小学校で初めて身体検査を受けたときに、紙に描かれた絵を見せられて、みんながその絵の中にある数字が見えるのに、私には見えない数字があったので、検査票に赤緑色弱と書かれました。それではじめて、自分は赤緑色弱なんだ、と認識したわけです。それがなんとなく不利なものであることは、子供心にもわかりました。ただ、日常生活には何の影響もなく、具体的にどのような不利があるのかわからなかったので、それが直ちに悩みとなることはなかった。むろん、自分に見えている色と他人に見えている色は違うんだろうな、という程度の認識はありました。しかし赤と青、白と黒は明確に区別できるし、たとえその見えている赤色が他人が見る赤色の見え方と違っていても、たとえばりんごの絵を描くときに、りんごの赤も絵の具の赤も、両方とも他人とは違って見えているわけで、結局は同じ赤の絵の具を選ぶことになりますから、特に支障は感じなかった。色の見え方がどのように違っているかについては説明のしようがなかったので、一年に一度、色覚検査があって、そのたびに同級生たちから「これ何色?」「これは何色に見える?」としつこく聞かれるのは、たしかに嫌でした。しかし翌日からはもう、何もなかったように平穏に過ごしました。
二度目の色覚検査からは、また同じことの繰り返しだろうなと、少しうんざりしていました。検査の紙がめくられるのに応じて、描かれてある数字を言うのですが、四枚目か五枚目くらいでわからなくなるので「わかりません」と答えます。もちろんいい気分じゃありません。4年生のときまでの教師は、大体三度くらい「わかりません」を聞くと、黙って検査票に「色弱(赤緑)」と書いていました。
しかし小学5年生のときからの教師は、これまでと違って、三度目の「わかりません」を聞くと、私をギョロリと睨みつけながら、「おまえは理科系は一切ダメ!」と大声で宣告してきました。それからみんなに向かって「(コイツは)みんなが8だと言っているのをわかりませんと言い、みんながわかりませんと言うのを5だと言った」と、薄ら笑いを浮かべながら言いました。その薄ら笑いは今でも、昨日のことのようにはっきりと思い浮かびます。人の不幸を笑う、というのがどんなことなのか、よくわかりました。
私はそのときまで、できれば理科系の高等教育を受けて、なにかのエンジニアになれればいいなと、漠然と考えていましたが、このときの担任教師の一言で、そうか、自分はダメなんだと、諦めてしまいました。なぜか涙が出て、それを我慢するのに廊下に飛び出しました。仲のよかった友達が追いかけてきてくれたのを憶えています。
非常に残念な出来事でした。私は自信を喪失し、理科系に進むことを諦めました。
最近になって、色覚異常について再び調べてみると、主に遺伝が原因であると考えられていること、男性の20人に1人の割合で発症すること、色盲と色弱の明確な区別はないこと、色覚異常という言葉は精神分裂病を統合失調症にしたのと同じように最近になって使われるようになったこと、そして、理科系の仕事に就くのに、色覚異常はそれほどハンディキャップにならないことを知りました。いまさら取り返しがつかないし、この教師を恨む気持はまったくありません。残念なのは、この教師の発言について疑問を持ったり、調べたりしないまま、ただ諦めてしまったことです。塞翁が馬と悟るのもなかなか難しい。
色覚に関しての自信を喪失するとどうなるかと言いますと、デザインや料理、部屋や会社のレイアウト、小物類の購入なんかについて、自分と他人と意見が違ったときは他人の意見に従ってしまう傾向になります。というよりも、それ以前に、デザインとか色合いの良し悪しを自分で判断しなくなってしまう部分がありまして、するとそういう部門に関する興味を失いがちになります。そして、結果的に世界が狭くなります。そうならない人もいると思いますが、私の場合はそうでした。料理もデザインも小物類を買ったり作ったりするのも好きですが、積極的にそういうことをしはじめたのは、色覚異常はそう変なものじゃなくて、血液型の違いと同じようなものだとわかってからのことですね。つい最近です。
ひとつのことについて自信をなくしてしまうと、それに係わるいろんなことに対しても自信を持てなくなりますし、積極的になれなくなります。私の場合は色の判断についての自信をなくしたことで、いろいろな機会を逃した気がします。気がするだけかもしれませんけどね。
ところで、自信には二種類ありまして、ひとつは練習とか経験に裏打ちされたものです。もうひとつは何の根拠もなく自分を信じることで、実はこの何の根拠もない自信のほうが大事なんです。というのも、どれだけ練習しても経験を積んでも、自信を持てない人は持てないもので、何の根拠もなく自信だけを持っている人のほうが強いことがあるからです。
特に子供には、なるべく自信を持たせるような接し方をするのがいいのではないかと思います。それは子供がひとりの人間として生きること、ひとりの人間として人格を尊重されることを、周囲が認めてあげることであり、それがすなわち子供の自信になります。もし子供に、ひとりの人間として生きるに値しないとか、人格を尊重される権利がないとか、そんなふうに思わせたら、その子は自暴自棄になったり極端な引っ込み思案になったりするわけで、そういう子供を育てたくはありませんよね。何の根拠もない自信、まさに何の根拠もありませんが、そういう自信というものが確かにあることを、私たちはみんな知っていますし、それを子供たちから奪ってはならないこともまた、知っているはずです。