンブラックには1秒7の差をつけていた。その後の菊花賞でキタサンブラックの首差2着となり、長距離への適性も示していて、今年になってドバイターフでG1勝ちも果たした。
ゴールドアクターは3歳夏の上り馬で、菊花賞3着のあと休養を挟んで5連勝。有馬記念も勝った。その菊花賞で2着だったのがサウンズオブアースゴールドアクターには3馬身半の差をつけていた。
サウンズオブアースは今春の天皇賞でキタサンブラックから3秒2の大差で15着に敗退。ゴールドアクターは0秒8差の12着だった。
ディーマジェスティは8番人気の皐月賞で優勝。ダービーは3着で菊花賞は4着と着順を落としている。
ルージュバックはデビューから3連勝できさらぎ賞を勝ち、クラシックで期待されたがオークスの2着が最高。その後府中の1800mを連勝して秋の天皇賞に臨んだものの、7着に終わった。
シュヴァルグランは前走で初の左回りの東京コースのアルゼンチン共和国杯を勝っての参戦だが、強敵相手だった宝塚記念で1秒4差の9着だったのが気になるところだ。
外国馬は一線級ではなく買いづらい。

東京の天気予報は午後から雨だが、急激な悪化はなさそうで、展開や重の巧拙は考えなくてよさそうだ。
この馬で万全という確たる軸がいないレースで、どの馬が勝ってもおかしくない。過去のレースデータから、天皇賞組が強いことと、4歳馬が強いということから、ルージュバックリアルスティールを中心にとった。キタサンブラックが逃げてゴールドアクターが番手につける展開になると思うが、いずれも切れるタイプではない。ロングスパートが得意のディーマジェスティもやはり切れるタイプではない。シュヴァルグランは前走の相手関係から見て連下が精一杯だろう。この4頭を3着候補とする。札幌記念でモーリスと差のない競馬をしたレインボーラインも気になるが、そこまで手を広げられない。

馬券は◎〇-◎〇▲-◎〇▲△△△△3連単フォーメーション(4、16-4、12、16-1、3、4、9、12、16、17)20点勝負


映画「Premiers Crus」(邦題「ブルゴーニュで会いましょう」)

2016年11月26日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Premiers Crus」(邦題「ブルゴーニュで会いましょう」)を観た。
http://bourgogne-movie.com/

評判と名声を得たワイン評論家が、販売不振と借金で立ち行かなくなった実家のワイナリーを立て直すべく、はじめてのワイン造りに挑む映画だ。失敗すればワイン評論家としての名声も地に落ちるうえに、借金を返せなくて畑を売ることになる。

実際はどうなのかわからないが、映画の中でのフランス人たちの人間関係は、どんなに激しく議論を戦わせても、相手の人格を否定したり、ましてや暴力に訴えたりすることは決してない。流石に言論の自由を自分たちで勝ち取った国民だ。懐の深い精神性を感じる。最近はフランスでも極右政党が勢力を伸ばしつつあるようで心配だが、この映画に登場するフランス人は言論の自由を重んじる知的な人たちばかりだ。

ストーリーは坦々と進むので特筆すべきことはないが、広大な土地に葡萄畑が広がるブルゴーニュの映像がとても美しい。そして美しい自然は同時に厳しい自然でもある。そのことはワイナリーの職人が一番よく知っている。
葡萄畑は、日当たりや水はけなどの少しの違いで、出来るワインの質がまったく違ってくる。普通の畑は、それほどいいワインは出来ないが、それでも苦労する。いい畑は自然の恩恵をもたらしてくれるので、いいワインが出来る。主人公シャルリは子供のころ、祖父からそう聞かされていた。
隣のワイナリーで40年もワインを造りつづけているエディットは「畑が求めるものを与えなければならない、そして畑はさらに求めてくる」と語る。畑が求めるものが理解できない人にはワイン造りはできない。ワイン造りの要諦は葡萄造りにあるのだ。
日常的な静かなシーンの中で、ものづくりをする人間の才能や心構えやアイデア、或いは新しいことに挑戦する勇気などがうまく描かれており、ワインに詳しい人も詳しくない人も、どちらも楽しく鑑賞できる。私も詳しくないひとりだが、主人公が父親に飲ませていたワインのエチケットを見て、思わずのけぞってしまった。これは観てのお楽しみだ。

フランス語のタイトルは「Premiers Crus」だ。簡単に言うと一級酒という意味だが、ワインの場合はどの葡萄畑の葡萄かを表しているので、日本酒の一級酒とはだいぶ違うと思う。
日本酒が特級酒、一級酒、二級酒という風に格付けされて売られていたのは30年くらい前のことだ。いまはその格付けはなくなり、主に作り方の違いで純米酒や本醸造酒、精米の度合いで吟醸酒や大吟醸酒、味の違いで辛口と甘口、濃醇と淡麗などに区別されている。
「Premiers Crus」はこの映画ではどういうニュアンスなのだろうか。それぞれの単語の最後にsがついている理由もよくわからない。映画を観たソムリエやソムリエールの方々に聞いてみたいところである。

ワインを飲むシーンが沢山あって、楽しい映画である。登場人物がほとんどみんなワインの専門家だけに、グラスを傾けて色を見たり粘性を確かめたり、口に含んで空気を吸い込んでみたりする。何も食べずにただワインを飲むところがいい。どんな味がするんだろうと、観ているこちらも一緒にテイスティングしている気になる。


映画「この世界の片隅に」

2016年11月24日 | 映画・舞台・コンサート

映画「この世界の片隅に」を観た。
http://konosekai.jp/

第二次大戦の戦中から戦後の国内の庶民の生活を描いた映画だ。広島市の江波地区と呉市を行き来しながら物語が進む。

同じ設定で真っ先に思い出されるのは新藤兼人監督の「一枚のハガキ」(2011年)だ。ヒロインを演じた大竹しのぶが「つかあさい」という広島弁を使っていたので、やはり広島県が舞台だったと思う。山奥の村には戦争の直接的な被害はやってこないが、村の男たちが一人、また一人と兵隊にとられ、そのたびに村人たちが「勝ってくるぞと勇ましく」ではじまる「露営の歌」を歌って送り出す。働き手を失った村は徐々に疲弊して、他との行き来も殆んどなく、ほぼ自給自足、最後はただ生きているだけの生活になる。

山田洋次監督の「小さいおうち」(2014年)も、やはり戦前から戦後までの庶民の生活を描いた作品だが、こちらは戦時下の不倫や、庶民がいつしか国家の大義名分に精神までも侵されていく様子を描いたドラマだ。戦時下でも普通の暮らしが続いていたことをこの映画で初めて知った。主演した黒木華がベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したのは周知のところである。

降旗康男監督の「少年H」(2013年)も同じく戦前から戦後の国内の家族を描いた作品で、主演の水谷豊が、国家の大義名分に踊らされないリベラルな精神の持ち主を好演していた。

今年になって日本で公開されたアメリカ映画「リトル・ボーイ 小さなボクと戦争」もやはり太平洋戦争の末期におけるアメリカの小さな町の庶民の生活を描いた作品だ。

パッと思い出すだけでも4つの作品がすぐに浮かぶくらいだから、第二次大戦時の庶民の暮らしを中心に描いた映画はまだたくさんあるかもしれない。
これらの戦争映画を観て了解するのは、庶民にとって戦争は天災地変と同じようなものだということだ。敵も味方も理念も大義名分もイデオロギーもない。
だんだん生活が苦しくなり、周りの男たちが戦争に駆り出され、学校は教練所となり、庶民はいろいろな役割を与えられる。そしてある日たくさんの飛行機が飛んできて、爆弾を落とし、家が燃えて家族が死ぬ。友だちが死ぬ。誰も助けてくれない。やるせなさで胸がいっぱいになるが、黙って涙を流すのだ。

或いは、遠くの国で新型爆弾がうまく爆発して甚大な被害を生じせしめたことを知る。やったと思う。しかしあまりにもたくさんの人が死んだことを知って、やるせない気持ちになる。

この映画の主題歌としてコトリンゴが歌う「悲しくてやりきれない」は詩人サトウハチローの歌詞に自殺した加藤和彦が曲を書いた名曲だ。コトリンゴのとても落ち着いたミックスボイスが「悲しくて悲しくてとてもやりきれない このやるせないモヤモヤをだれかに告げようか」という歌詞を際立たせる。この歌の「やるせない」という歌詞がこの映画のキーワードだと思う。

庶民にとって戦争はあまりにも理不尽だ。かといって誰を責めたらいいのか。自分自身だって、ついこの間まで大本営発表に日の丸を振っていたではないか。誰も責められないのかもしれないが、不幸の重荷は確実に自分を待っている。主人公すずが敗戦を告げる天皇のラジオ放送のあとで慟哭する姿は、「一枚のハガキ」の大竹しのぶが慟哭したのと同じで、行き場のない悲しみと苦しみを抱えすぎて、叫ばずにはいられなかったのだ。夫から「すずはこまいのう」とつくづく言われるほど小さなすずの肩に、言葉にできないやるせなさが重くのしかかる。やるせない、兎に角やるせない。

呉の空襲、焼夷弾や時限爆弾、8月6日午前8時15分のリトルボーイの爆発、天皇のラジオ放送と、我々が知っている通りに物語は進む。映画の中ですずが描いた広島県産業奨励館の絵が何度も出てくる。それが原爆ドームになってしまうのは、知っていても胸が痛くなる。
たくさんのものを失くしてしまったすずだが、いまは思い出の橋の上にいる。映画の冒頭で子供のころのすずが、ある男性と出逢った橋だ。その男性と一緒にいる。いまはすずの夫だ。賢くて心の広い夫だ。背負いきれないほどのやるせなさを抱えたすずを、夫の愛が優しく包む。映画の最初から、すずはずっと夫の愛に包まれていたのだ。


映画「ミュージアム」

2016年11月23日 | 映画・舞台・コンサート

映画「ミュージアム」を観た。
http://wwws.warnerbros.co.jp/museum/

世の中に異常な人間と正常な人間がいる訳ではない。ひとりの人間の中に、狂気とそれを押さえつけている理性があるだけだ。

大抵の人間は自分が生きていきやすいように共同体の空気に従って生きている。規則を守り、周囲の人間に気を遣う。怒りを爆発させる行動に出てしまうと、周囲から軽蔑されたり相手にされなくなったりする。だから自分の内なる狂気を押さえつけ、あたかも狂気など存在しないかのように自分自身で思い込む。

しかし怒りを爆発させる人間すべてが社会から脱落するかというと、そうではない。人間は暴力の被害を恐れるもので、怒りの爆発は暴力のイメージに直結する。人前で怒ることは、人を従わせる手段でもあるのだ。問題は、誰に怒っているのか、怒っているのが子猫なのか虎なのかということだ。
そう考えると、怒りはそのベクトルによって4つのマトリックスに分類できることがわかる。体制的なのか、反体制的なのかという、方向についての分類と、怒りを爆発させたときにどれだけ被害が生じるかという、影響の大きさについての分類だ。

体制的な怒りとは、共同体や組織などがうまく回っていく方向で、それに反する者や怠ける者、うまくできない者に対する怒りである。簡単に言うと、正論を述べる者の怒りである。これには逆らいづらい。正論を否定することは組織や共同体そのものを否定することになる。否定したいのはやまやまだが、否定してしまうとその組織や共同体で生きていけなくなる。
シンクロナイズドスイミングの選手たちを人格まで否定しながら怒鳴りつける老婆の映像がオリンピック期間にテレビで流れていたが、あのような怒りが体制的な怒りである。正論であり、老婆が実力者であるだけに、選手たちは人格を否定されても耐えるしかない。反発すればやめるしかないからだ。実際にやめると言い出した選手がいたが、老婆はやめることは許さないと発言していた。人格無視の酷い話だが、その酷い話がまかり通っているのがスポーツの世界である。反体制を認めない全体主義がスポーツの基本なのだ。そして実はこの構造は、スポーツに限った話ではない。一般企業でも同じだ。職場の上司で最も力をもっているのは正論をかざして怒る人間だ。従業員は耐えるか、会社を辞めるしかない。さらに言えば、国家の単位でも同じである。国は富み栄えなければならないとする大義名分に反対すれば、拷問を受け、投獄される。21世紀の現在でもそういう国は世界にたくさんある。会社と違って、国民をやめるのは難しい。

しかし正論ばかりでは人間は疲れてしまう。ストレスも溜まる。かといって反体制的な怒りを爆発させてしまうと、生きづらくなる。仕事なんかどうでもいい、会社なんかどうでもいい、国家なんかどうでもいい、法律なんか糞くらえだ、などと叫んでしまうと、社会的不適合者の烙印を押されてしまう。共同体の正論に与することができない人間は、黙っているしかないのだ。

耐えて耐えて、黙って黙りつづけた挙句、反体制的な怒りを押さえつけることができなくなってしまった人間は、いつかはそれを爆発させる。共同体のルールや表現の自由の範囲内に収まっているうちは平安だが、収まり切れない場合は犯罪になってしまう。その場合でも、人間は単純に怒りだけの存在になってしまうことはない。どんな狂気の人間でも、理性は依然として内在しつづけている。ただ理性と狂気のバランスを崩しているだけなのだ。

サイコ的な人間を描くことは、理性と狂気、自分と他者、そして個人と共同体の三つの関係が、危ういバランスでかろうじて保たれているということを表現することだ。我々の足元は決して盤石な地盤ではなく、誰もが、板子一枚下は地獄という状況を生きている。

人間の心理は複雑で、意識と無意識を脳の領域として比較すると、実は大部分が無意識なのだ。その比率は1対2万とも1対20万とも言われている。人間の行動の理由が本人にもわからないことは、普通にあることであり、日常的なことなのである。ひとつの行動は経験則や記憶やトラウマなどが複雑に絡み合った結果として現われているもので、この行動の理由はこうだという単一の筋道で分析できるものではない。

ところがこの作品はよほど頭でっかちの人が作ったようで、それぞれの登場人物が他の登場人物の行動を心理学的に分析し、あたかもそれが正解(真相)であるかのように描かれる。しかしあくまで心理学「的」であって、心理学ではないから、分析も雑だ。そこにこの作品の欠点がある。複雑怪奇な人間の心の奥はそう簡単に分析したり説明したりできるものではない。映画が火曜サスペンスドラマになっては価値がないのだ。

役者たちの演技はそれなりに達者であり、登場人物の行動もいくつかの例外を除いて納得できるものであった。特に妻夫木聡は、狂気ではあるが理性的な面も持ち続けているが故に捕まらない方策を講じることができているという危ういバランスをよく表現できていた。
前半までは非常に面白い展開だったが、後半になって説明的になった途端に、せっかくの妻夫木の演技が深みのないものになってしまった。最後の子供のシーンに至っては何をかいわんやである。

読んでいないので原作も同じように説明的だったのかどうか不明だが、映画としては俳優の演技を信頼して、説明的な表現を極力削ってしまった方がよかった。姉弟などの余計な関係性も不要。
心の闇を描く猟奇事件の映画に、家庭的でないという理由だけで家族から否定されるというステレオタイプの浅薄な場面はそぐわない。猟奇的な行動は猟奇的なまま描くことで、その因ってきたるおどろおどろしい精神性が観客に迫ってくる。世界は安全無事ではなく、自分の内面さえも危険に満ち満ちているのだと実感する。しかし説明的になった瞬間に、その実感が遠く離れていく。映画自体が縮こまってしまうのだ。

役者たちの演技と前半までの展開では高評価をしていたが、後半の説明的な部分が大幅なマイナスとなってしまい、最終的な評価はて低いものになってしまった。残念至極である。


レース結果~マイルチャンピオンシップ

2016年11月20日 | 競馬

マイルチャンピオンシップの結果
1着ミッキーアイル ◎
2着イスラボニータ △
3着ネオリアリズム 無印

私の印
◎ミッキーアイル    1着
〇フィエロ       6着
▲ヤングマンパワー 16着
△イスラボニータ    2着
△ガリバルディ     7着   

頭で買ったミッキーアイルが勝ったので馬単16-8の3390円的中。3連単は3着のネオリアリズムがヌケでハズレ

レースは前半が46秒、後半が46秒の1分33秒1という平凡な記録。こういう展開では逃げ馬にも差し馬にもチャンスがあるが、ミッキーアイルが直線でネオリアリズムを差し返す脚を使って優勝した。ゴール前でごちゃついて差し馬に不利になったのは、レースとして残念だった。5着に終わったサトノアラジンは不利がなければ2着か3着はあっただろう。ディサイファにも3着のチャンスがあった。

さて来週はジャパンカップだ。休み明けを勝って臨んでくるG1馬2頭、キタサンブラックゴールドアクターにアルゼンチン共和国杯を勝ったシュヴァルグラン、菊花賞4着の皐月賞馬ディーマジェスティあたりの争いになりそうだ。


マイルチャンピオンシップ~ミッキーアイル

2016年11月20日 | 競馬

京都競馬場は昨日降った雨で芝コースは稍重。天気予報は曇りで午後雨となっているから良馬場は望めない。かといって重馬場の巧拙がはっきりしている馬もいない。稍重馬場は追い込みが決まりやすい場合があることと、力がいるので馬体重のある馬が有利という2点を中心に予想する。

ディサイファは毎日王冠でルージュバックの6着。休み明けとはいえ0秒9も離されていることと、2200mのAJCを勝っていることからマイルの距離適性が不安だ。
サトノアラジンは前哨戦のスワンステークスを勝って1番人気だが、大跳びで馬場が心配。
スノードラゴンは人気薄での激走が持ち味だが、すでに8歳でマイルも久々となれば買う要素はない。
ロードクエストはマイルCSに良績のない3歳馬。450キロ程度の馬だけに馬場で消耗しそうだ。
ヤングマンパワーは大型馬で3連勝中。格下のイメージはぬぐえないが、前走でイスラボニータに勝っていることから、ここでも足りる可能性がある。
ダノンシャークは8歳で5回目の挑戦。勝ったのは一昨年で、以来勝ち星なし。毎日王冠で1秒離されていた。
フィエロは安定株だが、すでに7歳で前走9着。今年の安田記念で3着したように力は衰えていないようだが、勝ちきるまではどうか。
イスラボニータは皐月賞馬で3歳時からマイル~中距離を中心に走ってきた。良績が東京コースに集中しているが、去年のこのレースは0秒2差の3着だった。
サトノルパンは前走スワンSを8番人気で2着。このことから、スワンSのレースレベルが低かったのではないかと思われる。
マジックタイムは休み明けの関屋記念でヤングマンパワーに負けている。マイルは得意距離だが、格下感は否めない。
テイエムタイホーは好調の7歳馬でスワンSを15番人気で14着。好調な幸騎手でも苦しいだろう。
ウインプリメーラは前走オープン戦勝ち。京都コースは得意だが、牝馬の6歳でどこまで。
ダコールは前走新潟記念を1秒6離された16着。8歳馬の使い詰めで上がり目はなさそうだ。
クラレントは唯一の天皇賞秋組だが、14番人気で1秒3離された11着で買いようがない。
ネオリアリズムはモーリス、レインボーラインを相手に札幌記念を逃げ切ったことで穴人気だが、初めての1600mで買いづらい。
ミッキーアイルは休み明けのスプリンターズSを2着。逃げたらしぶといし、重馬場も得意そうだ。京都コースも得意。
ガリバルディは休み明けの富士Sを6番人気で5着だが、最速の上がりを記録しており、軽視はできない。
サンライズメジャーはスワンSを10番人気で1秒離された13着。巻き返しは厳しい。

◎ミッキーアイル
〇フィエロ
▲ヤングマンパワー
△イスラボニータ
△ガリバルディ

馬券はを頭の3連単(16-5、7、8、17)12点馬単4点16点勝負。 


映画「La derniere lecon」(邦題「92歳のパリジェンヌ」)

2016年11月20日 | 映画・舞台・コンサート

映画「La derniere lecon」(邦題「92歳のパリジェンヌ」)を観た。
http://gaga.ne.jp/92parisienne/

自らの尊厳死を望む老婆の物語だ。

健康寿命という言葉がある。何をもって健康とするのか議論の分かれるところではあるが、簡単に割り切る考え方がある。それは食事とトイレと入浴の三つをひとりでできるかである。生活の基本動作だ。

自動車の運転が下手になったら、運転するのをやめればいい。運転をやめたからといって、すぐに介護が必要になる訳ではない。ところが基本動作がどれかひとつでもできなくなったら、誰かのお世話にならないといけなくなる。それは長いこと自立して生きてきた人間にとって、堪え難い屈辱だ。人間としての尊厳の危機である。

歳を取ると身体が思っているように動かなくなるだけではなく、制御も利かなくなる。寝ているときの失禁つまりおねしょは、老いを迎える人間にはショッキングな出来事である。筋力が弱って立ち上がれなくなったときの絶望は計り知れない。

人間は悲しみや苦しみ、苦痛や不安や恐怖で自殺するのではない。明日という日に何の希望も期待も抱けなくなったら、躊躇うことなく自殺するのだ。今日が酷い一日だったとしても、明日はいい日になると思えば自殺することはない。明日は今日よりももっと酷い一日になるだろうとしか思えなければ、自殺以外に道はない。いじめ自殺の心理的な構造も同じである。

現実世界にはおいしいシャンパンや贅沢な食べ物や人との楽しいかかわりもあるが、それらを全部底に沈めてしまう大きな絶望がある。年老いた主人公はそんな絶望をひとりで受けとめ、ひとりで決着をつける決意をするのだ。
そしてそんな状況でも母としての優しさを失うことはない。息子の、死にたいのは老いるのが怖いんだろう、鬱だから薬を飲めば治るという愚かな言葉にも何も反論せず、ただ悲しみの涙を流すのだ。

フランス映画らしく極めて実存的なテーマを真正面から描いている。宗教的な価値観の介在する余地はない。自殺が禁忌とされているのは宗教的な価値観ではなく、大勢が自殺してしまうと共同体の存続が危うくなるからだ。人を殺してはいけないとされているのと同じ理由である。
だから主人公は共同体の禁忌や法律と折り合いをつける。家族が共同体による禁忌の束縛から離れ、尊厳死を選択する実存としての自分を理解してくれるように努める。見事な生き方、立派な生き方だ。

こういう映画がきちんと評価されるところに、フランスの精神的な健全性がある。フランス語の原題は、そのまま翻訳すると「最後の授業」となり、別の映画のタイトルになってしまうので、今回の邦題はいいタイトルだと思う。


映画「Jack Reacher Never go back」(邦題「ジャック・リーチャー」)

2016年11月16日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Jack Reacher Never go back」(邦題「ジャック・リーチャー」)を観た。
http://www.outlaw-movie.jp/

予告編で流れていた、バーで保安官に対峙するシーンがとても面白そうだったので、かなり期待して観たが、何のことはない、一番面白かったのがその予告編のシーンだった。
映画の原題「Jack Reacher Never go back」を見ても前作「アウトロー」を観たことを想い出さなかった。前作の邦題こそ原題通りの「ジャック・リーチャー」でよかったのではないかと思うが、3年前のその映画の内容をちっとも覚えていないところから、前作も平凡な作品だったのだろうと思う。

我々は見る映画を選ぶときには十分に気を付けなければならない。ドロップアウトした軍人が事件に巻き込まれる映画だと思うと、なんとなく面白そうに感じられてしまう。この映画でも、追いかけられたり追いかけたり、ハメたりハメられたり、銃をぶっ放したり素手での格闘があったりと、それなりのシーンは沢山ある。しかしこの作品は結局、正義の味方が主人公の勧善懲悪の映画だった。
よく考えたら、ミッションインポッシブルのシリーズにしても、トム・クルーズが相手にしている敵は権力中枢に食い込んではいるものの、あくまで個人とその手下だけだ。権力そのものを敵としているわけではない。どれもこれも、雑魚みたいな悪党が小さな悪事を働いているのを暴くだけというショボいストーリーになっている。

軍隊というものは、平和と反戦の考えを世界の基本的な考え方とすると、存在自体に矛盾を孕んでいる。国家が戦争をしないことを前提とするなら、武器も軍隊も必要ないからだ。
にもかかわらず、殆どの国で軍隊が存在するのは、今も昔も、大抵の国家は平和と反戦を基本的な考え方としていないということだ。軍隊が所持する大量殺戮兵器は民間人と軍人を区別しないので、無差別殺人を目的とする。軍隊の活動は異国の女子供を殺すことであるということに世界中が目をつぶっているから、軍隊が存在し続けることができるのだ。

アメリカ映画がそういう構造的な悪を問題にすることはない。米軍を悪者にした映画は興行的に決して成功しないからだ。アメリカはアメリカという共同幻想に捉われた病人の国だが、他の国も多かれ少なかれ、実態は変わらない。日本会議とかいう右翼団体が政治家のバックにいる極東の小国も、国家主義の幻想に精神的に隷属しているという意味ではアメリカよりももっとひどい状態かもしれない。

トム・クルーズの映画は、軍隊を頂点とする強いアメリカという幻想を壊さないという前提で作られている。暴力で国家を成立させたアメリカの歴史を否定するような世界観を絶対に表現することはないのだ。その象徴的存在がドナルド・トランプ次期大統領である。アメリカは建国以来、何も変わっちゃいない。そしてアメリカ人の愚かな精神性が望むヒーローを演ずるのが、トム・クルーズなのだ。