三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

色覚異常

2006年08月31日 | 健康・病気
 最近では色覚異常と呼ぶそうです。私が子供の頃は、色弱と判定されました。赤緑色弱。

 小学校で初めて身体検査を受けたときに、紙に描かれた絵を見せられて、みんながその絵の中にある数字が見えるのに、私には見えない数字があったので、検査票に赤緑色弱と書かれました。それではじめて、自分は赤緑色弱なんだ、と認識したわけです。それがなんとなく不利なものであることは、子供心にもわかりました。ただ、日常生活には何の影響もなく、具体的にどのような不利があるのかわからなかったので、それが直ちに悩みとなることはなかった。むろん、自分に見えている色と他人に見えている色は違うんだろうな、という程度の認識はありました。しかし赤と青、白と黒は明確に区別できるし、たとえその見えている赤色が他人が見る赤色の見え方と違っていても、たとえばりんごの絵を描くときに、りんごの赤も絵の具の赤も、両方とも他人とは違って見えているわけで、結局は同じ赤の絵の具を選ぶことになりますから、特に支障は感じなかった。色の見え方がどのように違っているかについては説明のしようがなかったので、一年に一度、色覚検査があって、そのたびに同級生たちから「これ何色?」「これは何色に見える?」としつこく聞かれるのは、たしかに嫌でした。しかし翌日からはもう、何もなかったように平穏に過ごしました。
 二度目の色覚検査からは、また同じことの繰り返しだろうなと、少しうんざりしていました。検査の紙がめくられるのに応じて、描かれてある数字を言うのですが、四枚目か五枚目くらいでわからなくなるので「わかりません」と答えます。もちろんいい気分じゃありません。4年生のときまでの教師は、大体三度くらい「わかりません」を聞くと、黙って検査票に「色弱(赤緑)」と書いていました。
 しかし小学5年生のときからの教師は、これまでと違って、三度目の「わかりません」を聞くと、私をギョロリと睨みつけながら、「おまえは理科系は一切ダメ!」と大声で宣告してきました。それからみんなに向かって「(コイツは)みんなが8だと言っているのをわかりませんと言い、みんながわかりませんと言うのを5だと言った」と、薄ら笑いを浮かべながら言いました。その薄ら笑いは今でも、昨日のことのようにはっきりと思い浮かびます。人の不幸を笑う、というのがどんなことなのか、よくわかりました。
 私はそのときまで、できれば理科系の高等教育を受けて、なにかのエンジニアになれればいいなと、漠然と考えていましたが、このときの担任教師の一言で、そうか、自分はダメなんだと、諦めてしまいました。なぜか涙が出て、それを我慢するのに廊下に飛び出しました。仲のよかった友達が追いかけてきてくれたのを憶えています。

 非常に残念な出来事でした。私は自信を喪失し、理科系に進むことを諦めました。
 最近になって、色覚異常について再び調べてみると、主に遺伝が原因であると考えられていること、男性の20人に1人の割合で発症すること、色盲と色弱の明確な区別はないこと、色覚異常という言葉は精神分裂病を統合失調症にしたのと同じように最近になって使われるようになったこと、そして、理科系の仕事に就くのに、色覚異常はそれほどハンディキャップにならないことを知りました。いまさら取り返しがつかないし、この教師を恨む気持はまったくありません。残念なのは、この教師の発言について疑問を持ったり、調べたりしないまま、ただ諦めてしまったことです。塞翁が馬と悟るのもなかなか難しい。
 色覚に関しての自信を喪失するとどうなるかと言いますと、デザインや料理、部屋や会社のレイアウト、小物類の購入なんかについて、自分と他人と意見が違ったときは他人の意見に従ってしまう傾向になります。というよりも、それ以前に、デザインとか色合いの良し悪しを自分で判断しなくなってしまう部分がありまして、するとそういう部門に関する興味を失いがちになります。そして、結果的に世界が狭くなります。そうならない人もいると思いますが、私の場合はそうでした。料理もデザインも小物類を買ったり作ったりするのも好きですが、積極的にそういうことをしはじめたのは、色覚異常はそう変なものじゃなくて、血液型の違いと同じようなものだとわかってからのことですね。つい最近です。
 ひとつのことについて自信をなくしてしまうと、それに係わるいろんなことに対しても自信を持てなくなりますし、積極的になれなくなります。私の場合は色の判断についての自信をなくしたことで、いろいろな機会を逃した気がします。気がするだけかもしれませんけどね。
 ところで、自信には二種類ありまして、ひとつは練習とか経験に裏打ちされたものです。もうひとつは何の根拠もなく自分を信じることで、実はこの何の根拠もない自信のほうが大事なんです。というのも、どれだけ練習しても経験を積んでも、自信を持てない人は持てないもので、何の根拠もなく自信だけを持っている人のほうが強いことがあるからです。

 特に子供には、なるべく自信を持たせるような接し方をするのがいいのではないかと思います。それは子供がひとりの人間として生きること、ひとりの人間として人格を尊重されることを、周囲が認めてあげることであり、それがすなわち子供の自信になります。もし子供に、ひとりの人間として生きるに値しないとか、人格を尊重される権利がないとか、そんなふうに思わせたら、その子は自暴自棄になったり極端な引っ込み思案になったりするわけで、そういう子供を育てたくはありませんよね。何の根拠もない自信、まさに何の根拠もありませんが、そういう自信というものが確かにあることを、私たちはみんな知っていますし、それを子供たちから奪ってはならないこともまた、知っているはずです。


アメリカのゴリ押し

2006年08月29日 | 政治・社会・会社

神奈川県のミツトヨという非上場の測定機器メーカーの社長が逮捕されました。日本でも海外でも大きなシェアを占める企業だそうですが、商品が地味なのでその存在を知らなかった人も多いと思います。私もそのひとりで、今回の逮捕理由についても、よくわかりません。

 企業は常に増収増益を図っていて、まあ、そういう努力をしないとジリ貧になってしまうので当然のことなんですが、努力の方向が違っていたり、時流に合わなかったり運が悪かったりすると、頑張っても頑張っても駄目になっていく場合があります。ミツトヨもどうやらそういう状況に陥っていたようで、この際だから売れるものは何でも売っていこうということで、輸出を禁じられているものも検査をすり抜ければ大丈夫だろうと、そこまで追いつめられていました。企業というのは、ゴーイングコンサーンなんて言い方をしますが、とにかく資金繰りを凌いで何とか倒産しないで継続していくことが第一とされています。公認会計士の会計監査も、企業が今後健全な経営を続けていくことができるかを判断するものです。ミツトヨも例に漏れず、収益を図りたい一心で「ご禁制」のものまで輸出しちゃったわけです。

 と、そこまでは新聞やテレビを見るとわかります。それに、売ってしまった3次元測定機というのが核兵器の開発に役立つものだから、「一定以上の精度」を持つ測定機の輸出には経済産業省の許可が必要だった、しかしなんとしても売りたかったので「一定以上の精度」を持っていないように見せかけて、許可なく売ってしまった、というところまでは何とか理解できました。しかしわからない点もあります。それは大まかに言うと、

 経済産業省はどのような基準で許可を出すのか
 そもそもこのような決まりを作ったのはなぜか

の2点です。

 これから先は憶測ですが、すでにみんなが知っている「憶測」になるかもしれません。
 まず、アメリカは世界の国々に先立って、核兵器を開発し、しかもそれを実戦で使用しました。湾岸戦争やイラク戦争ではもっと最新の兵器をまるで人体実験のように実戦使用したという情報もあります。軍事に関しては他国よりも10歩も20歩も進んでいる国ですね。しかも世界最大の軍需産業が政界のバック、はっきり言えば議会と大統領の両方のバックボーンになっています。世界中に兵器を輸出している死の商人たちです。もちろんイスラエルにもたくさんの兵器を売っていて、その兵器によってたくさんの人が殺されましたし、いまも殺されています。
 さて、ちょっと前、ベルリンの壁が崩壊する前まではココムという取り決めがありました。共産主義の国に武器とか武器の製造機とか、または製造機の製造に役立つ機械だとかを売っちゃいかんよ、というものです。東芝がこれに違反して摘発されたことがありましたよね。
 ところが共産主義諸国の経済破綻や、折りよく登場したゴルバチョフの活躍なんかがありまして、冷戦状態が解消されてしまった。これは実は軍需産業にとっては一大事です。NATO軍もあまり武器を必要としなくなってしまった。ではどうするかというと、新たに敵をつくりだす必要があります。アメリカの敵。アメリカに限らずどの国の国民も、敵と味方がいて勧善懲悪のドラマがあってと、そういう図式が大好きですから、どこかを敵国としなければならない。アメリカとしては、イスラエルはアメリカの軍需産業の味方だったり、場合によっては身内だったりしますし、その敵というとアラブゲリラだとかそれを応援しているイスラム諸国だとかリビアだとかになりますから、当然のように、これらの国を敵国として指名しました。といっても名指しで非難したのは頭の悪いブッシュくらいですけれども。
 そしてそういった国々に対しては経済制裁を発動して苛めたり、IAEAを使って核査察をさせて、そういう国が核兵器を開発できないようにしたりしました。普通に考えれば、今回のミツトヨの事件はその流れの上で起きたといえます。反アメリカの国に核兵器を開発されたくない、だからそれを手伝うような最新機器も反アメリカ諸国に輸出してはいけないし、親アメリカ諸国も例外なく輸出してはいけない、というのがアメリカの論理で、日本はこれに従わざるを得ない。そうしないとひどい目に合わすぞと脅しているのがアメリカだからですね。
 おそらくですが、経済産業省の許可基準は、輸出相手国が反アメリカか親アメリカかの一点だと思われます。反アメリカ諸国なら、3次元測定機は核兵器の開発に使われるから輸出は許可しないが、親アメリカ諸国は3次元測定機を平和利用するものであるから許可すると、そういうことでしょう。経済産業省に問い詰めれば、役人はいろいろな言葉を浪費してごまかそうとするでしょうが、本当のところはアメリカの言いなりになっているだけの話です。風が吹けば桶屋が儲かるではありませんが、ミツトヨはアメリカの犠牲になって、現在は会社存亡の危機を迎えてしまいました。
 アメリカの政策の基準になっているのは、アメリカの企業の論理です。単純化してしまうと、アメリカという大きな企業があって、農業から軍需産業に至るまでありとあらゆる産業部門を抱え込んでいます。しかも国としてゴーイングコンサーンが求められるから、どうにか資金繰りをして、もちろん収益も利益も上げなければなりません。「勝ち組」をめざす理論です。それでなくてもアメリカはもう十分「勝ち組」だと思いますが、それでも、もしこれまで「負け組」だった国が頭をもたげてきたら、それはアメリカに対する脅威となりますから、「負け組」はずっと「負け組」でいてほしいのがアメリカの本音なんです。だから実を言えば、日本が経済発展したこと自体も、アメリカにとってはきわめて不愉快な出来事なんですね。もちろん誰もそんなことは表立って言いません。むしろ、経済発展した日本を何とかアメリカの利益になるように利用しようとします。これはアメリカを一企業として考えたら当然のことですよね。増収増益のためには努力を惜しまない、それが巨大企業です。本当は巨大企業になると社会的道義的な責任も背負ってくるんですが、アメリカも日本の大企業経営者と同様、そんな意識は微塵もありません。利益のためにリストラも行ないますが、おもに末端の労働者を切り捨てます。そういう人々がスラムを形成すると、取り締まったり弾圧したりします。かなりムチャクチャです。
 そういうムチャクチャな巨大企業があって、あとは中小企業ばかり、というのが単純化した世界の様子です。こうなるとなんでもありで、アメリカの不利益など考えられないし、ましてや倒産なんてとんでもない話というか、アメリカが倒産したら世界中が連鎖倒産してしまうぞと、そんな脅しさえ現実的であるかのように聞こえてしまいます。
 アメリカにスラム街が形成されたように、世界各国にスラム街が増加していますし、アメリカにとっては国そのものがスラム街であるかのような国も存在します。そういう場所では縄張り争いや仲間割れ、そして強盗や殺人なども日常的です。一部の人が「勝ち組」になるためには必ずたくさんの「負け組」が生まれます。もちろん誰もが幸せな社会なんて幻想に過ぎませんが、強大になりすぎたお山の大将に頭を押さえつけられながら、ずっと我慢し続けているというのも、なんとも情けない話です。日本はいつになったら「NO!」と言えるんでしょうかね。


猫を殺す 仔牛を殺す そして・・・

2006年08月25日 | 政治・社会・会社

 作家の吉村昭さんが亡くなりました。点滴の管やカテーテルをご自分で外して、それで亡くなったとのことです。奥さんは「自分の死を自分で決めることができたのは、彼にとってよかったことではないかと思う」と言い、そして「私は目の前で『自決』するのを見てしまったので、彼がまだ書斎にいるとか、取材旅行に出かけているとは思えない。身勝手な人です」とも言ったそうです。
 人間の死に方として、最後まで威厳を保ったままの、最高の死に方ではないかと敬服しました。奥さんの津村節子さんも作家で、「身勝手な人」という発言は、作家らしい愛情表現であったと思います。日本尊厳死協会の人が「尊厳死とは呼べない」と言っていますが、大きなお世話ですね。第一、日本尊厳死協会なんてものがあるのを知らなかったし、その存在意義も理解困難なものです。亡くなった吉村さんにとって、その死が尊厳死であるかどうかなんて無意味なことですし、私たちにとっても同じく無意味です。ただ多くの人が思うのは、このように威厳のある死に方を自分もしたいと、そういうことではないかと思います。

 正反対に、なんという無念な死に方であったろうと同情してしまったのは、埼玉県吉川市で焼死した小学六年生の男の子です。火をつけたのは1歳上のお兄さんで、その原因となったのはお兄さんを殴り続けたお父さんです。家庭崩壊が小学生の無残な死を招きました。
 火をつけた中学1年生の男子が通う中学校の校長は「担任をはじめとして学校側が悩みを聞くことができていれば」と発言していますが、どこまで本気でどこまで世間体のための発言なのか、わかりません。仮に悩みを聞くことができたとしても、学校に何ができたか疑問です。何よりも、子供が悩みを相談できる環境が、学校にしても家庭にしても社会全体にしても、まったく整っていないことが問題です。
 家庭については、子供を殴り続けるような父親は論外です。子供からちゃんと話を聞く親は、子供を殴ることはありません。殴られることを恐れて本当のことを言わない子供にしてしまったのは自分自身なんだということに、この親は気がついていません。そして、この子は父親を恐れるのと同じように他の大人たちも恐れていたのでしょう。だから何も相談しなかった。殴られるかもしれないからです。
 もし学校なり地域なりがこの子の恐怖心を取り除くことができるような環境づくりをしていたら、可哀想な弟は死ななくてすんだかもしれません。たとえば児童相談所が警察や学校と密接な協力関係にあって、家庭内暴力についてきちんとした対処をする組織であれば、教師は子供の悩みを自分で背負うことがないので、子供たちに「もし家庭でお父さんやお母さんから暴力を受けるようなことがあったら、必ず児童相談所に行って、事実をそのまま話しなさい。黙っていることは君たち自身のためにも、ご両親のためにもならないのだから」と、繰り返し教えることができるでしょうし、子供たちもどこかで社会を信用してくれるかもしれません。法律の整備も必要でしょう。
 実は人間はいつかどこかで自制心を発揮して、子供を殴らないようになるのではないかと、かなわぬ夢を思い描いていたのですが、どうも無理な話のようです。だからどうしても社会の仕組みや手続きで子供を守らないといけません。児童相談所の権限を強化して、継続的に暴力を受けている子供を速やかに非難させ、加害者を警察に引き渡すことができるくらいにするとか、そういった対応が大事なのではないでしょうか。子供が相談できる場所、昔の駆け込み寺のようなものがあれば、それが最後の砦になってくれるかもしれません。
 同じくらいの比重で、暴力をふるう親や教師の相談に乗る必要があります。彼らは精神的に問題を抱えているから子供を殴るのであって、場合によっては治療を受けさせなければならないでしょう。もちろん、厳重な処分も欠かせません。
 教師は、生徒に暴力をふるったことが明らかになった段階で教師の免許を取り上げるのがいいでしょう。日本ではまだ儒教的な感性が残っていて、教師というものは「先生」と呼ばれ尊敬されるものだと勘違いしている教師がたくさんいて、そういう勘違い教師が生徒を殴ります。こういった感性はなかなか治しようがないので、暴力教師には職業訓練を受けさせて、別の職業についてもらうしかありません。塾教師や家庭教師を行なうことも禁じる必要があるでしょう。子供を殴る教師は、必ず繰り返し子供を殴ります。死ぬまで治りません。
 親は、どうすればいいでしょうか。子供を殴る親は普通に考えれば親の資格はなく、暴行や傷害の罪で刑に服してもらうのは当然として、その後二度と子供を作らないように避妊手術を受けさせるという厳しい法律を作るのもいいかもしれません。子供を殴る親は、教師と同じく再び子供を殴ります。やっぱり死ぬまで治りません。
 問題は暴力をふるう親から救出された子供をどうするかで、親の元に戻すのは、谷底から這い上がってきた子供をまた突き落とすのと同じことですから、子供を殴らない人に里親になってもらうとか、または国家予算で育てるのがいいと思います。
 厳しすぎるような印象を受けますが、これくらいの厳しい対応をしないと、学校や家庭の暴力をなあなあで済ませているうちに、子供たちがみんな不良少年や暴走族になってしまいます。社会が親や教師に甘いから子供がそこにつけいるわけで、暴力を許さない空気に満ち満ちていれば、子供も暴力に走ることはありません。
 ちなみに、「愛のムチ」という言葉は暴力主義者たちが考え出した欺瞞で、愛情と暴力は対極にあるものです。暴力は常に怒りの発露であり、恐喝や脅迫の道具であり、暴力団や独裁国家が使うものです。「殴る愛情」なんか存在しえません。変態性欲の持ち主たち以外には(笑)。

 教師が生徒を殴っている映像のサイト(たぶん日本ではないと思います)
 http://www.bofunk.com/video/1365/hit_student.html

 ワイドショーで、坂東眞砂子という作家が猫を殺しているのを報じていました。人間は身勝手な存在であって、猫でも犬でも牛でも豚でも鶏でもアヒルでもウサギでも鹿でも馬でも、自分の都合で殺すものですから、こういうことで騒ぐほうがどうかしています。ただ傑作だったのが、この作家が猫の避妊手術について「もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう」と、センチメンタルなことを書いているところです。言うまでもなく猫は避妊手術について何も思わないし、子を産みたいとも産みたくないとも思わないでしょう。猫を擬人化することによってこの人が何を言いたいのか、まったくわかりません。たとえば仔牛について同じように言うなら、「もし仔牛が言葉を話せるならば、殺されたくない、牛肉になんかなりたくないというだろう」となるんでしょうかね。
 猫を飼うのは猫に対する愛情ではなくて、猫を飼うことで自分の生が充実すると思うから飼うのです。牛肉料理が食卓を充実させるのと大差ありません。人間は必要に応じて猫も仔牛も飼うし、殺しもします。猫と仔牛は違うと考える人もいるかもしれませんが、では、猫を殺す行為と仔牛を殺す行為のどちらが残虐でしょうか。おそらく多くの人にとって猫は身近な動物であり、愛玩動物であり、殺して食用にする動物ではない点で、猫を殺すほうが残虐な気がすると思います。しかし、殺す、命を奪うという行為自体はどちらも同じで、共同体を不安にし、不安定にするという点で長い歴史の間に禁忌の感情が生まれました。その証拠に、ほとんどの日本人が、仔牛を殺す場面を実際に見たことがないと思います。もし公開されたら、誰もがそれを残虐な行為だと感じるでしょう。仔牛を殺すことが許されているのは、それが食肉としてその流通を必要としているからに過ぎません。猫を殺すのは必要性がないのに共同体に不安と不安定をもたらす行為であるが故に、より残虐なものとして認識してしまうのです。感情的な錯覚を起こしているだけの話です。
 
 どうしてこの作家のことを書いたかと言いますと、もしも子供を殴った親が強制的に避妊手術されるとしたら、その心境をどのように想像するのか、この作家に聞いてみたいと思ったからなんです。少なくとも「避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう」なんて単純な心境ではないのは間違いないでしょう。
 猫や仔牛を殺す行為はそれが表立ったものになると共同体に不安と不安定をもたらしますが、人間を殺したり殴ったりするのが一般的になってしまうと、共同体が崩壊してしまいます。ところが、猫よりもずっとずっと多く、人間が殺されているのが現実で、世界各地の脆弱な共同体は、いまや崩壊の危機に瀕しています。いまの状態が続けば、日本もそのうち例外でなくなるかもしれません。できればその前に、吉村昭さんのように威厳のある死を迎えたいと、ひそかに願ってしまいますね。


卵料理あれこれ

2006年08月24日 | 食・レシピ
 京都に行っていた知人から、何種類も漬物のお土産を貰いました。添加物が入っていない代わりに賞味期限が短くて、長持ちする奈良漬以外は早く食べなきゃいけないんですが、漬物ってそんなに一度にはたくさん食べないものなので、毎日食べても食べきれず、未開封のまま賞味期限が過ぎてしまったものもありました。
 しかしそういうものも、開封して切ってみるとまだ十分大丈夫でして、特に瓜の漬物はそのまま食べたり、細かく刻んでタルタルソースにしてエビフライにつけたり、チャーハンのアクセントに使ったりして、どれもとてもおいしかった。タルタルソースはこれまでピクルスと玉ねぎとピーマンのみじん切りと、ゆで卵を卵カッターで3回切って角切り状にしたものを入れていましたが、ピクルスの代わりに京都の漬物を入れると、とても和風な感じになって、もしかするとこっちのほうがおいしいかもしれません。タルタルソースにはときどきパセリやマスタードを入れていましたが、京都の瓜漬けのタルタルソースに和芥子を入れると夏向けの味になって、これもおいしかった。
 マヨネーズは市販のものは塩分が強いので、できれば自分で作るといいと思います。作り方は実は簡単で、材料はサラダ油とお酢と卵黄だけです。あとは味付けに塩と白胡椒を少々。卵は冷蔵庫から出してすぐだとうまくいかないので、あらかじめ出しておきます。黄身だけを酢と塩、胡椒と混ぜてとにかくとことん混ぜます。電動のホイッパーがあると、かなり楽です。あとは少しずつサラダ油を足してさらに懸命に混ぜていけば出来上がりです。オランデーズソースを作るときみたいに急がないといけないわけではないので、とにかくよく混ぜることに重点を置けば、失敗なくできるでしょう。
 卵は物価の優等生なんて言われて、とにかく価格が安定しているので助かりますし、卵料理はバリエーションが豊かで、飽きることがありません。私の場合はたぶん年間500個くらい食べていると思います。お店でも卵料理をよく注文しますし、持ち帰りの卵焼きもときどき買います。
 卵焼き、ゆで卵、目玉焼きやベーコンエッグ、スクランブルエッグなどについては、それはもうたくさんのやり方があって、10人いたら10通りの作り方があると思いますが、どんなやり方がいいのかは好みの問題でしょう。ただ、オムレツについては、好みというよりも上手下手があると思います。洋食のお店で出てくるオムレツと同じものを家庭で作れる人がいたら、本当に尊敬します。
 ときどきお邪魔するスペイン料理の店では、なぜかスペイン風のトルティージャではなくて、フランス風に巻いたオムレツが出てくるんですが、火の通り加減がちょうどよくて、卵が流れ出すこともなくしかし硬くなりすぎてもいなくて、全体に均質にほわっと焼けています。文句なくおいしい。10人いたら10人とも、おいしいと言うと思います。あんなふうに焼いてみたいなと、焼く前の卵の温度から、入れる量、混ぜ方、塩の量、フライパンの大きさや厚さ、バターの溶かし具合と量、火加減とその調整、焼く時間と混ぜかた、返しかたなどを工夫してみました。たぶんこれまでに何百個も作ったと思いますが、いまだにうまく焼けません。卵そのものはたぶん、お店ですから普通の鶏の卵を使っていると思います。特別な卵は特別に高いので、高級店以外では使わないでしょう。だから普通の卵を特別の技術で特別においしいオムレツに仕立て上げているわけで、たいしたものだなと、いつも感心します。
 卵焼き用の四角い鍋で焼くだし巻き卵も、むずかしい料理の一つですよね。よく冗談で、新婚のお嫁さんの得意料理が「卵焼き」なんて言いますが、本当は卵焼きを上手に焼ける新婚のお嫁さんはあまりいないと思います。そうじゃないと、持ち帰りの卵焼きを売っている理由がありませんよね。
 卵料理というと少し違うかもしれませんが、イタリアンでカルボナーラというのがあります。あれもお店によってスパゲッティの太さや質や茹で加減が違っていたり、チーズも千差万別で、十人十色の好みがあるようです。バリエーションが豊かな料理なんですね。
 カルボナーラはときどき作りますが、簡単であまり失敗もないので、オムレツや卵焼きに比べるとずいぶん楽ですね。というのも、私の場合は卵をまったく加熱しないので、失敗しにくいんです。準備はボウルに卵と生クリームと粉チーズ、それに一応カルボナーラの由来を重視して粗挽きのブラックペッパーをたっぷり入れて混ぜておきます。パンチェッタの角切りをオリーブオイルでカリカリに炒めておいたところに茹でたスパゲッティを入れ、ひと混ぜしたら準備した卵のボウルにざっと入れて、今度はボウルをひと混ぜして出来上がりです。卵が少しずつ固まっていく変化を楽しみながら食べます。
 中華料理の卵焼きを作るときは中華なべをよく熱して、たっぷりの油に卵を入れて作りますが、卵が油を吸ってほわっとするところがオムレツと同じです。それからなぜかよく作るのが卵とトマトの炒め物で、あまりお店のメニューとしては出てきませんが、これが実は中国の一般的な家庭料理の一つなんですね。トマトの酸味が卵とよくあって、白いご飯がすすみます。
 ご飯といえばチャーハンにも卵が欠かせませんよね。中華なべに卵を入れてからすぐご飯を入れるひと、ご飯を入れてからその上に卵をのせるようにする人、またはあらかじめ卵とご飯をよく混ぜておく人など、作り方はいろいろですが、卵がよくご飯にからんだチャーハンは本当においしい。
 そういえば広島風のお好み焼きも卵焼きにのせますよね。キャベツとネギと焼きそばの入ったお好み焼きが卵焼きと合体して広島焼きになります。これとビールがあればもう言うことはありません。
 料理ではないかもしれませんが、生の卵もまたおいしい。ご飯にかける、そのまま飲む、ミルクセーキにするなど、卵はコクと旨みのかたまりです。カスタードクリームやスポンジケーキ、メレンゲをはじめ、デザートにも卵はよく使われますね。プリンとか茶碗蒸しもそうだし。
 書いているうちに卵料理が食べたくなってきました。今日はまた卵焼きに挑戦しようと思います。それにしても、食べたいときに食べられるというのは、実にありがたいことですね。


安全意識~子供を守るのは誰?

2006年08月23日 | 政治・社会・会社

 もういい加減にうんざりなんですが、また暴力教師です。宮崎県小林市立小林中学校の男性教師が2年生の二人の男子生徒を20~30回ずつ殴って、そのうちのひとりの鼓膜が破れたという話。事が起きたのが今月1日のことだから、こういうことって、なかなか表に出にくいんですね。保護者が警察に診断書と被害届を出したのが16日で、報じられたのが23日。そしてまたしても、当の暴力教師の名前は発表されずじまいです。今回の暴力というのが平手で顔を殴り、拳で腹などを殴るというもので、明らかにリンチと言えるでしょうから、こういう悪質な場合は直ちに報道されてもよかったのではないかと思いますが、現地に記者はいないんですかね。それとも地元とのしがらみがあって、報道しなかったとかなんでしょうか。
 この暴力教師本人は「カッとなってやった」と供述しているそうなので、今回の暴力は決して教育の一環ではなく、怒りの発作が出たということですね。キレやすいのは子供たちだけではないということです。教師の暴力は許せないし、子供の暴力も許せませんが、暴力に暴力で応じることもまた、許されないことなのだ、という話はもう何度も書きました。

 ということで、話は急に変わってシュレッダーで子供が指を切断した事件についてですが、どうもシュレッダーメーカーの責任が問われる方向に進みつつあるようで、メーカーの安全管理とか安全措置に手落ちがあったのではないかと、報道されています。ここで誰も問題にしないのが、子供の両親がどのような安全管理を行なっていたのか、ということです。会社の事務所でなくて家庭の中でも子供にとって危険なものはいたるところにあって、大工道具や料理用具などからコンセントや鏡台、ドライヤーでも使い方によっては危険物に早変わりします。しかしたとえば包丁で子供が怪我をしても、包丁のメーカーが訴えられることはありません。包丁は危険物と認識していて、子供の届かないところにしまってあるのが普通ですから、出しっぱなしにしておくのがいけない、という結論になります。そうなるのは実は、包丁が大人にとっても危険物であるからなんです。大人にとっても危険なものは子供にはもっと危険だから誰もが注意します。ところが、大人にとって危険物でないものが子供にとっては危険物になる可能性がある、という認識がないので、安全管理がおろそかになる。その結果、日常的になんでもなく使っているもので子供が怪我をしたりすると、それを作ったメーカーやそれを設置している施設が安全管理の不十分さを指摘され、責任を追及されます。しかし保護者の責任はどうなんでしょうか?

 六本木ヒルズの回転ドアに子供が挟まれて亡くなった事件では、森ビルとメーカーが責任を追及されました。母親も施設側に全面的に責任があるように思っているらしく、森ビルの責任者が母親にお見舞いと謝罪に行ったときもそれを拒否しました。保護者としての自分自身の責任など、思い浮かぶことさえなかったのではないかと思います。母親にとってみればちょっと目を離したときの出来事なんでしょうけれども、小さな子供を連れて、車も通るし見知らぬ人がたくさん行き来しているところで、「ちょっと目を離す」こと自体、安全意識の欠如と言わねばなりません。極端な例ですが、パチンコをしていて子供を車の中で熱射病で死なせる母親と、構造的には同じです。反省がない分、回転ドアの母親のほうがさらに低レベルかもしれません。
 2、3日前にエジプトで列車事故がありましたが、その映像を見て気づいたのは、鉄道の両側に柵がないことです。原っぱのようなところに、いきなり線路が敷設されています。全国の線路を見て回ったわけではないのでわかりませんが、日本の線路はかなりの割合で柵に囲まれているのではないでしょうか。そういえば、アメリカのグランドキャニオンにも、柵がありませんね。しかし、こういったことをエジプト人とアメリカ人の安全意識の欠如とは誰も言いません。かといって、だから日本もそうしろと言っているのではなくて、むしろ日本は公共の施設などの安全意識が高い国なのだと、そう言いたいわけです。アメリカ人は洗った猫を電子レンジで乾かそうとして、その結果死んでしまったのを電子レンジメーカーのせいにして訴えるほど、精神的に病んでいる人もいて、その人が勝訴するような歪んだ社会でもありますから、あの国で健全な精神状態を保ち続けるのは奇跡に近いことのような気がしています。それに比べれば、日本は健全な国です。公共的な面では安全管理がかなり行き届いているほうだと思います。しかし、個人の意識はというと、その「提供された安全」というものに頼りすぎている気がします。

 中国では信号機が赤だろうが青だろうが関係なく道路を横断します。横断歩道など、完全に無視されています。北京ではオリンピックまでにこういうことをやめさせようと、当局は必死になっています(笑)。日本では誰もが信号を守りますが、その信号を信用しすぎてはいないでしょうか。私は信号が青になっても左右を見て、ドライバーを睨みつけながら横断しますし、自分が運転しているときも、赤信号で飛び出してくる人がいるかもしれないと急ブレーキの準備をしながら交差点に進入します。ドライバーは自動車という危険物を扱っているのですから、当然のことだと思っています。過失で事故を起こしたら「業務上」になりますしね。で、青信号で横断歩道を渡っているときに信号が故障していて、直角に交わる道路の自動車用の信号も青になっていないとも限りません。それで自動車にはねられてから、ドライバーや信号機の管理を責めても、遅いのです。はねられないように注意しながら渡るほうが、はねられて怪我をしたり死んだりするよりましだと思います。
 日本では観光地の高い崖などには柵があって、それにもたれかかって乗り出す人もいますが、もしその柵が腐食していて折れたりしたら、奈落の底にまっさかさま、ということにもなりかねません。道路のガードレールも自動車が突っ込んできたら曲がったり折れたりしますし、その内側にいても安全とは限らないのです。日常は思っているよりも危険に満ちています。まして、小さな子供にとっては絶対に安全というものはありません。赤ん坊には濡れたティッシュペーパーでさえ、それがよだれで湿って口と鼻を塞げば、死をもたらす凶器になってしまいます。ティッシュペーパーにも気をつける保護者が、シュレッダーや回転ドアなどの見るからに危険なものに注意しないのは、保護責任者としての役割を十分果たしているとは言えない気がします。

 子供は理性や周囲の環境認識よりも本能と感情で動くものであり、しかも大人にとって安全なものが、子供にとっては簡単に危険物となります。保護者だけでなくて子供を囲む大人全員がそういうふうに思っていなければ、子供の安全は保てません。モノだけでなく、暴力教師からも子供を守るために、周囲の大人、地域の大人、もっと言うなら日本の大人たちが個人として安全意識を高める必要があります。登下校の変質者に注意するのと同じくらい、学校や塾での変質的な教師に注意しなければならない、そうしないと子供の安全は保てないのです。


核兵器廃絶

2006年08月22日 | 政治・社会・会社

 8月20日に書いた「ニッポンチャチャチャ」と題したブログの中で知人の話をしました。仮にAさんとします。Aさんは実は広島県出身で、幼い頃から被爆体験の話や原水爆に反対する教育を受けてきたのですが、国防と核兵器廃絶とは、実は相反するものであるという教育は受けていないようです。
 20日の夜に、テレビ朝日の日曜洋画劇場で「スーパーマン」が放送されていました。そこで、このシリーズの4作目ではスーパーマンが世界中の核兵器を廃絶するシーンがあった話をすると、Aさんはこう言いました。
「各国が莫大な予算をかけて開発した核兵器を、ひとりよがりの理屈で勝手に排除するとは何事か。核兵器は必要だから存在しているわけで、決して使ってはならないものだけれども、持っていることに意味がある」
 これが広島の反戦反核教育の成果なのでしょうか。子供の頃から原爆の恐ろしさだとか被爆体験の悲惨さだとかを、実際に被爆したおじいちゃんおばあちゃん、そして被爆二世の人たちから聞いている、と言っていましたから、原水爆にはアレルギー反応を起こすくらいであるはずなのに、「持っていることに意味がある」という発言には驚きました。もちろんAさんは抑止力ということについて主張したかったのでしょうけれども、核を所持した国同士が、互いに発射できないことを前提として脅迫しあうという図式が、どれほど醜悪なものであるかについては理解が及んでいないようです。
 これがAさんだけであればいいと願いつつ、もはやヒロシマと書かれなくなった広島県の反戦教育が迷走しているのではないかという不安は拭いきれません。そしてその最たる原因は、アメリカが核を所持していることにあります。どういうことかといいますと、まず、広島県での反核教育の教条は次のようなものでしょう。
 ・核兵器は人類史上もっとも非人間的な大量破壊兵器である
 ・日本は史上唯一の核兵器の被爆国である
 ・非核三原則はノーベル平和賞を受賞した
 ・日本は何があってもこの原則を守らねばならない
 ・世界にも非核、反核を発信してゆく義務がある
 そしてこれらの立派な教条と現実との乖離は、核を所持しているアメリカとの軍事同盟にあって、誰もそこのところを説明できません。
 子供たちから次のように聞かれて答えられますか?
「どうしてアメリカは核を持っているの?」
「アメリカの核兵器は非人間的な大量破壊兵器じゃないの?」
「どうして日本は反対しないの? どうしてアメリカと仲良しなの?」
「もし核攻撃をされたら、核兵器を撃ち返すの?」
「核兵器を撃たれた国の人が悲惨な死に方をしてもいいの?」
 タカ派の人々は、国民を守れないような国は国家の態をなしていない、と言います。百歩譲ってその通りだとしても、だからと言ってそこからアメリカとの軍事同盟や核兵器を所持するとか、そういったことに結びつけるのは論理が飛躍しすぎています。アメリカの軍事力がなければ日本は自国を守ることができない、そういう論理です。もっと言えば、アメリカが核兵器を持っているからこそ、日本は朝鮮や支那からの軍事攻撃を受けずに済んでいるのだ、とそういうわけです。こういう考え方の人たちが社会と政治の中枢にいるから、反戦反核教育が現実との整合性を保てません。だから被爆地であるヒロシマにおいてさえ、子供たちにどのように説明していいか、わからなくなっています。教育の迷走です。そしてAさんのように、核兵器には反対だけれども、持っていないといけない、という矛盾をそのまま主張してしまうような考え方になってしまうのです。
 核兵器を持って核兵器に対抗するような考え方を、「国民を人質に取る」という言い方で表現することがあります。たとえばある国の過激派がハイジャックをして、乗客を人質に無理難題を要求してきたときに、それに対抗して、もし乗客を一人でも殺したらおまえの国に核兵器を山ほどぶち込んで皆殺しにするぞ、国に残してきた仲間も家族もみんな死ぬぞ、それでもいいのか? と脅しますか? もしそんなことをしたらハイジャック犯人以上に国際的な非難を浴びるでしょう。しかしそれを行なうのがハイジャック犯ではなく国家対国家の場合には、こんな無茶な論理が当たり前のように受け入れられているのが現状なのです。
 反戦、非核教育で大事なのは、もし核攻撃を受けても決して攻撃してきた国の国民に対して反撃しない、感情的に宣戦布告したりしない、という態度を、極限状況にあってもなお、とることができるかという覚悟です。そしてまず教える側がその覚悟をしなければならない。その上で、子供たちの質問に次のように答えることができるでしょう。
「アメリカは史上唯一の核兵器攻撃国である。その後も核実験を続けており、廃絶する意思は微塵もないと考えられる」
「アメリカの核兵器ももちろん非人間的な大量破壊兵器であり、開発の歴史が長いことから、他の国のものよりもずっと非人間的で、ずっと大量の人間を正確に殺せる最悪の兵器である」
「日本はアメリカに反対しなければならないが、経済的にアメリカに依存している割合が高いので、反対できないのが現状である」
「もし核攻撃をされても、決して核兵器を撃ち返すことはない」
「核兵器による悲惨な死を経験している以上、他国民を同じ目に合わせることはない」
 スーパーマンは暴力に対して暴力で応じないし、人も殺しませんが、もしあのような力を持っていない場合は非暴力では人を守れないことを暗喩してもいます。すると安易にやっぱり軍事力は必要だという結論に結び付けがちです。うがった見方をすればそういう狙いがこの映画にあるのかもしれないし、あるいはアメリカ人の精神構造がこの映画に現れているのかもしれません。
 暴力を抑止するのは暴力ではなく、非暴力がいつか暴力を駆逐する日が来るのだと、そう信じていなければ、反戦反核教育はできません。ヒロシマ出身のAさんの自己撞着はそのまま広島県の反核教育の自己撞着でもあるのです。
 さて、核兵器を撃たれても決して撃ち返さない、相手国の国民をただの一人も殺さない、私たちはそのような覚悟ができるでしょうか? そして、核兵器廃絶が夢まぼろしでない日が、本当に来るのでしょうか?


未成年禁と18禁

2006年08月21日 | 政治・社会・会社

 長崎県の市立中学校で2年前に校舎の4階から当時中学2年生の生徒が飛び降り自殺したという事件がありました。ご両親が市を相手取って損害賠償の訴訟を起こすと、昨日報じられました。いろいろな報道を調べましたが、どれにも担任教師の住所氏名年齢電話番号などは掲載されていません。事件のあった長崎まで調べに行ければいいのですが、なかなか個人では物理的時間的経済的に無理で、この場で報告できないことを残念に思います。というのも、この担任教師は人格的に最低の人間で、よく生徒に暴力を振るっていたということですので、自殺の原因に関係があるなしに係わらず、暴力教師というだけで全国的に報道されてしかるべきだと思うからです。

 以前から思っていたことなんですが、犯罪があってそれが報道されるとき、被害者の名前や住所、果ては家族関係から子供の頃の様子まで報道されるのに、加害者については往々にして匿名にされます。それは、事件の真相が明らかになるまでは冤罪を恐れて報道しないという慎重な姿勢の現れでしょうし、容疑者の人権についても配慮しているのかもしれません。しかし報道としては記者が自分の足とか人脈とか経験とか知識とかを駆使して真相に迫る報道をしてくれるのを、私たち情報の受け手は期待しているわけで、ただ警察が発表したら報道するというのでは職務怠慢の誹りを免れないでしょう。

 以前にも、下着泥棒の教師の名前を千葉市の教育委員会が実名では発表しなかったことに対して、マスコミは自分ではなんの調査も行なわずに、教育委員会の言うとおり「被害者の希望で公表しない」と報道しましたが、それを見た被害者から「そんな事実はない」という抗議があって、教育委員会の嘘が発覚しました。それでも千葉市教育委員会は、
 ・匿名発表のほうが被害者の人権が守られる
 ・匿名発表は決定事項だ
 と、霞ヶ関の官僚みたいな強弁をして、とうとう発表しなかった。マスコミはこんな強弁にとらわれずに、下着泥棒の教師の実名を報道してもよかったのではなかったかと思います。といいますか、それ以前に、「加害者の実名を公表しないでほしい」と希望する被害者がいるとは普通考えられないのに、確認もしないでそのまま報道してしまったこと自体、かなりひどい話です。マスコミとしては次のように書いたらいかがだったでしょうか。
 ・○○中学校の教師○○××(むろん実名)は○月○日、下着泥棒を行なっていた
 ・千葉市の教育委員会は「被害者の希望があった」として匿名発表を行なった
 ・嘘が発覚した後も、千葉市教育委員会は匿名発表にすると強弁した
 これだと情報の受けてとしての私たちは、事実関係が全部わかって、自分なりの判断ができます。万が一、千葉市教育委員会から「実名報道をするなよ」といった恫喝があったとしたら、それも報道すればよろしいと思います。

 さて、長崎県の中学2年生飛び降り自殺の話に戻りますが、きっかけはタバコの所持が担任に見つかったことのようです。
 ここで注意しなければならないのは、タバコ→不良という図式を持ち出さないことです。タバコを所持したり喫煙したりする大人が不良扱いされるのであれば、タバコを所持する子供も不良扱いされるのは当然のことです。しかし実際はそうではなく、喫煙は大人には許されて子供には許されていません。その理由はどういったことなのでしょうか。健康被害を言うなら大人についても同じことが言えるわけで、子供だけに禁ずるちゃんとした理由がないでしょう。大人に許されて子供に許されないことは他にもたくさんありますが、そのいちいちについてちゃんとした理由を説明しようとすると、ハタと困ってしまいます。
 そしてもう一点、注意しなければならないのは、子供が不良行為を行なうのは、大人が行なっている不良行為を手本にしているということです。大人が人を殺すから、子供も人を殺します。大人が強盗するから子供も強盗する。大人が人を殴り、恐喝を行い、人を騙し、酒を飲み、タバコを吸い、人の悪口をいうから、子供も同じようにするのです。子供たちの行いは大人の行いを投影していると、その反省もなしにいきなり子供に暴力を振るうのは、怒りを理性で抑制できないヒステリックな行動です。独裁を非難され経済制裁を受けたことに反発してミサイルを発射する国と、精神構造は同じです。

 暴力はいかなる場合でも許されるべきではありません。たとえ相手が殴りかかってきても、殴り返すことは暴力なんだと、そう肝に銘じておく必要があります。殴りかかられたときは別だとか、そういう例外を設けてしまうと、例外の名を借りた暴力が許されることになってしまいます。ましてや、立場の強い者が立場の弱い無抵抗の者を殴るのは、卑劣極まりないことだと非難されるべきです。子供を殴る大人、生徒を殴る教師、社員を殴る社長、そういう人間たちは社会的に制裁を受けてしかるべきなのに、なぜか野放しにされています。社員を殴る社長は、まさに社長であるが故に許され、暴行罪や傷害罪になりません。しかし逆に社長を殴った社員は直ちにクビになり、暴行罪や傷害罪で引っ張られ、社会的にも立ち直れなくなります。この状態がおかしいことなのだと気づかないと、人によって暴力が許されるという歪みの中で自殺してゆく子供たち、大人たちが後を絶たない社会がいつまでも続くことになります。

 大人に許されることは子供にも許される、大人に許されないことは子供にも許されない、子供に許されないことは大人にも許されない、こういったルールにしておけば、理由も説明できないのに子供だけに禁ずるという理不尽がなくなり、大人と子供の間が風通しよくなるでしょう。子供を子供扱いすることから、私たちは脱却しなければなりません。少なくとも、この長崎の暴力教師は実名を公表され、暴行罪、傷害罪が適用されてオツトメを果たす必要があります。このままこの教師が許されるのであれば、子供たちは暴力が許されるものだとタカをくくってしまうでしょう。暴力の連鎖、ひいてはいじめの連鎖がずっと続くのです。暴力教師はまさにその存在そのものがいじめを誘発していることに気づかねばなりません。誰が気づかねばならないかというと、本当は何よりも先に教育委員の方々、そして父兄と教師たち、地域社会、そして子供たち自身です。子供たちはこういう暴力教師を堂々と非難する勇気を持たなければならないでしょうし、そういう優しくておおらかで毅然とした子供を育てていかねばなりませんが、どう考えてもそんなのは理想論で、現実はまったく逆のようです。

 現実は、こういう暴力教師が逮捕もされず、免職にもならず、実名も報道されず、現在でも教師を続けていて生徒を殴り続けているわけです。警察にも教育委員会にもマスコミにも地元の社会にも守られて、のうのうと生きています。浮かばれないのは殴られ続けている生徒たちです。暴力はずっと続き、いじめはなくならず、生徒たちは希望と勇気を奪い去られてますます卑屈になって、文字通り、不良が大量生産されるでしょう。日本の教育に未来はありません。

 事件の詳細を紹介しているサイト
 http://www.jca.apc.org/praca/takeda/number2/040310.htm


ニッポンチャチャチャ

2006年08月20日 | 政治・社会・会社
 昨日、今日と、女子バレーボールをやっています。日本はキューバと韓国に連勝しました。この2006年ワールドグランプリというのがどのような位置づけの試合なのかわかりませんし、そんなに興味があるほうではないのですが、ヒマだったので見ていました。日本のチームでは高橋みゆきさんという人が群を抜いて優れた働きをしていて、キューバチームは前に見たことのあるすごい選手が出ていなくて、かなりのハンディがあったような気がします。引退したのでしょうか。キューバ人の体のバネというか瞬発力というかスピードというか、そういうものが好きでキューバを応援していたのに、ちょっと残念でした。

 という話を知人にしたところ、どうして日本人なのに日本を応援しないのか、と聞かれて困ってしまいました。どうして日本を応援しなければならないのか尋ねると、日本人なら日本のチームを応援するのは自明の理であって、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前の話である、と言われました。あと、日本を応援しないのは非国民であると、冗談めかして言っていました。
 この人はまだ30代で頭も悪くないのに、どうしてこういう精神構造になってしまったのか、と嘆くよりも前に、もしかすると同じように思う人がかなりいるのではないかという疑問があります。そしてそれよりも不安なのは、日本を応援したいと思わないほうが少数派かもしれないということです。日本人なら日本のチームや日本人選手を応援するのが当たり前、と半数以上の日本人が考えているとしたら、ある意味で危険な事態であると言えそうです。
 ところで、同じ知人に、F1グランプリでは鈴木亜久里のチームを応援しているのかを聞くと、シューマッハ兄を応援しているとのことで、その整合性のなさはどう説明するのか聞いていると、F1は別だから、とのことでした。これで理解できる人はいないと思いますが、この人の中では当然のことのようです。どうしてでしょうか?

 ひとつの仮説として、F1もバレーボールも、もっと言えばオリンピックも、主にテレビで見るわけですから、テレビの取り扱い方によって感情移入の仕方も変わってくるのではないか、ということが言えると思います。F1の場合は、テレビ中継があまりスーパーアグリを応援していないというか、取り上げ方も力が入っていないので、見ているほうも優勝争いにからむ可能性のある有力チームを中心に見てしまいます。それでこの間のハンガリーグランプリのように重馬場というか雨のサーキットで有力どころがリタイアする中で、ホンダチームのバトンというドライバーが初優勝して、よかったね、というノリだったので見ているほうも、ああ、よかったんだ、と思ってしまいます。しかし他のスポーツの場合はたいてい日本選手や日本チーム中心の実況中継ですから、どうしても感情移入してしまうのは仕方のないところでしょう。つまり、テレビの中継の仕方で感情移入のありようも変わってくるものなのだと、そういうことだと思います。
 もうひとつの仮説としては、たとえばサッカーのワールドカップが日本で行なわれたときに、大分県の中津江村にカメルーン代表が宿泊したことがありましたが、直接に選手と親しんだ中津江村の人は日本代表をそっちのけでカメルーンの応援をしていました。そしてそのことを非難する人はひとりもいなかった。つまり、親しんだものをつい応援してしまうのが人情だということです。だから以前からF1中継を見ている人にとってはスーパーアグリなんて新参者に過ぎないわけで、当然ながら感情移入はできません。だから応援しないと、そういうことだと思います。

 ゲームや試合や競争を見るとき、我々はより親近感のあるほうを応援してしまうのがどうやら一般的な傾向なんでしょうね。それを日本人とか日本とか、果ては非国民だとか、そういうことに結び付けて考えてしまうのが、実はおかしいことなんです。そこのところを理解しないと、妙な愛国心が芽生えたりして、悪い方向に走ってしまう可能性がある。この道はいつか来た道・・・・と、そうなる危険性があります。

 テレビの中継についても、もっとフラットな立場で焦点の解説をしてくれると、スポーツもずっと面白く見ることができます。野球にしても打者と投手の駆け引きだとか、何故いまあの球を投げたのか、どうして見逃したのかなど、プロの選手のすごい技を解説してくれれば、どちらのチームも応援していなくても、試合を面白く見ることができます。加えて、球場の応援団が静かにしていてくれればなおよろしい。というのも、プロ野球中継が人気がないのはあの応援団のうるささに視聴者がうんざりしていることも一因だと思えるからです。相手の失敗に喜んだり、「残念でした」風の音を出したりして、オリンピックのフィギュアスケートでロシアの選手が転んだのを見て「やった」と思ったと、荒川静香本人に向かって言った、アホ丸出しの政治家と同じで、レベルが低すぎます。アメリカ人のレベルが高いとは決して思いませんが、少なくとも相手チームであっても見事なプレーに対しては拍手を惜しみませんし、応援しているチームであっても下手なプレー、やる気のないプレーに対してはブーイングもまた、惜しみません。
 こういう態度というのは特に褒めるべき態度ではなくて、普通の態度と考えなければなりません。逆に言えば、相手のミスを喜んだり鳴り物を鳴らしてうるさく応援したりするのが異常な態度なのです。さらに言えば、テレビの中継やマスコミの報道に惑わされずに、親近感も先入観も捨て去ってしまわないと、単に勝ち負けの話だけになってしまい、選手たちのすごい技量や駆け引きや、試合や競争の中にあるドラマを楽しむことができなくなってしまいます。ましてや愛国心と結びつけるのは言語道断と言わねばなりません。むろん元凶はマスコミなんでしょうが、その中継の仕方に簡単に左右されてしまい、結果だけに注目してしまう私たちの精神の脆弱性が、実はもっと問題なんですね。


安くておいしいもの?

2006年08月18日 | 政治・社会・会社

 原爆の日、敗戦の日と続いて政治をテーマにすることが多かったので、今日は久々に食べ物の話を。

 歳をとるにつれて、おいしいものが少なくなってきました。子供の頃初めて食べたものはどれも、びっくりするくらいおいしかった記憶があります。それはそうですね。子供の頃というのは初めて食べるものがたくさんあって、初めて食べたものというのはたいていの場合、すごくおいしく感じるものです。インスタントラーメンでさえ、初めて食べたときは、世の中にこんなにおいしいものがあったんだ、と思ってしまったくらいです。
 それがだんだんいろんなものを食べて経験を重ねてくると、食に対する新鮮味が薄れてきて、感動するくらいおいしいものにはなかなか出会えなくなってしまいます。これはひとつの贅沢なのかもしれませんが、見方を変えれば食物に対する感覚が成熟したとも言えます。いい言い方をすると、本当においしいものがわかるようになった、というふうにも言えます。しかし、本当においしいものという言葉自体、定義が曖昧な上に人によって違うでしょうから、やっぱり味覚が鈍感になったというのが真実かもしれません。
「金のかかる舌になった」と、そういう言い方が適切かどうかわかりませんが、少なくともインスタントラーメンを食べておいしいと感じなくなると、もっとましなものを食べようとしますよね。そうするとインスタントラーメンよりも金額的に高いものを食べることになります。そしてさらにそれよりもおいしいものを求める。そしてさらにそれよりも・・・・と、このプロセスがエスカレートすると、ブランドの食品を求めたり、高級料亭、高級レストラン、さらには旬のものが取れたてで食べられる場所に行ったり、有名シェフを家に呼んで料理を作ってもらったりします。いくらかかるのか見当もつきません。
 一般庶民は経済的にも時間的にもそれほどの余裕はなく、おいしいものを食べたいなあと思いつつも、財布の状態を考えてなるべく安くなるべくソコソコのものを求める日々ですよね。そして思い出すのが子供の頃に食べた、おいしいものの記憶です。

 ビアガーデンといえば枝豆ですが、このところおいしい枝豆になかなか出会えません。というのも、子供の頃に食べた枝豆の記憶がいまだに鮮烈でして、枝豆を食べようというときは、自分で畑まで行って枝豆を収穫し、その収穫してきたばかりの枝豆を大きな鍋で茹で、茹でたてを食べていました。取れたてで、茹でたてです。思い出は必ず美化されるということもあるでしょう。子供の頃だからまだ味覚も相当に敏感だったこともあるでしょう。しかしそういった部分を割り引いたとしても、やっぱり抜群においしかった。もう長いことあれほどおいしい枝豆は食べていないし、これからも食べられないかもしれません。一期一会なんですかねえ。

「お金かけずに手間かけて」が口癖のイタリアンのシェフがいまして、この人は高級食材を使うでもなく、家庭で普通に使う食材ばかりを使って家庭ではできない料理に仕上げる名人ですが、最近は野菜の値段が高すぎて「お金もかけて手間もかけて」いるのにメニューの値段は簡単に上げられないから、上げられるのは悲鳴だけだ、とぼやいています。もともと他よりずっと安いんだから上げてもいいよ、と常連は言うのですが、本人はためらっています。それはそうでしょうね、おいしいものをたくさんの人に食べてもらいたい、だから値段は安くていいんだ、というのがこの人の信条ですから。

 野菜が高騰しているのは気象だけではなく、原油高が大きく影響しています。野菜を作るのに石油は使わないだろうと思ってしまいますが、実際はかなり使うんですね。肥料というと窒素リン酸カリウムというのが三大要素ですが、このリンについてはリン鉱山というのがありまして、そこから採掘します。当然石油を湯水のように使います。さらに温室の過熱や冷却も発電機を使うので石油を使います。あとは流通の過程で運送が必要になりますから車両用に石油を使います。このほかには灌漑や給排水のポンプも石油で動きますし、トラクターや耕運機、コンバインといった農機具、スプリンクラーや大型の農薬散布機、場合によってはヘリコプターやセスナ機なども使います。保管するのにも大型の冷蔵施設が必要ですし、運搬車両にも冷蔵設備が必要になってきます。こういった原油高の影響は野菜だけでなくすべての食料品、もっと言うとほとんどの商品について同様の図式が当てはまるわけでして、原油高は物価高の最大要因となっています。
 日本の政府はなんの打つ手もなく、ただ手をこまねいているだけです。しかし、食料品というのは一番の生活必需品ですから、せめて消費税をかけないとか、そういった方策がとれないものかなあ、と淡い期待を抱いてしまいますね。悪く勘ぐれば、物価が上がると消費税収入も増えるし、相対的に国の借金の減少にもなると、政府霞ヶ関は喜んでいるかもしれません。

 税法では、たとえば腕時計で30万円を超えるものは貴金属類の扱いとなって、生活必需品と認められません。そんなふうに分けるのであれば、食料品は生活必需品だから消費税は徴収しないとか、たとえば500万円を超えるような高級乗用車は生活必需品ではないので消費税を30%にするとか、そういうふうにすればいいのでは、と庶民は考えますね。業界からの反発は必至ですが、高級品を買う余裕のある人はそれに係わる消費税を支払う余裕もあるはずですし、高いものほど高い割合の消費税にすると実質的な税収はかなり増加するわけで、逆に食料品の消費税をなくすことで食料品業界が増収増益となればその法人税も増加してやっぱり税収が増加する、とまあ、理想論を言えばそうなります。
 実際にはそう簡単にはいかないでしょうが、近い将来、消費税の税率が上がるのだけは確実なようです。しかし、生活に不必要な高級品と、生活必需品である食料品の消費税が一律に上げられることになりそうで、どうにも納得がいきません。せめて食料品と家賃は据え置きにして、それ以外のところだけを上げるとかいうわけにはいかないものでしょうかね。

「衣食足りて礼節を知る」というのは真実でして、もし衣食が足りない人々が大勢いたら強盗事件がたくさん起きたり暴動になったりスラム街を形成したりしますし、もっと大勢いたら他国との戦争になります。そうならないようにすることを、セーフティネットといいます。セーフティネットを取っ払った世の中になると、日本中がニューヨークと同じくらい怖い街になってしまいます。で、現実はというと、実は着々とそうなりつつあるのです。

 食べ物の話がいつの間にか愚痴になってしまいました。ちゃんとした料理の話はまた別の機会に。


〝反戦〟とは?

2006年08月16日 | 政治・社会・会社

 昨日の敗戦玉音放送の日は日本全国各地で反戦の行事がいろいろと行なわれました。私が高校生の頃は、教師、生徒、父兄の有志が学校に集まって、反戦の話し合いを行ないました。そのときの印象はずっと心に残っていて、戦争の史実の不透明性について問題意識を抱き続けることになりました。昨日行なわれた個々の行事についても、それぞれに参加した人たちの心に残り、反戦の決意を新たにした方もいらっしゃるでしょう。

 ところが今日8月16日はその翌日ですが、一日過ぎただけでもう、そういった行事がはるか過去の出来事のように感じてしまうのは、私だけではないと思います。小泉首相の靖国参拝について侃々諤々たる議論をするのをテレビで見たのもずいぶん前のことのような気がしています。私の勝手な印象に過ぎませんが、日本人は世界でもっとも忘れっぽい民族なのではないでしょうか。
 昨日は全国各地で戦争反対を訴えるスピーチがたくさん行なわれたことと思います。ブログもたくさんありました。反戦を訴える言葉はどれも聞こえのいい言葉ですが、例外なく紋切り型です。たとえば、

 史上唯一の被爆国として反戦を訴え続ける義務があります

 あの悲惨な体験を忘れてはなりません

 いつまでも語り継ぐ必要があります

 この不幸な歴史を繰り返さないようにしなければなりません

 二度と戦争はごめんです

 戦争反対、ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ

 平和憲法を守ろう

 未来の子供たちのために争いのない平和な世界を作ろう

 戦後は決して終わっていないのです

 上に挙げた以外にも山ほどの反戦の言葉がありまして、どれをとっても誰もが頷かざるを得ない、まっとうな言葉ばかりです。まっとうな言葉は決して悪いものではないけれども、心に残るものではありません。終戦記念日の翌日にはもう、早くも忘れ去られているかもしれない。思い出すのはまた一年後。これでは反戦もなにもあったものではなく、8月15日は日本人が感傷にひたる日となってしまいます。

 では、反戦とはなんなのでしょうか。

 それについて述べる前に、日本人にとっての〝戦争〟というと、61年前に負けた太平洋戦争、第二次世界大戦のことです。だから日本人が戦争を考えるのは太平洋戦争のことを考えるわけで他の戦争についてではない、ということをまず知っておかねばなりません。だから、戦争というと過去の出来事であり、おじいちゃんやおばあちゃんの話の中であり、亡くなった人々のことなんですね。そういう日本人の心理の中で反戦を言うのは、これからの日本人のありようとしての反戦を考えているものなのです。過去の歴史としての戦争があり、これからの問題としての反戦がある、そういったところが日本人にとっての〝戦争〟の現実ではないかと思います。
 お気づきと思いますが、問題なのは日本人にとっては他国同士が争っていることについて、それを太平洋戦争と同じ意味と重みを持って〝戦争〟として認識していないことなんです。もっとも悪い言葉で言うと、〝対岸の火事〟となります。〝対岸の火事〟でない人は、主に戦争当事国に係わる利権があったりする人です。あとはその戦争のためにトイレットペーパーが値上がりしてしまうと知らされた主婦とか。笑いごとではなく、日本人にとって現在ただいま世界各地で戦われ、実際に死者を大量生産している戦争よりも、61年前に負けたあの戦争のほうが現実なんですね。日本人の反戦と、他国の人にとっての反戦には、かなりのギャップがあるわけです。
 というのも、実は他国の人にとっての〝戦争〟も、日本人と同様、自分の国が戦場になった戦争、近しい人が亡くなった戦争が〝戦争〟なんです。だから世界各国の人々の反戦にはさまざまな特色があり温度差があります。たいていの場合は当事国のどちらに理があるかを考え、より理不尽なほうを悪いほうと決めて非難します。〝先に手を出したほうが悪い〟という論理に代表される考え方ですね。ベトナム戦争のときはアメリカを利権のための侵略戦争と位置づけ、非難する人が多かったし、同じように考える人が世界中にも多かったと思います。ベトナム頑張れ、アメリカを撃退しろ、そういう応援の声でした。それは反戦というより、シンパサイザーというべきものでした。
 反戦というのはそういった安易な応援の気持ではなく、それは戦争そのものに反対するという、かなり覚悟の要る思いであり姿勢であるわけなんです。どうして覚悟が要るかというと、たとえば夜道で強盗に襲われて、なおかつ無抵抗でやられるままになっていることができるかの問題と、ほぼ等しいからです。暴力に暴力で応えることをやめない限り、戦争はなくならないことを理解する必要があります。〝先に手を出したほうが悪い〟という論理は、反戦に不向きなのです。
 ユダヤ人の問題についても同じことで、パレスチナに住んでいたところに、はるか昔にいなくなったはずのユダヤ人が帰ってきて、ここはもともと俺たちの土地だから返せ、といって強引に住まいを奪われたわけですから、パレスチナ難民にとってはユダヤ人がいけないと思いますが、ユダヤ人にしてみればもともとは自分たちが住んでいて、はるか昔とはいえとにかく住まいを奪われたわけだから、取り返してなにが悪い、という理屈になります。ちょうど車を盗まれたときに似ていて、盗まれた自分の車に他人が乗っているのを発見して取り返そうとすると、その人は実は中古屋から普通に正規に購入していて、泥棒と中古屋がつるんで犯した窃盗事件だったわけですが、乗っている人は法律上は〝善意の第三者〟となるので、自分の車であることがわかっていても取り返すことはできません。ただしこれは日本の法律で、ユダヤ人には別の理屈があるでしょうから、その理屈に基づいて取り返した。その結果パレスチナ難民というものが生まれてしまったが、そんなことはユダヤ人の知ったことではないのですね。パレスチナ難民にとってははるか昔にユダヤ人が住まいを奪われたことなど知ったこっちゃないのと同じです。どちらにも理屈はあり、〝先に手を出したほうが悪い〟という論理ではなんの解決もできません。だからずっと戦争が続いています。

「左の頬を打つ者には右も打たせよ、上着を取る者には下着も与えよ、汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と聖書には書かれています。
「色即是空 空即是色 ・・・・心無罣礙・・・・無有恐怖」と般若心経には書かれています。般若心経の言葉はかなり難解ですが、簡単に言うと「物質的なものにこだわってはいけません、それらは存在しないものなのです、また、見えるもの聞こえるもの感じるもの思うものにもこだわってはいけません、それらもやはり、存在しないものなのです、こだわりをなくし、心を自由に解き放てば、恐怖から解き放たれ、あらゆる不安や怒りやその他もろもろの不自由な心の動きがなくなり、真の悟りを得ることができるでしょう」といった意味のことが書かれています。『スッタニパータ』の中には「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのものがない人は、憂うることがない」と書かれています。
 これらは実は、強烈な反戦のメッセージでもあります。強烈というのは、普通の人にはとてもできないことが書かれているからです。キリスト教でよく勘違いされているのは、汝の隣人を愛しなさい、と聖書に書かれていると思っていることで、実際はそうではなくて、隣人を愛するなんて誰にでもできる、だからあなた方は自分の敵を愛しなさいと、そう書かれています。ブッダは、子供や妻を愛したりしないで、それらを捨て去りなさい、と言っています。普通の人にはとてもできないことを、宗教は説いているのです。そしてこれらがたとえ話かというと、実は決してそうではなくて、実際にそうしなさいと熱心に言っているのです。

 人間はパンのために喜んで自由と人格を投げ出します。そしてパンのために戦争をします。戦争がなくなるためにはまず、パンを放棄しなければなりませんが、それはとんでもない困難と苦しみを伴います。反戦の道は遠く、かなり険しそうです。

 少なくとも、子供を襲う暴漢を見事に撃退して「パパ、かっこいい」というスタイルのアメリカ映画のような心理構造が幅を利かせている間は、戦争がなくなることはありません。