大抵の人間は自分が生きていきやすいように共同体の空気に従って生きている。規則を守り、周囲の人間に気を遣う。怒りを爆発させる行動に出てしまうと、周囲から軽蔑されたり相手にされなくなったりする。だから自分の内なる狂気を押さえつけ、あたかも狂気など存在しないかのように自分自身で思い込む。
しかし怒りを爆発させる人間すべてが社会から脱落するかというと、そうではない。人間は暴力の被害を恐れるもので、怒りの爆発は暴力のイメージに直結する。人前で怒ることは、人を従わせる手段でもあるのだ。問題は、誰に怒っているのか、怒っているのが子猫なのか虎なのかということだ。
そう考えると、怒りはそのベクトルによって4つのマトリックスに分類できることがわかる。体制的なのか、反体制的なのかという、方向についての分類と、怒りを爆発させたときにどれだけ被害が生じるかという、影響の大きさについての分類だ。
体制的な怒りとは、共同体や組織などがうまく回っていく方向で、それに反する者や怠ける者、うまくできない者に対する怒りである。簡単に言うと、正論を述べる者の怒りである。これには逆らいづらい。正論を否定することは組織や共同体そのものを否定することになる。否定したいのはやまやまだが、否定してしまうとその組織や共同体で生きていけなくなる。
シンクロナイズドスイミングの選手たちを人格まで否定しながら怒鳴りつける老婆の映像がオリンピック期間にテレビで流れていたが、あのような怒りが体制的な怒りである。正論であり、老婆が実力者であるだけに、選手たちは人格を否定されても耐えるしかない。反発すればやめるしかないからだ。実際にやめると言い出した選手がいたが、老婆はやめることは許さないと発言していた。人格無視の酷い話だが、その酷い話がまかり通っているのがスポーツの世界である。反体制を認めない全体主義がスポーツの基本なのだ。そして実はこの構造は、スポーツに限った話ではない。一般企業でも同じだ。職場の上司で最も力をもっているのは正論をかざして怒る人間だ。従業員は耐えるか、会社を辞めるしかない。さらに言えば、国家の単位でも同じである。国は富み栄えなければならないとする大義名分に反対すれば、拷問を受け、投獄される。21世紀の現在でもそういう国は世界にたくさんある。会社と違って、国民をやめるのは難しい。
しかし正論ばかりでは人間は疲れてしまう。ストレスも溜まる。かといって反体制的な怒りを爆発させてしまうと、生きづらくなる。仕事なんかどうでもいい、会社なんかどうでもいい、国家なんかどうでもいい、法律なんか糞くらえだ、などと叫んでしまうと、社会的不適合者の烙印を押されてしまう。共同体の正論に与することができない人間は、黙っているしかないのだ。
耐えて耐えて、黙って黙りつづけた挙句、反体制的な怒りを押さえつけることができなくなってしまった人間は、いつかはそれを爆発させる。共同体のルールや表現の自由の範囲内に収まっているうちは平安だが、収まり切れない場合は犯罪になってしまう。その場合でも、人間は単純に怒りだけの存在になってしまうことはない。どんな狂気の人間でも、理性は依然として内在しつづけている。ただ理性と狂気のバランスを崩しているだけなのだ。
サイコ的な人間を描くことは、理性と狂気、自分と他者、そして個人と共同体の三つの関係が、危ういバランスでかろうじて保たれているということを表現することだ。我々の足元は決して盤石な地盤ではなく、誰もが、板子一枚下は地獄という状況を生きている。
人間の心理は複雑で、意識と無意識を脳の領域として比較すると、実は大部分が無意識なのだ。その比率は1対2万とも1対20万とも言われている。人間の行動の理由が本人にもわからないことは、普通にあることであり、日常的なことなのである。ひとつの行動は経験則や記憶やトラウマなどが複雑に絡み合った結果として現われているもので、この行動の理由はこうだという単一の筋道で分析できるものではない。
ところがこの作品はよほど頭でっかちの人が作ったようで、それぞれの登場人物が他の登場人物の行動を心理学的に分析し、あたかもそれが正解(真相)であるかのように描かれる。しかしあくまで心理学「的」であって、心理学ではないから、分析も雑だ。そこにこの作品の欠点がある。複雑怪奇な人間の心の奥はそう簡単に分析したり説明したりできるものではない。映画が火曜サスペンスドラマになっては価値がないのだ。
役者たちの演技はそれなりに達者であり、登場人物の行動もいくつかの例外を除いて納得できるものであった。特に妻夫木聡は、狂気ではあるが理性的な面も持ち続けているが故に捕まらない方策を講じることができているという危ういバランスをよく表現できていた。
前半までは非常に面白い展開だったが、後半になって説明的になった途端に、せっかくの妻夫木の演技が深みのないものになってしまった。最後の子供のシーンに至っては何をかいわんやである。
読んでいないので原作も同じように説明的だったのかどうか不明だが、映画としては俳優の演技を信頼して、説明的な表現を極力削ってしまった方がよかった。姉弟などの余計な関係性も不要。
心の闇を描く猟奇事件の映画に、家庭的でないという理由だけで家族から否定されるというステレオタイプの浅薄な場面はそぐわない。猟奇的な行動は猟奇的なまま描くことで、その因ってきたるおどろおどろしい精神性が観客に迫ってくる。世界は安全無事ではなく、自分の内面さえも危険に満ち満ちているのだと実感する。しかし説明的になった瞬間に、その実感が遠く離れていく。映画自体が縮こまってしまうのだ。
役者たちの演技と前半までの展開では高評価をしていたが、後半の説明的な部分が大幅なマイナスとなってしまい、最終的な評価はて低いものになってしまった。残念至極である。