三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「The Wife」(邦題「天才作家の妻 40年目の真実」)

2019年01月31日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The Wife」(邦題「天才作家の妻 40年目の真実」)を観た。
 http://ten-tsuma.jp/

 予告編で大体のことがわかる。女流作家が正当に評価されず、せいぜい一過性のイロモノとして扱われる時代に、文才のある妻が才のない夫の名前で小説を出版していたという話だ。
 そのままの生活が続いていれば、夫婦間のひずみやわだかまりに目を瞑って平穏な毎日を送ることができた筈なのだが、ノーベル文学賞の受賞者になってしまったことから、夫婦間の関係性が一変する。
 もともと相手に対する尊敬と自分のプライドの間で揺れ動くことはあったのだろうが、生活を守り世間体を保って家族を維持するという共通の価値観のために、ふたりは自尊心を押さえつけて生きてきた。謂わば共同体の秩序を保ってきたのだ。しかしノーベル賞という名声は、自尊心を押さえつけるにはあまりにも巨大であった。
 一般に、ストレスはある程度以上の感情的な負荷がかかったときに生じる。喜怒哀楽のいずれの場合でもストレスは生じるのだ。ノーベル賞受賞という大きなストレスに押し潰されそうになる夫婦の様子がいじらしい。
 夫婦はそれぞれに葛藤と戦うのだが、これまで目を瞑ってきた夫婦間のひずみやわだかまりが大きく肥大して、もはや耐えられなくなる。授賞式をやり過ごしても、その後の夫婦関係は修復しがたい。
 性欲や恋愛感情と名声や世間体のバランスは常に危うい。穏やかに思える我々の日常は、実は薄氷の上に乗っているのだということを、改めて思い知らされた気がした。人生の本質に迫る名作である。


芝居「罪と罰」

2019年01月31日 | 映画・舞台・コンサート

 渋谷Bunkamuraのシアター・コクーンで芝居「罪と罰」を観た。三浦春馬、大島優子、南沢奈央、松田慎也、真那胡敬二、冨岡弘、塩田朋子、粟野史浩、瑞木健太郎、深見由真、奥田一平、山路和弘、立石涼子、勝村政信、麻実れいほか、大勢の役者が出演している会話劇である。
 ドストエフスキーといえば、ひたすら会話によって物語が進んでいく作品ばかりだから、芝居にしやすそうではあるのだが、いかんせんその会話が哲学的であり宗教的であって非常に難解なので、予習せずに芝居を見てもチンプンカンプンである。
 幸いなことに高校生の頃にドストエフスキーを読み耽る幸福な時期を過ごしたことがあるので、今回の芝居を十分に楽しむことができた。
 三浦春馬の声が少し通りづらくて聞こえにくかったが、勝村政信は流石に最後尾に近かった私の席にもよく届いた。大島優子の声もちゃんと聞こえたのが、意外な収穫であった。


映画「あした世界が終わるとしても」

2019年01月31日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「あした世界が終わるとしても」を観た。
 https://ashitasekaiga.jp/

 マンガはこのところ、アニメ映画化される数も実写映画の原作としての数も、両方とも増えているように思える。それだけマンガのレベルが向上しているのだろう。というのも、映画館は子供だけでは入れないから、マンガを映画化するにはある程度は大人の鑑賞に耐えられる作品にしなければならない。
 本作品のタイトルは、佐藤健が主演した映画「世界から猫が消えたなら」を想起させるところがあって、鑑賞前は感動的なファンタジーを予想していた。期待していたと言ってもいい。

 しかし蓋を開けると、昔ながらのパラレルワールドが舞台のSF活劇である。少年少女が主人公であるところはエヴァンゲリオン風だろうか。世界観は昔ながらで、「あした世界が終わる」ことについての考察はない。アクションシーンは主人公が必ず勝利する予定調和で、特に見処なし。
「この世界の片隅に」や「聲のかたち」「君の名は」など、大変レベルの高いアニメ映画を観ているものだから、少し期待しすぎたところは確かにあるが、それにしても本作品は、底の浅さが目についてしまった。


映画「glass」(邦題「ミスター・ガラス」)

2019年01月31日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「glass」(邦題「ミスター・ガラス」)を観た。
 https://www.disney.co.jp/movie/mr-glass.html

 ニーチェは超人思想を説いたが、ニーチェの超人は知力や体力が飛び抜けて優れていたり、特殊な能力を持っている訳ではなかった。既成の価値観に捉われることなく、自由な精神で自分の価値観を生み出す意志の持ち主のことであった。
 しかし現代の超人は、大抵が特殊能力の持ち主で、要するにスーパーマンである。新しい価値観を生み出すことはなく、既存のパラダイムに従っている。つまり退屈な人間が生み出した、現代社会で認められて評価されるヒーローだ。物語にするには強すぎてもよくないから、ほとんどのヒーローは何らかの弱点を持つ。

 さて本作は二重三重に複雑な映画である。サラ・ポールソン演じる精神科医が単にアホな精神科医でないことはすぐにわかるが、その他の登場人物も、見た目通りではない感じである。ヒーローたちがそれぞれに弱点を持つのは王道に従っているし、アクションや暴力も本物だが、彼らの真の意図がどこにあるのか、ストーリーが進んでもなかなか掴めない。精神科医の狙いも単に彼らの思い込みを裸にするだけではなさそうだ。
 登場人物の台詞に頻繁に登場するのがコミックブックという言葉である。マンガが世界にどんな影響をもたらしたのか、あるいはマンガは現実世界にとってどのような意味を持つのかが繰り返し語られる。
 そこそこ面白い映画ではあるのだが、ストーリーは一本調子だし、登場人物たちが互いに騙そうとしていることが観客に伝わるようにしているのがわかるし、最後の場面にも驚きはなく、「でしょうね」と思うだけである。感動もない。そして、わざと感動させないようにしているような演出の仕方に、かなりの疑問を抱いてしまう。
 コミックブックのありように踏み込んだアイデアはなかなかよかっただけに、仕上げ方に恨みの残る作品というのが正直な感想だ。


映画「Les filles du Soleil」(邦題「バハールの涙」)

2019年01月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Les filles du Soleil」(邦題「バハールの涙」)を観た。
 http://bahar-movie.com/

 日本の作詞家で松本隆という人がいる。松田聖子が歌った「瑠璃色の地球」で彼は「争って傷つけあったり人は弱いものね」という歌詞を書いた。24歳のアイドルが歌うのだから、争いと言えば仕事や人間関係のもつれなどを指しそうだが、歌のテーマが地球であることを考えれば、戦争のことを言っているのだとわかる。つまり松本隆は24歳の松田聖子に反戦の歌を歌わせたのだ。それは大変に画期的で価値のある試みだったのだが、当時の若者たちに松本隆の思いが伝わったのかどうかは定かではない。

 さて勇敢で愛情に満ちた女戦士バハールが本作品の主人公である。高等教育を受けたインテリであり、銃で敵を撃ち殺すような女性ではない。しかしそうせざるを得なくなった状況が、長めのフラッシュバックで語られる。ISによる人権蹂躙である。人は己(おのれ)の欲望のために他者を犠牲にして意に介さない。宗教はもはや大義名分に過ぎず、餌食となるのは常に弱い人間である。
 フランス人の女性従軍記者であるマチルドは、言論は無力だが、それでも伝え続けなければならないと、かねてからの自分の覚悟を述べる。従軍記者にとって毎日が小さな勇気を試されることの連続だ。建物の角を曲がるだけでも、気力を振り絞らなければ曲がれない。そこには銃弾の雨が降っている可能性があるからだ。
 それでもマチルドはバハール隊長一行の後に続いて角を曲がる。そこに待っているのは死なのか、それとも希望なのか。多くの場合はそのいずれでもなく、更に危険な日々が待ち受けているだけだ。危機が去って希望が湧くまでには、まだ長い道のりがある。
 マチルドはバハール隊長の姿を世界中に発信する。この修羅場を地上のすべての人々に伝えたい。届け、平和の願い。そして与えたまえ、母と子の安寧の日々を。

 映画ではたしかにその思いは伝わってきた。ただマチルドは、ニュースを受け取った人はクリックして終わりと言う。我々も同じように、映画を観て終わりになってしまうのかもしれない。しかしいつか日本がトチ狂った暗愚の宰相によって戦争を始めようとするときには、断固として反対票を投じようと思う。

 人間のありようは松本隆が書いたように、たしかに弱くて醜いものである。しかしどこかでそれに抗う希望があると信じたい。そういう映画であった。


ミュージカル「ラブ・ネバー・ダイ」

2019年01月21日 | 映画・舞台・コンサート
TOHOシネマズシャンテで映画「Rebel in the Rye」を観た後、歩いて3分の日生劇場に行き、ミュージカル「ラブ・ネバー・ダイ」を観た。
 ダブルキャストで、ファントムが市村正親と石丸幹二、クリスティーヌが平原綾香と濱田めぐみ、ラウルが田代万里生と小野田龍之介、メグ・ジリーが夢咲ねねと咲妃みゆ、マダム・ジリーが鳳蘭と香寿たつき、そしてグスタフが大前優樹と熊谷俊輝と加藤憲史郎の3人である。この日は順に石丸幹二、平原綾香、田代万里生、夢咲ねね、香寿たつき、大前優樹であった。
 如何にもミュージカルらしいミュージカルで、平語の台詞が殆どない。はじめから全力で歌いっぱなしの舞台である。これは相当に疲れるはずで、ダブルキャストは当然だ。
 平原綾香の歌がうまい。ほぼソプラノ歌手である。石丸幹二の声も上等で、歌を聞いているだけで気持ちよくなる。子役の大前優樹くんの声はウィーン少年合唱団を思い出すような天使の歌声であった。本当にこの子が歌っているのだろうか、もしかしたらクチパクでは?と思うほどの声量である。
 ストーリーは緊張感があり、芝居もわかりやすくて入り込めた。舞台装置は大変に工夫されていて、三重の回り舞台と天井までの空間を極限まで活用している。これほど立体的な舞台は初めて観た。
 歌、脚本、俳優、演出、音楽、舞台のいずれも一流で、総額13,928円のチケット代は決して高くない。もう一度観たいと思ったが、予約サイトは既に予定枚数終了となっていた。ちなみに当日の客の9割は女性客であった。

映画「Rebel in the Rye」(邦題「ライ麦畑の反逆者/ひとりぼっちのサリンジャー」)

2019年01月20日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Rebel in the Rye」(邦題「ライ麦畑の反逆者/ひとりぼっちのサリンジャー」)を観た。
 https://www.rebelintherye-movie.com/

 大学では文学部に籍を置いていたのに、恥ずかしながらサリンジャーは一度も読んでいなかった。「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルが能天気な青春小説に違いないという先入観をもたらしたというのが、若かりし頃の当方の言い訳である。
 遅れ馳せながら鑑賞の前日、ジュンク堂で白水Uブックスの野崎孝さんの翻訳を買い求めたものの、最初のほうを読んだだけで上映時刻を迎えてしまった。それでもサリンジャーの、世の中に斜に構えたスタイルはなんとなく把握できた。
 逆に映画で小説の内容が少し紹介されていたが、ライ麦畑の端っこが崖になっていて、子供が次々に落ちそうになるのを捕まえてあげる仕事を永遠に続けるというイメージを聞いて、美しい映像と厳しい現実が浮かび、それがたいそう比喩的であり、そして芸術的であるところに、サリンジャーの不世出の才能を理解した。
 映画のサリンジャーはホールデン・コールフィールドほどエキセントリックではなく、友人と酒を飲みタバコを吸い女の子に気軽に声を掛ける、いかにも普通のアメリカの男の子であった。ただ文章を書くことだけに執着しすぎるきらいがあって、好きな女の子の誘いよりも小説を書く時間を優先してフラレてしまうほど、書くことが好きである。根っからの小説家なのだ。
 映画ではユダヤ人の血が半分混じっていることや、ノルマンディー上陸作戦の後にアウシュヴィッツを訪れたことなどがさり気なく述べられていて、注意深くセリフを聞いていないとわからないほどだが、戦争がサリンジャーの魂に深い傷を与えたのは間違いない。PTSDという言葉が生まれるにはベトナム戦争の惨禍を待たねばならなかったが、第二次大戦後にももちろんPTSDはあった。
 しかし精神科医は役に立たず、役に立ったのはヨガと瞑想で、それらの力を借りつつ、結局は書くことが癒やすことであった。若者の話を書くのは、若者がまだ汚れを知らない無垢だからとサリンジャーは言う。中原中也は「汚れつちまつた悲しみに」という詩を書いたが、意味は同じことだろう。

 学校の講師であり文芸誌の編集者であるバーネットや女性編集者ドロシー、その他たくさんの出版関係の人々との関わりと、家族関係のダイナミズムが詳細に描かれ、サリンジャーのことを知らない人にもすべて理解できるようになっている。作品として独立して纏まっており、補完の必要がない点は高く評価できる。
 俳優陣はいずれも好演だが、中でもバーネット役のケビン・スペイシーは素晴らしい演技で、サリンジャーがどういう人間であったかを浮き彫りにした。不採用に耐えること、何度も書くことという作家にとっての必須条件を伝えることで、サリンジャーに肚を決めさせる場面は素晴らしい。
 主人公を演じたニコラス・ホルトはリドリー・スコット製作総指揮の「ロスト・エモーション」で難しい役を上手に演技していたが、本作の演技もとても見事であった。青年らしい揺れ動く世界観と迷いの中で、真実を書きたい、ありきたりの物語は書きたくないという魂のこもったセリフを言う。書き上げた「ライ麦畑でつかまえて」を編集者に渡す場面では、作家が命を預ける場面に見えて非常に感動的であった。
 書くことが癒やしだが、出版することで社会との煩わしい関係性が生じる。身を削るようにして小説を書く作家にとって、書くことと生活することは相反であり、どこまでも悩ましいところである。出版がすべてだと言っていたドロシーが、最後に出版がすべてではないと堂々と言う場面には、主人公と一緒になって苦笑いしたが、この台詞によって辛かったサリンジャーの人生が救われたような気分になった。


映画「CREED Ⅱ」

2019年01月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「CREED Ⅱ」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/creed/index.html

 およそロッキーである。シルヴェスター・スタローンが製作して出演もしているから、どうしてもそうならざるを得ないのだろうが、世界観もテーマもロッキーそのままなので、必然的にデジャヴを覚えてしまう。ロッキーを観れば、この映画は観る必要がない。何のためにこの映画を作ったのだろうか。
 もちろん役者が違うから、それなりに楽しめることは楽しめる。130分もそれほど長くは感じない。しかし、いかんせん残るものが何もない。いつもながらの家族第一主義ですべておさめようとしている。アメリカ人は文明的、技術的な側面では著しく進歩してきた。しかし人生観や哲学となると、フロンティア時代の開拓精神から一歩も踏み出していないように見える。もはやアメリカの時代は終わったのだ。


映画「I feel pretty」

2019年01月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「I feel pretty」を観た。
 http://ifeelpretty.jp/

 アメリカンジョークが好きな人にはいいが、ピントが合わない人にはこの映画は面白く感じられないだろう。場合によっては不快に感じる人もいるかもしれない。少し無理があるのだ。
 デブや老け顔をコンプレックスに感じる女性はいるだろう。いるどころか、世界中のダイエット市場を考えれば、先進国のほとんどの若い女性がデブでありたくないと考えているに違いない。
 この映画は予告編のとおり、頭を打って自分が美しく生まれ変わったと勘違いした女性の話で、その段階ですでに、デブでブスは女性としての価値が低いという偏見を前提にしていることがわかる。その後の展開は、コカコーラのコマーシャルと大差ない。ドラッグストアに入ろうとして追い出された小汚い老人にコーラを与える親切な青年、その後この老人が実はサンタクロースだったという落ちのテレビCFである。
 アメリカ人というのはどうやら、既成の権威や価値観に縋らないと生きていけない国民性のようだ。アメリカンドリームは価値観の創造ではなく、常に既存の価値観の中での高評価の獲得であり、高額の経済的な成功である。
 本作品もその構図から1ミリもはみ出さない、典型的なアメリカ映画で、登場人物の全員が痛々しく感じられる。こういう価値観の束縛からアメリカ国民が解脱できる日は来るのだろうか。


映画「この道」

2019年01月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「この道」を観た。
 https://konomichi-movie.jp/

 北原白秋のイメージは、一言で言えばお坊ちゃんである。「あめふり」の詞に「きみきみ、この傘さしたまえ」とあるのを見てそう思っていた。こんなふうな言葉遣いをする子供は、ちびまる子ちゃんの花輪くんくらいしか思い浮かばない。少なくとも現実に逢ったことは一度もない。凡百の我々には、聞いたことのない詞を書くのは不可能だ。間違っても「さしたまえ」という詞は書けない。だからこの詞が書けるということは、北原白秋という人物がそういう言葉遣いをするお坊ちゃんに違いないと考えたのだ。
 しかし当方のそんな浅はかなバイアスは、本作品によって見事に打ち砕かれた。北原白秋という人は浮世離れした人ではなく、頗る即物的であり、地を駆け風を切り水に遊ぶ詩人であった。五感をそのまま表現するかのような言葉のひとつひとつは、実は計算され尽くし選び抜かれている。一度も聞いたことのない言葉さえ、自由に紡ぎ出す。

 しかし日本中に盛り上がる軍国主義の波は、白秋の詩から自由を奪い取ってしまう。詩人にとって使う言葉を制限されることは、手足の自由を奪われるに等しい。走ることも飛ぶこともできず、筆の運びさえままならない。美しいものを美しいと書けず、楽しいことを楽しいと書けないで、なんのための詩人か。戦時下の白秋の忸怩たる思いに強く共感する。
 たしか中上健次だったか、溢れ出すように文章を書きたいと言った作家がいた。文章を書くのは楽しいと同時に苦しいことでもある。言葉が溢れ出してくれればどれだけ楽しいことか。白秋はまさに、溢れ出すように詩を書いた。それは彼の天性の成せる業(わざ)である。文章ではなく詩だからこそそれができる。詩人は現実的には常に不遇であるが、およそ言葉とのかかわり合いにおいては、作家よりも遥かに恵まれている。

 大森南朋は名演であった。熱血漢の山田耕筰を演じたエグザイルのアキラもよかった。明治から昭和にしてはスマートすぎる二人だが、平成に上映するには多少のデフォルメも必要だ。与謝野晶子と鉄幹の夫妻といい、有名な詩人を一同に集めてしまうのが史実に合っているのかどうかは不明だが、朔太郎や犀星、啄木らが如何にも言いそうなセリフを言うところがいい。
 陰陽道では人生を四つに分けて、青春、朱夏、白秋、玄冬などというが、白秋は遂に玄冬を迎えることなく生涯を終えた。それが残念だったのか、それともそれでよかったのか、答えはない。詩人は時に夭折し、時に長い孤独に生き延びる。詩に遊んだ白秋の自由な魂が、彼の童謡を歌うたびに永遠に蘇る。