映画「プライベート・ウォー」を観た。
http://privatewar.jp/
ゴルシフテ・ファラハニというイラン出身のびっくりするほど美しい女優がいて、当方はこれまでに「パターソン」と「バハールの涙」の2本を鑑賞した。主演した「バハールの涙」では、ISの被害にあった女性たちで編成した女だけの部隊を率いる不屈の意志の戦士を演じていた。暗くて深刻な役柄で、「パターソン」で主人公の妻で気儘なクリエイターを演じた女優と同一人物とは思えなかった。
「バハールの涙」では本作品の主人公メリー・キャサリン・コルヴィンがモデルになっている隻眼の女性従軍記者マチルドが登場した。彼女は、ニュースを受け取った人はクリックして終わりと悲観論を展開するが、言論は無力だがそれでも伝え続けなければならないと、かねてからの自分の覚悟も表明する。本作品でも、主人公メリー・コルヴィンは人類に絶望しているように見え、その絶望を乗り越えようとしているようにも見える。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で、次男イワンが弟アリョーシャに向かって、何故幼児が愛する親によって虐待され、無垢な子供の上に爆弾が落とされねばならないのか。子供たちにどんな責任があるのか神様に教えてもらいたいと、迫力のある無神論を展開する。「カラマーゾフの兄弟」が刊行されたのが1880年。それから130年以上経ってもメリー・コルヴィンは戦場で答えを探し続けなければならなかった。
おそらくではあるが、子供は有史以来虐待され殺され続けている。弱くて無防備で罪のない子供たちが不条理に殺され続けてきたのはどうしてなのか、長い間、多くの人が問いかけ、あるいは自問してきたが、未だに解決の糸口さえない。子供の死は常に不条理だ。人体の耐用年数が50年とすれば、その半分にも満たない年齢での死は文字通り非業の死であり、子供たちは不条理な死を死んでいく。
死が不条理なのは生が不条理であることに由来する。生の不条理は人間の行動の不条理へと発展し、差別や虐待、暴力や戦争に繋がっていく。人間が自身の不完全を認め、他者の不完全に寛容にならない限り、人類の不幸は終わらない。そしてそんな日は永久にやってこない。
人類には暴君と無法者と被害者と、それに傍観者しかいない。メリー・コルヴィンの絶望が画面から溢れ出るようで、観ていて辛くなる。この世にはもはや希望はないのか。しかしメリー・コルヴィンのエネルギーとバイタリティも同時に伝わってくる。どんなに酷い世の中でも、誰かが火を消そうとしなければ、いつまでも火事は鎮まらない。火をつけて焼き殺そうとする理不尽な無法者ばかりの世の中ではない。火を消す努力をする人がいなくなるのを最も恐れなければならない。だからメリー・コルヴィンは火を消すために事実を伝え続ける。何もしないこと、何も伝えないことは、暴力に加担しているのと同じことなのだ。
映画「レディ・マエストロ」を観た。
http://ladymaestro.com/
女性指揮者ということでは当方もイルミナートフィルハーモニーオーケストラの西本智実さんの指揮するコンサートには何度か行ったことがある。大変に力強くてドラマチックな指揮をする人だ。
指揮者の仕事の大半は練習でオーケストラを纏め上げることだと聞いている。舞台の上で指揮をするのは最後の仕上げであり、料理人が料理を皿の上に盛り付けるようなものである。材料を洗ったり切ったり練ったり漬けたりすりおろしたり、煮たり茹でたり焼いたり蒸したり揚げたりすることが料理の殆どで、仕上がった料理を見せるのが指揮者にとっての舞台なのだ。
交響曲を演奏する人たちは皆そうなのかもしれないが、少なくとも指揮者はすべての楽器のスコアが頭に入っていてひとつひとつを聞き分けることができなければはならない。大変な仕事であり、特別な能力の持ち主でなければ出来ない作業である。
本作品のヒロインにはその特別な能力が既に備わっていて、必然的に映画としては一本道の成功物語になる。しかし時代はシモーヌ・ド・ボーヴォワールが「第二の性」で女性の自発的な解放を主張する二十年以上も前である。女性にとって凄まじい逆境であったのは間違いない。
女はかくあらねばならぬといった時代のパラダイムが人々を縛り、女性自身もそのパラダイムによって自分たちを縛っていた。女性は能力よりも見た目が重視される。本作品で言えばタイピスト採用のエピソードがその典型である。
人間は多かれ少なかれ他人に寄りかかって生きていくほうが楽である。日本人で言えば「お上」に従っていればいいとする生き方だ。失敗してもそれは「お上」のせいで、自分の責任ではない。第二次世界大戦の責任を日本人の多くが感じていないのも、その依存的な精神性のせいだ。ボーヴォワールが指摘したのはまさにその点であり、いつまでも世間の価値観に従って楽をしているうちは女性の自立はない。女性は自分自身の責任を背負うことでしか自由を得られないのだ。
主人公ウィリー・ウォルターズことアントニア・ブリコは女性に対する社会のあらゆる無理解を一身に浴びてなお、やりたい道を只管突き進む。有り余る才能が彼女を後押しした訳だが、本作品で才能というのは、持って生まれた能力というよりも、好きでたまらないことの方に重きが置かれているように思える。指揮者になるか死か、というほどの強い思い込みが彼女自身を動かし、周囲を巻き込んでいく。
ニューヨークでの初めてのコンサートにあたってコンサートマスターと衝突したときのシーンが本作品のヤマ場である。仕事として定期的にコンサートをこなしている演奏者にとって、とことんこだわり抜く指揮者は鬱陶しいだけである。ましてや女だ。馬鹿馬鹿しくて言うことなんか聞いていられるかと本音をぶちまける彼に対し、アントニアは自分にとってこのコンサートが唯一であること、演奏者にとって楽器が正確な音を出すことが大切であるように、指揮者にとってオーケストラが楽器であり、それが正確な音を出すことが大切であることを訴える。それはコンサートが常に一期一会であり、定期的に演奏しているコンサートも、やはりひとつひとつが一期一会なのだという意味でもある。
そしてコンサートの観客も、一期一会の演奏を聞いている。そこにコンサートの意義がある。上手くいった演奏もあれば失敗の演奏もあった。もしかしたら今夜のコンサートは素晴らしい演奏かもしれない。コンサート会場にはレコードやCDでは味わえない臨場感がある。
さて、作品にはエルガーの「愛の挨拶」をはじめ有名な曲がいくつか登場するが、曲以上によかったのが主人公に指揮を教えるカール・ムックの人柄である。女性指揮者を受け入れる民主主義者でありながら、指揮者は民主主義ではなく専制君主でなければならないと教える。その教えは、オーケストラは指揮者にとって楽器だというアントニアの考え方に直結する。そして演奏者は指揮者のもとで楽器であることに徹し、一期一会の演奏を行なうことで音楽との新たな出会いを繰り返す。なによりも指揮者アントニア・ブリコがコンサートに一番ワクワクしていたのではないかと思う。その熱量が伝わってくる作品であった。
映画「Ad Astra」を観た。
http://www.foxmovies-jp.com/adastra/index.html
ブラッド・ピットはレオナルド・デカプリオと共演したタランティーノ監督の「Once upon a time in Hollywood」でも落ち着いた存在感のある演技を見せたが、本作品の演技は更に存在感を増し、これまでに観たブラッド・ピット出演作品の中で一番重厚だったと思う。タランティーノ作品が行きあたりばったりの展開だったのに比べ、本作品は起承転結がしっかりとして、登場人物の行動も解りやすくて合理的な動機に基づいている。そして舞台は地球から遠く離れた太陽系の端という極限状況である。
父と子の関係は、母と子の関係に比べると曖昧であり、フィジカルよりもメンタルな関係であると言っていい。人間を馬と比べるなと言われるかもしれないが、サラブレッドは父馬が同じでも兄弟とは言わない。母馬が同じときだけ兄弟と言われる。母馬が年に1頭の仔馬しか産まないのに対して、人気の種牡馬は100頭以上の牝馬に種付けするからである。
母親は子の世話をし乳を飲ませるが、父親は専ら見守るだけだ。動物の場合は見守りもしないから父と子の関係は遺伝だけとなる。種付けが終わったら個体同士の有機的なつながりはなくなるのだ。従って子にとっての親は基本的に母親だけである。
共同体の中ではどうかというと、封建時代の家父長制度の時代は一定の価値観で家を守り家名を存続させていくのがならいであり、父親は主人と呼ばれ家の長であったが、現代では家名の存続や家柄に価値を置く考え方は衰退している。代わって多様な価値観が認められ、必然的に父と子の関係は父が子に一方的に価値観を押し付ける関係ではなくなり、子は父の生き方をひとつの例として相対的に見ることになった。
このあたりから父と子の関係性は多種多様となり、父と子のつながりもあやふやなものになる。物分りのいい父親ほど子に干渉しないから、人間同士としての関係も希薄である。子は早い時期から将来進む道を自分で考えなければならなくなる。多くの親はその手助けをするのだが、中には何もしない親もいる。
トミー・リー・ジョーンズ演じる父親が、ブラッド・ピット演じる主人公ロイにとってどのような父であったのか、それがこの作品の芯である。既に死んだはずの父親の意志は、息子にとってすなわち遺志であったが、父が生きているという情報によって、それは現実に存在する意思として心に蘇る。心の中の父が現実の父であることを確かめるためにロイは43億キロの彼方に向かう。それは宇宙の彼方への旅であると同時に、自分の心の中に向かう旅でもあった。
正気を保つのが難しい極限状況に主人公を放り込むにあたり、映画は主人公が心拍数さえも管理できるほどに訓練されていることを前提にする。このシーンがなければ、極限状況で落ち着き払った主人公に違和感を感じたに違いない。そういう意味でもよく考えられたプロットである。
ブラッド・ピットはひとり芝居においても高いポテンシャルを見せた。長い旅の中で弱さと強さを併せ持ちながら、魂の深みを探るように自問自答を繰り返す。死ぬまで孤独に耐え抜く強さはまだ得られていない。だから運が悪かったときのために誰かにメッセージを残そうとする。しかし父はどうか。
宇宙の彼方にあっても任務をきっちりと果たす宇宙飛行士としての生き方は、父の遺伝子を色濃く感じさせるものだ。父と子は同じような運命を辿ってきた。本来的には宇宙で生きるように出来ていない人間が、宇宙空間の閉ざされた乗物の中で他人と共同作業をする。目的が同じ間はいいが、命令系統が異なったり、意志が分かれたりするとどうなるのか。悲劇をともに経験した父と子は、父と子の関係性を超えて同じ方向を向いて遠くを眺める同志だ。任務の違いによって方角を分かつ父と子だが、少ない言葉を交わすだけで互いのすべてを理解する。
本作品はアメリカ映画と思えないほど哲学的な作品である。宇宙を描いたからこそ地球を客観的に見ることができるのかもしれない。ブルーマーブルと呼ばれる、宇宙から見た美しい地球には70億の人類が生きている。人類は、人間は何処へ行くのか。父と子が見ている先には人類の不安な未来があるのだろうか。人間の不幸な結末があるのだろうか。
太陽系が存在する銀河系は天の川銀河と呼ばれる。銀河系はいわゆる星雲である。天の川銀河の倍以上の大きさを持つアンドロメダ銀河も星雲である。星雲が互いの重力場を影響し合いながら集まっているのを星雲団とよび、宇宙には数多くの星雲団が存在する。宇宙には曲率が存在して空間的には閉じられていると言われても、その広大さは人智の及ぶところではない。
相対性理論によれば光速Cを超える速度は存在しないから、たとえ地球外生命体が存在すると仮定しても、地球上の観測者がそれを確認することはない。確認できないものは存在しないと同じで、宇宙人はいないし、UFOは単に未確認であるに過ぎないと結論される。おそらくその結論は正しいのだが、それでも宇宙の広大な空間に想像力を広げたとき、人類にも文通できる相手がいたら楽しいだろうと思う。なんだか笑えてくる。
本作品は人間が旅をするだけの話だが、それが宇宙空間の旅となると想像力の針が振り切って、逆に平安をもたらしてくれる。宇宙に行く旅は、やはり自分の心の中の宇宙の旅でもあるのだ。
映画「見えない目撃者」を観た。
http://www.mienaimokugekisha.jp
ストーリーは一本道だが、かかわる刑事たちが物語に従って変化し、主人公との関係性が変わっていく様子は王道の成長物語であり、とても面白く鑑賞できた。ネグレクト、家出少女、その少女を商売にする悪党たち、JKビジネス、SNS、サイコパスなど、現代的なテーマも盛り込まれ、意外に社会的な作品に仕上がっている。
吉岡里帆が若くして映画の主役に抜擢される理由が解る気がした。黒木華、高畑充希、二階堂ふみなど、活躍する若手女優には必ずその人なりの雰囲気があって、吉岡里帆にも、やはり個性的な雰囲気がある。彼女の場合は透明感のある頑張り屋さんという印象で、芯の強さも感じる。
本作品のヒロインはまさにそういった雰囲気にぴったりの役柄である。事故で弟を亡くし、自分自身も失明して人生に絶望しているが、警察官を目指した頃のやる気はまだ残っている。警察官の仕事は市民の安全を守るのが第一義だ。大抵の警察官は市民を取り締まるのが仕事だと勘違いしている節があるが、警察学校を卒業したばかりのヒロインには、市民の安全のために頑張るんだという気持ちがあった。
得てして頑張り屋さんというのは世間の常識に素直に従うタイプであり、時代のパラダイムを拠り所とすることが多い。世間に対して斜に構えていては頑張り屋さんにはなれない。決して斜に構えている人が頑張らないというのではなく、反体制的な人、反抗的な人は、どんなに努力しても頑張っているとは言われないのだ。芸術家は特にそうで、頑張って絵を描いたり小説を書いたりしても、それを頑張っているとは表現されない。一生懸命にデモ行進や演説をしても、それは頑張っているとは言われない。つまり頑張るというのは世の価値観に沿った行動に対してのみ使われる言葉なのである。
吉岡里帆はまだ頑張り屋さんの雰囲気だが、更に経験を積んでディパレートな雰囲気やデカダンな雰囲気、消え入りそうなか弱さなどの演技もできるようになれば、少し先を行く黒木華に追いつけるかもしれない。
そうは言っても、現時点で既に演技はかなり上手で、本作品の盲目のヒロインの役は堂に入っていた。目は大きく開いているのに見えていないと観客が納得してしまう表情は、演技の努力と演出の賜物だと思われる。最初から最後までブレずにこの表情を貫くことができた点は、役者としてのポテンシャルの高さを窺わせる。
総じて作品としての出来はよかったが、主題歌にやや不満がある。シーンの効果音はとてもよかったのに、エンディングで流れる歌は作品との相性が悪くて若干興醒めしてしまった。ちょっぴり残念だ。
映画「Once upon a time in Hollywood」を観た。
http://www.onceinhollywood.jp
主役はレオナルド・デカプリオとブラッド・ピットのふたり。ほぼ役者バカで落ち目になることを恐れてばかりいるデカプリオのリック・ダルトンよりもブラッド・ピットのクリフ・ブースのほうが人間的に深みがあるように感じられた。とはいっても舞台はハリウッドだ。プラス思考でノーテンキな強欲ばかりが暮らしている。
一応ベトナム戦争に反対するヒッピーたちを描き、そしてチャールズ・マンソン率いるカルト教団を描いて1969年当時の様子を表現してはいるようだが、時代の持つ閉塞性だとか国家間の経済事情だとか地政学的な分析だとかは描かれることがなく、ハリウッドとその周辺の人間模様の描写に終始している。
要するにクエンティン・タランティーノ監督は、あの頃のハリウッドの人々の様子だけを描きたかったと思われる。しかし何故それが描きたかったのかが伝わってこない。だから映画の世界観が理解できないし、おかげで面白いと思うシーンがひとつもなかった。監督には映画人のこだわりや昔の作品に対する思い入れがあって、同じ思い入れのある人には理解できる部分はあるのだろうが、その思い入れはオタクの精神性である。
残念ながらオタクとはほど遠い当方には、この作品を理解することは出来なかった。見る人によっては面白く感じる作品なのかもしれないが、多分それは楽屋落ちだ。とても長く感じた3時間であった。
映画「記憶にございません!」を観た。
https://kiokunashi-movie.jp
傑作な人情喜劇である。役者陣は達者な演出のおかげなのか、お笑い芸人も含めてみんなよかった。特に小池栄子がいい。映画でもドラマでも脇役ばかりの女優さんだが、シーンを盛り上げることにかけてはピカイチである。本作品でもそのポテンシャルを惜しみなく発揮して、中井貴一のコミカルな演技とディーン・フジオカのシリアスな演技を盛り立てる。演じた番場のぞみは表情豊かに観客の感情移入を誘い、作品の世界観をリードしていく。このキャラクターを思いついたのは流石である。観客は番場のぞみが喜ぶときに喜び、心配するときに心配していれば、楽しくこの作品を鑑賞できる。
小池栄子をはじめとする女優陣の演技は典型的でわかりやすい。喜劇ではわかりやすさが大事である。それにある程度のオーバーアクション。吉田羊や木村佳乃の演技はまさにそれで、三谷監督の演出が冴えている。有働由美子は一瞬誰かわからなかったが、アンカーウーマンとして変に色っぽいところが笑える。キャスターはこうでなければならないといった既存の価値観を壊しているところがあるから、有働由美子としては演じていてさぞかし痛快で楽しかっただろうと思う。
そして中井貴一や佐藤浩市の演技は堂に入ったものだ。古くは「壬生義士伝」での共演があり、最近では直接の絡みはなかったが「空母いぶき」にふたりとも出ていた。政治的な発言は殆どないが、表現者に共通する、強権に確執を醸す志みたいなものは二人ともに感じられる。それは作品の強さにも通じるところがあって、当然ながら監督脚本の三谷幸喜にも、時代のパラダイムに反発する自立心があるだろう。それが世界観の芯になっているから安心して笑えるのだ。いつの世も喜劇は世の中を笑い飛ばすスケールの大きさが求められる。
三谷幸喜と中井貴一と佐藤浩市。この三人の広い精神性の上で小池栄子をはじめとする女優陣を自由に遊ばせることで、この作品が政治的かつ社会的な広がりを獲得したと言えるし、観客はそのスケールの大きさの上で安心して笑える。パラダイムを笑い飛ばすのは誰にとっても痛快なのだ。もう一度観たくなるいい作品である。
映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」を観た。
http://ningenshikkaku-movie.com/
鑑賞前に「人間失格」と「斜陽」を読んでおいてよかったと思う。いずれの作品も不明なことは不明のまま物語が進む。現実との整合性や科学的な根拠などを調べることなく、作家は自在に言葉を紡ぐ。科学や現実よりも自意識が大事なのだ。特に「人間失格」では、大いなる自意識が主人公を苛み、自棄的な行動へと追いやる。
20世紀を代表するイギリスの詩人ウィスタン・ヒュー・オーデンは「小説家」という詩の中で次のように書いている。
詩人たちは軽騎兵のように突進するが、
彼は子供くさい天分を惜しげもなく振り落し、
平凡、老拙の道をひとりで歩まねばならぬ、
誰も振り向いてくれない者にならねばならぬ。
(深瀬基寛訳)
映画の太宰治はオーデンの詩のように、意外に普通の人間である。小説家だから自意識は強いほうだし、小説の中の主人公たちはいずれも否定しているが、世のパラダイムに対するルサンチマンもあるだろう。世間に何の借りがある、おとなしく従ってたまるか、だいたい世間なんてそこらへんにいる人間のことじゃないか、という思いがあるに違いない。そういう弱さの中の強さみたいなものが作家を支え、作品に向かわせた。
映画では、高良健吾が演じる三島由紀夫に世間を代表させる。三島はパラダイムを自分で主導して国家を自分の考えるあるべき姿に導こうとした人で、太宰とは対極にある存在だ。世間に背を向けて書きたいものを書き、生きたいように生きる太宰が許せなかったのだろう。三島が全力で太宰の生き方を否定する場面は、世間が太宰を否定することを象徴する場面である。そして太宰が笑い飛ばしたのは三島ではなく世間なのだ。
太宰は自分に小説の才能がなければ、ただの落伍者であることを自覚していた。その虚無的な感じが女性に何らかのアピールをする。「人間失格」の主人公と同じように次から次に女性にモテるのだ。そして生活力も経済力もない太宰は、女性に頼って生きる。まさに太宰は女性に支えられて作品を紡いだ作家なのである。映画の副題はその辺を表現していてなかなかいい。
二階堂ふみは素晴らしい。初対面の太宰から手を握られ、激しいキスをされて、それだけで身も心も溶けるような恋に落ちてしまう女というものの弱さと、すべてを捨てて太宰を守ろうとする強さの両方を表現する。女は弱い、そして女は強い。山崎富栄はそれを地で行くような女性で、この難しい役を二階堂ふみは演じているふうでもなく演じてみせた。
宮沢りえの美知子夫人はもう少し若い女優のほうがよかった。他の若い女性たちとのバランスが悪くて、どうしてこの人をキャスティングしたのかわからない。演技は悪くなかったが、肉感に欠ける。
沢尻エリカだけが作品の雰囲気から浮いていた。この人のキャスティングもやや疑問。実際の太田静子はもう少し奥行きのある女性だったと思う。
小栗旬は偉い。相手役の如何に関わらず、太宰という稀有の才能を演じきった。主人公は酒に溺れ女に溺れ、のべつ幕なしにタバコを吸う生活をしているが、どこか自分を鳥瞰しているようなところがあり、決して声を荒らげたり暴力を振るったりすることがない。妻の美知子が結婚前に太宰の小説を読んで「自分で自分をついばんでいるようだ」と感じたように、太宰は自分を突き放して生きる。現実は人まかせ、女まかせなのだ。
太宰が小説を書けたのは、荒れた生活とはあまり関係がない。それは彼の才能であり、小説はどこまでも小説家の想像力によるものだ。作家は作品によってのみ評価されるべきで、川端康成が太宰の私生活を批判したのは川端の狭量と嫉妬のなせるわざだと思う。世間のパラダイムと自分の存在の乖離に悩む太宰にとって、薬に浸ることも酒を飲むことも女に溺れることも小説を書くことも皆同じことである。書かずにいられないから作家になった。でなければただのヤク中でありアル中である。弱い人が自分の弱さをさらけ出すのは勇気のいることだ。とてもシラフでいられない。
本作品は演出がやや過剰なところも散見されたが、小栗旬と二階堂ふみが作品の支柱となって、太宰治という作家の人となりを存分に表現した傑作だと思う。
渋谷Bunkamuraのシアターコクーンで石原さとみ主演の芝居「アジアの女」を観劇。前知識がなくてアジアの女性が主人公のヒューマンドラマだと思っていたが、少し予想とは違っていて、舞台の奥には被災した原発の汚染物質を入れた核のゴミ風の袋が積んである。つまり舞台は日本である。
石原さとみ演じるヒロイン麻希子はずっと心を病んでいた。そして父や兄とともに住んでいた家が被災する。以降は自宅周辺に閉じ籠もっていたが、訪ねてきた一ノ瀬という男の依頼で街に出る。そこで出会った鳥居という女から仕事を与えられ、デリヘルと思しき仕事をするようになる。
麻紀子は中国人をはじめとしたアジア人が住む地域に出入りするようになり、中国語を教えている中国人男性が好きになる。そしてその男性の考え方に感化される。アジア人にシンパシーを覚えて助けようとする女、つまりアジアの女だ。
一方、被災した地域には自警団が出来、互いに争うようになり、やがて攻撃の対象はアジア人の地域になっていく。その背景には日本人のアジア人に対する差別があり、救いようのないナショナリズムがある。そして麻紀子が出入りしている地域も攻撃の対象になり・・・という話である。
脚本は長塚圭史で長塚京三の息子という以外の情報はないが、社会の不条理と人間の不条理の両方を笑い飛ばすような芝居を書く。なかなかいい芝居だった。
映画「ブレードランナー・ファイナルカット」を観た。
https://warnerbros.co.jp/home_entertainment/detail.php…
IMAXシアターでの鑑賞はなかなかの迫力であった。随分前だと思うが、この映画をテレビで観た記憶がある。空中を移動する自動車やハリソン・フォードのリアルな格闘シーンに衝撃を受けた。SF映画もここまで進んだかと思ったものである。
しかしその後のコンピュータグラフィックスの進歩で実写に匹敵するどころか実写を遥かに上回るCG映画が次々に登場するに至っては、本作品の映画としての面白さは観客のCG慣れの分だけ減ってしまった。
とはいえ、人間そっくりに遺伝子から作られているレプリカントは人間との見分けがつかず、人間が人間として認められる条件は何なのかというアイデンティティの問題を提起した意義は大きいと思う。加えて人間が生命を作ることが当たり前になった社会、宇宙への植民地主義、階級格差など、現在および将来の人類が向き合わなければならない問題がさり気なく提起されている。
物語のテンポはかなりゆっくりで現代的ではないが、CGやアクションはこれから先も鑑賞に耐えうるものである。そして問題提起はいつも新しい。読書好きの人が周期的に古典を読むように、本作品も何年かに一回は観たい作品のひとつに違いない。
映画「タロウのバカ」を観た。
http://www.taro-baka.jp
怒りの衝動と仲間内の高揚、そして覚醒の時間。スパイラルのように繰り返されるシーンが、やがて振り幅を大きくしていく。松尾芭蕉の「面白うてやがて悲しき鵜船哉」という俳句を思い起こさせる切なさが、物語全体を包む雰囲気となっている。
俳優陣はかなりしんどい演技だったと思う。長回しの上に登場人物たちの気持ちが複雑極まりない。よくこんな芝居を演じ切ったものだと感心する。意外かもしれないが、中でも半グレの吉岡を演じた奥野瑛太が特によかった。暴力と奸計で大金を手にする存在は、非力で孤立している主人公たちの対極を象徴している。
人間社会に生きていることはそれだけで不条理だ。誰もが不安と恐怖を感じ、欲求不満と怒りを抱いている。しかしのべつ幕なしに怒りを爆発させたり欲望のままに行動してしまうと社会では生きていけない。それは他人に不安と恐怖や実質的な被害を与え、社会の秩序を乱す行為だからだ。社会の秩序を維持することは快適な生活を担保する重大なファクターなのである。
だから誰もが心に闇を抱えつつ、それをひた隠しにしながら生きている。大抵の場合は自分自身に対しても隠している。そのほうが楽だからである。闇を自覚している人は他人の闇を想像する。他人に対する怒りは他人からの怒りに等しく、自分に跳ね返ってくる。だから怒りを表に出すことはない。結局自分自身の問題なのだ。
しかしそれでも何もかも投げ捨てて、全て壊してしまいたい衝動はある。壊すことは創ることだ。人間の文明は自然を壊すことで築き上げられた。しかし人間の生命は一度壊すともう元には戻らない。だから人を殺すためには一度自分が壊れるしかないのだ。
大森監督は人の心の闇を描く。2017年の「光」では闇の島から都会に出てきた若者を闇から来た父親が訪ね、闇、光、闇という心の変遷の物語を紡ぎ、2018年の「日日是好日」では茶の湯に光を求めながら心の奥底には闇を抱えつづける女性像を浮かび上がらせてみせた。いずれの作品も役者陣にとっては骨の折れる演技だったと思うが、それによって瑛太や井浦新、それに黒木華はひとつ壁を破ることができたと思う。
本作品では菅田将暉と太賀、それに新人のYOSHIは、様々な自己抑制、心のブレーキを振り捨てて、闇の衝動の発露を存分に演じてみせた。天才の菅田将暉は別格として、太賀の演技の自然さとYOSHIの存在感は大したものである。
理性のコントロールを捨てた彼らの行動を理性の集積である常識で批判することには何の意味もない。それよりも彼らの行動の根っこにあるものが、社会で生きる我々の最も隠しておきたい部分に一致していることを畏れるべきだ。怒り、破壊衝動、それに強力な武器。この組合せは中国で日本軍がやった残虐行為を思い起こさせる。
武器を失い仲間を失って破壊する手段の一切がなくなってしまえば、あとは叫ぶしかない。孤独で非力な人間の叫び。ある意味必然的なプロットであり、大いに納得のできるところだ。
演じた役者陣ほどではないが、観客にもそれなりの覚悟がいる。エージもスギオもタロウも観客自身の心に存在することを否定しない覚悟である。ひた隠しにしていた闇の存在をこの映画によって暴かれることは観客にとって辛いし、しんどいことだ。しかしそれを映画のせいにして批判するのはネトウヨと同じ精神構造である。誰もが心に闇を抱えていることを認め、自分自身を掘り下げていくことで闇の向こうにある場所に辿り着けるかもしれない。