三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「恋は雨上がりのように」

2018年05月31日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「恋は雨上がりのように」を観た。
 http://koiame-movie.com/#/boards/koiame

 小松菜奈は役所広司主演の「渇き」の冷酷でミステリアスな少女のイメージが強く残っていて、無表情の存在感と不気味な笑顔が特徴的だった。
 本作品でも無表情の表情とでも言うべき演技で独特の存在感を表現する。こういう演技が必要な場面は本作品に限らず結構あって、上手く生かせれば小松菜奈という女優の個性となっていくだろう。
 大泉洋は達者な役者だが、何を演じてもそこら辺にいそうなコミカルな感じになる。軽薄だがたまにシリアスで、リアリティ十分である。こういう気のいいおじさんは日常的に見かけるものだ。
 さて、物語はどこにでもある喪失と再生の話で目新しさはないが、小松菜奈と大泉洋という個性的な配役が功を奏して、テンポのいい心理劇に仕上がっている。登場人物のいずれもが典型的で、誰にでも容易に感情移入ができる。
 雨のシーンが多い映画だが、ストーリーが進むにつれて登場人物たちの心が晴れていく。お手軽ではあるが、タイトルとも調和のとれた明るい再生の物語である。


映画「友罪」

2018年05月31日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「友罪」を観た。
 http://gaga.ne.jp/yuzai/

 人を殺した人間には幸せになる権利がないのか?

 人が死んだことで罪悪感を抱えつづける人々の物語である。登場人物同士は互いの接点は少なく、抱える罪悪感の度合いもニュアンスも異なる。だから苦しみを共有することはできない。
 しかし自問する言葉は同じである。人を殺した自分なんかが生きていていいのだろうか?

 人間は自分の利益のため、自分の快楽のために人を殺す、或いは見殺しにする。時には過失によって、若しくは国家の命令によってそうすることもある。死んだ人は二度と返ってこない。人を殺す行為は常に取り返しがつかない行為なのだ。だからたとえ国のためという大義名分があっても、戦場から帰還した兵士はトラウマに悩まされる。

 では人を殺すことでどうして罪悪感に苛まれなければならないのか。良心の呵責やトラウマはどこから生まれるのだろうか。たとえば人を殺して食べる習慣のある共同体では、恐らく人を殺しても罪悪感はないだろう。原始的な社会にはそもそもタブーが存在せず、従って罪悪感もない。
 文明が進んで共同体内部での分業が確立していくと、人々が互いに殺し合うことは人口の減少に直結し、生産性の低下を招くことになる。それは共同体にとって不利益である。そこで共同体は人を殺すことを禁じる。禁忌というものは共同体においては厳格な罰則と結び付いて強大な抑止力を持つようになる。人の心の奥深くに根を張り、いつしか人を殺すことに激しい抵抗を覚えるようになるのだ。これが良心のはじまりである。
 しかし人間の中には禁忌にとらわれない精神の持ち主も現れる。共同体にとっては大変な脅威なので弾圧されたり差別されたり、または社会の同調圧力によって隅に追いやられたりするが、皮肉なことに共同体の次の指導者になるのはそういう人間である。過去の言動をどれだけ暴かれても、知らぬ存ぜぬと平気で嘘をつくこの国のトップを見ても明らかだ。ある意味で怪物のような精神の持ち主が共同体を牛耳っていく。

 怪物のような精神の持ち主でない普通の人々は、共同体の思惑に嵌まり、殺した殺されたの禁忌の相関関係で互いに追い詰めたり追い詰められたりする。それがこの映画である。悲劇だが、喜劇でもある。
 人の死はすべからく介在的にしか捉えられない。死の恐怖は未知なるものに対する恐怖である。死を恐れるあまり、死後の世界を思い描いたり、天国や地獄を想定したりする。死を支配する者、即ち共同体の中で生殺与奪の権力を有する者は絶大な支配力を持つ。
 本作品の登場人物たちは皆、支配される側の者たちで、非常に哀れである。共同体のパラダイムに物理的な面だけでなく、精神的にも蹂躙されている。しかもそのことに気づかない。そして同じパラダイムで互いに非難し合い、傷ついていく。
 いつの日か彼らにも、共同体のパラダイムから解放されるときが来るかもしれない。それが彼らが救われる日だ。その日が来るかどうかは、彼ら自身にかかっている。


映画「モリのいる場所」

2018年05月28日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「モリのいる場所」を観た。
 http://mori-movie.com/

 熊谷守一という95歳の画家のある一日を描いた作品である。最初に画家のアトリエらしき部屋が静かに紹介されるが、部屋の主は現れない。ただフクロウが目をぱちくりしているだけである。画家は今日もいつも通り庭の探索に向かっている。どれだけ探索してもまだまだ新しい発見がある。
 木を見て森を見ずの反対で、彼は昆虫や葉っぱのひとつひとつの変化から、そこに何かしらの真実を見つけ出す。全体を概念で片付けるのは簡単だが、画家の目に概念は意味を成さない。とことん細部にこだわっていくと、いつしか時間も空間も変化し、時はゆっくり流れ、巨大な蟻がスローモーションのように足を運ぶのが見える。石は何時間眺めていても飽きることはない。庭はどこまでも広い未知の世界だ。子供の頃のように世界は期待に満ち溢れている。彼は言う「生きることが好きなんだ」
 ラストに近いシーンで妻の秀子が「学校」と呼ぶ場所こそが、冒頭に紹介されたアトリエらしき部屋であることがわかる。画家はそこがあまり好きではない。絵を描くことは復習みたいなもので、新しい発見がないからだ。フクロウだけが目をぱちくりさせている。
 長い年月を生きて喜びも悲しみも乗り越え、こだわりもわだかまりも捨てて無心で生きる夫婦の姿を、山崎努と樹木希林という名人芸の二人が淡々と演じる。水墨画のような奥深さを感じた映画であった。


映画「妻よ薔薇のように 家族はつらいよⅢ」

2018年05月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「妻よ薔薇のように 家族はつらいよⅢ」を観た。
 http://kazoku-tsuraiyo.jp/

 アメリカでは映画でも小説でも、家族が第一であるという価値観が金科玉条のごとく扱われているが、日本ではそれほどでもない。普通の人の普通の日常では仕事や学校が優先でどちらかというと家族は二の次だ。家族が問題になるのは相続争いや家庭崩壊あたりである。それは共同体の中での家族の位置づけの違いによるものではないかと思う。
 アメリカでは家族は国家や州、町、会社などとは独立した、独自の世界として捉えられる。そして共同体や組織は、個人の家族を尊重する。しかし日本では共同体や組織の都合が家族の都合を蹂躙している。

 本作の家族はいまでは珍しい、家族優先の一家である。こういう家族がいてほしいという制作者の願望がはっきりと感じられる。そして映画を観終えると、実は自分の中にも同じ願望があることに気付く。家族とは、同じ花を見て美しいと思うときの共生感が得られるもっとも身近な単位なのである。
 家族それぞれの役割は、ひとりの人間の脳内のように明確だ。ひたすら正論を主張する者、ひねくれて斜に構える者、黙って耐える者、おちゃらけて笑い飛ばそうとする者、他人事のように論評する者など、ひとりひとりに典型的な立ち位置がある。人の頭の中で考えがまとまるような感じで家族がまとまりそうになると、誰かが暴走して再び混沌となる。そのあたりのドタバタが笑える。

 西村まさ彦が演じる、独善的に見える長男幸之助だが、父親の周蔵から見ればコミュニケーション能力に欠ける頼りない息子である。しかし出張の土産で息子たちが普段から欲しがっていたゲームや、妻に似合うであろうスカーフを買ってきたりする優しさも、実は持っていたりする。そしてそのスカーフが本作のキーアイテムで、タイトルにもつながっていく。
 意地を捨ててプライドを捨てて、優しさを発揮することは、相手との距離が近いほど難しいことである。しかし勇気を出して踏み込むことでわだかまった心が氷解する。その過程を山田監督は丁寧に描いて見せた。笑えて泣けてホッとする、あたたかい作品である。


映画「のみとり侍」

2018年05月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「のみとり侍」を観た。
 http://nomitori.jp/

 数日前に松坂桃李の「娼年」を観たばかりで、あちらは現代版の男娼であったが、こちらは時代劇だ。寺島しのぶはゴールデンウィークに舞台「ヘッダ・ガブラー」を観た後に映画「オー・ルーシー!」を観た。特になんだということはないが、巡り合わせを感じてしまう。

 本作品は時代劇コメディである。江戸時代ならではの武士のヒエラルキー社会のパラダイムに翻弄される主人公は、企業の論理や人間関係、派閥などに左右される現代の真面目なサラリーマンに通じるものがあって、どこか物悲しい。
 阿部寛はコミカルな俳優の面目躍如というところだが、寺島しのぶはどちらかというと悲惨な現実を生きる女性をシリアスに演じるイメージがあったので、本作の役は意外だった。やっぱり演技は大変に上手で、主人公に向かって「下手くそ!」と言うとき、その言葉が男を傷つける言葉であることが分かっていて、しかし言わずにいられず、そして言ったとたんに後悔するという、女の優しさを目一杯表現するシーンには感服した。凄い女優である。

 ストーリーはほぼ一本道で、最後に人情噺的などんでん返しがあるという、割と王道の時代劇である。ホロっと来る人もいるだろう。大竹しのぶに風間杜夫、豊川悦司、斎藤工、松重豊と豪華な俳優陣が脇を固めていて、とても贅沢をしたような気分になった。観ると肩の力が抜ける佳作である。


映画「四月の永い夢」

2018年05月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「四月の永い夢」を観た。
 http://tokyonewcinema.com/works/summer-blooms/

 

「ローマの休日」と並んで映画ファンなら知らない者はいない名作「カサブランカ」のオマージュだろうか、映画の中の名曲「時の過ぎゆくままに」が象徴的に、効果的に使われる。念のために書くが、沢田研二の曲ではなくて「As Time Goes By」のほうである。
 主人公初海を演じた朝倉あきが素晴らしい。表情もいいし声もいい。過剰な演技をしないタイプなので派手な役は向いていないが、等身大の女性を自然に演じる、または自然に演じているように見せることのできる貴重な女優である。

 映画は説明的な部分をなるべく省略しているが、物語が進む中でいろいろなことがおのずと明らかになっていく。春に亡くなった恋人がずっと心の中に住んでいて、どの方向にも踏み出せないまま時が止まったように毎日同じことを繰り返す初海の生活に、手紙や昔の教え子や思いを寄せてくれる藤太郎や教師の友人などが登場する。そのかかわりの中で、過去を尋ね、心の中のわだかまりを少しずつ解かしていく。
 恋人の母親役の関根恵子の台詞が印象的で、溶けて流れてしまいそうだった初海の心を包み込む。冒頭のシーンで初海が喪服を着て桜の中を歩いた道は、もう夏になっている。漸く永い春が終わったのだ。

 優しい人ばかりが登場する優しい映画だが、台詞やシーンが凝縮されていて、観る者の想像力によって現実感が増していく。ストーリーが進むにつれて散らばっていたシーンがジグソーパズルのように一体化していくのだ。心憎いばかりに見事な手法である。


映画「I am not your negro」(邦題「私はあなたのニグロではない」)

2018年05月20日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「I am not your negro」(邦題「私はあなたのニグロではない」)を観た。
 http://www.magichour.co.jp/iamnotyournegro/

 学生時代に「マルコムX自伝」を翻訳で読んだことがある。内容はもう覚えていないが、黒人の誇りと怒りが激しい言葉で書かれていた気がする。ボールドウィンは作家ということは知っていたが作品を読んだことはなかった。

 アメリカは同調圧力の強い国だ。誰もが多数派に迎合し、異端を激しく糾弾する。アメリカ人のアイデンティティのありようは、個性を認めようというよりも、大勢で共生感を抱くことに重点があるように思える。その向かう方向は一定しておらず、レディガガに熱狂しているかと思えばトランプにも熱狂する。有名人の個性は認めるが、一般人の異端は許されない。糾弾や熱狂は大抵の場合とてもヒステリックで、論理性が欠如している。銃社会のアメリカでは少数派の意見の主導者は多数派のヒステリックな人間たちによって射殺される。犯人は決して捕まらない。

 心配なのは、日本でも同じようなヒステリックな精神性が蔓延しつつあることだ。ヘイトスピーチをする人々は自分の不平不満のはけ口を弱者への憎悪に転化する。野党の国会議員に自衛隊の幹部が暴言を浴びせた事件は、文民統制が崩れて軍国主義の国に逆戻りする予兆に違いない。
 これからの日本にマルコムXやマルティンルーサーキングが現われるだろうか。ボールドウィンのように恐れずに発言する作家が現われるだろうか。岸井成格さんが亡くなって骨のあるジャーナリストが消えつつある日本で、言論の自由が守られ、平和が存続できると思えない。他人の存在を許容し、多様性を認める寛容な精神がなければ民主主義は成立しえないのだ。アメリカがかろうじて民主主義国の体裁を保ち、オバマ大統領を誕生させた背景には勇気を持って主張を続けた人々がいたことを、改めて思い出させてくれるいい作品だった。


映画「娼年」

2018年05月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「娼年」を観た。
 http://shonen-movie.com/

 平日のレイトショーだというのに、渋谷の映画館は若い女性客で一杯だった。メンズデーなのでオッサンばかりだろうと予想していたのが見事に裏切られた格好である。一昔前なら女性が観賞することが憚られるような映画だが、ケラケラと笑いながら見ている彼女たちに時代を感じてしまう。それにしても松坂桃李はこれほど女性に人気なのか。それとも女性が強くなったのか。

 性交シーンで女性群の笑いが起きていたから、エロスというよりも性交のプロフェッショナルとしての象徴的なシーンを出したかったのだろう。本当にプロフェッショナルのテクニックを表現しようとすれば、カーマスートラにあるようなタントラセックス、スローセックスのシーンを描くのが王道だろうが、それでは普通のポルノ映画になってしまう。そうならないように敢えてAVみたいな動作を入れたのだと思う。パロディの意図も感じられる。

 性交に種の保存ではなく精神的な満足を求めるのは人間だけではなかろうか。ギリシアの昔から、支配階級の男性の欲望を満たすための娼婦または男娼が存在したと言われている。しかし女性には妊娠の恐れがあるから、たとえ金持ちで旺盛な性欲があったとしても、相手構わず性交する訳にはいかない。
 長い年月を経てコンドームやピルなどの避妊具が開発されたことで、女性の主体的な性行動の自由が生まれた。フリーセックスという言葉は女性のために誕生した言葉なのだ。そして時代は流れ、女性たちは経済力を得て、かつての男性たちがしていたように男を買う、というのがこの映画の下地である。女性たちにも男性と同じような多様な性欲があると仮定し、様々な性交シーンを積み重ねてこの作品が出来た。
 しかしこの映画は原作も監督も男性である。女性の性の奥深い部分は分かりようがない。「黒の舟歌」の歌詞のように、男と女の間には深くて暗い河があるのだ。少年は少女の心の深奥に迫ろうと舟を出すが、その願いが叶うことはない。大人になって自分なりの女性との付き合い方を会得すると、もはや女性の心の深奥に迫ろうとはしなくなる。しかし心のどこかにはまだそういう気持ちがあり、女性を本質的に理解することでこの世界の真実を垣間見たい願望は捨て切れない。この作品はそういう意味で男の心の中にいる少年を描いた作品で、だからタイトルも「しょうねん」なのである。


映画「孤狼の血」

2018年05月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「孤狼の血」を観た。

 http://www.korou.jp/

 役所広司という人は本当に器用な俳優である。「三度目の殺人」では無私の犯罪を犯すおとなしい男、「山本五十六」では穏やかで寛容な軍人、「渇き」では家族の愛を失ったチンピラみたいな無法者、「日本のいちばん長い日」では割腹自殺を遂げる国家主義者の陸軍大臣を演じた。いずれの役も強く印象に残っている。
 本作で演じた主人公大上は「渇き」の役に似た外見だが、中身はだいぶ違っていて、あちらが良心の欠片もないやくざな男だったのに対して、大上には人間愛がある。心優しき荒くれ者の役は手慣れたもので、楽しそうに存分に演じていた。個人的に警視庁組織犯罪対策課の刑事を知っているが、彼らの外見はどう見てもやくざにしか見えない。役所広司のコスチュームは見事にハマっている。
 松坂桃李は「麒麟の翼~新参者」で存在感のある演技をしているのを見てから注目している俳優で、「彼女がその名を知らない鳥たち」では軽薄で無責任な優男を好演するなど、芸達者なところも見せている。本作ではぎりぎりセーフだったかなという演技ではあったが、県警本部のエスという難しい役どころを力技で演じたところに好感が持てる。

 作品は昭和63年の広島が舞台となっていて、缶ビールのプルトップが缶から離れるタイプだったり、連絡がポケットベルの語呂合わせだったりして、ディテールへのこだわりが伺えた。時代はバブルの最中だったはずで、市民生活はそれほど派手ではなかったが、企業は交際費を湯水のように使えていて、広島のクラブも接待の客で賑わっている。
 そんな時代背景で、一方で殺したり殺されたりのヤクザの抗争があり、一方で警察内部の隠蔽や反社との癒着がありといった複雑な関係の渦中にあって、マル暴刑事である大上は、本人の弁によれば、情報を武器にヤクザの抗争を収め、街に平和をもたらそうと日々努力している(らしい)。
 松坂桃李の日岡刑事は広島大学出身だ。国立大学の中でも広島大学は難関大学のひとつである。少なくとも1988年頃はそうだった。広島大学を出たとなれば地元ではそれなりに優秀だと思われていた筈だ。そういう事情も踏まえて、大上は新配属の日岡を広大と呼ぶ。親しみと揶揄、それに僅かばかりの尊敬をこめてそう呼ぶのである。
 映画は、世間知らずの日岡が大上と一緒に捜査を進める中で世の中を少しずつ理解し、一方的だったものの見方が立体的になっていく成長の過程も描く。登場人物それぞれの人生が折り重なり、様々に蔓を伸ばしながら複雑に絡み合っていく、見ごたえのある素晴らしい作品である。


映画「Suburbicon」(邦題「サバービコン 仮面を被った街」)

2018年05月12日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Suburbicon」(邦題「サバービコン 仮面を被った街」)を観た。
 http://suburbicon.jp/

 ジョージ・クルーニー監督は現代という時代に相当な危機感を抱いているのではないか。この映画の制作のモチーフについてそう感じた。

 映画は、マット・デイモンが主人を演じるリッジ一家の話と、町に越してきた黒人家族に対する人々の反応が平行して描かれる。振興のニュータウンであるサバービコンは白人ばかりが移り住んで住民全員が仲良くしているように見えるが、リッジ夫人の黒人家族に対する対応からすると、リッジ一家は必ずしも町の人々と精神的に共鳴している訳ではなさそうである。

 町のマジョリティはムラ社会の精神性を有している。他人に過剰に介入する、つまりお節介な傾向があり、異物の侵入には極端に警戒心を高める。黒人家族という町にとっての異物には町全体が国家主義みたいな高揚に包まれ、敵対行動がエスカレートしていく。一見ユートピアに見えるサバービコンは、実は不寛容で閉鎖的なムラ社会なのだ。
 対してリッジ一家は個人主義であり、利己主義である。ムラ社会の人々の暑苦しい精神性に辟易している一方、自己の欲求を満たすためには手段を選ばない無法者の側面を持っている。

 いずれも愚かで未来のない精神性で、共通しているのはどちらも不寛容であるという点だ。不寛容な精神は一元論に収斂される。一元論は異論を認めず、異論を説く人間の人権さえも否定する。それはつまり民主主義の否定である。
 映画は愚かな登場人物の愚かな行動を否定するが、最近の現実の世界はまるでサバービコンである。価値観の多様性が否定され、愚かで暴力的な事件が多発している。他国に対して不寛容であり閉鎖的である。この作品が描いたのは、アメリカの小さな町の何十年も前の話ではないのだ。
 映画は世界に遍在する反民主主義のムラ社会であるサバービコンを相対化して笑い飛ばす。そして未来に残る子供たちは互いの多様性を認め、寛容な精神をもって生きていく。スケールの大きな傑作である。