三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「また、あなたとブッククラブで」

2020年12月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「また、あなたとブッククラブで」を観た。
 ご存じの方は少ないと思うが、ジェーン・フォンダが主演した「バーバレラ」という映画がある。未来の宇宙を舞台のセクシーコメディというハリウッドのB級映画で、ヘンリー・フォンダの娘がこんな映画にでていたのかと驚くと思う。当時のスタイルのよさは特筆モノで、本作品でも衰えていない美しいプロポーションを披露している。流石である。
 人間にとって性生活は死ぬまで悩ましいものである。その悩みは男女でかなり異なっている。男の悩みはまずポテンツと金だ。あとは病気の心配。女性の場合はかなりナイーブで、多少なりとも恋愛感情がなければ欲望に結びつかない。一方で女性はいざとなるとバルトリン氏腺を分泌して性器が傷つかないように守るように出来ている。売春婦という商売が成り立つのはそのためだ。
 松坂桃李が主演した「娼年」という映画は女性に買われる男娼が主人公だった。主人公を買う女性客は、ただ淫乱な人やご無沙汰で女を取り戻したい人などだったが、いずれも十人並み以上の容貌で、主人公が勃起不全に陥ることはなかった。しかし場合によってはまるで勃たないことがある。たとえ相手が絶世の美女でも勃たないことがあるのだ。だから昔から男娼というのは相手が男の場合しか成立しなかった。しかし今ではバイアグラなどがあるから、女性相手の男娼も可能かもしれない。
 本作品はアメリカ映画らしく性生活にオープンな裕福な高齢女性たちの喜怒哀楽を面白おかしく描いている。アメリカの病巣である差別や格差はとりあえず横に置いておく。大岡越前守が母親に女の性欲はいつまでかと聞くと黙って灰をかき回していたのを見て、肺になるまでなのだと納得したという逸話がある。本作品を見る限り、その話は本当だったという訳だ。
 裕福だ、時間も余裕がある、多分身体の機能はまだ大丈夫だ、濡れるときは濡れる、勃起する男がいればなんとかなる、兎に角、自分はまだ女なのだ。自分たちの性欲を思い切り肯定し、遅ればせながらの青春を楽しもうとするのは非常に健康的で、なんとも逞しい限りである。たくさん笑わせてもらった。
 老女が活躍する映画となると、ダイアン・キートンが常連のように出演する。「チア・アップ」や「ロンドン、人生はじめます」はとても面白かった。この人は眼鏡をかけた顔がキュートに見えるし、体型もそれほど崩れていないからいつでも主役を張れる。本人の努力もかなりあると思う。本作品でも宅配のピザを食べてブクブク太っている娘たちよりもよほど若々しく見えた。ジェーン・フォンダともども、当分は矍鑠(かくしゃく)としていてほしいものだ。

映画「AWAKE」

2020年12月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「AWAKE」を観た。
 1997年にAIがチェスの世界チャンピオンに勝った。その当時は、将棋は奪った駒を使えてチェスより複雑だから、当分はAIが将棋で人間に勝つことはないだろうと言われていた。しかしそこから20年後の2017年にはAIのPonanzaが現役の名人に2番勝負で、先手でも後手でも勝った。この時点で決着が着いたと誰もが思った。つまり将棋では人間よりAIのほうが強いのだ。以後は将棋の解説にAIが登場して、藤井聡太八段の指した奇手が、実はAI評価の最も高い手と一致したなどと言っていることが多い。
 あまり触れたくない話だが、将棋とAIのことを論ずるには、2016年の三浦弘行九段の事件を書かないのは片手落ちとなる。ざっくりと説明すると、ある対局の日に体調を崩していた三浦九段が度々席を外すのを、スマートフォンで将棋ソフトを見ているのではないかという嫌疑がかかり、出場停止の処分がくだされたというものである。その後は三浦九段の嫌疑が晴れて関係者が謝罪したらしい。この事件の肝は、2016年の段階で既にAIのほうが棋士より強いと将棋界全体が考えていたということである。でなければカンニングを疑われることはない。
 さて本作品は青春群像の映画だが、AI将棋と人間の棋士との相克もあって、あまり爽やかな物語とはならなかった。そもそも大したストーリーはないし、人物像の掘り下げも人間関係の悩みもない。勝負だから弁慶の泣き所を攻撃するのは当然で、そこをやられたら諦めるしかないのも当然である。観ているうちに、本作品の人間模様よりもAIと人間社会の未来のほうが気になった。
 今後は、暗算大会に電卓が参戦しないのと同じように、棋士はAIに勝てないということを認めた上で、人間同士の遊びとしての将棋をひとつの文化として継続していくことになる。偶然の要素が高い麻雀でさえもAIが人間を凌駕しつつあるが、麻雀にAIを参加させる必要はない。野球の試合で時速230キロのピッチングマシンを投手にしないのと同じことである。
 AIの定義は難しいが、AI自身がアルゴリズムを作って進化させていくようなプログラムを持てば、将棋でも麻雀でも、放っておけばどこまでも強くなる。同じことは他の分野でも言える訳で、既に将棋だけでなくビジネスの分野にもAIは進出している。経理や労務など、手順が決まっていて、毎年改正される法律に従って変更が必要になる業務では、人間よりもAIのほうが向いている。
 通信がいま以上に発達すれば役所もAI、企業もAIで、互いに通信しあって、すべての手続は電子的に自動的に行われるようになるだろう。年末調整も給与支払報告書の提出も確定申告も決算申告も一瞬で終わる。会社の経理や労務担当者は職を失うだろう。同時に税理士や公認会計士、社会保険労務士の仕事もなくなる。役人の数も大幅にカットされる。
 何しろアルゴリズムを自分で作っていくわけだから、どんな分野にでも進出できる。金融や証券の分野では自動的に利益を生み出すようになるが、一方で自動的に損失も生み出すから、アンバランスが生じないように金融の安定を図るアルゴリズムを作るだろう。金融は自動的に安定し、株価の暴落や高騰は生じない。もはや兜町もウォール街も用なしだ。
 便利だからといってAIの活用範囲を見境なく広げていくと、間違いなく軍事の分野に至る。AI搭載の無人飛行機、無人戦車などが生まれ、的確に敵を殲滅する。敵も同じようにAI搭載の兵器を使えば、もう戦争はゲームのように兵器同士の壊し合いになる。しかもそこに人間は介在せず、AIが判断して命令する戦争になる。司令本部はAIだからである。
 万が一、政治の分野にAIが進出すれば、政策はAIが決める。そして一番不合理な存在が排除されることになる。つまり人間である。ジェームズ・キャメロン監督の映画「ターミネーター」が公開されたのは1984年。AIが発達しすぎると人間が否定されるという世界観を2020年の今から36年も前に発表したことの意義は大きい。
 道具としてのコンピュータ、手続きでのAI利用といった程度にとどめておくのが賢い判断だろうが、軍需産業関係者の残虐な欲望がAIの軍事利用をやっていないはずもなく、恐ろしい予感におののくばかりだ。

映画「夢みるように眠りたい」

2020年12月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「夢みるように眠りたい」を観た。
 人の記憶は不思議なもので、3日前に食べた夕食はとっくに忘れているのに、何十年も前の記憶が鮮明に残っていることがある。特に中学生、高校生の時代の記憶は格別だ。突然泣き出したクラスメートの横顔、卒業式で別れた友人の顔、駅のホームで見送ってくれた異性の表情など、今でもはっきりと憶えている。悲しかった筈のそれらの記憶は、今では宝物のように心の奥にしまっていて、誰にも話すことはない。
 本作品は、往年の女優月島桜が50年前の映画撮影時の、撮影されなかった最後のシーンをいつまでも心残りに思い続けているという映画である。演じたヒロインの名前は桔梗。助けてくれる筈のヒーロー役の役者とそっくりな私立探偵を街で見かけたときは、さぞ驚いたことだろう。命の残り少ない月島桜は、一計を案じてその私立探偵魚塚甚が50年前の映画のように自分を助けに来てくれるラストシーンを演じようとする。もう死んでいくのだ。お金は惜しまない。
 探偵は月島桜が描いた青写真の通りに動かされていく。調査の途中で自分が誰かのシナリオに乗せられていることに気がつくが、毒を食らわば皿まで、最後まで付き合う決意をして調査を続行する。佐野史郎はこの作品がデビュー作とのことだが、変わり者の探偵の役がよく似合っている。黒い頭巾の着物姿のヒーローが佐野史郎だと気づいたのは物語の終盤だ。
 林海象は、この世で考えられる最高に幸福な死を、ひとつの現実として描いてみせた。効果音とBGMを除いてサイレントとしたのは、そのほうが現実感が増すからである。大泉滉のクォーターらしいエキゾチックでどこか怪しげな演技が光る。この人の嘘っぽさが逆に作品にリアリティを与えているのが不思議なところだ。
 月島桜のか細い命をぎりぎり繋いでくれている薬。飲まなければ命が失われるのを承知で、ラストシーンの迫った夜に薬を飲まない決意をする。最後の最期に漸く現れたヒーロー。無念だった50年前の記憶は、いま鮮明に桜の、いや桔梗の目の前に蘇る。助けに来てくれたヒーローこと魚塚甚がじっと見つめてくれる幸せ。桜は最上の幸福に浸りながら目を閉じる。続くラストシーンは過去と現在が混合して、探偵は誘拐された桔梗を見事に救い出す。まさに夢みるような幻想的な作品だった。秀作。

映画「映画 えんとつ町のプペル」

2020年12月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「映画 えんとつ町のプペル」を観た。
 戦時中の日本に似ていると思った。えんとつ町では、町を支配する中央銀行が、空を煙で覆って外の情報を隠し、体制に異を唱える者は異端審問官が排除する。
 戦時中の日本では、大東亜共栄圏などという絵空事を無邪気に信じる国民と、日々刻々と悪化する戦況を押し隠し、御用マスコミを従えて嘘の情報を流し続ける軍部、それに反体制的な人間を捕えて拷問にかける特別高等警察(特高)がいた。
 えんとつ町の宗教はどうやらキリスト教らしく、ハロウィンの夕方が物語のスタートとなる。どこかしらに神父なり牧師なりが登場したら、よりそれらしくなったと思う。天才西野にしては凡ミスだ。ダンスのシーンが一度きりなのも少しさみしい気がする。
 とはいえ、全体を通じての世界観は大したものである。冒頭から異端審問官の出現までのシーンは文字通りジェットコースターのようにワクワクしながら進む。アニメーターの方々の気が遠くなるほどの努力には脱帽だ。
 ゴミからできたゴミ人間という発想は、恐ろしく秀逸である。天才西野でなければ生み出せなかったキャラクターだと思う。頭の中まで整理整頓を求められる世の中に対して、これほど典型的なアンチテーゼの存在はない。ゴミが臭いという事実も臆せずに前面に出す。存在そのものが異端であるゴミ人間と、同じく異端であったブルーノの息子ルビッチとのやり取りは最高に面白い。
 そして最も愉快だったのは炭鉱泥棒のスコップのマシンガントークである。声を担当したオリラジの藤森慎吾はまさにこれ以上ない適役だった。単なるおしゃべりというだけではなく、物語の展開に大変重要な役どころとなっている。特に「煙のでない爆薬」は彼がいちばん重宝している道具であると同時に、物語のキーアイテムでもある。ここにも天才西野の発想が光る。
 藤森慎吾以外の声優陣もみんな役にぴったりで、芦田愛菜のルビッチが感情の起伏の激しいのに対して、常に落ち着いた窪田正孝のプペルという対比がこれまた傑作で、動と静、子供と大人みたいな感じがそのままラストに繋がっていくという仕掛けも楽しい。伊藤沙莉のアントニオの子供時代の伏線もきっちり回収される。終わってみるとすべてのシーンに無駄がなく、大団円に繋がっていったことが判る。とてもよく出来た作品である。
 エンドロールを観ながら考えた。えんとつ町のようにひとつのパラダイムで支配しようとする一元論の世界は、どうしても異論を押さえつける必要が生じるから、弾圧組織である異端審問官や特高警察などが必要になる。彼らは任務遂行に熱心になるあまり、異端でない者までも異端として拷問し、殺害するようになる。ヒトラーだけが正しいというナチスも大東亜共栄圏を唱えた戦時中の日本の軍部も一元論の典型だ。
 2020年の現在、現実の世界でもアメリカ・ファーストを称える一元論の大統領が出現したり、戦前の日本をトリモロスという一元論の首相が現れたりしている。どうにもキナ臭い時代になってしまった。アメリカはトランプを捨てて民主党の大統領を選んだが、日本は相変わらず裏金もらい放題、選挙違反し放題、収賄し放題の自民党が政権を担い続けている。有村架純がホーダイ、ホーダイと歌うCMは自民党に捧げる歌に違いない。悪役を宮根誠司が担当したのも何かの皮肉だろうか。
 えんとつ町は現在の日本そのものだ。革命家ルビッチが日本に現れなければ、このままコロナ禍と政治の無策で日本は崩壊してしまうだろう。

映画「ジョゼと虎と魚たち」

2020年12月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ジョゼと虎と魚たち」を観た。
 フランソワーズ・サガンの小説は、有名な「悲しみよこんにちは」「ブラームスはお好き」それに「熱い恋」を高校生のときに翻訳で読んだきりだ。濫読、多読、卒読の時期だったこともあって、内容は憶えていないし、心に残る言葉もない。本には相性というものがあり、自分に合う著者と合わない著者がいる。同じく高校生の頃に読んだ本では、ニーチェやショーペンハウエル、サルトルなどの本の言葉は記憶に残っているのに、サガンについてはまったくの白紙である。本作品では清原果耶がとても上手に声優を務めたジョゼが、自分の部屋でブツブツと、おそらくサガンの小説の言葉を呟くシーンがあるが、ちっとも響いてこない。サガンを憶えておけばよかったと思った。
 原作の田辺聖子は古くはSF作家の筒井康隆と交友があったようで、筒井の本に「おせいさん」と呼ばれて仲間から親しまれていたと書かれていたと思う。本作品の原作を書いたのは1984年、おせいさんが56歳のときだ。社会的にセンシティブな問題を人間の生活に直接的に結びつく問題として正面から扱っている。作家はときとして蛮勇を発揮して批判を恐れずに小説を書かなければならないことがある。おせいさんは勇気のある作家であった。同時におちゃめな人でもあって、主人公の名前を連合赤軍のテロリストと同じにしたのはおせいさんの悪ふざけかもしれない。
 本作品は優れたラブストーリーだ。真っ直ぐな青年恒夫と自由を求める不具の女性ジョゼを中心とした半年程度の人間模様を描く。恋愛には邂逅が必要だ。本作品では出逢いの場面、求める自由の舞台が海であること、そして再度の出逢いの場面と、3つの邂逅が描かれる。ご都合主義だと言われるかもしれないが、大恋愛には奇跡が必要なのだ。
 原作を軸として大きく想像を広げて上手に脚本を書いていると思う。担当した桑村さや香さんは、いじめを扱った問題作の映画「滑走路」でも脚本を書いていて、言葉の選び方がとても上手だ。ここではこの言葉だろうと思う台詞をど真ん中できっちり書く。変に飾らないところがいい。人が死んだら「死んだ」「亡くなった」と書けばいいのであって「魂が天に召された」などと書くものではない。その点、桑村さや香さんはよく分かっている。
 本作品も直球の言葉ばかりで無駄がない。観客はどこまでも想像力を広げられる。だから観客それぞれの想像と実際の映像が重なって、多くの人が感動する。そして人生に前向きになれると思う。人それぞれの感動をひとつの作品で湧かせるのだ。言葉の多義性を存分に生かした見事な作品である。

映画「約束のネバーランド」

2020年12月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「約束のネバーランド」を観た。
 浜辺美波は映画「君の膵臓をたべたい」が初見だった。当時17歳。若いのに演技が達者で、不思議な存在感のある女優さんだと思った。映画「渇き。」で小松菜奈を初めて見たときに似た印象だ。昨年(2019年)の夏に映画「アルキメデスの大戦」で見て、前回見たときよりも段違いに演技力が向上しているのに驚いた。そして今回は更にパワーアップした演技を見せている。加えて、その軽やかな身のこなしにも感心した。相当な身体能力である。もしかしたら今後、アクション映画にもオファーが来るかもしれない。
 北川景子は前回の出演作である映画「ドクター・デスの遺産 BLACK FILE」のレビューでは「演技もレシピ通りの気がする」と書いたが、本作では一皮剥けて、美しさの中に怖ろしさを秘めた寮母イザベラを迫力たっぷりに演じていた。特筆すべきはその声である。声の美しさは日本の女優の中では群を抜いていると思う。こんなに美しくて声量のある声を出せるとは思っていなかった。もはやレシピ通りどころではない。大変失礼した。一児の母になったことで従来よりパワフルになった気がする。来年は「ファーストラヴ」や「キネマの神様」の2本が早くも公開されるように、映画では引っ張りだこだ。もし自分が映画の監督やプロデューサーだとしても、やはりこの女優さんを使いたいと思うに違いない。
 テンポのいい作品である。浜辺美波と北川景子を除けば学芸会レベルの演技も散見されたが、誰が嘘を吐いて誰が本当のことを言っているのかという緊張感で場を持たせ、渡辺直美のクローネが登場するあたりから俄然面白くなってくる。頭脳明晰なノーマンと戦略家のイザベラの知恵比べが後半の見どころとなる。
 世界観はジブリ作品に似ていて、非現実的な設定をしてその設定のまま物語が進んでいく。施設のインフラや食料供給とゴミの排出などがどうなっているのかが少し気になったが、そのあたりを明らかにするシーンはなかった。もう少し施設の運営状況を説明するシーンがあったらリアリティが増したと思う。
 現実世界の問題を浮き彫りにしたりする作品ではなく、鑑賞したあとに引きずるものは何もないが、楽しく鑑賞できる作品ではあると思う。「ママ」が役職のように扱われているのと、「ママ」が少しも歳を取らないところがいい。北川景子の「さようなら」や「チェックメイト」という美しい声だけがいつまでも耳に残る。

坐骨神経痛~15年目

2020年12月25日 | 健康・病気

 このブログを開始した2006年の6月には既に坐骨神経痛が酷くて会社を休んでいた。発症は2005年。もう15年の付き合いになる。痛みがずっと続くとそれが日常的なものになり、痛いのが普通だという感じで徐々に慣れてくる。しかし長時間歩いたりすると痛みが耐えきれないほどになるので、なるべく避けるようにはしている。発症した当初は、たくさんの病院や整体やカイロプラクティックや整骨院などに通ってみたが、一向に痛みは治まらない。

 逆に痛みが増して休職に追い込まれたこともある。赤坂の前田病院で前田泉医師に進められた神経根ブロック注射だ。手術台のようなものに載せられて、遠隔で大きな針を腰椎に直接打つ。これが想像を絶する痛みで、思わず叫びそうになった。すぐに麻酔液が注入されて痛みはたちまち治まった。しかし今度は動けない。ストレッチャーで病室に運ばれて、1時間位休んでくださいと言われたのでそのままじっとしていた。麻酔が切れるにつれて、痛みが増してくる。1時間経ったらおばちゃんが来て、ストレッチャーの高さを下げる。そして無情にも、降りて帰ってくださいと言い放つ。降りてみると注射を打つ前よりずっと坐骨神経が痛む。まともに歩けないので、壁伝いに受付に行って精算した。このままだと帰れないと思いながら外に出る。途方にくれながらタクシーが通りかかるのを待って手を振るが、病院の入口まできてくれる運転手はいない。漸く気づいてくれた親切な運転手がいて、病院の入口から車まで肩を貸してくれた。「すみません、ちょっと歩けなくて」と言うと「大変ですね」と同情してくれる。降りるときもマンションのエレベータまで肩を貸してくれた。これまで乗ったタクシーの中で最も親切な運転手だった。この注射で歩けなくなり、1ヶ月ほど自宅で寝たきりになった。復帰したものの、痛みが激しくて休職することになってしまった。神経根ブロック注射は一般的に行われている療法なので、多分相性が悪かったのだと思う。

 半年休職してデスクワークに戻った。座っている内は痛みがないので、仕事はこなせる。立ったり歩いたりすると痛いが、長時間でなければ我慢できる。寝ているときには痛みがないので、日常生活は問題なく過ごしていた。しかしそれから14年。この秋になると、座っても寝ていても痛みが続くようになってしまった。整形外科や整骨院や整体や鍼灸にはもう懲りたので、ペインクリニックを受診してみることにした。腰に注射を打つというが、神経根ブロック注射ではなくて硬膜外注射とのこと。それなら大丈夫かと思い、打ってもらうことにした。危険もあるようで、病院を訴えたりしない誓約書を書く。

 打ってみると、麻酔が効いている間は痛みがないが、切れてくると痛みが増す。元の木阿弥だが、硬膜外注射は何度も打つもので、回数を経るうちに痛みが減少してくるとのこと。これまで処方された薬を説明すると、メチコバールは単なるビタミン剤だと言われた。神経痛に効く薬として、タリージェ5mgを処方される。朝夕に1錠ずつ。翌朝に1条飲むと、少しだけ痛みが治まる。会社の椅子に座っても痛みがない。これなら大丈夫そうである。はじめて痛みを抑えてくれた医者に逢った気がした。夕方になると痛みがますのでタリージェを飲む。寝るときも少し痛いが、眠れることは眠れる。

 1度目の受診の際に言われた通り、検査屋でMRIを撮る。1週間後にその検査結果を持って、2度目の受診。1度目と同じく硬膜外注射を打つ。術後は1度目より少し楽になる。タリージェ5mgを飲んでも胃が痛くなったり眠くなったりしないことを伝えると、タリージェ10mgにしましょうとのこと。翌朝に1条飲むと、タリージェ5mgよりも効きがいい気がする。しかし夕方になるとまた痛みだす。帰宅してタリージェを飲むと少し治まるので、痛みで眠れないということはなくなった。次は3度目の受診である。2度目の受診よりもさらに楽になることを願っている。


芝居「ある八重子物語」

2020年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 東京芸術劇場でこまつ座&劇団民芸の芝居「ある八重子物語」を観劇した。
 第一幕は第二次世界大戦も佳境の1941年。暮れには真珠湾攻撃が実行されて太平洋戦争が勃発する年である。戦争で物資の乏しい中での柳橋にある古橋病院を取り巻く人々の人となりの紹介である。次に何が起きるのか、人々はどのように反応するのかが第二幕の見どころとなる。篠田三郎が演じる古橋院長が水谷八重子と声が似ていると言う芸者、有森也実が演じる花代との淡い恋心の行方も気になるところだ。
 第二幕には別の芸者が登場して、弟のことを語る。語られた弟は、陸軍に徴用されたが、何日も徹夜で論文を書いていたために当日に寝過ごしてしまった。しかしこれも御仏の思し召し、ならば論文の続きを書き上げようとして一週間が過ぎた。この辺りで心配している姉のもとを訪ねてきたと、舞台に登場する。女形の歴史を4つに分けて書いてきたが、最後に女形と女優のぶつかり合いとその後を書きたい、そのためには水谷八重子に会って話を聞きたいと言う。古橋病院のみんながそれを実現するために努力する。
 第三幕は戦争が終わった1946年。焼けずに済んだ古橋病院に柳橋芸者の置屋が間借りしてくる。女将を演じるのは日色ともゑだが、加齢のためか、見事に台詞がつっかえて、観ているこちらがハラハラした。その後はなんだかんだと言いながら全員が舞台に登場する。取り敢えず全員無事で、戦地に行った弟も帰還したようだ。古橋院長と花代の恋は緩慢だが進展している様子である。バカボンのパパみたいにコレデイイノダという感じの終幕であった。とても面白かった。

映画「この世界に残されて」

2020年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「この世界に残されて」を観た。
 ときどき頓珍漢な邦題をつける配給会社だが、本作品の「この世界に残されて」という邦題は秀逸だと思う。まさに戦争のあとに残された者たちの悲哀を描いた作品である。第二次大戦後の1948年からスターリンが死んだ1953年までのハンガリーの首都ブダペストが舞台となっている。
 ホロコーストによって家族を失った16歳の少女クララと42歳の医師アルドが出逢い、寂しさのあまり同じ心の傷を持つアルドのところを訪れてきたクララに対し、父親代わりのような日々を送る。家族がいない境涯をなかなか受け入れられず、世の中に対して斜に構えているクララだが、アルド医師は決してそのことを否定したり説教したりしない。クララがみずから自立の道を歩み始めるのを待っているのだ。
 ナチスドイツが去って平穏な日々が訪れたと思ったら今度はソ連だ。一元論の価値観を押し付けて人格を蹂躙するのはナチスと同じである。自分を持たない人は共産党に入党し、スターリニズムという全体主義を錦の御旗にして、共産党員でない人々を睨めつける。自分が虎の威を借る狐であることに気づかない。何度か登場する居丈高な女教師がその典型だ。アルドもクララもそんな連中を相手にしない。
 しかしスターリンの弾圧はハンガリーにまで及んでくる。常に覚悟を決めているアルドは、いつ何時であっても即座に逃げ出す準備を怠らない。緊張感の続く日常に厭世的になってもおかしくない筈だが、クララもアルドも正気を保ち続ける。このアルド医師の落ち着いた精神性が物語を安定させている。クララは素晴らしい人に出逢ったのだ。
 そして3年が過ぎて、クララは21歳になった。もう落ち着いた大人である。ラストシーンの森の中を走るバスの中では、窓に溢れる光がクララの表情を美しく照らし出す。その光の温かさは、今を生きていこうとするクララの心を優しくあたためているようだ。もう過去を振り返ることはない。

映画「MORTAL」

2020年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「MORTAL」を観た。
 超常現象は、その存否に関する議論はさておき、ファンタジーやホラーには欠かせない要素である。それ以上に、日常的に欠かせない要素かもしれない。というのも、我々は得てして実現しないことを考えがちであり、妄想と言っていいその想像は、超常現象に近いものがある。
 約束の時間に間に合わなくなると、瞬間移動できたらとか空を飛べたらとか思うし、お金に困ると、競馬の予想が100%的中したらとか、財布の中にどれだけ使っても常に百万円はいっていたらとか考える。漫才のネタになりそうな話だが、こういった妄想も超常現象のひとつである。
 そう考えると、超常現象は我々の日常を愉快にしてくれているひとつの要素かもしれない。トロイの木馬の時代から、人はもっと速く移動できたり剣の一振りで何百人も殺せたりしないかと考えていたと思う。超常現象を妄想することで、その後の歴史では速く走れる車や強力な攻撃力を持つ戦車を生み出してきたのだ。いいことかどうかは分からないが、進歩は進歩である。
 さて本作品の超常現象は北欧のトール民話と結びつけて、なかなかにリアルである。雷のCGは迫力があった。マーベルの「マイティ・ソー」とは世界観において月とスッポンの開きがあると思う。作用反作用なのか、超常現象を起こす度に主人公エリックの身体が傷ついていくところがそれである。受け継いだ力は強大だが、当人は普通の人間に過ぎない。だから耐えられずに身体が傷つけられてしまう。映画の序盤で、因縁をつけてきた青年を殺してしまうのは、その父親の復讐シーンに繋がって、エリックがあるいは銃で撃たれても死なない身体の持ち主なのか、あるいは既に身体は死んでいて痛みを感じないのかのいずれかであることを暗示する。
 現在の世界に奇跡を起こす人間が出現したら世界の精神性はどうなるのか。それも並の奇跡ではない。神の怒りと表現したくなるような、広範囲に亘る破壊なのだ。アメリカ政府のエージェントと思われる女性は、エリックを危険な存在と看做して排除を企てる。神を信じる宗教、主にキリスト教とイスラム教だが、その信徒たちは、新たに現れた神のような存在を目の当たりにして混乱に陥るだろうというのが彼女の論理である。しかし本当にそうだろうか。
 大江健三郎の小説「同時代ゲーム」に登場する「壊す人」は村の創建者であり、死と再生を繰り返す。本作品のエリックも「壊す人」と同様に、腐敗して行き詰まった共同体を破壊するために再生した「神」のひとりだと考えれば、トール民話との整合性も取れる。そしてそういう強大な力を持つ「個人」が現れば、キリスト教とはそれをイエスの再来と看做すだろうし、イスラム教徒はムハンマドの再来と看做すだろう。従って世界は多分混乱しない。
 エリックは暴力に対するアンチテーゼでありながら、その強大な力を使って人を殺してしまう。それは創造と破壊が一体化した神話の世界の価値観のようで、矛盾をそのまま現実として受け入れるところに、エリックの存在が意味を成す。世界を作り直すために、ノアと彼が方舟に乗せた生き物以外をすべて洪水によって死滅させた、旧約聖書の神のようである。
 アンドレ・ウーブレダル監督は前作のホラー映画「スケアリーストーリーズ怖い本」でも凡百のホラー映画とは一線を画していると高く評価したが、本作品は更にスケールを増していて、北欧の一地方の民話を題材に、共同体とは何か、人類とは何かというテーマを投げかけているように感じた。神話のような壮大な映画である。
 力を制御できない現世のエリックが、前世のエリックから力を制御できる道具を受け継いだとしたらどうなるのか。物語は続いていく。