映画「WAR ROOM」(邦題「祈りのちから」)を観た。
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さすがに信仰心の篤いクリスチャンが多い国アメリカの映画だけあって、映画の中でJesusという言葉がやたらに出てくる。強盗までJesus nameという言葉で撃退できるくらいである。
原題の「WAR ROOM」は祈りの部屋のことだ。世界は神と悪魔の戦争であり、悪魔に打ち勝つためには非力な自分が戦うのではなく、祈りによって神の力で悪魔を打倒するのが人間にできる唯一の方法だと、老婆クララは力説する。悪魔とは人のプライドであり、憎悪であり、悪い行ないである。人そのものではない。だから自分に関わるすべての人を愛し、その人のために祈るのだ。
聖書に「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ伝第5章)「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。呪う者を祝福し、辱しめる者のために祈れ」(ルカ伝第6章)と書かれてあるとおりである。
しかし考えてみれば、あえてキリスト教の物語にしなくても、仏教のお経でも十分に役割を果たせただろう。あるいは大正の詩人の詩でもよかったかもしれない。
般若心経には、次の一節がある。
「心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃」
罣礙とは難しい言葉だが、人間のプライドであり、愛着であり、執着であり、憎悪であり、一言で言うとこだわりである。それらを捨てれば涅槃(ニルヴァーナ)の境地に至ることができると書かれてある。
中原中也の「山羊の歌」の中の「無題」という詩に次の一節がある。
「かくは悲しく生きん世に、なが心 かたくなにしてあらしめな。われはわが、したしさにはあらんとねがへば なが心、かたくなにしてあらしめな。かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ) 魂に、言葉のはたらきあとを絶つ なごやかにしてあらんとき、人みなは生(あ)れしながらの うまし夢、またそがことわり分ち得ん」
「頑なの心は、理解に欠けて、なすべきをしらず、ただ利に走り、意気消沈して、怒りやすく、人に嫌はれて、自らも悲しい。されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。従ひて、迎へられんとには非ず、従ふことのみ学びとなるべく、学びて 汝が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!」
いずれも、自分自身の凝り固まった心をほぐしていけば、周囲の心もほぐれていき、心を通い合わせることができる、それは本当に幸せなことだというテーマだ。簡単だが奥が深い。
とても感動的ないい映画だった。
テレビ東京の参議院議員選挙開票特別番組で、キャスターの池上彰が自民党議員の小泉進次郎の演説の様子を取材した場面があった。秋田県での演説だ。
演説の内容は、少子化についての話で、少子化は止めようがない現象だから、人口が少なくなっても豊かな生活を公正に引き継ぐための工夫を考えることが必要だという至極まともな内容だった。そして聞いていたおばさんたちは、話がわかりやすい、地元のことをよく知っているなど、感心していた。おそらく自民党に投票したのだろう。街宣車の演説台に上げられた若者も、野党に投票するつもりだったが進次郎の話を聞いて自民党に投票すると答えていた。
しかし、参院選の目的のひとつは、現政権についての是非を問うものである。現政権の政策はアベノミクスと呼ばれる経済政策であり、戦争法案をはじめとする憲法改正である。進次郎の話は、池上彰の解説によるとアベノミクスを真っ向から否定するものだ。にもかかわらず進次郎の演説を聞いた有権者は、参院選の目的も意義も何もわかっていないままに自民党に投票した。
小泉進次郎の動きは池上解説によれば権力への野望が原動力で、東京五輪後に総理大臣を狙っているという。自民党を勝たせようという目的ではなく、各候補者に恩を売って、党内での人脈を築き上げるのが目的で、将来の総裁選への布石としていると解説していた。
池上解説が正しいかどうかは別にして、進次郎の演説の内容と参院選の争点はまったく無関係であることは確かだ。しかし演説を聞いた有権者は自民党に投票する。どうしてそうなるのか。
池上彰はそこにまでは踏み込んでいなかったが、要するに日本人のミーハー気質と、自分でものを考えない国民性が、今の政治を作ってきたのだ。有権者の投票の直接の動機は、政策の比較などではない。
人気者で見た目がいい
握手してもらった
わざわざ辺鄙な田舎に来てくれた
候補者が親戚だ
職場で投票するように言われた
実は有権者の投票動機はこんなものだ。アベノミクスが成功したのか、失敗だったのか、憲法を改正すべきなのか菜度について、深く考察して投票する有権者の割合は非常に少ないと推測される。
戦争を実体験として記憶している人は非常に少なくなっている。戦争の恐ろしさを知る人がいなくなるということだ。戦争を知らない者たちが共同体の美学や大義名分の言葉の響きのよさに酔いしれて戦争する国にしようとしている。日本会議をはじめとする右翼思想の人間たちだ。ダッカで日本人が殺されたのは日本会議を後ろ盾にした安倍晋三の演説が原因である。テロに屈しないと勇ましく演説すれば、ミーハーな日本国民受けはするだろう。しかし大人の政治家が話すべき内容ではなかった。テロが起きる原因、テロ集団の目的、地政学的な分析など、必要な情報はまだまだ十分ではない。宗教が原因でテロが起きると単純に決めつけるのは単細胞のドナルド・トランプだけにしてもらいたい。
衣食足りて礼節を知るという中国の諺は常に正しい。テロの原因も元はといえば貧しい暮らしと迫害である。宗教が原因ではない。テロが起きないようにするためには世界レベルでの格差対策が必要なのだ。
日本国内でも、格差が顕著になってきている。にもかかわらず安倍自民党が選挙で圧勝するのは、国家という共同体を客観的に分析する思考回路が欠如しているからである。
今年はレベッカ・レイボーンとゲスの極みのボーカルにはじまり、桂文枝や円楽といった落語家に至るまで、様々な不倫報道があった。騒がれた人たちについてはまったく興味がないが、騒ぐ人たちがなぜ騒ぐのかがよくわからない。低俗マスコミがテレビで取り上げるから騒がれているような気がしているだけなのか。アンケートやインタビューなどを見ると、本人たちを責める回答が多く見受けられる。バッシングはまだ続いているようだ。
それぞれの当事者たちの対応について、レベッカが謝罪のときに嘘をついていたのは失敗だとか、円楽は堂々と認めたうえに落語家らしく洒落のめしてうまくやったとか、要するに、上手な謝罪のテクニックについてみたいな話があった。その一方で、いまだに不倫そのものを非難し続けている者たちもいる。レベッカがスカパーで復帰した途端に「地上波にはくるな!」といった批判がインターネット上に相次いだようだ。
そもそも、他人の不倫を咎め立てする動機は一体どういうものなのだろうか。そういう人間たちは、他人の不倫によって自分が一体どんな迷惑を被ったというのか。「騙された」という主張をする者もいるかもしれないが、それは子供の主張だ。そもそもテレビに出ている人たちの発言をそのまま信じるのは、成熟していない単純な子供の精神構造といってよい。「騙された」のは視聴者としての成熟度が不足しているから勝手に騙されただけであって、被害を受けた訳ではない。
もし仮にそういう低レベルの視聴者がいたとしても、彼らは怒りを覚えるか、失望するだけであって、批判や非難には至らない。批判したり非難したりするには、物事に対して客観的な見方ができる必要があるからだ。
ということは、他人の不倫を非難する人間は、他人を非難することが嬉しかったり気分が晴れたりするから非難するのだと考えられる。要するにハラスメントである。ハラスメントを行う人間の心理は、欲求不満を弱い相手にぶつけ、相手の人格が崩壊するのを見て満足したり、同様に非難している者たちやワイドショーマスコミなどから自分の主張が賛同を得ることで、承認欲求を満たすというものだ。非難する基準は自分の思想ではなく、非常に一般的な道徳や倫理である。道徳や倫理は世間的には守るべき規範であり、正義である。正義の味方の立場でものを言うのは簡単なことだし、精神的な負担もない。所謂正論というやつだ。正論を笠に着て弱い人間を非難するのがハラスメントである。
他人の不倫を非難する者たちは、不倫が悪だと信じて疑わない。そういう人間は絶対に不倫しないかというと、必ずしもそうとは言えない。罪悪感を感じながら不倫することになる。不倫を悪だと思わない人は、罪悪感なしに不倫をする。落語家の不倫はこちらか。
赤の他人の不倫が自分の迷惑にならないことを考えれば、他人の不倫を非難することが実は理不尽な行為であり、非道徳的であることを認識しなければならない。再度振り返って、不倫というものがどうして悪とされているかを考える必要がある。それは共同体の都合である。誰彼構わず自由に子供を作られると、共同体が個人を管理するのに都合が悪いのだ。だから結婚制度を定め、この子供は誰の子供という風に届出をさせ、親に義務を課して将来の労働力として管理をする。それが封建時代に家長制度と結びついて、亭主の権限を維持するために間男という言葉が生まれ、それを悪として三行半が書けるようになった。
江戸時代の行政による洗脳が現代まで続いている訳で、不倫という観念は比較的新しい考え方だ。相対化が可能なひとつの思想であって、絶対的な真理ではないのだ。にもかかわらず、不倫は悪だと盲目的に信じている日本国民のなんと多いことか。不倫が悪だという根拠は、共同体の都合以外には実は何もないのだ。自由な個人は自由に不倫をする。日本よりも個人の精神的自由度が高いとされるフランスでは、不倫が非難されることはない。
他人の不倫を非難する行為は、実はヘイトスピーチを行なう連中と同一なのである。彼らは外国人や来日二世三世を排斥しようとするが、その行為の正当性についてのエビデンスは何もない。共同体の都合を自分の主張と同一化しているだけだ。
正論を振りかざして他人を村八分にすることは道徳ではない。道徳は他人に何かを強制したり、従わない人間を非難したり排斥したりするものではなく、自分自身の行為に対する自省なのだ。自省も考察もなく、安易に他人を非難する精神性は、子供そのものである。いじめっ子の精神構造である。それが日本中に蔓延し、いまや猖獗を極めている。そのうち、日本人全員が何らかのハラスメントの加害者になる可能性がある。そして誰もがその被害者になる可能性がある。
もしかして、すでにそうなっているのかもしれない。
15年位前に、歯が非常に痛んで歯科に通ったことがあった。数本の歯を抜いて処置し、痛みは治まったが、それからも心配で数ヶ月に一度、定期的にクリーニングなどの処置をしてもらっている。世の中に歯科があることはとても大切だ。医科歯科大学という学校があるように、医者の中でも歯科医は特別に需要があるので別枠となっている。
歯科医の大きな役割は、患者の痛みを取り除くことだ。痛くても我慢しろという歯科医はいない。抜歯すると数時間に亘って痛みが続くので、頓服をくれる。最近は抜歯するときも痛みがないような細い針の麻酔を使うし、抜いた後もあまり痛まない。歯痛は耐えがたい痛みなので、歯医者は地域に不可欠だ。
しかし歯医者以外の医者は、姿勢が違うように思える。十年以上前に腰痛で広尾の日赤医療センターに数年間通院していた。よく担当の医師が交代する病院で、数年間に3人の医師の診断を受けた。いずれの医師からも、手術しても完全によくはならない、日常生活に大きな不自由がないなら保存療法をすすめる、痛くても歩いたほうがいい、という説明を受けた。そして結局腰痛はちっとも改善せず、通院するのをやめた。通院しなくなってからのほうが、腰痛が楽になった気がしている。
たとえば酷い歯痛が少しも治らないままに数年間も数十年間も生き続けなければならないとしたら、それは文字通り死んだほうがましだ。耐え難い痛みを感じながら生きるくらいなら、命なんていらないのが人間の本音である。映画や小説で拷問シーンがあると拷問者が「そのうち耐えられなくなって、殺してくれと懇願するだろう」と脅す場面があるが、あれは真実だろう。自分の人生を拷問のように感じている人は、拷問を受けなくても殺して欲しいと願っている。
胃瘻という処置がある。嚥下困難な患者に対して胃に直接栄養物を補給する処置だ。これがなんとも情けない。そこまでして延命しなければならないのか。嚥下困難な症状が治ったら胃瘻を外せるのだろうが、それでも嫌だ。
医学会には救命延命至上主義というものがあって、そのために患者の苦痛や尊厳が無視されている。それは患者の希望ではなく、医者の独善だ。
加えて製薬会社の損益に関する忖度がある。製薬会社がなければ現代の医学は成り立たないのだから、医者と薬屋が互いに依存するのはやむを得ないが、その相互依存の状態から、利益のために癒着になるのは非常に容易である。法規や規範がないので飛越すべき壁などない。
厚生労働省によると日本人の健康寿命と平均寿命の差は男性で9.13歳、女性が12.68歳となっている。つまり寝たきりの年数だ。この年数だけ、医療費がかかるし、家族の介護労力もかかる。
医者が延命をしなければとっくに死んでいていいし、不健康で不自由で苦痛の状態で9年以上も生きるのは、本人にとって不幸以外の何物でもない。不健康で不自由で苦痛のある人は、早く死にたいのだ。無理やり生かしている医療は、一体何のためなのか。製薬会社の利益追求、製薬会社と厚生労働省の贈収賄、製薬会社と医者の癒着といった言葉が次々に頭に浮かぶ。