三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

Amazing Grace  by John Newton   われをもすくいし(讃美歌2編167番)

2020年06月30日 | 映画・舞台・コンサート

 

Amazing grace! how sweet the sound  驚くべき恵みよ!(なんと甘い響き)
That sav'd a wretch like me!       神は私のような罪深き者も救われた
I once was lost, but now am found,         私は見失われたが今見いだされたのだ    *1
Was blind, but now I see.                    私は何も見えていなかったが今は見える

'Twas grace that taught my heart to fear,   私の心に畏れることを教えたのも恵み
And grace my fears reliev'd;                  そして私の心を畏れから解放したのも恵み
How precious did that grace appear,          なんと恵みは貴くも現れたのか
The hour I first believ'd!                    私が初めてそれを信じた時に

Thro' many dangers, toils and snares,       多くの危険と苦悩と罠を越えて
I have already come;                            私はやってきた
'Tis grace has brought me safe thus far,   その間私が無事だったのも恵みのお陰
And grace will lead me home.                そして恵みが私を天国へ導いてくれる

The Lord has promis'd good to me,          主は私に良きことを約束された
His word my hope secures;                     主の言葉は私の望みを保証する
He will my shield and portion be,           主は私の盾となり私の一部となる
As long as life endures.                      命のながらえる限り

Yes, when this flesh and heart shall fail,  そうこの肉体と心が朽ちて
And mortal life shall cease;                   限りある命が終わるとき
I shall possess, within the veil,              私は帳の中に隠されている
A life of joy and peace.                      喜びと平和の命を得るだろう

The earth shall soon dissolve like snow,    いつかは地球も雪のように消えるだろう
The sun forbear to shine;                      太陽も輝きを失うだろう
But God, who call'd me here below,          しかし私に呼びかけてくれた神は
Will be forever mine.                          常に私とともにあるだろう


映画「ランボー ラスト・ブラッド」

2020年06月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ランボー ラスト・ブラッド」を観た。
 クリント・イーストウッド、アーノルド・シュワルツェネッガーなど、ハリウッド俳優は老人になってもカッコいい。若いときのスマートな感じも悪くないが、年齢を重ねた味がある。人生に求めるものは何もないが、やるべきことはやらねばならぬという骨太な哲学が垣間見えるのだ。本作品の主演であるシルベスター・スタローンも歳を取ってなおカッコいい俳優のひとりである。
 本作品はランボー第1作を踏まえているから、本作品を観る前に第1作を観るか、第1作の知識を頭に入れておくべきである。若いときのランボーは怒りとエネルギーに満ち満ちていたが、本作品では歳月を経た哀愁がそこはかとなく漂っている。喜びも悲しみも罪の意識もすべて胸の裡に秘めて、日常の仕事に紛らわすとともに、日々の小さなことにささやかな喜びを得て、人生の最後を淡々と過ごしている。
 冒頭のシーンがいい。本筋とは無関係だが、田舎で平穏に暮らすランボーが、実はいつ死んでもいい覚悟で毎日を送っていることがわかる。彼の精神にとって死が身近にあることも同時に理解できる。そして暴力。ベトナム戦争の悪夢は、何十年経ってもPTSDの薬を飲み続けなければならないほど深くランボーの心に傷をつけている。人間の本質に絶望し、道を踏み外した人間の更生など信じない。悪い人間はどこまで行っても悪い人間で、関わり合いにならないか、関わってしまったら殺すしかないと思っている。暴力によって傷つけられた心は、結局暴力によってしか癒やしきれないのだろうか。
 究極のニヒリストとなったランボーだが、平凡な日常のために薬を飲んで怒りにブレーキをかけていた。しかし守るべきものがなくなってしまった結果、薬を捨てて怒りを解き放つ。そのエネルギーは凄まじいが、怒りと痛みを冷静にコントロールする訓練された軍人としてのポテンシャルがやみくもな暴発を防ぎ、緻密に計算された容赦のない暴力へと突き進む。ランボーの心の中では戦争はまだ終わっていないのだ。
 映画としてのストーリーは一本調子で平板で、人間関係の機微などはないし悪人も没個性のステレオタイプだが、ランボーの心の背景にあるベトナム戦争の悲惨な影が見え隠れしていて、それだけで作品としての奥行きを感じることができる。この作品はひたすら主人公ランボーを観る映画なのだ。
 戦いすんで日が暮れて、ランボーはこれから何を探しに行くのか。ハリウッド映画にしては余韻のあるラストシーンだと思う。往年の西部劇「シェーン」を思い出した。

映画「ミッドナイト・イン・パリ」

2020年06月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ミッドナイト・イン・パリ」を観た。
 ベル・エポックというシャンパンがある。花柄の模様のボトルに入っていて、大変に美味しいシャンパンである。フランス文学科出身者として薀蓄を書かせてもらうと、エポック(epoque=フランス語、女性名詞)は時代、ベル(belle=フランス語、形容詞beauの女性形)は美しいという意味で、直訳すると「いい時代」ということになるが、パリでベル・エポックというと、19世紀の終わり頃を指す。マルセル・プルーストが「失われた時を求めて」を書いた時代だ。ちなみにフランス語の名詞では太陽が男性名詞、月が女性名詞、愛が男性名詞、死が女性名詞である。戦争(guerre)は女性名詞だ。
 本作品にもベル・エポック時代が登場するが、主人公ギル・ペンダーが憧れているのはベル・エポックよりも少し下った1920年代あたりだ。その頃パリにいたスコット・フィッツジェラルドは様々なプロフィールを持っていたようで、本作品では大変に明るい前向きの愛妻家だが、映画「Genuis」(邦題「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」)では、真面目で暗い性格に描かれている。生活費のために短編ばかり書くと、ジュード・ロウ演じる主人公トマス・ウルフに指摘を受けたりする。本作品の明るいフィッツジェラルドにはトム・ヒドルストンがよく似合う。
 実際のヘミングウェイはいざしらず、本作品では世間一般が理解している豪放磊落な作家そのままだ。サルバドール・ダリもルイス・ブニュエルもエキセントリックなイメージを崩すことなく、寧ろ誇張して登場している。このあたりは知る人ぞ知るで、笑える人は笑えると思う。知らなくても雰囲気を味わえるので問題なし。
 パリに在住する文化人たちは大抵が哲学的だ。対してギルの婚約者イネズの友人であるポールは知っていることを並べ立てるだけの男である。衒学的な人物だなと思ってみていたら、その後「Pedantic」という言葉が登場したので思わず頷いた。台詞を言ったのがサルコジ大統領夫人のカーラ・ブルーニというのも面白い。
 数日間の物語の到る所にウディ・アレンの才気煥発なアイデアが鏤められていて、どの場面を切り取っても楽しめる。マリオン・コティヤールが当時の美人として主人公の相手役を務めるが、この百年で美人の基準はあまり変わっていないようだ。
 総じてウディ・アレンらしい細部にこだわった作品で、全体としても面白いし、ディテールも愉快な場面ばかりだ。主人公の最後の決断には快哉を叫びたくなる。間違いなく傑作だ。7月日本公開の「レイニー・デイ・イン・ニューヨーク」も楽しみである。

映画「Above Suspicion」(邦題「エージェント・スミス」)

2020年06月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Above Suspicion」(邦題「エージェント・スミス」)を観た。
 
  クリント・イーストウッドが若い頃に監督主演した「Play Misty for me」(邦題「恐怖のメロディ」)やマイケル・ダグラス主演の「Fatal Attraction」(邦題「危険な情事」)の系譜にある作品だと思う。どちらの映画も簡単に言えば、男が欲望に負けて後腐れの塊みたいな女とヤッてしまってその後酷い目に遭う話である。
 その手の女なのかどうかは男にはわからない。外見でも区別がつかないし、職業にも無関係だ。教育があるかないかも関係がない。兎に角、ある日豹変して無理難題を言うようになる。下世話な話で恐縮だが、今日は安全日だから大丈夫などと言われるがままにしていると、後日になって「どんなに頼んでもゴムを使ってくれなかった」などと平気で言ったりする訳である。
 言葉遣いの荒っぽい女性は荒っぽく、おとなしい女性はおとなしい言葉遣いのまま、理不尽なことを並べ立てる。勿論男にもそういう人間がいる。客観的な考え方、論理的な話し方ができない人間だ。男女ともに、そういう異性(または同性)に引っかかってしまったら、それはもう大変である。どうすれば防げるのだろうか。
 本作品は邦題こそ「エージェント・スミス」だが、原題は「Above Suspicion」であり、一般的には「疑いの余地がない」と訳される。邦題は多分作品を観ていない人が付けたのだ。本作品では男が女を信じるのか女が男を信じるのか、信じる者が必ずしも救われるとは限らない。
 人を疑い続けるところに平安はないし、承認欲求も満たされない。人はもともと愚かな生き物であり、愚かな人間同士で喜劇を繰り広げる。そうしたくなければ人とは深く関わらないようにするしかない。性交も情交も、身体の触れ合いすらしない。異常な他人との関わりを防ぐためにはそれしかない。しかしそれだと子供が生まれないことになると思うのは早計である。もし人類がいまよりずっとしたたかになる日がくれば、人と人とが触れ合わなくても子孫を残す方法を考えるだろう。そして他人との触れ合いによる喜びよりに勝る喜びを発明するだろう。愚かなままの人類は早晩滅びるか、または愚かな喜劇を繰り広げ続けるだろう。そういう作品だった。

映画「凱里ブルース」

2020年06月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「凱里ブルース」を観た。
 長いワンシーンがつながれたロードムービーである。日本で言えば「仁義なき戦い」の頃だろうか。土間に物を置く習慣が残っていたり、外から戻っても手を洗わなかったりするから、衛生観念が社会に行き渡る前の話だろう。映像は暗くてわかりづらく、お世辞にも洗練された作品とは言い難い。
 ヤクザが詩人になってもおかしくはない。世の価値観は常に揺らいでいて、人は風にそよぐ葦のように翻弄され続けている。封建主義のパラダイムが支配的であればそういう考え方になるし、大義名分にもなって他人を非難する根拠となる。拝金主義のパラダイムが支配的であれば金儲けをした人間が偉い人間なのだ。
 誰のために何をするのか。自分は誰に必要とされているのか。自身のレーゾン・デートルを求めて旅をするシェンは、故郷に時の移ろいを見る。残ったのは人の優しさだけなのかもしれない。身の上話を聞いてくれた床屋に大切なものを渡してしまう。それがシェンの優しさなのだ。ヤクザから足を洗い久しぶりに訪れた故郷は、必ずしもシェンを歓迎してくれる訳ではないが、邪慳にもしない。うねうねとあぜ道が通る田んぼに風が吹いている。

映画「ペイン・アンド・グローリー」

2020年06月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ペイン・アンド・グローリー」を観た。
 三つ子の魂百までというが、躁鬱質、癲癇質、分裂質という3つの気質と強気、中気、弱気の3つの気性についてはその通りだと思う。この9マスのマトリックスの分類からは誰も逃れられない。加えて幼い頃の五感にかかわる思い出は、歳を経ても色褪せることがない。
 幼少期の思い出の中には、決して人に話せないことがある。心に刺さった棘のように不快で、時には炎症を起こして激痛を齎すこともある。そういう思い出を心の奥深くに潜めている人は少なからずいるだろう。
 それでも絵を見たり本を読んだりして、人は屢々癒やされる。映画もそのひとつだ。そして幾人かの人々は自分で絵を描き、小説を書き、あるいは映画を作る。そうして誰にも言えない自分の傷跡を覗き込んでは痛みの向こうにあるものを見ようとする。産み出された作品は、同じように心に棘を持つ人を癒やすことができるかもしれない。
 芸術はどこかで共同体のきまりに反したり、世の中のパラダイムに背くものだ。それはとりもなおさず心の傷が人に言えない理由に等しい。恥、禁忌、異端などを自覚したことによるうっすらとした息苦しさが、人をそこはかとなく苦しめる。そして芸術に向かわせる。夏目漱石が同じようなことを「草枕」に書いていたのを思い出した。
 本作品の主人公サルバドールもまた、心に刺さった棘に苦しむひとりである。おまけに坐骨神経痛などの様々な痛みに苦しんでいる。坐骨神経痛は長時間歩き続けられないし、踏ん張りが効かなくて足も上がらなくなる。若い頃空手で鳴らしていた人でも、坐骨神経痛になると回し蹴りはおろか前蹴りさえもままならない。身体がうまく動かないと気が弱くなる。だから逆に虚勢を張りたくなる。
 思い出と老化と身体の痛みと過去の栄光と将来の不安。様々に苦しむサルバドールだが、32年前の映画の再映をきっかけに動きはじめる。知人の助けと偶然の助けがある。心の傷は芸術への原動力だ。行動するには痛みが邪魔だが、意欲が失われた訳ではない。
 なんだかいろいろと救われる作品だった。人生も半ばを過ぎて来し方を振り返り行く末を案じる歳を経た方々には心に響く映画だと思う。

映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」

2020年06月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」を観た。
 政治家小川淳也のドキュメンタリー映画である。政治家のドキュメンタリーなのに何故か泣ける。「息子は政治家に向いていないと思うが、もし日本を変えられる政治家がいるとすれば、それは息子ではないかと思う」という父親の言葉には、息子を信じ、息子を尊敬し、そして息子を心配する親心が溢れている。
 以前ビートたけしが、脳にもスタミナというものがあるとテレビで言っていた。どういう文脈かは忘れてしまったが、同じテーマをずっと考え続けられる人とそうでない人がいるというふうに受け取って納得したことは覚えている。
 最近のニュースを見ていると、まさに脳のスタミナがないというか、考え続けるよりも安易な大義名分にすがる人が多いように思える。その代表は安倍晋三だ。国会中継を見る人が少ないのからなのか、総理大臣としての答弁に、思慮が殆ど感じられない。多分問題を深く考えることが苦手なのだろう。
 映画が始まってまもなくの大島監督との会話の中での小川議員の「精神生活は8割が我慢で1割が忍耐、残りの1割は辛抱」という言葉は、政治家としてやりたいことの前に党利党略のために時間と労力を費やさねばならない現状に忸怩たる思いを抱いている小川淳也の本音の吐露である。
 そして安倍総理については、国民のことは何も考えていないし、多分、特にやりたいこともないのだろうと一刀両断にする。憲法を変えたいのかもしれないが、それは国民生活には無関係のことだ。国民のためになにかやるという気持ちがない。同じように小池百合子も切って捨てる。その主張は正論だと思う。日本にこんな政治家がいるとは思わなかった。
 現在の日本は政党政治だから政党に属している議員と属していない議員の扱いに差がある。これは本当は憲法違反だと思う。政党に属していようがいまいが、選挙で選ばれた国会議員として平等の扱いを受けなければおかしい。国民の税金を政党助成金として政党には配布するが、無所属の議員には配布しない。比例代表制にも重複できない。ならばひとりでも政党を名乗ればいいかというと、国会議員5人以上などの要件があるから無理だ。政党が優先される政治体制が、政策立案よりも党利党略を優先させる土壌となっている。
 加えて国会は多数決だから、主義主張を通すためには選挙で政党としての勢力を増していく必要がある。数の力というやつだ。だから選挙に勝つことが最優先され、次第に選挙に勝つための政治ということにシフトしていく。
 有権者が政治家の実績や主義主張を判断して投票するならそれでもいい。しかし判断のためには、その政治家が有権者のために何をしてくれたか、何をしてくれようとしているのかという情報が必要だ。そしてマスコミはその情報を殆ど出さない。今はインターネットで実際にその政治家が何をしたのかを調べることができるし、有権者も自分で情報を集めて判断する傾向にあるが、まだまだ少数派である。
 有権者の大多数は候補者との個人的なつながりや、街角で握手してくれたとか、所属する組織が応援しているからなどで投票先を決める。または見た目や印象で決める。だから候補者は有権者と握手して回る。所謂ドブ板選挙だ。小川淳也はこのドブ板選挙が苦手である。しかし現状の社会のありようがそうなのだから、やらざるを得ない。家族を総動員して選挙区を回る。本当は得意の統計資料を揃え、国が次にやるべきことは何かを考える時間のほうがよほど大切なことはわかっている。しかし日本のしがらみ政治がそうさせない。
 小川淳也のもどかしさが画面一杯に伝わってきて、こちらも胸がいっぱいになる。「なぜ君は総理大臣になれないのか」というタイトルは、小川淳也という政治家個人ではなく、日本の政治土壌全体の問題を浮き彫りにしている。本来、有権者は現実を諦めることなく、志を高くして理想の政治家を求め続けなければならない。当方などは日本の有権者に匙を投げているが、小川淳也は諦めていない。人間はもっと賢くなれるはずだと信じている。
 国民を信じている政治家と侮っている政治家がいて、残念ながら後者が優位なのが日本のお寒い政治事情だ。7月5日投票の都知事選で小池が再選されてそれを証明するだろう。もし小池以外の候補者が新都知事になるようなら、東京都の有権者も捨てたものではないが、そんなことにはならないだろうな。

映画「ドクター・ドリトル」

2020年06月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドクター・ドリトル」を観た。
 大抵の人間は動物の動きや表情を擬人化して理解しようとする。それによって面白いとか可愛いとか思う。ペットを飼っている人の殆どがそうなのではないかと推察する。猫や犬のことを「うちの子」と呼ぶような人は、ペットを人間のように扱っている節がある。それは動物にとって本当にいいことなのだろうか。
 とはいっても人間はどうしても動物を擬人化してしまうものだから、普通の人が獣医や畜産業者のように動物に対してニュートラルに接するのは難しい。「何が面白くて駝鳥を飼ふのだ」という出だしで知られる高村光太郎の詩「ぼろぼろの駝鳥」でも、駝鳥を擬人化して境遇の不幸を憐れんでいる。そのあたりがセンチメンタルな詩人らしさではある。
 人間は科学よりも情緒に支配される精神構造の生物ということに加えて、自分を基準にしか物事を判断できないから、他の生物も自分の情緒の世界と同じように判断してしまう。理性的には科学的で客観的な判断が可能だが、情緒的には自分を投影することになる。人間の精神性の限界かもしれない。
 しかし逆にそういう精神性を楽しむことも出来るし、そういう作品を作ることも出来る。本作品はそんな映画のひとつだと思う。動物のCGアニメーションは大変によく出来ていて、こういう作品を観ると、そのうち映画には俳優もいらなくなるかもしれないと考えてしまう。しかし人間の主役として演技するロバート・ダウニー・ジュニアの表情にはCGにはない具体性が見て取れ、そこにはCGのどこか茫洋とした表情では伝わらないものがあるのは確かで、もう暫くは映画俳優の需要がありそうだ。
 主に子供が観て楽しい作品だが、大人の鑑賞にも十分に堪えうるクォリティがある。ロバート・ダウニー・ジュニアもさることながら、声で出演したエマ・トンプソンやマリオン・コティヤールのアテレコも素晴らしい。ディズニーらしい平和な世界観もコロナ禍のこの時期には気持ちをホッとさせてくれる。
 映画としての深みはないが、軽い気持ちで観られて気分が和むことはたしかである。動物の擬人化も悪いことではないという気がしてきた。

映画「悲しみより、もっと悲しい物語」

2020年06月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「悲しみより、もっと悲しい物語」を観た。
 印象としてはほぼ少女漫画である。少女漫画が悪い訳ではないが、世界観が浅い登場人物たちが一定の思い込みで行動するストーリーが多く、登場人物の個性や人間の複雑さを描ききれていない点でリアリティに欠け、感情移入がしにくい。本作品の登場人物たちはほぼ類型的でリアリティに欠ける部分があり、どの役の人物にも共感できないまま終わってしまった。
 音楽も歌も悪くないし、役者陣の演技もそれなりである。にもかかわらず終始ピンとこなかったのは、死に対する恐怖感と生への執着についての表現が殆どなかったためだと思う。人間は死を恐れて生にしがみつく存在だ。今日買ったパンを明日食べようと思えば、それだけで少なくとも明日までは生きていける。死の恐怖は観念的だが、生への執着は即物的である。
 本作品では生への執着も観念的に描かれていて、人間の泥臭さが感じられなかった。そのあたりが少女漫画のようであり、リアリティが欠如していた部分である。生々しい生がなければ死の恐怖も半減する。主人公が死を恐れ生に執着して、恐怖と苦痛と欲望にもがき苦しむ様子を描くことができていれば、共感も感情移入もできただろう。

映画「21世紀の資本」

2020年06月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「21世紀の資本」を観た。
 グローバルな経済の話だが、諸外国の実情はよくわからないので、日本の内情を考えてみた。
 小泉純一郎が総理大臣だった時代、平成の御用学者である竹中平蔵の主導によってアメリカ式の市場原理主義を導入し、小泉は「構造改革」と称して規制緩和を連発した。おかげで非正規雇用が劇的に増えた。正規雇用者との収入の格差は増大し、それはそのまま生活の格差、教育の格差、文化の格差となった。要するに貧乏人が増えたのだ。同時に、なんでもかんでも自己責任という論調が世に広まった。政治家にとっては自己責任という言葉ほど便利な言葉はない。貧乏も自己責任、病気も自己責任と言っておけば、政治が果たす役割は限りなく小さくて済む。
 民主党政権はCIAに鳩山首相が潰され、折から起きた東日本大震災で、構造改革と自己責任はしばらく放っておかれたが、安倍晋三政権によって小泉改革路線が踏襲され、世の中は豊かな人がどんどん減少し、格差は更に広がっていった。悪いことに自己責任論は輪をかけて広まり、時代のパラダイムと化してしまう。ジャーナリストが紛争地域に行ってテロリスト集団から拘束され、あるいは殺されるのも自己責任ということになり、中には殺された後藤さんをSNSで非難する有名人まで現れた。
 ジャーナリストが紛争地域に行く理由は簡単である。事実を伝えるためだ。世の人々が正しい判断をするためにはより正確な情報が必要である。しかしすべての情報にはバイアスがかかっている。政府の出す情報には政府に不利な事実は含まれない。場合によっては嘘が混じる。戦前の大本営発表を鑑みれば明らかだ。だからジャーナリストは現場に赴いて自分で見て聞いたことを伝える。勿論ジャーナリストの情報にも個々のジャーナリスト毎のバイアスがかかっているが、政府の出す情報とは確実に違う情報が得られる。権力のバイアスのない情報である。それは人々にとっては例えば選挙での投票先を考えるのに必要な情報なのである。テロリストに拘束されたジャーナリストを自己責任として放置する姿勢は、貧乏人を自己責任として放置する政治家の姿勢、あるいは生活保護の申請をなかなか受けつけない役人の姿勢にも通じる。国民から徴収した税金を自分たちの金と勘違いしているのだ。
 国民は自分のレベルに合った政治家しか選べないという。つまりは雇用を流動化させて格差を増大し、貧富の差に平然として弱者も病人も自己責任と一刀両断してハナから救う気がない政治家を選んだのが日本の有権者であり、突き詰めれば日本国民はそれを望んでいるということである。
 世界中で似たようなことが起きているとすれば、人間は格差が好きなのである。勝ち組と負け組という意味不明の言葉を作り、勝ち組に入れないのがいけない、つまりは自己責任だという論理になる。貧しい人が総理大臣になることは殆どない。多分田中角栄くらいのものだと思うが、政敵である福田赳夫を大蔵大臣に抜擢したり、自分に諫言する人に金を渡していたことを考えると、自分がたまたま運がよかっただけだと自覚していたのかもしれない。しかしそういう反省の気持ちを持つ人は極めて稀である。
 金持ちの子供は塾でも家庭教師でも参考書でも十分に与えられ、東大でもスタンフォードでもケンブリッジでもMITでも行ける。しかし貧乏人の子供がコロンビア大学に入学することはまず不可能だ。国家公務員上級試験に合格することも滅多にないだろう。そうして金持ちによる金持ちのための政治が連綿と続く。格差は固定化されるのだ。
 しかし人生の目標は生活レベルの向上だけではない。美人を妻に持ち大きな家に住んで高級車を乗り回すのが夢だった時代、あるいは三高の男と結婚して贅沢な暮らしをするのが夢だった時代はもはや終わった。特に超高齢化社会でしかも低成長、またはマイナス成長という下り坂の国家の最先端である日本に住んでいれば、そういった価値観は過去のものである。前世紀の遺物だ。これからはモノに執着しない精神的な充足が目標になるだろう。
 とはいっても「衣食足りて礼節を知る」ということわざもある通り、最低限の生活を営むことができなければ精神的な充足もへったくれもない。貧しくても衛生的で健康な生活を保障するのがこれからの政府の役割だろう。ところが現在の政府はその役割を担おうとしていないように見える。それどころか貧乏人も病人も自己責任で切り捨てている。そして同じことが世界レベルで起きているということを思い知らされたのが本作品である。問題は現代の政治であって、御用学者が本作品を意味不明に論評している「戦間期の悲劇」などではないことをはっきり申し上げておく。