人が死んだことで罪悪感を抱えつづける人々の物語である。登場人物同士は互いの接点は少なく、抱える罪悪感の度合いもニュアンスも異なる。だから苦しみを共有することはできない。
しかし自問する言葉は同じである。人を殺した自分なんかが生きていていいのだろうか?
人間は自分の利益のため、自分の快楽のために人を殺す、或いは見殺しにする。時には過失によって、若しくは国家の命令によってそうすることもある。死んだ人は二度と返ってこない。人を殺す行為は常に取り返しがつかない行為なのだ。だからたとえ国のためという大義名分があっても、戦場から帰還した兵士はトラウマに悩まされる。
では人を殺すことでどうして罪悪感に苛まれなければならないのか。良心の呵責やトラウマはどこから生まれるのだろうか。たとえば人を殺して食べる習慣のある共同体では、恐らく人を殺しても罪悪感はないだろう。原始的な社会にはそもそもタブーが存在せず、従って罪悪感もない。
文明が進んで共同体内部での分業が確立していくと、人々が互いに殺し合うことは人口の減少に直結し、生産性の低下を招くことになる。それは共同体にとって不利益である。そこで共同体は人を殺すことを禁じる。禁忌というものは共同体においては厳格な罰則と結び付いて強大な抑止力を持つようになる。人の心の奥深くに根を張り、いつしか人を殺すことに激しい抵抗を覚えるようになるのだ。これが良心のはじまりである。
しかし人間の中には禁忌にとらわれない精神の持ち主も現れる。共同体にとっては大変な脅威なので弾圧されたり差別されたり、または社会の同調圧力によって隅に追いやられたりするが、皮肉なことに共同体の次の指導者になるのはそういう人間である。過去の言動をどれだけ暴かれても、知らぬ存ぜぬと平気で嘘をつくこの国のトップを見ても明らかだ。ある意味で怪物のような精神の持ち主が共同体を牛耳っていく。
怪物のような精神の持ち主でない普通の人々は、共同体の思惑に嵌まり、殺した殺されたの禁忌の相関関係で互いに追い詰めたり追い詰められたりする。それがこの映画である。悲劇だが、喜劇でもある。
人の死はすべからく介在的にしか捉えられない。死の恐怖は未知なるものに対する恐怖である。死を恐れるあまり、死後の世界を思い描いたり、天国や地獄を想定したりする。死を支配する者、即ち共同体の中で生殺与奪の権力を有する者は絶大な支配力を持つ。
本作品の登場人物たちは皆、支配される側の者たちで、非常に哀れである。共同体のパラダイムに物理的な面だけでなく、精神的にも蹂躙されている。しかもそのことに気づかない。そして同じパラダイムで互いに非難し合い、傷ついていく。
いつの日か彼らにも、共同体のパラダイムから解放されるときが来るかもしれない。それが彼らが救われる日だ。その日が来るかどうかは、彼ら自身にかかっている。