スポーツの試合を実際に見に行くことはほとんどありません。プロ野球は15年位前に人から券をもらったので、それで行きました。巨人戦。桑田が投げて打たれていました。それ以外は覚えていません。競馬場には行きますが、競馬はスポーツではないので範囲外となります。ラグビーもサッカーも行きませんね。もっぱら、サッカー以外の競技をテレビ観戦するくらいです。
マラソンやその他の陸上競技など、いわゆる記録が相手のスポーツは苛々せずに見ることができますが、サッカーはいけません。サッカーは相手のことを引っ張り合ったり蹴飛ばし合ったりする場面が多くて、テレビ録画のスローモーション再生で思い切り相手選手のジャージーを引っ張っているのを見ると、いやな気持ちになります。しかもそのプレーが反則にならないことが多くて、ルールにも疑問を感じます。見ると苛々するのでテレビにサッカーが映るとすぐに消します。どうしてこんな競技が人気があるのかなと、本当に疑問を感じますね。サッカーを観戦する狂人たちのことをなんと言うんでしたっけ? あ、フーリガン! ダイナマイトを投げあったり拳銃を乱射したりという、本場外国の度外れたフーリガンから、渋谷の街でバカ丸出しで暴れる日本のフーリガンまで、とにかく最低のレベルの人間が応援するスポーツがサッカーであるという訳ですね。サッカーはSuckerに通じるんでしょうか。
スポーツ自体が本来、戦争や殺し合いをしない代わりの闘争本能のはけ口としての意義を持っているので、肉弾戦の要素を持つスポーツは、観戦する人の闘争本能を刺激する面があります。だからサッカーの観客がフーリガンになるのは仕方がないかというとそうではなくて、人類はずっと闘争しないこと、戦争をしないことを目指してきた訳で、わざわざ観客の闘争本能を引き出すような競技を公開でやらせなくてもいい筈です。何故やらせるんでしょうか。
人間は他人を支配下に置きたい、言うことを聞かせたいという欲求があります。頭の悪い、しかし言い訳の多い部下を持つ上司が「黙ってやれ、馬鹿野郎!」と言いたくなるアレですね。その裏返しで他人からアレコレ命令されたくないという反発心もあります。ところが自分で何でも決めなければならなくなると逆に不安になります。自由の不安というやつですね。また、他人から嫌われることや孤立することを恐れます。そして常に他人に認められたいと思っています。要するに人間関係に人間のすべての悩みがある訳です。「職場の人間関係で悩んでいます」なんてのは当たり前の話で、家族親戚友人知人上司部下同僚恋人愛人隣人から赤の他人に至るまで、人間は常に他人に何かを求め、また求められ、うまくいかずに悩むのです。人間に欲求がある限り、うまくいきっこありません。悩みは永遠に続くのです。
そんな悩みが、プロのスポーツ選手になるといくつか満たされます。他人から認められるし、お金もたくさんもらえる。どうしようもない不良少年がスポーツに目覚めて成功するという馬鹿みたいなストーリーが現実にたくさんありますが、不良少年というのは頭が悪くて想像力に乏しいから、いい想像も悪い想像もあまりできない。だから将来を憂えることなく強気になれます。まるでどこかの国の総理大臣みたいです。スポーツはひとつの戦いですから、弱気な人間は勝てない。その点、頭の悪い不良少年は世を憂える能力も他人を恐れる能力もないから、強気一辺倒で、まさにスポーツに向いているのです。安倍ちゃんは総理大臣よりもスポーツ向きの人間でしょう。ノミの心臓ならぬ安倍のシンゾウ。なんて冗談を言いたくなるくらい悲しい事実ではありますけれども。
たとえば牧師さんや神父さん、お坊さんがサッカーをしていると想像してみます。ジャージーを引っ張り合い、アキレス腱に思い切り蹴りを入れ合う聖職者。こんな聖職者は嫌ですよね? どうして嫌なのかというと、見苦しいからです。浅ましいのです。聖職者は平和を愛し、戦いを嫌い、他人のために犠牲となるのを厭わない人格者でなければなりません。
サッカーという競技は戦争に近いものがあります。戦争では人間は正気を失い、平常時は温厚な人が敵地の住人を強姦したり略奪したりします。まさにフーリガンと同じです。そしてスポーツ向きの安倍のシンゾウの持ち主である安倍ちゃんが、海外に敵を求めて国民を戦争に巻き込もうとしているのもまた、同じ精神構造なんですね。