三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン」

2021年06月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン」を観た。
 
 黒人の黒人による黒人のためのミサコンサートだと思った。なにせ場所がロサンゼルスのバプティスト教会だ。参加者の誰もが敬虔なクリスチャンで、主を崇め、神を讃美する歌を聞く会である。しかしその客席にはローリング・ストーンズのミック・ジャガーの顔が見えた。この場に白人が普通に座っていて、それを周囲が普通に受け入れていることに衝撃を受けたのは当方だけではないと思う。1972年。キング牧師が暗殺された4年後。アレサ・フランクリン29歳、ミック・ジャガー28歳のときのコンサートである。
 牧師であり歌手でありピアニストでもあるジェームズ・クリーヴランドがMCをするのだが、普通のコンサートみたいにドラムスがスティックを叩いてワンツー、ワンツースリーフォーと言って歌がはじまるとは限らない。盛り上がったアレサが叫ぶように歌い始めると、周囲がそれに合わせてコーラスを歌い、拍手をし、そして踊りだす。なんというソウルフルなコンサートだと、思わずこちらもリズムに合わせて体を揺すりそうになってしまった。
 当方はクリスチャンではないのでミサのことはよくわからないが、黒人が通う教会で歌われるゴスペルについては通り一遍のことは知っている。「アメイジング・グレイス」は有名だが、ゴスペルという感じではない。ゴスペルはもっと聖書に沿っていて、聖書の言葉そのものが出てくることも多い。
 本作品で歌われた歌は、ほとんどがゴスペルであった。死んで4日も経ってからイエスによって墓から蘇ったラザロとその姉妹マルタとマリヤの話(「ヨハネによる福音書」第11章)がそのまま出てくる部分は当方にも解った。しかし、ゴスペルだから当然とはいえ、神と主を讃美する歌を延々と聞いていると辟易してくる。クリスチャンの方々には申し訳ないが、無宗教の人間にはゴスペルの歌詞はそう聞こえるのだ。
 ただ「アメイジング・グレイス」をこんなふうに歌ったのは初めて聞いた。数しれぬ歌手がこの歌を歌っているが、譜面に沿ったきれいな歌い方しか聞いたことがない。ビブラートを効かせながら勝手に伸ばしたり同じ歌詞を繰り返したりという自由自在な歌い方が許されるのは、アレサ・フランクリンだからなのだろう。この一曲を聞くだけでも、本作品を鑑賞する価値は十分にあるとは思う。

映画「いとみち」

2021年06月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「いとみち」を観た。
 
 岩木山は富士山と同じ独立峰で、津軽地方の信仰の対象である。信仰といっても岩木山を神と崇め奉るのではなく、岩木山に因んだお祭りをしたり、日頃から「お山」として親しんだりする。岩木山を「大事にする」ことが津軽の信仰なのだ。同じような信仰は日本全国にあり、日本人の信仰のありようが薄っすらと理解できる。
 本作品は津軽の中心都市である弘前市と、メイド喫茶のある青森市を舞台に、津軽弁で繰り広げられる喜劇女子高生物語である。笑いあり涙ありのベタな人情物語だ。笑えるし、ときに泣ける。
 話すのが苦手な16歳の女子高生いとの武器は沈黙である。人の言葉は往々にして、怒りや蔑みや偏見に満ちている。言葉を返さないいとに投げかけた言葉は、いつの間にか自分に跳ね返ってくる。そして自分はなんて悪い性格をしているのだと打ちのめされる。いとの沈黙が意識的でないところがいい。
 駒井蓮は頑張り屋らしく、三味線も沈黙の演技も両方よくできていた。おばあちゃん役の西川洋子さんの三味線の左手の動きが素晴らしいと観ていたが、なんと初代高橋竹山のお弟子さんとのこと。それは堂に入っていて間違いない。
 一番印象に残った台詞は、大方の人がそうだと思うが、父親を演じた豊川悦司のメイド喫茶での「けっぱれ」である。単に頑張れというのではなく、娘の精一杯の生き方を全肯定した、万感の思いを込めた「けっぱれ」である。父の「けっぱれ」にゆっくりと頷いた駒井蓮の演技が素晴らしかった。
 いつ出てくるかと思っていた岩木山だが、期待を裏切らずに登場する。岩木山を「大事にする」ことは地元を大事にすること、そして人を大事にすることだ。寒い地方ならではの温かい人柄が本作品そのものを温めてくれる。
 いとはこれからも沈黙多めの人生を歩むのだろう。父から言われたように、口下手だから三味線を弾く。そしてときどきは教師も聞き取れない強烈な津軽弁を話す。うわべだけの友達はいないが、最近ひとりだけ、応援し合える友だちができた。三味線の糸はいつか、いとの気持ちを上手に伝えてくれるようになるかもしれない。それがいとの生きる道だ。

映画「僕が君の耳になる」

2021年06月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「僕が君の耳になる」を観た。
 
 渋谷のヒューマントラストシネマ。会場前でアナウンスも流れているのに、入場しようとしてドヤドヤと集まるひとたち。年配の人が多い。なぜ開場前に入ろうとするのだろうと思って、ハッと気がついた。アナウンスが聞こえないのだ。
 その後開場時間が来て入場すると、席に座ったあとで控えめに手話をはじめていた。なるほど、この映画はそういうひとたちが観ようとする作品なのだ。きっと意義のある作品に違いない。
 中島美嘉の「雪の華」や中島みゆきの「糸」にインスパイアされて製作された映画があるが、本作品もHand signというユニットの「僕が君の耳になる」のミュージックビデオから製作されたとのことだ。歌を映画にするのは相当な想像力が必要とされる骨の折れる作業だが、本作品はタイトルからして聾者と聴者の恋愛物語だとわかる。
 出逢いから徐々に信頼関係が生まれ、恋へと発展し、事件があって、そして丸く収まるという起承転結の王道の物語だから安心して観ていられる。かといって学生同士の恋愛の軽いストーリーかというと、なかなかの感動作である。
 聾者のダンサー梶本瑞希さんがヒロインの美咲を演じたが、さすがに映画初出演の演技は厳しかった。それを補ったのが相手役の純平を演じた織部典成で、素直で明るい青年を爽やかに好演。ただ梶本さんは走ると大きな白いシューズが力強く躍動して生命力の強さを感じた。
 中盤に登場して重要な役割を果たすのが森口瑤子が演じた美咲の母である。言葉を覚える前に聾者であった美咲を我慢強く育て、恋愛を経験しようとする娘を優しく力強く包み込む。恋愛が成就するもよし、フラれるもよしという大きな包容力だ。美咲を息子から遠ざけようとした純平の母を優しく諭す。どこまでも強くて優しいおかあさんだ。
 美咲は聾者と聴者のふたつの世界があるという。ふたつの世界は互いに最終的には理解し合えないと。しかしそれは間違っている。聴者の間でも言語が違えば解かり合えない。聾者の間でも解かり合えないことは沢山あるだろう。それに世界はふたつどころではなく、人口の数だけあると言える。美咲の世界と美咲の母の世界、父の世界、純平の世界、それぞれに異なっている。人それぞれにその人の世界があるのだ。
 人と人とは、究極的には理解し合えないのだ。解かり合えないけれども相手の存在を認めることが正しい人間関係なのである。世界平和なのである。美咲にそれが解る日が来るかどうかはわからない。美咲は美咲の世界をこれからも生きていく。映画としては、率直で感動的な場面が鏤められた、素朴でいい作品だと思う。

映画「Arc アーク」

2021年06月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Arc アーク」を観た。
 
 人類の歴史上の岐路には屡々天才科学者の存在がある。19世紀から20世紀は天才科学者を輩出した時代で、特にマンハッタン計画に携わった沢山の天才科学者は有名だが、話が物騒なので違う例を出すと、やはりコンピュータとインターネットである。世界中の社会生活を劇的に変化させたと言っていいこの2つの発明にも、やはり多くの天才科学者の功績が寄与している。
 
 本作品では人類の長年の夢であった不老不死を実現させた社会を描く。長年の夢と言っても、実際に不老不死を夢見たのはファラオをはじめとする支配層たちである。死ななければこの世の栄華をいつまでも享受できる。支配されていた人間たちは不老不死よりも、この世の地獄からの脱出を望んでいただろう。つまり不老不死は、必ずしも人類共通の夢ではないのだ。
 美魔女と呼ばれる女性たちの出番がなくなるのはある意味で痛快だが、本当に不老不死が望まれるのは世の女性たちではなく、天才科学者や優れた芸術家たちであろう。研究するため、あるいは芸術を創出するためにもっともっと時間が必要な彼らが、80年やそこらで死んでしまうのは惜しい。生きるために生きる人々ではなく、何かをするために生きる人々にこそ、不老不死が相応しい。
 しかし本当にそうだろうか。老いることも死ぬこともないと自覚したら、優れた研究や素晴らしい芸術が創出されるだろうか。桜が散らなくなってしまったら、誰も見向きもしなくなるだろう。花は散るから美しい。よく言われる言葉だ。人間も同じではないか。
 
 小林薫の存在感が圧倒的で、芳根京子をはじめとする小娘たちを塵のように軽い存在にしてしまう。その妻を演じた風吹ジュンとともに、生が死を内包しているから人生なのだという事実を主人公に突きつける。不老不死が実現した世の中で流れるニュースは、加速度的な少子化と自殺件数の激増だ。
 難しいテーマのように思われそうな作品だが、それほどでもない。熱力学第二法則は、これからも覆すことは出来ない。生命においては、エントロピーの増大が細胞の再生サイクルを上回るときが必ず来る。細胞の再生サイクルを延長することはできるだろうが、熱力学第二法則がいつかはそれを凌駕するのだ。生命は不可逆の現象である。

映画「トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング」

2021年06月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング」を観た。
 
 ひとりの悪人の生涯を、サイコパスの母親との共依存の精神性を中心に描いた作品である。どこか大森立嗣監督の映画「MOTHER マザー」に似ている気がしたが、「マザー」が現代日本での物語なのに対して、こちらは19世紀のオーストラリアが舞台であり、社会はアメリカの開拓時代のような雰囲気である。つまり登場人物は無法者ばかりだ。必然的に物語の展開はまるで違ったものになる。
 ジョージ・マッケイが演じた主人公ネッド・ケリーは大して魅力的な人物ではなく、ラッセル・クロウが演じた山賊のハリー・パワーや、ニコラス・ホルトが演じた警官のフィッツパトリックのほうに人間的な奥深さを感じた。俳優の力量差もあるとは思うが、ネッドの人物像に由来するところも大きい。
 共依存の関係は、世界観を相手に委ねてしまう関係と言っていい。息子は母親に褒められるために場合によっては命を賭ける。本人は世界観を持たず、母親のものの見方がすべてだ。その母親は、他人との関係を支配するかされるか、優位に立つか劣位になってしまうかだけでしか捉えられず、イギリス人はこうだ、アイルランド人はこうだというステレオタイプの考え方しかできない。息子を学校に行かせてやるという金持ちの提案を断ってしまう。学問によって息子が広い視野と世界観を身につければ、自分を見捨てて去ってしまうことが解っているからだ。それならいっそのこと息子を売ったほうがいい。
 息子は母親と同じものの見方、つまり他人に対して優位になることしか考えることが出来ず、関係性を超えた本質を捉えることが出来ない。簡単に言うと洞察力が欠如しているのだ。人間関係で洞察力が欠如すると、誰も従わないしついて来ない。ただし商才があって金をばらまくことができれば別だ。十分な報酬を与えれば、時として暴力を振るっても、手下は離れない。しかしネッド・ケリーにはその才覚はなかった。つまりケリーギャングは、最初から末路が見えていたのである。主人公の行く末がほぼ見当がついてしまったから、鑑賞の途中から退屈な時間が続いてしまった。
 山賊のハリー・パワーにずっと付いていく生き方もあったと思う。母親との共依存の精神性を断ち切って、悪党のハリー・パワーの生き方を学び、その生き方を超えていく。そうすればネッド・ケリーはどうなっていただろうか。しかしそれはまた別の物語だ。
 本作品は共依存の家族が広い視野を獲得することなく終わる悲劇を描く。家族第一主義のアメリカ映画には珍しいが、製作者側は、たとえ悲劇であろうと家族が大事なのだという世界観で製作したのかもしれない。ところが鑑賞する側は家族は悲劇だと受け取る。現に殺人事件の過半数は親族間で起きているではないか。つまり家族は悲劇なのだ。

映画「RUN ラン」

2021年06月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「RUN ラン」を観た。
 
 主人公のクロエを演じたキーラ・アレンの演技が秀逸。足が麻痺して歩けず、喘息で激しい運動が出来ない上に吸入剤の随時の吸引が必要という肉体的に厳しい状態のときに、よりによって唯一の拠り所である母親に疑いを持たざるを得なくなる。
 伏線は至るところに用意されている。大学で教えていると思しき母親に、家での独学ながら大学の受験資格を得るほど優秀な娘。SNS全盛のこの時代に高校生の娘にスマホさえ与えない母親。毎夜毎夜、確かめるように娘に薬を飲ませるが、娘は翌朝、必ず嘔吐する。届くはずの合否通知がいつまでも届かない。
 もはや母親の悪意は確定的だ。どうすればいいのか、自分に何が出来るのか。そこからクロエの逃避行動が始まる。タイトルの「RUN」は本作品では「走れ」ではなく「逃げろ」の意味に思えた。
 下半身不随の上に腕の力も人並み以下のクロエ。家に閉じ込められていたが故に何の人脈もないクロエ。それに対して、健常者であり社会的地位も信用もある母親。絶望的にも思えるクロエの戦いに、観ているこちらも肩入れして力が入る。弱者の代表みたいなクロエだが、母親から教育された学問の知識がそこかしこで役に立つ。皮肉なものである。
 母性は時として思わぬ方向に暴走する。その顕著な一例をチャガンティ監督は母親に対する娘の戦いとして、観客をハラハラさせるサスペンスに仕立て上げた。カメラワークが大変に素晴らしく、見応え十分の傑作である。

映画「夏への扉 キミのいる未来へ」

2021年06月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「夏への扉 キミのいる未来へ」を観た。
 
 ストーリーやシーンを書くとネタバレになってしまうのでレビューが少し難しいが、とにかく本作品は面白い。飽きずにワクワクしながら観られる。主人公の状況が二転三転するという意味では、同じ三木孝浩監督の映画「君の瞳が問いかけている」と同じで、波乱万丈と言っていい物語がテンポよく展開する。
 「君の瞳が問いかけている」では、ヒロインを演じた吉高由里子の芝居に感心したが、そこまでには及ばないとしても、本作品での清原果耶の演技は相当なもので、どちらかと言えば表情に乏しい山崎賢人の芝居を補って余りあるものがあった。
 山崎賢人の演技が悪い訳ではないが、日常の範囲での常識的でフラットな演技をすることが多くて、相手役や脇役の芝居が彼の存在を引き立たせるような感じなのだ。松岡茉優が相手役だった映画「劇場」もそうだった。
 本作品では清原果耶の他に、アンドロイド役の藤木直人がその役割を果たしていて、科学者とは思えない主人公宗一郎の間抜けぶりを傍らで助ける。この役は演じるのが愉快そうな役で、藤木直人は如何にも楽しそうに演じていたし、その演技が見事だった。夏菜が如何にも性根の悪そうな典型的な社長秘書を演じているのがハマっていたし、30年後の彼女はケッサクだ。田口トモロヲは流石の演技力で、本作品のキーパーソン遠井教授を怪演。
 物語は大方のSF小説を原作とする映画がそうであるように予定調和的だが、必要なシーンが大団円に向けて緻密に積み上げられていく演出が秀逸で、大変に見応えがあった。
 面白いので人に勧めたいが、面白さを説明しようとするとネタバレになってしまうので、とにかく面白いから観てみるといいとしか言えない作品のひとつである。

芝居「首切り王子と愚かな女」

2021年06月24日 | 映画・舞台・コンサート
 PARCO劇場で芝居「首切り王子と愚かな女」を観劇。歌の上手い井上芳雄だが、本公演では一段と上手になって、聞かせどころで聞かせる歌を熱唱。
 舞台俳優たちが舞台俳優的な発声で芝居がかった台詞を言う中で、ひとり伊藤沙莉だけが日常会話の延長のような台詞を普通の声で喋る。普通の声を大きくすると喉を痛める場合があるが、伊藤沙莉は鉄の喉を持っているのかもしれない。最後まで声が衰えなかった。
 芝居はルーブ王国のまずい統治に反乱が起き、民衆が結集する話だが、王国の話にかけて実際の政治をパロディにしている部分がある。さらに、どんな統治や政治を行なっても、不満分子は必ず出現し、次の統治や政治に取って代わるという歴史認識も示される。
 意外と深い芝居だった。

映画「クワイエット・プレイス 破られた沈黙」

2021年06月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「クワイエット・プレイス 破られた沈黙」を観た。
 
 前作に比べればかなりよかったと思う。意味不明だった凶暴な生物の正体が、本作では事の始まりからちゃんと説明されたのがいい。視覚のない生物が宇宙から地球に辿り着けるという無理な設定には引き続き眼を瞑るとして、本作では家族間の人間関係の変化と成長がきちんと描かれている。
 前作ではエミリー・ブラント演じる恐怖過剰のヒステリックな母親に振り回されるだけだった子供たちが、自分の頭で考え、勇気を振り絞って恐怖に立ち向かう。ふたりとも上手に演技をしていたが、特にリーガンを演じた、実際に聾唖であるミリセント・シモンズの演技が優れていた。本作品の主人公はリーガンだ。
 父親を無条件で尊敬するのは家族第一主義のアメリカ映画らしい部分だ。「もし私の夫が生きていたらこう言っていた」という形式で他人を説得できるのはアメリカ人だけだと思う。他人の死んだ夫や父親のことなど持ち出されても議論の材料にならないことは、アメリカ人以外なら誰でも知っている。誰々が生きていたらこう言っていたという言い方はレトリックに過ぎない。
 キリアン・マーフィーが演じたエメットは、エイリアンが地球に来る前から家族の知り合いだったが、地上に残っている人間たちのことを「あんな連中は救うに値しない」といった意味の発言をする。しかしその真意は不明のままだ。前作も本作も、不明な点が多すぎて至るところ腑に落ちない。
 盲目で凶暴なだけなのに何故か地球に来れたエイリアンは、前作と違ってその大きさや形状がはっきりと見える。どう見てもコモドドラゴン並みの知能しか持ち合わせていない。しかしコモドドラゴンよりもはるかに強力な攻撃力がある上に、その動きは目にも留まらず、そのスタミナは計り知れない。
 映像と音響は迫力十分である。怪物の数や普段の生息地など、不明のままにしておいたほうが、いつどこから襲ってくるかわからない恐怖を煽られる。突然の大音響にはこちらも何度か驚かされた。それがジョン・クラシンスキーの狙いかもしれない。
 前作で怪物の弱点である一定の周波数の音を発見した姉弟だが、本作では姉リーガンがその音を武器に怪物の退治に乗り出す。不器用でリアリティのあるその道程が本作品の見どころである。ヒステリックな母親に代わって、冷静で粘り強いリーガンを主役にしたところが、前作よりもずっとよかった理由だと思う。

旅の途中で

2021年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

作詞作曲・歌:伊藤敏博

さよならは言わない 昨日のわたしに
時の流れ すこしだけ 止めさせて
心の中は いつも 同じ色の海
いつか巡る季節さえ 失くしてた

遠い汽笛 いざなうまま
はるか彼方の風に 吹かれてひとり
旅の途中でしたためる わたしへの便り
昨日までの日々が とても愛しい

出会いと同じだけ 別れもあるけど
それと同じ数だけの 思い出がある
巡る季節の中で 人もまた旅人
心の中のぞかせる 旅の宿

ひとりきりより ふたりがいい
思い出だけの そうよ人生じゃない
旅の途中でしたためる わたしへの便り
明日からの日々が とても愛しい

旅の途中でしたためる わたしへの便り
明日からの日々が とても愛しい

 

1985年からテレビ朝日で放送されて伝説の旅番組「誘われて二人旅」のエンディング曲です。
歌詞は「心の中」や「巡る季節」といった印象的な言葉がニュアンスを変えながら繰り返されます。とても文学的です。メロディはイントロからサビに至る盛り上がりが素晴らしく、名曲だと思います。