三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ブラッククランズマン」

2019年03月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ブラッククランズマン」を観た。
 https://bkm-movie.jp/

 人間は他者の共感を得られないと生きていけない弱い動物である。弱いことが悪い訳ではない。ただ共感の範囲が、たとえば同じ星を見て美しいと言っているうちはいい。しかし徒党を組んで弱いものいじめをして喜ぶようになると問題だ。
 人は同じ考え方や同じ感性の持ち主と一緒にいることで精神的な安定を得ることができる。同じような人が生きているということは、自分も生きていていいのだという喜びもある。感性や考え方は人それぞれ、つまり個性である。類は友を呼ぶというのは、個性の似た者同士は集まりやすい傾向があるという意味だと思う。
 外見も広い意味では個性の範疇に入るかもしれないが、たとえば黒人がすべて同じ感性や考え方を持っている訳ではない。たとえばアメリカ人がすべて同じ感性や考え方を持っている訳ではない。感性や考え方は人種や国籍と無関係に、人それぞれである。分類と個性は別のものであり、黒人であること、アメリカ人であることは個性ではない。組織や共同体と個人とは、まったく別のステイタスであるにもかかわらず、個人を組織や共同体で分別してしまうことから、差別がはじまる。日本人だからといって一緒くたにされるのは誰でも不愉快な話だが、他国の人は平気で一緒くたにしてしまった経験は、沢山の人が覚えがあるだろう。人は個性で区別されるべきで、人種や国家や職業や家柄などで差別されるべきではない。
 本作品は、頭の回転の速い黒人の新人警官が昔から有名なヘイト集団KKKへの潜入捜査を行なう話である。舞台は1979年。20年に及んだベトナム戦争が終結して4年、ウォーターゲート事件から5年が経過しているものの、人々の間には敗戦による厭世気分と、現職大統領による犯罪という権力に対する不信感が蔓延していた筈だ。しかしその前年に人種差別撤廃を謳うカーター大統領が誕生している。黒人の主人公が警官になれたのは、カーター政権の政策が影響したのかもしれない。
 大変に言葉の達者な主人公だが、警官のことをブタと呼ぶ女子大生パトリスに反論する場面では、うまく説明ができない。頭では解っている。他人を侮蔑的な呼称で呼ぶのは、黒人を侮蔑する白人警官と同じである。しかしそれを言ってしまえば、パトリスを人格否定することになる。ロンはどこまでも優しい性格なのだ。本作品は主人公の優しさを伝えるだけでなく、彼の言いたい本質も伝えている。
 ブッダの言葉を纏めたとされる「スッタニパータ」という本に「犀の角」という一節がある。言葉としては、何物にも惑わされず犀の角のようにひとり歩めと書かれてあるのだが、この説法の本質は、孤立を恐れず孤独に耐えろということである。それは裏を返せば、孤立を恐れ孤独に耐え切れないと、人は他人の価値観、共同体の論理に安易に同調してしまい、真実を見失うということを示している。差別の本質は人間の弱さにあるのだ。
 帰属意識や愛国心、郷土愛といった耳障りのいい言葉が、実は差別の温床であることを認識しなければならない。どれだけ差別をなくす運動を続けていても、特定の国や団体や地方を愛する気持ちを持っている限り、この世から差別はなくならない。執着から精神を解放することだけが差別をなくす道である。それは社会を変える運動ではなくて、人間を変える運動だ。
 スパイク・リーがそこまで達観しているかどうかは別にして、本作品には黒人差別にとどまらず、世界中の理不尽に対するアンチテーゼが感じられる。この作品には理不尽を笑い飛ばすパワーがあった。電磁波による情報化社会が充実して人々の生活が便利になったにもかかわらず、世界中から悪意の不協和音が沸き起こっている。言いしれぬ不安を感じている人は多いだろう。本作品を観たからといって不安が消えるわけではないが、とても爽快な気分にはなった。


映画「キャプテン・マーベル」

2019年03月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「キャプテン・マーベル」を観た。
 https://marvel.disney.co.jp/movie/captain-marvel.html

 前から思っていたが、IMAXの3Dはあまり大したことがない。そこそこの大きさがあるシネコンのスクリーンなら2Dで十分だ。少なくとも、800円も余計に出費する価値はない。という訳で最近は3Dの作品でも2Dの上映があればそちらにしている。本作品も3D作品だが、2Dのスクリーンで鑑賞した。十分だった。
 ジュード・ロウは「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」では才能溢れる若手の作家を情熱的に演じたのが印象的だが、本作品のようなアクションSFでもなかなか堂に入った演技をしている。この人とサミュエル・ジャクソンのふたりの存在感あればこそのストーリーで、いなければ作品が成立しなかっただろうと思われる。
 とは言え、主人公を演じたブリー・ラーソンの演技も大したもので、トレーニングの後の不敵な笑みや、ひしひしと感じる孤独感から自然に流す涙、そして全身に漲る不屈の闘志など、オスカー女優の面目躍如である。元同僚女性の役のラシャナ・リンチはこの作品で初めて見たが、女性らしい丸みと柔らかさを感じさせる演技がいい感じだ。そしてその子供の役の女児がとても達者なのには感心した。
 プロットもストーリーも緻密で中身が濃く、これまでのマーベルの作品とは一線を画している。奇想天外な設定だが、SFらしくて受け入れやすいし、役者陣の隙のない演技が全体を引き締めて、最後までワクワクと楽しめる。このところのハリウッド映画では出色の痛快なSFアクション活劇だ。


映画「サンセット」

2019年03月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「サンセット」を観た。
 http://www.finefilms.co.jp/sunset/

 難解な映画である。まず映像の殆どが主人公の顔の大映しなので、場所の把握が難しい。映像酔いしそうな感じさえある。そして映される主人公の顔にはあまり表情がなく、視線の先の光景が説明なしに映される。主人公の意図がどこにあるのか、常に不明である。
 それでも鑑賞中にいくつかの情報を得ることができる。ハンガリーでは日本や朝鮮と同じように、苗字~名前の順で表すようだ。
 主人公レイター・イリスは対人恐怖や対物恐怖といった感情とは無縁である。観客はまったく感情移入できないまま、先の読めないイリスの行動にどこまでもついていくことになる。イリスが唯一はっきりと意思表示をするのは、火事で亡くなった両親の遺した帽子店で働きたいということだけである。その両親には秘密があり、雇っている針子たちのひとりを不定期に権力者に差し出していたようだ。
 兄レイター・カルマンは、両親の罪を背負う覚悟をして、犠牲になった針子たちの復讐をするかのように、貴族をはじめとする権力者にテロを仕掛ける。イリスの無表情で不気味な行動力はストーリーが進むに連れてエスカレートし、心の荒んだ馭者さえ言うことをきかせるほどになる。それは兄の跡を継ぐことに必要な資格のように思える。しかしそれがラストシーンに繋がったのかというと、確証はない。
 製作者の意図は商業目的でないことだけは確かだが、何が描きたかったのかというと、はっきりしない。第一次世界大戦の前年の出来事として、火種の燻るブダペストと、導火線に火を付ける意志の持ち主の誕生前夜だろうか。
 一回の鑑賞では断片的な情報を集めて再構成するまでには至らなかった。しかしもう一度観るにはかなりの忍耐力を要すると思われる。


映画「Woman at War」(邦題「たちあがる女」)

2019年03月23日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Woman at War」(邦題「たちあがる女」)を観た。
 http://www.transformer.co.jp/m/tachiagaru/

 49歳176センチの女丈夫の主人公ハットラの部屋には、マハトマ・ガンディーの写真が飾られている。もうひとりは南アフリカのマンデラ大統領だろうか。
 マハトマ・ガンディーは日本では無抵抗主義と呼ばれる非暴力不服従を唱えてインドの独立運動を率いた。昨年度のアカデミー作品賞の「グリーンブック」の黒人ピアニストが「暴力は敗北だ」と諭していたのを思い出す。ピアニストは絶対に暴力を振るわず小さな違法行為も許さない、遵法精神に溢れた紳士だったが、本作品のハットラは少し考え方が異なる。
 ガンディーを尊敬し、ヨガも実践している割には破壊行為に精を出す。ハットラの自己正当化は、アルミニウム工場を標的にしている限り、一般の人々には迷惑をかけていないという理屈である。しかし彼女の行為がテロであることは間違いない。
 他者の身体や財産に害を与える行為は共同体の崩壊に繋がるから、すべての共同体で罰則の対象として禁じられている。しかし共同体の権力者には、破壊行為を行なっても罰則が適用されることはない。県民投票で反対多数となっても平気で辺野古の埋め立てを続ける日本政府などがその典型だ。
 ハットラには権力と癒着した大企業の行為が我慢ならない。そして人間に対する諦観がないから、怒りに身をまかせた行動に出てしまう。人がテロ行為に走る理由は、生に執着し、帰属意識を持ち、自分なりの世界観による被害者意識を持つからである。被害者意識を除けば、政治家や実業家と同じで、ある意味で建設的だ。人間なんてこんなもの、世界は腐りきっていて手の施しようがないと思っている人間は、テロ行為も無駄であると知っている。
 世界を建設し、一方で世界を破壊するのは、どちらも欲望に忠実で自分の権利ばかりを主張する人間たちだ。自分勝手な価値観を他人に強制し、暴力を使って服従させようとする点では、テロリストも圧政者も変わらない。優しさは世界の片隅に追いやられようとしている。聖書には「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と書かれている。寛容と優しさには、暴力行為よりもはるかに大きな覚悟を必要とするのだ。
 アイスランドの厳しい自然を美しいと呼ぶのは簡単だが、安全で衛生的で快適な都市の暮らしは捨てがたいし、町並みを見て美しいと言う人もいる。自然を守ることが正しいとされるなら、自然を切り開いて建設された都市はすべて正しくないはずではないか。しかし人は自然も美しいと言い、町並みも美しいと言う。自然は観光資源になるから美しいと言い、都市は便利で住みやすいから美しいと言うのだとすれば、人間のご都合主義以外のなにものでもないだろう。そしてそういうご都合主義は世界中に蔓延している。星空も夜景も両方とも美しいと思うのは、歴史的な刷り込みかもしれないのだ。夜景のどこが美しいのかを考えたとき、明快に説明できる人はいるのだろうか。すべての価値観は絶対ではなく、相対的なのだ。
 本作品は、ヨーロッパのヒステリックな現状を直接的かつ具体的な映像で伝えてくれる。環境破壊は問題だが、人間に都会の快適さを捨て去る覚悟があるのか。その快適な生活を維持するための経済活動が環境を破壊する。そして人々は環境ではなく自分の暮らしを守ることを最優先する。なんとも八方塞がりで気が滅入る作品である。唯一の救いはヨギーの最後の言葉にあると思うのだが、それは鑑賞後に各位でご判断されたい。
 映画製作の手法としては、音楽が直接映像に入り込んでいるやり方は初めて観た。斬新で、面白い。登場人物が微妙にそれを意識しているところも愉快である。


中島みゆきリスペクトライブ「歌縁(うたえにし)」

2019年03月17日 | 映画・舞台・コンサート

 中島みゆきリスペクトライブ「歌縁(うたえにし)」に行ってきた。
 去年の3月は日本武道館だったが、今回は新宿文化センター。登場は中村中、研ナオコ、クミコの常連に加えて、由紀さおり、咲妃みゆなどであった。宝塚出身の咲妃みゆは、「誕生」という重くて長い歌の後に、これまた大作の「銀の龍の背に乗って」を選択。大変な熱唱であった。
 由紀さおりは中島みゆきから提供された自分の歌「帰省」を歌った。疲れ果てた都会人にしみる歌だが、故郷がない人にとっては少し辛い。
 クミコも提供された自分の歌「十年」を歌う。この人は本当に歌が上手い。武道館では合唱団とともに、♪シュプレヒコールの波通り過ぎてゆく♪でおなじみの「世情」を歌っていたが、今回は「遍路」と「時は流れて」を歌った。
 中村中は「うらみます」に始まり、「おもいで河」と「ファイト!」を歌う。「ファイト!」は昨年の武道館で高畑淳子が歌った歌だ。
 例によって最後は客席と一緒に「時代」を合唱。この曲はいつまでも歌い継がれるだろうし、特に今年は平成という時代が終わる年だから、しみじみこの歌を歌う人もいるだろう。
 いつもながら、いいコンサートであった。


映画「君は月夜に光り輝く」

2019年03月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「君は月夜に光り輝く」を観た。
 https://kimitsuki.jp/

 永野芽郁がいい。この人は菅田将暉主演の映画「帝一の国」のときはホンワカしたおっとり感があって、あのドタバタした映画を少し地面に引き戻す重要な役割を果たしていた。当時は17歳で実際も高校生だったはずだが、現実をワンクッション置いて受け止めるような独特の雰囲気は天性のものなのだろう。本作品ではさらに進んで、現実から一歩引いた立ち位置で状況を受け止め、そして自分自身を受け止める、健気な女子高生を見事に演じていた。他にこの役ができそうな若い女優さんはあまり思いつかない。それほど役にぴったりだった。
 それに声がいい。少し前に死期の宣告を受けたばかりの人間なら狼狽えもするだろうが、物心ついてからずっと死と対面してきた主人公まみずは、もはやあたふたする時期をとうに過ぎている。本作はまみずがずっと喋りつづけているような印象の作品で、その声にはある種の諦観のようなものが通底しているように感じられる。死を覚悟した人間は自分を相対化して、深刻ぶることなく、逆にあっけらかんとできるのだろう。淡々として見える演じかただが、永野芽郁にとっては渾身の演技だったと思う。

 北村匠海は「君の膵臓を食べたい」での表情の上手さに驚いたが、その後の映画「十二人の死にたい子どもたち」やドラマ「グッドワイフ」の達者な演技を見れば、さもあらんと納得する。本作品では、見舞いに行った初対面の女子高生の無茶振りをあっさり引き受けるという尋常ではない設定を、さも普通のことのように楽々と演じてしまう。

 岡田くんの姉の回想シーンに映された本の言葉は、中原中也の「春日狂想」の冒頭の一節である。中原中也には「秋日狂乱」という詩もある。対になっている訳ではないが、人間を愛おしく思う気持ちがある一方で、人間の愚かさを憂う気持ちもあり、その相克に張り裂けそうになりながら、詩人はこれらの詩を書いた。その世界観がこの映画の最も重要なメタファーになっている。

 日本は高齢化という面では世界の最先端である。どの国も経験したことのない高齢者だらけの時代がどのように過ぎていくのか、誰にもわからない。かつては如何に生きるべきかがテーマであった。今後は如何に死ぬべきかがテーマとなっていく。生きることは死ぬことと表裏一体なのだ。

 昭和の時代に丸山明宏が「ヨイトマケの歌」を歌った。家族のために肉体労働をする母親が歌う「ヨイトマケの歌」に励まされたという感謝の歌である。戦後の復興から高度成長の時代には、人は人に励まされて生きてきた。これからの人は、人に励まされながら死んでいくのだろう。父から貰ったオルゴールの曲が「幸せなら手を叩こう」だったのは、それが主人公にとっての「ヨイトマケの歌」だったからなのかもしれない。 永野芽郁がいい。この人は菅田将暉主演の映画「帝一の国」のときはホンワカしたおっとり感があって、あのドタバタした映画を少し地面に引き戻す重要な役割を果たしていた。当時は17歳で実際も高校生だったはずだが、現実をワンクッション置いて受け止めるような独特の雰囲気は天性のものなのだろう。本作品ではさらに進んで、現実から一歩引いた立ち位置で状況を受け止め、そして自分自身を受け止める、健気な女子高生を見事に演じていた。他にこの役ができそうな若い女優さんはあまり思いつかない。それほど役にぴったりだった。
 それに声がいい。少し前に死期の宣告を受けたばかりの人間なら狼狽えもするだろうが、物心ついてからずっと死と対面してきた主人公まみずは、もはやあたふたする時期をとうに過ぎている。本作はまみずがずっと喋りつづけているような印象の作品で、その声にはある種の諦観のようなものが通底しているように感じられる。死を覚悟した人間は自分を相対化して、深刻ぶることなく、逆にあっけらかんとできるのだろう。淡々として見える演じかただが、永野芽郁にとっては渾身の演技だったと思う。

 北村匠海は「君の膵臓を食べたい」での表情の上手さに驚いたが、その後の映画「十二人の死にたい子どもたち」やドラマ「グッドワイフ」の達者な演技を見れば、さもあらんと納得する。本作品では、見舞いに行った初対面の女子高生の無茶振りをあっさり引き受けるという尋常ではない設定を、さも普通のことのように楽々と演じてしまう。

 岡田くんの姉の回想シーンに映された本の言葉は、中原中也の「春日狂想」の冒頭の一節である。中原中也には「秋日狂乱」という詩もある。対になっている訳ではないが、人間を愛おしく思う気持ちがある一方で、人間の愚かさを憂う気持ちもあり、その相克に張り裂けそうになりながら、詩人はこれらの詩を書いた。その世界観がこの映画の最も重要なメタファーになっている。

 日本は高齢化という面では世界の最先端である。どの国も経験したことのない高齢者だらけの時代がどのように過ぎていくのか、誰にもわからない。かつては如何に生きるべきかがテーマであった。今後は如何に死ぬべきかがテーマとなっていく。生きることは死ぬことと表裏一体なのだ。

 昭和の時代に丸山明宏が「ヨイトマケの歌」を歌った。家族のために肉体労働をする母親が歌う「ヨイトマケの歌」に励まされたという感謝の歌である。戦後の復興から高度成長の時代には、人は人に励まされて生きてきた。これからの人は、人に励まされながら死んでいくのだろう。父から貰ったオルゴールの曲が「幸せなら手を叩こう」だったのは、それが主人公にとっての「ヨイトマケの歌」だったからなのかもしれない。


映画「マイブックショップ」

2019年03月13日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「マイブックショップ」を観た。
 http://mybookshop.jp/

 映画やテレビが画面に向き合って映像や音声を受け取る受動的な行為であるのに対し、本を読む行為は作者と横に並んで同じものを想像する能動的な行為である。それは作者と読者の、時空を超えた共同作業でもある。
 作者は読者が想像しやすいように輪郭を浮かび上がらせるような表現をし、読者はその輪郭を上手に描いてみることで作者とイメージを共有する。作者の表現が正確であれば複数の読者も同じ輪郭を頭に描けるだろう。あるいは、作者が意図的に細部を省略すれば、個々の読者の経験や想像力の違いによって、それぞれに違ったイメージを持つことになる。
 多くの場合、作者はひとつの作品で詳述と省略を使い分ける。だから読者による理解の違いが生じることが多い。同じ読者でも十年後に読んだら、同じ作品に対して異なった理解をすることもある。読んだ本を原作とした映画を観たときに違和感を感じるのは、人によって理解が異なる上に、イメージを映像にするときに更にデフォルメが生じるからである。百人の人が読めば百通りのイメージがある。本と向き合うことは自分自身の経験や想像力と向き合うことである。問題はどの本を読むかということだ。

 本作品は、主人公フローレンス・グリーンを演じたエミリー・モーティマーをはじめ、役者陣は名人級の人ばかりで物語は大いに盛り上がる。イギリスが舞台だから英語は上品だ。アメリカ人ならFuck off(出て失せろ)というところをLieve(立ち去れ)というところなど、アバズレではない御婦人の言葉に相応しい。
 フローレンスが本屋の仕事は孤独ではないと言うとき、彼女は並べられた背表紙の向こうに広がる、たくさんの作者たちの熱気に包まれている。本屋は出逢いの場なのだ。沢山の本が読者の想像力との出逢いを待っている。人は未知の他人と出逢うように本と出逢う。人に出逢うことで運命が変わることがあるように、本に出逢うことで運命が変わることがある。出逢いはたいてい偶然だ。探していた本の隣にあったとか、文庫なのに平積みされていたとかいったときだ。
 そしてそのとき、本屋の店員の役割が重要であることに気づく。探していた本の隣に運命の本を並べたのは店員である。運命の文庫本を平積みしたのも店員だ。以前ある本屋で「極真拳」「少林拳」といった格闘技系の本の中に「土門拳」の写真集が混じっているのを見たことがある。ちなみに土門拳は人の名前で、知る人ぞ知る著名な報道写真家である。戦後12年目の広島を題材にした「ヒロシマ」という写真集が世界的な評価を受けた。
 多分土門拳のことを何も知らない店員が並べたのだろうが、一概に悪い例とは言えない。格闘技に興味を持つ人の中に、土門拳の広島の写真を見て衝撃を受ける人もいるかも知れない。そもそも土門拳の写真集を置いてあるところにその本屋の価値がある。
 インターネットで探してスマートフォンで読める電子書籍は便利だが、実際の本に比べて温かみがない。本は印刷屋、製本屋、そして本屋と、沢山の人の手を介した上で読者に届く。本屋の本棚に並んだ本には、印刷の色やカバーの装飾、イラストや挿絵など、作者だけでなくその本が売れればいいと願う人々の気持ちが詰まっている。そして何より、出逢いがある。店主が商業主義に陥らないで、多くの本を博学的に読み、店に訪れる人々に本との出逢いをお膳立てしてくれる本屋は、街にとって貴重なファシリティである。主人公フローレンスが目指したのは、そういう本屋に違いない。
 街の人々の無理解と有力者の横槍にめげず、長いものに巻かれることもなく、ひたすら本屋としての王道を営むフローレンスには、あなたには勇気があると言って励ましてくれるブランディッシュ氏だけでなく、知識と想像力の宝庫であるたくさんの本が味方についている。頑張れ、フローレンス。
 本作品の唯一の伏線となったストーブのシーンが回収されたラストには、受け継がれた夢の続きのような余韻があった。心に残る名作である。


映画「岬の兄妹」

2019年03月12日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「岬の兄妹」を観た。
 https://misaki-kyoudai.jp/

 売春婦は世界最古の職業と言われている。現在の日本では男女の貧富の差が一定ではないから、必ずしも男が女を買うだけとは限らない。最近では富んだ女が男を買う「娼年」という映画まで登場した。
 男娼または娼婦が体を売るのは、売れるからである。需要のあるところには供給が生じる。そして価格との相関でそれぞれ増減する。一般の商品と同じである。だから品質がよければ需要は高まるが、同時に価格も上昇するので、需要はその価格に見合う程度に下がっていく。低品質でも低価格であれば、それなりの需要はある。
 人間は理性によって自らを律することができるが、食欲と死の恐怖については簡単には律することができない。衣食足りて礼節を知るという諺の通りである。食欲に比べれば性欲は比較的に律しやすい煩悩だろうと思うが、それは痴漢や強姦の衝動を制御する程度のことで、性欲そのものを消し去ることができる訳ではない。人は常に性欲に振り回され続けている。ときには僧侶も国会議員もそれで信頼を失う。しかし人類が性欲から解脱したら、世界は一気に少子化となり、100年経たないうちに絶滅するだろう。それはいいことなのかもしれない。

 本作品は生活に行き詰まった兄妹が、あるきっかけから知恵遅れの妹に売春させる話である。いくつかの失敗を重ねると、兄は効率のいいやり方を見つけていく。場末の港町にも売春の需要はあるのだ。
 兄も妹も障害者であるにもかかわらず、登場する行政は幼馴染の警官だけで、福祉関係については人も建物も何も出てこない。この兄妹みたいな人々は日本にたくさんいるのに、行政は彼らが自分で手続きしない限り何もしない。それどころか、小田原市の職員のように「生活保護なめんな」とプリントされたジャンパーを着て、保護申請をした人々に対して不正な申請と決めつけて威圧するような役人ばかりである。大抵の役人と政治家は、国民から預かった税金を自分たちのものと勘違いしている。
 兄妹にとって頼れるのは自分たちだけ、そして資本は体だけだ。妹を売春させるのは必然の成り行きである。兄は妹がいつまでも若くないことを知っている。行き詰まれば妹を殺して自分も死ぬしかない。そういった事例は、全国にたくさんある。報道はされないが、WHOによると日本では毎日200人が自殺している。アベノミクスで生活が向上したと言い張っている日本は、確実に貧しくなっている。ヨシオとマリコは日本中にいるのだ。そして確実に増加している。
 兄妹は売春の金で一息つくと線香花火を見て束の間の幸せを味わう。これまでも、これから先もいいことは何もないだろう。しかしときどきはハンバーガーとポテトを食べられるかもしれない。祭の縁日を歩けるかもしれない。また線香花火を楽しめるかもしれない。
 まさに線香花火のように儚い二人の人生だが、彼らの人生を否定することは、人間そのものを否定することになる。人は束の間の線香花火を楽しむために、長くて辛い人生を歩むのだ。


映画「ウトヤ島、7月22日」

2019年03月11日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ウトヤ島、7月22日」を観た。
 http://utoya-0722.com/

 有名なビデオゲームに「バイオハザード」(英題「Resident Evil」) というタイトルがある。最近の3Dになってからのバイオハザードはあまり怖くないが、最初にプレイステーション1で始めたときのバイオハザードは恐ろしく怖かった。その一番の理由が、見えないところからいきなり敵が襲ってくるシチュエーションである。
 本作品も同様で、銃声はすれども銃を持っている襲撃者の姿が見えない。しかもバイオハザードの主人公は武器を持っているのに対し、本作品の登場人物はみんな丸腰だ。兎に角逃げるしかない。しかしそれにしては本作品にあまり恐怖を感じることはなく、バイオハザードのほうがよほど怖かった。その理由はどこにあるのだろうか。
 ノルウェーのパラダイムはアメリカと同様、家族第一主義のようで、登場人物の電話の向こうは大抵母親だ。娘から母親に「ママ愛してる」というのがお決まりの台詞で、そのシーンが何度か登場したが、家族第一主義のパラダイムを共有していないと、いまひとつピンとこない。日本だと「おかあさん、ありがとう」という感じになるのだろうか。いや、殺人者から逃げ回っているときに「おかあさんありがとう」は多分ない。
 本作品では、千々に逃げ回る若者たちのうち、ひとりの女性カヤにピントを合わせて、恐怖と回避行動の様子が長回しで描かれる。カメラの揺れに合わせて画面も揺れるので、船酔いなどに弱い人は観ないほうがいいかもしれない。
 妹を探しつつ逃げるカヤは、恐怖や焦りを募らせるのではなく、ときにはどこにそんな気持ちの余裕があるのかという行動をする。そして何故かときどき家族第一主義が顔を出す。追い詰められている感じがあまりしない。そこに違和感があるので、恐怖感を共有できなかったのだ。無意味な饒舌は緊迫感をなくしてしまう。

 かなり期待した本作品だが、テロに反対するために家族第一主義を持ち出したことで、恐怖心が観客に伝わらなくなってしまった。製作者の正義感は理解できるが、この作品にはテロと家族という頭でっかちな対比は不要であった。無言の行動と遠かったり近かったりする間欠的な銃声だけでシーンを進めれば、まさに初期のバイオハザードと同じで、圧倒的な恐怖を表現できただろう。少し残念である。


第7回ブス会「エーデルワイス」

2019年03月10日 | 映画・舞台・コンサート

 池袋の東京芸術劇場シアターイーストに芝居第7回ブス会「エーデルワイス」を観に行った。漫画家として成功したものの、付き合った様々な男たちとはどれもうまくいかず、女としての幸せをつかめないままにもうすぐ閉経を迎えようとしている中年女性の話だ。若い時と現在を二人の役者が演じる。その他の人々は一人多役で大活躍。現在のヒロインを演じた鈴木砂羽さんは何度も何度も服を着替えて登場。スタイルのよさもさることながら、体の柔らかさと着こなしの上手さが見て取れる。
 俳優陣は達者な人ばかりで、流石の演技力で物語をぐいぐいと引っ張っていく。鈴木砂羽さんはプロモーション的には目玉の出演者だが、かなりカミ気味の台詞回しと、他の俳優さんたちに比べて圧倒的に声が出ていなかったのがモロに伝わってきて、やや残念だった。今日は多分調子が悪かったのだ。