映画「ACIDE/アシッド」を観た。
身も蓋もない言い方をすれば、暴力的で教育のなさそうな男が、同じく暴力的で教育のなさそうな娘と、被害者ヅラの妻を連れて、迫りくる酸性雨から逃げる話である。
はっきり言って、この家族は最低だ。これからの行動は相手まかせするくせに、悪いことはすべてお互いのせいにする。我儘な娘は、利己的な行動をして、窮地に陥ると臆面もなく助けを求める。
男は娘を大事に思ってはいるが、それよりも大事な恋人がいる。取り敢えず自分たちさえ助かればいい。世の中は蹴落とし合いで、弱い者が死んで強い者が生き延びるという人生観だ。
タイトルと予告編から、酸性雨に襲われた世界で人々がどのように振る舞い、指導者や科学者たちがどのような選択をするのか、グローバルで哲学的な展開を予想していたのに、クズみたいな家族の逃避行の顛末に終わってしまって、はっきり拍子抜けだった。
パニックホラーなら、主人公の人格を感情移入できる程度には整えておくべきで、本作品の身勝手で愚かな家族に危機が迫っても、ハラハラもドキドキもしない。何かの譬喩なのかもしれないが、思い当たるものが何もなかった。
映画「箱男」を観た。
安部公房の小説は「砂の女」と「箱男」を読んだ記憶があるが、内容は忘れてしまった。ただ、とにかくシュールだったことだけは覚えている。本作品もきっとシュールな映画なんだろうと予想しながら鑑賞した。
とは言っても、生身の俳優が演じるのだから、日常的で現実的になるのはやむを得ないだろうと想定していた。ところが豈図らんや、シュールでぶっ飛んだ作品になっていて、とても感心した。永瀬正敏をはじめとする名優たちの怪演で、見たこともない世界が展開する。
相対性理論では事象を計測する視点として、観測者という言葉を用いる。観測者は宇宙のどこにでも存在でき、質量と速度を計測して、記述する。神の視点と言ってもいい。
箱男の場合は、観測者ではなく観察者だ。他人から気づかれない箱の中に入って、世の中の細部を観察し、記述する。記述した内容が現実世界に影響を与える。箱男も、ある種の神の視点と言っていいだろう。
箱男は、安全圏から他人を観察して好き勝手なことを言う。相手構わず批判したり、想像を巡らせて、次の展開を記述したりする。箱に入っていれば安全だと思っているが、どうやらそれは幻想に過ぎないらしく、箱ごと攻撃される場合もある。
箱男が世界中の男女に蔓延した状況を考えると、そのまま現代のSNSの匿名性みたいだ。本人は安全だと思っていても、実はそうでないところもSNSと同じである。安部公房は、世界中の誰もが、見えない箱をかぶって現実世界から身を隠し、自分で安全だと勘違いした場所から、やりたい放題をしていると想定した訳だ。その先見の明には脱帽するしかない。リアリズムよりも更に世の中を穿つ、シュールレアリズムの作家としての面目躍如だと思う。
映画「エターナルメモリー」を観た。
老齢による精神機能の衰えについて、誰もが将来的な不安を覚えるようになったのは、認知症という言葉が広く普及して以降だと思う。それまでは痴呆症という言葉だったが、字面があまりよろしくないことであまり使われず、それよりも「惚ける」という言葉が主に使われていた。歳を取って惚けるのは、ある意味で子供に戻るみたいな印象があった。
認知症が不治の病と家族の重荷として恐れられるようになったのは、言葉が人口に膾炙したことと、インターネットの普及が重なったことが大きい。同時に不安も蔓延したというわけだ。もちろん核家族化もひと役買っている。認知症の老人の孤独死は、もはや日本の日常だ。報道されないから、あまり知られていないだけだ。
本作品は、認知症の二段階を描いている。初期の頃はまだ話せば分かったり、感情も安定していたりする。後期になると、過去のトラウマが現実となり、現実が幻になってしまう。感情も不安定で、介護する家族を苦しめるようになる。
食事とトイレと入浴がひとりでできる間はいいが、それが出来なくなると、介護の負担は一気に跳ね上がる。本作品では裏方を見せることはないが、認知症の夫を世話する妻は、人には言えない苦労をしていると思う。
人格とは何かというテーマがある。人格とは記憶だという説があって、その説では、認知症で記憶を失ったら、人格も失うことになる。その通りなのかもしれないが、どうにも割り切れない。人格を失うと、人権も失う気がするからだ。
妻は薄れゆく夫の記憶を見守りながら、決して夫の人格や人権を否定しない。生まれたばかりの赤ん坊にも人格や人権はある。夫は、その世界に戻ろうとしているのだ。もはや死も怖くないだろう。年を取って惚けるのは、そのためかもしれない。とにかく夫には、幸せな余生を送ってもらいたい。
不幸で辛い日々を描いた作品だが、当人たちにとっては、必ずしも不幸ではないのかもしれない。画面から、夫婦の愛が溢れ出すようだった。
映画「モンキーマン」を観た。
デヴ・パテルの主演映画は、何作品か鑑賞した。「奇蹟がくれた数式」や「LIONライオン25年目のただいま」では、難役を見事にこなしていた。
本作品は原案から脚本、監督主演までこなし、デヴ・パテル34歳の集大成みたいな作品だと期待していたのだが、宗教的な色合いの濃い、勧善懲悪の物語にちょっと驚いた。パテルはおそらく敬虔なヒンズー教徒なのだろう。この作品がキリスト教圏で高く評価されたのも頷ける。
無自覚の差別、無自覚の人権蹂躙が蔓延している現代では、自覚的な悪意や支配に古めかしさを感じてしまうのは、やむを得ないところかもしれない。むしろ本作品は、わかりやすさ重視でエンタテインメントとして製作されたと受け取るのが自然だ。それなりに楽しめた。
映画「サユリ」を観た。
面白かった。
事故物件の映画はいくつか鑑賞したが、いずれもジャンプスケアに驚くだけで、あまり印象に残っていない。ところが本作品は、被害者家族の生き残りが、文字通り生き残りを賭けて戦うという、斬新なプロットである。戦いの中心がおばあちゃんであるところもユニークだ。
俳優陣はいずれも好演だが、なかでも太極拳の達人を演じた根岸季衣の怪演は凄かった。食事睡眠運動という健康の基本を強く推奨しつつ、自分はドレッドヘアでタバコをスパスパ吸う。矛盾をものともしないところが、人間らしくてとてもいい。
平凡な庶民のささやかな夢と、強制されたインセストの恨み、惚け老人の問題と思春期の群像などを織り交ぜながら、家を支配する恐ろしい敵と対峙するおばあちゃんと孫の戦いをコミカルに描く。霊能力を持つ同級生女子が、何故か可憐だ。
彼女が読んでいるのがBLマンガだったり、サユリの漢字が吉永小百合と同じだったり、二度出てくるゲロがいずれもスナック菓子のゲロだったりする。そういった小さなシーンに、そこはかとない面白みがある。よく作り込まれた作品だと思う。
映画「ぼくの家族と祖国の戦争」を観た。
おそらくだが、世の中の多くの人々は、戦争など願っていない。にもかかわらず、戦争はなくならない。その理由のひとつを、本作品がリアリティたっぷりに描く。
組織や共同体というのは、今も昔もおしなべて帰属意識を生む。学校や企業であれば、他の組織と競争になっても、武力で解決することはない。ところが国家という共同体になると、紛争がエスカレートすると、武力で解決することになる。ひとたび戦争になると、敵を憎み、自国を応援するようになる。愛国心というやつだ。腹黒い政治指導者の中には、わざと国際紛争を起こして愛国心を煽り、自分の立場を守ろうとする者もいる。軍国主義者である。日本の政治家の中にもたくさんいる。愚かな国民は、国家主義に熱狂し、指導者を支持する。「がんばれニッポン」と同じ精神性だ。
本作品に登場するデンマークの市井の人々も、ドイツ人難民も、同じ精神性の持ち主である。共同体同士の紛争なのに、個人も共同体にカテゴライズして、ひとまとめに敵愾心を燃やす。ここで大事なのは、それがいじめっ子の精神性と同じだということだ。暴力が関係性を支配する。
父親と母親と息子。国旗を掲揚するシーンからのスタートは、この親子も、共同体のパラダイムの例外ではないことを示唆している。ところが、父親が学長をしている学校が、ドイツ人難民を受け入れたことをきっかけに、親子それぞれの考え方や、立場がくるくると変化する。それが本作品の見どころと言っていい。
国家主義の狂信者に何も言い返さない父親を見て、息子はがっかりするが、後に父親が正しかったことに気づく。狂信者に言い返しても、説得は不可能だ。逆上させる可能性もある。暴力よりも話し合いを優先しなければならないが、話しても無駄なときもある。かといって暴力にエスカレートするのは愚かだ。
そういうときは、ペンディングが一番である。しばらく棚上げにしておくのだ。問題が発生したら、再び話し合えばいい。そういえば、日中国交回復の際に、田中角栄と周恩来は、尖閣諸島の領有権問題はそっとしておくことで合意した。だから日中関係は、しばらく良好だった。石原慎太郎という国家主義者が蒸し返すまでは。考えてみれば、国際紛争を引き起こすのは、いつも国家主義者である。
人道主義は平和主義、国家主義は軍国主義に直結する。いまの世の中はキナ臭くなって、国家主義が蔓延しようとしている。この映画が製作された動機は、そのあたりにあると思う。国家主義は、弱い人を助けない。石原慎太郎を都知事選挙で4回も圧勝させた東京都の有権者は、いじめっ子の精神性の持ち主なのだろう。
さて、母親の人道主義から始まり、父親の保身、いじめっ子からいじめられる側になってしまった息子の三者三様の考え方と立場の違いは、世の中が国家主義と人道主義に二分され、国家主義が優勢であることが明白になっていく。それを日常のシーンで描き出すところが上手い。特に息子が、迷いに迷った結果、他人を救う決心をして父親と対峙するシーンは、本作品のハイライトだ。人を助けたいという少年の真っ直ぐな心には、誰もが感動するだろう。少年は強くなったのだ。
映画「時々、私は考える」を観た。
最初の職場のシーンでは、同僚たちが繰り広げるくだらない会話に、主人公がうんざりしているように見えるのだが、ラストシーンでは、職場の会話を聞いて、みんな一生懸命に生きているんだなと思っているように感じる。その変化はどこからきたのだろうか。
フランは、死にたい訳ではないが、ときどき自分の死を夢想する。それはフランだけではない。人が自分の死を考えるのは、至極当然のことだ。人生で何回、死について考えるかは人それぞれだが、少なくとも1回、多い人は何千回、何万回も、自分の死について考えると思う。
今日と同じ明日が来ると信じていなければ日常生活は送れないが、突然の危機や突然の死が来る可能性があることは、誰もが心の片隅で思っていることだ。天災地変や戦争は、今日起きてもおかしくはない。
明日は生きて目覚めないかもしれないと思っていると、人付き合いは少ないほうがいいことになる。フランにとって、朝は自分の生の確認のようなものだ。目覚めたら、自分はまだ生きている。では今日と明日のために仕事に行こう。
世間がどんな常識を求めているかは分かっているから、他人との軋轢を生むことはしない。日常生活は至って平穏だ。僅かな楽しみは、帰宅して飲むワインと、暇つぶしのナンバープレイスである。それでいい。他人と関わることは楽しいかもしれないが、傷つくかもしれない。
そんなフランの日常を異化させるトリックスターが、新入社員のロバートであり、その前に定年退職したキャロルだ。ロバートは優しいが、独善的で、自分の価値観を押し付けようとする。キャロルはペシミスティックで、人生にちょっぴり期待をしているが、世界を信じてはいない。
人それぞれ、常識の仮面の下に怒りや悲しみを抱えつつ、日常のささやかな幸せを雲梯のように掴みながら時間を過ごしていく。掴み損ねることもある。落ちる人もいれば、やり直す人もいる。中年に差し掛かったフランは、漸く、他人にも自分と同じ苦悩があることを知る。そして、小さな楽しみを他人と共有する幸せを知る。
不思議な味わいのある作品だった。
映画「美食家ダリのレストラン」を観た。
松尾芭蕉は、色好みであり、食道楽の人であった。「水無月や鯛はあれども塩鯨」という句を残していて、文字通りに読めば、蒸し暑い季節には、淡白な鯛よりも塩鯨の方を食べたくなるものだという意味になるが、違う見方をすれば、いつも美人では面白くない、ちょっと癖のある女(場合によっては男)を抱きたくなることもある、という好色な意味にもとれる。もちろん、当方の独自の解釈である。
芭蕉には「浮世の果ては皆小町なり」という句もあって、一般的には、浮き名を流した美人も、歳を取れば老いさらばえるものだと解釈されている。しかしこの解釈にも、当方は違和感を覚える。浮世の果てとは、芭蕉自身のことではないか。若い頃からさんざん遊んできたが、女は見た目に関わらず、みんな美人なのだと悟ったと、そういう意味合いではないかと思う。
どうして芭蕉のことを持ち出したかと言うと、本作品は漁師町を舞台に料理を礼賛する物語で、しかも旬の魚介類をこよなく愛する美人が登場するからである。芭蕉が「塩鯨」の句で一番言いたかったのは、旬の食材は高級食材に勝るということだと思う。吉原の評判の花魁よりも、地方の可憐な少女の方がよほど美しいという感性かもしれない。それは邂逅であり、一期一会だ。芭蕉のことだから、食との邂逅に加えて、性の邂逅も裏の意味として含ませていた可能性もある。
レストランはフランス料理のシュルレアル。シュールレアリスムの旗手であったダリに心酔しているオタクのジュールズがオーナーだ。主人公の料理人フェルナンドは、ジュールズのことを面白がる一方で、この場所を愛し、この時間を愛する。優れた料理は、季節と土地に対する愛情がなければ生まれない。
料理提供のシーンで映し出される料理は、見た目から食感や温度感が想像されて、どれも美味しそうだ。その土地で収獲、または収穫されたものを、その土地で食べるのが一番美味しい。素朴な料理は安定した美味しさで、もちろんいいのだが、食材と調理法と調味料の変わった組み合わせには、驚きや発見や感動がある。外食の醍醐味だ。それは旅の醍醐味でもある。食べた人に感動をもたらすのがシェフの才能だ。
昔から、才能と情熱のある人間には魅力がある。芭蕉はさぞかしモテたことだろう。本作品では、料理人のフェルナンドはもちろん、ダリに情熱を注ぐジュールスにも、それなりの才能がある。破壊と創造は表裏一体だが、ジュールスは尊敬し、憎悪し、また尊敬する。そして創造し、破壊し、また創造する。熱量が落ちないところが彼の才能だろう。
否定よりも肯定。それこそがダリの創造の本質だ。アホに見えるジュールスがそれを理解していることが凄い。フェルナンドがジュールスを気に入ったのも、それが理由だと思う。
本作品ではフランス語とスペイン語が入り混じって会話が交わされている。フランスのエスプリとスペインの郷土愛、それに反骨が登場人物それぞれに入り混じっていて、大いなる共感に収斂する。面白くて見応えのある作品だった。
映画「#スージー・サーチ」を観た。
アメリカのパラダイムは、今も昔も、アメリカンドリームだ。有名になる、金持ちになるのがアメリカンドリームで、物欲主義がその本質である。大豪邸に住んで、毎日豪華な料理を食べる。移動は自家用ジェットや運転手付きの高級車。
一方で、人間関係は家族第一主義で、理想の家族を求めて結婚と離婚を繰り返す。離婚のたびに裁判をするのだが、そこは互いのアメリカンドリームのぶつかり合いの場だ。商売になるから弁護士はたくさんいる。国民ひとりあたりの弁護士数は、日本の10倍以上だ。なんとも浅ましい限りである。
スージーが目指すアメリカンドリームは、ポッドキャストで有名になることだ。金を稼げれば、病気の母の治療費が出る。ヘルパーも雇えるかもしれない。切実な問題なのだ。バズることに命がけだから、いいねやフォロワーの数に一喜一憂する。
しかし切実なのはスージーだけではない。同じように片親しかいない学生で、その親が働けない状態になってしまった人もいるだろう。共同体が手を差し伸べるべきだが、アメリカンドリームの国は、病人や貧乏人に冷淡だ。
スージーは小賢しい割に、間が抜けている。そのあたりを笑い飛ばすコメディとして製作されたのかもしれないが、スージーも含めて、アメリカの軽薄さと愚かさが、どのシーンにも充満している印象だった。ちっとも笑えない。
映画「Totem」(邦題「夏の終わりに願うこと」)を観た。
ラテン系のノリはちょっと苦手だったが、なかなか逢えない病気の父を想う少女ソルの気持ちの変化は、十分に伝わってきた。おばあさんの死を知っているソルは、時間の流れが人の命の流れでもあることを理解している。それは病気の父を迎える運命でもある。今日は父の誕生日。いまの時間は、いましかないのだ。
父の実家にいるのは、おじいさんと、父の姉とその娘と息子、父の妹とその娘と夫、それに父の介護担当者だ。実家を仕切っているのは姉だが、霊媒師を呼んだシーンは、姉の教養を疑わせる。妹は、幼い娘の世話と愚かな姉との軋轢で、精神的に少し参っている。夫はメトロノームを使った怪しげな療法にハマっていて、少しも助けてくれない。おじいさんは精神科医で、診療がない時間は、盆栽の手入ればかりしている。理由は終盤に明らかになる。友人たちは思い出を美化するばかりだ。
動物がたくさん登場する。犬と猫、蝸牛と小さな淡水魚。エンドロールには、象、熊、猿、豹、蝙蝠などが登場する。おそらく原題の「Totem」に関係するに違いない。
治療に関する省略語がたくさん登場するのは、家族がそれについて議論を重ねたことを示している。当然ながら、カネの話も出てくる。これまでのカネと、これからのカネ。先行きは明るいとは言い難い。
人の我儘と人の優しさの両方が感じられるリアルな作品ではあったが、一箇所だけ、とても気になるシーンがあった。介護の年配女性が呼んだらしい業者が、トラックに絵画を積み込むシーンだ。パーティの裏で、誰にも知られずに業者を送り出す介護女性。病気の父の職業は、おそらく画家である。
父の誕生日に父の実家を訪れる午後から、その翌日の朝までの短い時間を描いた作品だが、物語は濃厚で、情報が多い割に、説明が極端に少ない。翌日の静かな朝は、すべての関係性が終了した印象だ。関係の要だったソルの父がいなくなったら、家族も友人たちもバラバラになった。
原題の「Totem」は、動物を象徴とする環境と、時の流れ、その中での人間関係を意味するのだろう。家族とは何だろう。友人に何の意味があるのか。そんな疑問が巡る作品だった。