三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Kings」(邦題「マイ・サンシャイン」)

2018年12月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Kings」(邦題「マイ・サンシャイン」)を観た。
 http://bitters.co.jp/MySunshine/

 アメリカの黒人差別はおそろしく根深い。綿花栽培の労働力としてアフリカから輸入されてきた歴史は我々も知るところであり、アメイジング・グレイスは讃美歌として夙に有名である。しかし差別の根深さは歴史だけに由来するものではないようだ。
 勿論おぞましい差別の歴史も人々の心に染み込んでいると思うし、差別してきた先祖を正当化したい気持ちもあるだろう。しかしそれらを凌駕するのが、既得権益が喪失するかもしれない危機感だと思う。同じ意味合いで、既に既得権益が奪われてしまったり、黒人と立場が逆転してしまった怒りもあるだろう。アメリカ全土に広がるそんな危機感や怒りの感情がなくならない限り、黒人差別はなくならない。
 一方で、差別されている黒人の中にはスポーツや芸能、政治や実業で成功する人もいるが、そうでない人々は貧しい生活から抜け出せず、中にはスラムやゲットーと呼ばれる地域に住んで常習的に悪事を働く人々もいて、黒人差別の格好の大義名分になっている。
 本作品は言わずと知れたロス暴動を、個人の視点から描いた問題作で、ソーシャルワーカーみたいな立場の主人公の黒人女性が庶民の普通の感覚のまま異常事態に巻き込まれていく様子が上手に描かれている。
 ロス暴動を簡単に説明すると、大勢の白人警官が寄ってたかって無抵抗の黒人男性を半殺しにし、その後の裁判で警官たちが無罪放免されたことで黒人たちの怒りが爆発して暴動に発展したものである。その背景としてあるのは、実は黒人差別だけではない。
 多くの社会問題に共通する根本的な間違いが、個人と集団の混同だ。すべての人間を個人として考えなければならないのに、自分たちの側だけ個人としての尊厳を主張し、相手の側は白人とか、黒人とか、要するにひとつの集団人格として扱うところに、本質的な問題がある。鬼畜米英という戦前の価値観も同様であった。
 この作品でも、黒人同士は互いに個人としての関係性を認識しているのに、白人は十羽ひとからげで白人として認識される。互いに相手をゴキブリみたいに捉えているのだ。しかし唯一、隣人であるダニエル・クレイグだけが、子供たちには白人や黒人という区別より前に隣のおじさんである。そこにこの作品の世界観がある。ハル・ベリーの演技もよかったし、奥行きのあるいい作品だと思う。


映画「Mary Shelley」(邦題「メアリーの総て」)

2018年12月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Mary Shelley」(邦題「メアリーの総て」)を観た。
 https://gaga.ne.jp/maryshelley/

 文学に関する映画だけあって、台詞の中には文学的な表現がふんだんに出てくる。大方は単なるレトリックで、心を敲つような中身はなかったが、主人公メアリーが怒りと悲しみの中で放ついくつかの台詞には、聞いた者の心を揺さぶる力があった。
 フランケンシュタインは継ぎはぎの巨人怪物としては有名だが、それが18歳の女性による原作だとは、この映画を観るまで知らなかった。原作も興味深いが、ひとまずこの映画を観ただけで感想を述べると、歴史的に有名な怪物像を生み出すに至る少女の鬱屈が上手に描かれていて、インスピレーションを受けた体験と、物語を紡ぎ出すアイデアと、完成に至る内面的なエネルギーが十分に伝わってくる。
 イギリスは時折、「嵐が丘」のエミリー・ブロンテに代表されるような、意図せずして深い世界観を表現する稀有な才能を持つ女流作家を輩出する。メアリー・シェリーもそのひとりである。
 エル・ファニングはいくつかの映画で観たはずだが、あまり印象に残っていなかった。しかしこの作品で、若くして人生の真実のひとつを覗き込んだ経験の大きさに打ちひしがれることなく、それを文学作品に昇華することのできる魂のありようを、彼女なりに表現できたのではないかと思う。


映画「Maria by Callas」(邦題「私はマリア・カラス」)

2018年12月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Maria by Callas」(邦題「私はマリア・カラス」)を観た。
 https://gaga.ne.jp/maria-callas/

 マリア・カラスと言えば、二十世紀最高のオペラ歌手という評判を覚えているが、流石に生の歌は聞いたことがなく、サラ・ブライトマンが一番上手いと思っていた。
 しかしこの作品でマリア・カラスの音源に触れ、その伸びやかで無理のない、しかも雑味のない声を聞くと、この人こそ最高の歌手だと認識を新たにした。彼女の歌声は高くても低くても、どこまでも人の声であり、歌詞を通じて語りかけてくるようである。
 コロラトゥーラで最近名前の出てきた日本人歌手の歌は、よくそんな高い声が出るものだと感心こそするが、感動するものは何もない。しかしマリアの歌は、まず感動がある。聞いていて心地がいい。表情も豊かで、これぞ本物のオペラ歌手の歌だと太鼓判を押したい気持ちになる。
 ドキュメントの構成もよくできていて、恋と芸術に命を燃やした彼女の人生と、歌と真っ直ぐに向き合うその姿勢がストレートに伝わってくる。大した女性である。こういう女性が生きた二十世紀という時代は、やはり人類全体が上り調子だったのだろう。
 二十一世紀は下り坂の時代である。マリア・カラスはもう出現しないだろう。不世出の大歌手だったのだ。


城南海コンサート@人見記念講堂

2018年12月30日 | 映画・舞台・コンサート

 三軒茶屋の人見記念講堂にて。城南海のコンサート。
 テレビで見ている限りは優しい歌い方をするひとだと思っていたが、小柄な体から出てくるパワフルな歌声はすごい迫力である。歌をまるごと一曲歌う構成なので、その歌のメッセージがよく伝わってきた。
 自作の曲は、作詞はマアマアだが作曲は奄美大島の特色がよく出ていて、歌い方にもシンクロして城南海の世界がフルスロットルで全開であった。クリスマス前に楽しいコンサートを聞くことができて有難かった。


芝居「民衆の敵」

2018年12月13日 | 映画・舞台・コンサート

 Bunkamuraシアターコクーンで堤真一主演の芝居「民衆の敵」を観た。
 http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/18_people/

「人形の家」で有名なノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンが書いた戯曲である。「人形の家」は日本の天才作詞家であるなかにし礼が作詞して弘田三枝子が歌った歌でも有名になったが、1879年に発表された戯曲である。
 今年の4月に同じシアターコクーンで観劇した寺島しのぶ主演の「ヘッダ・ガブラー」は1890年、「民衆の敵」は1882年に発表された。いまから136年前である。
 温泉を引いて町を盛り上げようとした医師が、水質を調べて水にバクテリアや汚染物質が混入していることを疑い、水質検査をして大学の研究室に分析を依頼する。その結果が届いた日から芝居がはじまる。みんなから感謝され、温泉は衛生的になり、町は栄えて英雄に祭り上げられることさえ夢想していた医師に、冷酷な現実が襲いかかる。
 物凄く台詞の多い芝居であるが、堤真一をはじめとする俳優陣の、熱がこもっていながらも滑舌のいい演技が素晴らしく、力関係と裏取引に明け暮れる町の人々の中にあって、正しいということはどういうことなのかを求める熱量をストレートに感じた。
 136年前の戯曲であるにもかかわらず、あたかも現在の日本や、マイケル・ムーア監督の映画「華氏119」のミシガン州フリントで起きていると同じことが起きているように思える。
 民衆というものが如何に近視眼的で利己的かを嫌というほど思い知らされる主人公だが、逃げ出すことも町を見捨てることもなく、堂々と立っている。その威厳に満ちた存在のありように、ラストシーンでは目頭が熱くなる。最近では出色の芝居だった。


映画「来る」

2018年12月11日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「来る」を観た。
 http://kuru-movie.jp/

 青木崇高の演じる民俗学者にこの作品のヒントがある。民俗学というのは有名な柳田国男や折口信夫が研究したことで知られている、各地に伝わる物語や風習にまつわる考証である。
 予告編が表現していたとおり、出身地の言い伝えが大人になってもずっとついて回り、いつしかエネルギーを蓄えて強大な邪悪さになっている。そこに人間関係の歪みが加わって、物語は立体的に広がっていく。
 岡田准一に依頼する様子といい、松たか子の登場のタイミングといい、十分に考えられた構成で、自然で無理がない。だから怖さもストレートに伝わってくるし、スクリーンから目が離せなくなる。
 どこか「リング」に通じるような日本的な、因習というか、多くの日本人の心に共通するような郷愁みたいなものと一緒になって存在する恐怖がある。思い出と恐怖が一体で切り離せないのだ。柴田理恵らの怪演もあって、現実離れしているのに本当にありそうという、絶妙なホラー映画になっている。
 数日前に海外のホラー「ヘレディタリー 継承」を観てがっかりしたので、この作品によってホラー映画の評価が少し持ち直した感じである。海外の人に理解されるかは別にして、なかなかに面白い作品であった。


芝居「命売ります」

2018年12月11日 | 映画・舞台・コンサート

 サンシャイン劇場で舞台「命売ります」を観た。
 http://www.parco-play.com/s/program/inochi/

 三島由紀夫原作の「命売ります」を芝居にしたもので、原作に忠実に再現されていた。最初にセリフを喋るのが温水洋一で、いつもバラエティで見かけるそこら辺にいるおじさんとは打って変わって、饒舌で頭のいいいくつかの役を掛け持ちして大活躍だった。小柄で禿げていても、存在感があるから十分に舞台映えがする。
 命売りますという商売を始めた27歳の偉丈夫の男性が、やってくる様々な客の要求に応えながら、時代というものが形作られる真実に迫っていく。演出は全体にエロティックで、いかにも三島らしい表現がいたるところに見られる芝居であった。


映画「ヘレディタリー 継承」

2018年12月11日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ヘレディタリー 継承」を観た。
 http://hereditary-movie.jp/

 ホラー映画は舞台や設定、登場人物は違っていても、プロットが大体同じである。即ち、最初は得体の知れない何かが迫ってきたり追いかけてきたり、脇役の誰かが殺されたりしながら、徐々に種明かしがされて正体が明らかになるというパターンだ。そして大抵の場合、原因となるのが主要な登場人物の過剰な思い込みであったり、極度の怒りであったりする。怒りが憎悪を生み、憎悪が怪奇現象となって襲いかかるパターンである。
 本作品も前半は例外ではなく、得体の知れない何かが家族を襲うのであるが、原因は主要登場人物の精神異常ではなかった。母親の精神がやや普通でない部分はあったが、異常というほどでもなく、不幸の真の原因はタイトルの通りであった。
 祖先が恐るべき力を持っていたという描写も何もなく、継承が超常現象の原因でしたというのがあまりにも唐突で、ラストシーンではもはや笑うしかなかった。これほど不出来なホラーは初めてである。
 ワンパターンでもいいから、登場人物の誰かの怒りや憎悪、隠された過去などの描写があって、その結果としての超常現象でしたというふうに落ちをつけてくれたほうがまだマシだったと思う。


映画「ハード・コア」

2018年12月11日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ハード・コア」を観た。
 http://hardcore-movie.jp/

 チープな印象のスラップスティックではあるが、ストーリーはよく練られている上に俳優陣の怪演も手伝って、とびきり面白い映画になった。
 見た目とは裏腹のハイテクロボットだが、ロボット憲章を遵守するという基本は守られている。そしてそこにこの作品の世界観がある。人間はみずからの食欲と性欲に振り回されて、非合理的で理不尽で無駄な行動をするが、それでも人としての尊厳は守られなければならない。
 思想や信条の違いはもとより、貧富も善悪もひっくるめてすべての人間を肯定する力強さに、底知れぬ哄笑が沸き起こるようなエネルギーを感じる。ルネッサンス期みたいな作品である。
 設定の細かい部分には謎が多く、全部は説明してくれないまま、いくつかは謎のままで終わる。いろいろな点で心残りではある。蛇足になるのを恐れずに続編を観たい気がする。


映画「人魚の眠る家」

2018年12月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「人魚の眠る家」を観た。
 http://ningyo-movie.jp/

 分子生物学の福岡伸一さんによると、生命とは自己複製のシステムだそうである。イメージとしては、砂浜の砂人形に絶えず砂が風で吹き付けられ、砂人形は新しい砂を常に取り入れて古い砂と入れ替えているというものである。生命とは川の流れの澱みのようなもので、一見すると変わらないように見えるが、中身は変化しつづけている。
 本作品は、現実社会でもいまだに答えの出ていないテーマを、ひとつの家族の物語として掘り下げている。人の死を判断するのは脳死なのか心臓死なのか、慣習なのか法律なのか、理性なのか感情なのか、社会なのか個人なのか。そういった様々な角度から人の死について問いを投げかけてくる。日常的に馴染みの薄いこの問題が、平凡な日常にいきなり降り掛かってきたとき、人は何をどのように選択すればいいのだろうか。

 篠原涼子は映画やドラマになると、CMやバラエティで見かける浅薄さとは打って変わって、豊かな表情に女の情念を感じさせる凄みのある演技をする。7月に見た舞台「アンナ・クリスティ」でもいい感じに乱れた女を演じていた。
 本作品では、いきなり放り込まれた極限状況に戸惑い、我を忘れたり取り戻したりしながらオロオロと生きていく女性を演じていた。かなり難しい役だったはずだが、ひとりの女性としての整合性は取れていたように感じる。
 西島秀俊は2代目社長の軽さを上手く演じていて、この浮薄さが新しいもの好きとなり、物語を進めることになる。この辺りの構成は流石に東野圭吾だ。かなり力業のストーリーであるにもかかわらず、無理なく自然に鑑賞できる。

 人は人に名前を付けることで愛著が生じるとブッダは言っている。愛著はすなわち執着であり、執着は苦厄に結びつく。子供に執着することで精神の自由を失っていく親の姿が、なんとも悲しい。諦観に達することで自由を再び取り戻すには、大きな試練を乗り越えなければならない。時空を超えて壮大なテーマの作品であった。