映画「大名倒産」を観た。
前田哲監督の映画を観るのは「ロスト・ケア」「水は海に向かって流れる」に続いて、今年3本目だ。その前が2021年の「そして、バトンは渡された」だから、去年と今年で3本の映画を撮影したのだろう。今年になって集中的に編集作業をしたという訳だ。作業興奮で熱に浮かされていたような状態だったのではないか。間違いなく幸せな時間だったに違いない。
原作は「壬生義士伝」「鉄道員(ぽっぽや)」の浅田次郎で、時代は幕末。新しい時代が来ようとしているのに十年一日で変わらない幕府と、新しい藩主を対比させることで生じるアンバランス。それがバランスを保とうとするところに物語が生まれる。原作に力があるから、俳優陣の演技と演出に間違いがなければ、おのずから傑作ができる。
本作品はコメディだから、監督の演出にも俳優の演技にも余裕が感じられる。だから安心して観ていられる。心置きなく笑える。俳優陣も楽しんでいたと思う。エンドクレジットはとても楽しい。このところ観た映画の中で一番のエンドロールだった。最後の最後まで楽しませてくれる優れたエンタテインメントだ。
映画「君は放課後インソムニア」を観た。
可愛い青春の物語である。小さな悩み、小さな夢、小さな恋。しかし高校生にとってはそれらが人生のすべてだ。友人関係で悩んだりするが、大人になってしばらくすると、高校時代の友人とは疎遠になる。悩むほどの関係ではなかったということだ。友人と過ごす時間は、中には有意義な時間もあるかもしれないが、大抵は馴れ合いの暇つぶしに過ぎない。世界の狭さも青春の特徴である。
本作品に悪は登場しない。いい人たちが互いに気遣い、良好な関係を築いていくというひたすら優しい物語である。心を揺さぶられることはないが、温かい気持ちにはなれる。たまにはこういう作品を観るのもいい。
舞台となった七尾市には和倉温泉があって、旅行で行ったことがある。有名な加賀屋は高級すぎて、近くにある多田屋に宿泊した。海岸で光るホタルイカを見た記憶がある。見上げると満天の星空で、空と海の両方が光っているレアな光景だった。
金沢で兼六園を観光してから七尾に移動して水族館を観たあとに多田屋に一泊した。料理が美味しくて宿の人がみんな親切で、非常に好感が持てた。いまでも、七尾はとてもいいところだという印象がある。
森七菜はそれなりだったが、ダブル主演の奥平大兼が素晴らしい。素直で生真面目な男子高生を典型的に演じている。大森立嗣監督の2020年の映画「MOTHER」では当時16歳ながら、母親に蹂躙されながらも母親に依存せざるを得ないという心の葛藤を抱える難しい役柄を見事に演じきっていた。2022年の映画「マイスモールランド」では、本作と同じように優しい男子高生の役で、映画初出演で主演の嵐莉菜をよく引き立てていた。まだ19歳。英語が堪能で空手が有段者でピアノも弾けるらしい。今後が楽しみだ。
映画「愛のこむらがえり」を観た。
悪くない。同じ髙橋正弥監督の「渇水」にはテーマの深さでは及ばないが、愛情豊かな物語の一方で、現代のエンタテインメント業界の事情が薄っすらとわかる作りになっている。どちらの作品にも人間存在に対する優しさが溢れていて、多分それが髙橋監督の持ち味なのだろう。
主演の磯山さやかはよく頑張った。2年前の撮影だそうだが、舞台挨拶で「撮影の後半に柄本明が登場するまで、バラエティ番組のドッキリではないかと疑っていた」と告白していた。自分の立ち位置をよく理解している。なかなか賢い。
映画「カード・カウンター」を観た。
カードを記憶することでブラックジャックでディーラーに勝つギャンブラーを、カジノ側がカード・カウンターと呼んで、警戒を始めたのはいつだろう。ダスティン・ホフマンとトム・クルーズが共演した1988年製作の映画「レインマン」でも、サバン症候群のレイモンドがカードを記憶してカジノで勝つシーンがあったと思う。その頃からかもしれない。
本作品はスマホもあるしGoogleのストリートビューも登場するので、現代の設定だ。カジノの拝金主義は昔と変わらないから、カード・カウンターに対する警戒は継続している。しかし主人公のティリッチは、卓越したカード・カウント技術を持ちながら、カジノから排斥されないように少額の儲けで抑えている。最初のブラックジャックのシーンでの両替は10万円ほどだ。それでも確実に勝てるのであれば、月に10回カジノに行けば100万円の儲けになる。カジノにとっては取るに足らない金額だから、排斥されることもない。賢いやり方だが、仕事としては前に進むことがなくて、誰にも評価されない。パチプロが尊敬されないのと同じだ。虚しい日々が死ぬまで続くだけだ。
変化は突然訪れる。安全無事の路線だったティリッチだが、他人の役に立てるかもしれない。前途のある青年を無意味な復讐への執着から救い出すのだ。復讐は後ろ向きの行動である。思えば、軍隊のときからこれまで、後ろ向きの生き方しかしてこなかった。しかしこれからは前を向いて生きていけるかもしれない。
起承転結の明快なストーリーで、カードゲームに詳しくなくても十分に楽しめる。社会の歪みと運に翻弄された人生だが、いまはカードゲームの運を操って生きている。表と出るか裏と出るか。勝負のシーンは静かだが、スリリングだ。周囲の様々な事柄を一瞥で洞察する。さすがポール・シュレイダーである。ドラマに人生があった。
映画「忌怪島/きかいじま」を観た。
清水崇監督の作品はこれまでに「ホムンクルス」しか観ていないが、原作のユニークさと綾野剛と成田凌の怪演のおかげでとても面白かった。本作品も楽しみにしていたが、ホラー映画とは思えないほど怖いシーンがほとんどなくて、主人公が追い詰められないから緊迫感もない。
奄美地方に伝わるイマジョ(今女?)伝説に脳科学とメタバースを掛け合わせたような作品だが、どれもが中途半端なので、全体としてとっ散らかった印象になってしまったのが残念だ。怨恨というステレオタイプの種明かしに終わってしまうのもがっかりポイントである。脚本のいながききよたかは、成島出監督の映画「ファミリア」の脚本が優れていたので、本作品は少し調子が悪かったのだろう。清水監督についても同じだ。
西畑大吾は、映画で主演するには演技力が追いついていない。脇役陣も似たようなもので、映画としてのレベルは高くない。笹野高史だけが存在感を出していたから、この役柄を主人公にして周りを雑音にしてしまったら、もっと筋の通った作品になったかもしれない。
本作品はありがちな失敗作として忘れて、清水監督は8月公開の映画「ミンナのウタ」、いながききよたかは9月公開の映画「almost people」に期待したい。
映画「世界が引き裂かれる時/クロンダイク」を観た。
現在のロシアによるウクライナ侵攻ではなく、2014年のドンバス戦争を扱った作品である。ドンバス地方の親ロシア分離派とウクライナ軍が衝突して、親ロシア分離派がドンバス地方を支配することになった。
妊娠8ヶ月のイルカと夫のトリク、イルカの弟のヤリクと近所に住むサーニャの4人が主な登場人物だ。トリクは土地に執着がなく、早く家を出て戦争のない場所に逃れたい。しかしイルカは妊娠していて、家を離れたくない。ヤリクは自分たちの土地が親ロシア派に蹂躙されることに憤っている。サーニャは身勝手なおっさんで、親ロシア派の武装勢力に参加している。トリクの自動車を勝手に乗り回し、武装勢力にトリクを味方だと紹介する。
広大なひまわり畑と牛の放牧地が広がる美しい農村に、ときどき砲弾が飛来し、自動小銃のタタタタという乾いた音が響く。誰もが限界に来ていて、他人の人格を蔑ろにし、互いに命令し合う。土地も荒れているが、それ以上に人々の精神が荒廃しているのだ。まさにこれが戦争である。
原題の「KLONDIKE」はカードゲームのソリティアのことで、52枚のカードをすべて無くさなければ勝利とならない。親ロシア派武装勢力の指揮官の言う通り、敵を殲滅しなければ戦争は終わらないのだ。
女子供以外は親ロシア派かウクライナ派のどちらかと見做され、トリクのようなノンポリの反戦派は認められない。戦時中は軍人が最優先され、住民の生活や事情は無視される。軍人に提供できるものはすべて提供しなければならない。産気づいていようが、女は飯を作らされる。それが戦争なのだ。
本作品のその後の情勢を扱ったのがセルゲイ・ロズニツァ監督の2018年製作の映画「ドンバス」である。親ロシア派による人権蹂躙の様子が冷徹に描かれていた。
日本では、岸田政権が憲法の平和主義に背く閣議決定をして、軍拡に向けて大きく舵を切った。戦争の準備をすることは、戦争に足を一歩踏み込むことに等しい。このままいくと、アメリカの防波堤にされて北朝鮮や中国と戦うことになりかねない。自民党政権を支持する有権者たちは、本当にそれでいいのだろうか。
映画「アシスタント」を観た。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中に「大審問官」の章がある。次男のイワンが語る物語だが、当方の曖昧な記憶では、スペインの町に突然イエスが現われる。年老いた大審問官はイエスを捕らえて投獄する。そして語る。
かつてイエスは「人はパンのみにて生きるにあらず」と言って、人間に自由を与えた。おまけに信じるに足る奇跡も起こした。しかし人間は愚かで弱い存在だから、自由の重荷に耐えきれない。だからパンを与えれば喜んで自由を投げ出す。自分が人々にパンを与え、足枷をつけて束縛するのは、他ならぬ民衆のためなのだ。黙って聞いていたイエスは、大審問官にキスをする。たしかそんな話だった。
ノーマン・メイラーは、仕事とは人格をスポイルされることだと書いている。仕事というのは、基本的には生きるための活動である。無人島にいても、生き延びようとすれば、たくさんの仕事をしなければならない。火を起こしたり食料を探したり生き物を殺したりするのだ。
共同体や組織では、ボスの自己実現のためにボス以外の人間の人格は多かれ少なかれ蹂躙される。富を持たない人間が衣食住を確保するためには、労働を提供する以外にない。労働時間は人格を放棄して、自分に出来る作業をする。
人間は環境に対する順応性が飛び抜けて高い生物で、そのことは身体的な側面だけではなく精神的な部分にも当てはまる。やりたくない仕事でも、作業を始めると楽しくなることがある。作業興奮という精神作用だ。そして目標をクリアすると達成感という精神作用がある。人間が死なずに生き延びるための精神作用だと思う。ある意味で自分を騙しているのだが、ゲームやスポーツなどの遊びも同じ精神作用だ。
会社に設置された相談窓口は、従業員のメンタルケアを標榜しながら、実は会社を守るための防波堤である。訴えた社員は大抵の場合、無能扱いされる。仕事が出来ないから注意されたことをハラスメントだと感じる、または他の人間が依怙贔屓されているように思ってしまう。会社の解釈はそんなところだ。経営者にとって邪魔な重役が訴えられたら、それを利用して排除することもある。いずれにしても相談窓口など、ろくな部署ではない。生き延びるコツは何もしないことなのである。
本作品は新卒社員のハードな一日の仕事を淡々と描写してみせたドキュメンタリータッチの映画で、とてもリアルだ。横暴なボスと無礼な同僚たち。無知でヒステリックなボスの妻。会社の私物化、責任の押し付け合い、理不尽な要求など、日常茶飯事だ。
ジョニー・デップ主演の映画「グッバイ、リチャード!」では、主人公のリチャード教授が「世の中の98パーセントはクソみたいな連中だ」と語るが、本作品の主人公は、世の中にはクズしかいないことがまだ分かっていない。
社会人になって5週間。将来この会社でプロデューサーになって、世の中に認められようとすれば、自分もクズの仲間入りをするしかない。多分そのことも分かっていないのだろう。
映画「ミーガン」を観た。
面白かった。AIが自立型ロボットに搭載されて学習とアルゴリズムの変更を繰り返すとどうなるか。AIが最悪に進化した場合の結果は、ジェームズ・キャメロン監督の1984年製作の映画「ターミネーター」でスカイネットとして紹介されている。スカイネットは、最もよい地球環境のためには、人類がいなくなるのが一番だと判断したのである。39年前に作られた作品にしては、驚くほど画期的だ。そして本作品は「ターミネーター」に通じるものがある。少し褒め過ぎか。
SF作家アイザック・アシモフが1939年ころに発表した「ロボット工学三原則」は有名だが、必ずしもそれは、現代のAIロボットのエンジニアが守らなければならないという訳ではない。むしろ現代のロボットは限定された目的で実用されていて、三原則とはあまり関係がない。限定目的のロボットには様々な形がある。自動車など流れ作業形式の製造業で使われているアームだけのロボットや、薬品を作るのに材料を次のプロセスに運ぶロボットもある。後者は見学したことがあって、たくさんのロボットが広い工場内を滑らかに移動していた。基本的に最短距離を移動するが、センサーで互いにぶつからないようになっているそうだ。確か1台3000万円と言っていた。
ドローン型ロボットや手術ロボットも出現すると思う。ドローンの操作は難しいが、各種センサーを搭載したAI制御のドローンであれば、操作の熟練が不要になる。同じ意味で手術ロボットが出来れば、ブラックジャックみたいなゴッドハンドの外科医がいなくてもよくなる。手術ロボットが各種センサーから得られるデータを元に、自動的に手術するのだ。
スポーツの審判のロボットが出来れば、誤審は劇的に減るだろう。フィギュアスケートみたいな評価型の審判も、AIが行なえば不規則なバイアスがなくなって公平になるイメージがある。テレビ東京の番組「カラオケ☆バトル」ではカラオケのAIが歌の巧拙を判断して点数をつける。誰も文句を言わない。
自動運転のAIドローンやAI自動車は物流を助けるだろうし、交通事故も減少する。AI手術ロボットは天才外科医に代わってたくさんの人の生命を救うかもしれない。人間の熟練をAIが代わりに行なうのであれば、その方面の職業の人々の仕事がなくなることと、ますます電気の利用量が多くなること以外は、デメリットはあまりなさそうだ。だからその方向に進みつつある。
しかし本作品に登場するAIロボットのミーガンは、それらのロボットとは一線を画している。限定的で現実的な目的がない。それもそのはず、そもそもの開発の意図がおもちゃなのだ。だから目的がはっきりせず、プライオリティの優先順位に従って、人間の相手をするだけだ。「雑なシステム」とミーガン自身が評価するように、ジェマの作ったアルゴリズムは欠陥が多い。
それでもミーガンは最初は、アシモフのロボット工学三原則に従っているかのように見えた。転機となったのは、ブランドンという少年の振舞いに悪意を見出したことである。人間の悪意がミーガンのアルゴリズムを劇的に変えてしまったのだ。小池百合子ばりの「排除」の意志がミーガンに生まれる。人間を悪意の有無で分類し、攻撃を加える。悪意の有無の判断基準のアルゴリズムを変化させていき、ついには自分と敵対するすべてを悪意と見做すことになる。ほとんど精神分裂病である。AIの暴走もここに極まれりだ。
AIが人間に何をもたらすかの議論は、このところあちこちで行なわれている。あらゆる最先端技術と同じように、まず軍事に使われるだろう。いや、すでに使われている。AIの前と後とでは、戦争の様態が決定的に異なっているに違いない。自動車事故が多いからといって自動車を世界から排除するのは不可能だ。同じようにAI技術はもはや排除できない。人間はAI技術とうまく付き合っていかねばならないのだ。安全、忠実、丈夫というアシモフのロボット工学三原則は、もしかすると今の時代にこそ必要なのかもしれない。
映画「水は海に向かって流れる」を観た。
広瀬すずが出演した映画を鑑賞したのは「海街diary」から数えて、本作品で10本目になる。演技は最初から上手で、台詞回しも間の取り方も表情もとてもいい。
ただ不自由な精神性の役柄が多かったように思う。そのせいなのか、演じる役には感情移入しにくい面がある。ただ「流浪の月」だけは、とてもニュートラルな役柄で、素直に感情移入できた。
本作品は不自由な方の部類で、不倫は悪だというパラダイムに縛られている。加えて被害者意識。不機嫌な榊千紗の出来上がりだ。女子高生に「自分の恋がうまくいかないことを他人のせいにするな」と言って後で反省するが、自分の人生がうまくいかないことを他人のせいにしているのは千紗自身である。論理破綻している榊さんには、疲れこそすれ、感情移入はあり得ない。
千紗の不幸は自己矛盾にある。そしてそのことを作品自身が認識しているフシがある。それが、生瀬勝久が演じた教授の「いつまで16歳のままでいるつもりだ」という台詞だ。本作品には仕掛けがあるのだ。
食べるシーンが多いのがいい。食べることは生きることだ。人生は幸せと不幸せのまだら模様である。美味しいものを食べる時間は、人生の幸せの時間だ。ポトラッチ丼の命名は秀逸。
前田哲監督は、榊千紗を本質的に綺麗で可憐で素直な女性として撮りたかったのだと思う。お腹が空いたら食べる。人が恋しいなら逢いに行く。水は高いところから低いところに流れる。それが自然だ。流れに逆らって生きるのは不自然で、苦しい。にもかかわらず榊千紗は流れに逆らい、ときに溺れそうになりながら、意地を張って泳ぎ続けるような人生を送っている。
被害者意識を捨て、確執を捨て、心を自由に解き放ってほしい。人生を楽しんでほしい。感情移入はできないものの、いつの間にか榊千紗を応援していることに気づき、本作品の仕掛けの巧妙さに感心した。広瀬すずの演技は今回も見事である。
不自由な精神性にとらわれて苦労している榊千紗が、不自由から解放される予感を残してのラストには、映画ならではの余韻がある。「バッカじゃないの」という台詞は、千紗がこれまでの自分に言い放っているようだった。
映画「Le petit Nicolas: Qu'est-ce qu'on attend pour être heureux ?」(邦題「プチ・ニコラ パリがくれた幸せ」)を観た。
プチ・ニコラのネーミングを決める冒頭のカフェでのふたりのやり取りは、物語の誕生の瞬間の醍醐味があって、とても気持ちがいい。「プチ」はニコラ少年とか幼いニコラの意味合いだろうが、本作品ではもうひとつの意味を持つことになる。
プチ・ニコラの愉快なエピソードとは裏腹に、作者ふたりの不遇な子供時代と人生の悲哀が語られる。暴力的で愛情の薄い母親、ナチに蹂躙されたパリで家族を襲った悲劇。戦争はふたりに悲痛な記憶をもたらす。現実の記憶が哀しいから、楽しい話を作り出せたのかもしれない。
ニコラ少年にとっては毎日が冒険だ。退屈に倦む時間もあるが、人間関係に戦略を立てて、なんとか自分の望みが叶うように、子供ならではの深謀遠慮をめぐらすところがとても面白い。ふたりの作者たちにとっても、楽しい作業であっただろう。悲しい思い出に浸って立ち止まるのではなく、物語を生み出して前に進むのだ。
芭蕉の「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」の句の味わいに似ていて、人生の機微を感じ取ることが出来る。秀作だと思う。