映画「Die Blumen von Gestern」(邦題「ブルーム・オブ・イエスタデイ」)を観た。
http://bloom-of-yesterday.com/
かつての昭和映画のように暴力的な映画である。主人公は他人が苦手だが、自分を否定するのではなく、むしろ他人を否定し、自分の価値観で他人に暴力を振るう。そしてそんな風にしか他人と接することの出来ない自分を嘆く。ほとんど病気である。
ホロコーストはドイツ人にとって未だに消化しきれずに心のどこかに引っ掛かり続ける異物のようだ。登場人物の誰もが、自分が加害者の子孫、あるいは被害者の子孫であることに捉われ、そこから一歩も抜け出せない。
歴史の過ちは常に顧みなければならないが、共同体や祖先の呪縛に縛られ続ける必然性はない筈だ。しかしこの作品の登場人物たちは異常なほど祖先、国家、師弟などの関係性に捉われる。それがドイツの国民性であるとするなら、ヒトラーを生んだ精神性の基盤がそこにある。
人間は目的や義務をもって生み出される訳ではない。単に生まれるだけだ。物心ついてからは自由な選択が許される。人々の多様な選択を認めるのが民主主義である。ドイツ国民として生まれたからには云々といったパラダイムは、全体主義そのものだ。残念なことに同じパラダイムが日本でも支配的である。日本人として生まれたからには云々という文言は巷に溢れている。全体主義に直結する精神性だ。
この映画には全体主義的な精神性の持ち主しか登場しない。登場人物の誰にも感情移入できないまま、異常な重苦しさで物語が進む。人間同士の本音の交流がパラダイム同士のぶつかり合いによって蹂躙される構図がこの映画の芯になっている。
ゲルマン民族の救われない精神構造を見せつけられた感じだ。それは取りも直さず、日本人の救われない精神構造に等しい。もしかしたらどこの国の国民も同じような全体主義的な精神構造なのかもしれない。だとしたら世界は救われない。
そんな作品だった。