渋谷のBunkamuraシアターコクーンで舞台「ヘッダ・ガブラー」を観た。
日本では「人形の家」でおなじみの19世紀ノルウェーの脚本家ヘンリック・イプセンによる有名な脚本のひとつである。自分の人生に退屈しすぎて、人の人生を左右してみたいという歪んだ欲望を持つ主人公ヘッダ・ガブラーに2日間の出来事を描いた芝居だ。オーソドックスな演出だったが、とにかく寺島しのぶの存在感が凄かった。
映画「Ready Player One」を観た。
http://wwws.warnerbros.co.jp/readyplayerone/
スピルバーグの監督作品は1週間前に「The Post」(邦題「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」)を見たばかりだ。自由と権利を脅かす権力者と真っ向から戦うジャーナリストと新聞社の社主の勇気を描く感動作で、トム・ハンクスとメリル・ストリープという大物俳優を見事に演出して傑作に仕上げていた。
この作品は打って変わって、ビデオゲームが現実の一部となってしまった世界を描く。現実の理不尽を打開するためにはビデオゲームに勝つしかないという、ビデオゲームにありがちな設定である。そして映画はビデオゲームのステレオタイプのストーリーで進んでいく。アイテムやツールの獲得、敵や味方との遭遇、アクション、ミニゲーム、謎解きである。
ゲームがそうであるように、映画も予定調和に向かってまっしぐらに進む。見せ場はストーリーではなく、ゲームのディテールであり、よくできたCG映像だ。音楽も映像によく合っている。心に残る映画ではないが、見ている間はとても楽しい娯楽作品である。
映画「Hampstead」(邦題「ロンドン、人生はじめます」)を観た。
http://www.synca.jp/london/
タフな精神力はドナルドのことではなく、すぐに癇癪を起こすドナルドや自分勝手なマンション組合の夫人たちを相手に、怒りもせず投げだしもせず、どこまでも正面から向き合うエミリーのことだ。これほど愛情深く親切で穏やかな女性はそうはいないだろう。おまけに正直である。70を過ぎてこのような女性を演じられるダイアン・キートンは流石である。歳を取ったら脳内のセロトニンが減少してキレやすくなることは一般に知られているが、こんな風に穏やかでいられるのは或いは努力次第かもしれない。
さて、ストーリーはかなり単純で、ロンドン郊外の高級マンションに住む未亡人のアメリカ人と公園内に家を建てて住み着いている年配のアイルランド人男性との麗しき恋物語である。
随所に笑いと罪のない駆け引きがちりばめられていて、笑えるし、泣ける。ドナルドが思いがけなく見せるインテリゲンチャの側面に驚いたり、エミリーの写真の才能に感心したりする。
マイブームで市民運動をする気のいい若者や四角四面なのにユーモアを感じさせる判事など、面白い登場人物には事欠かない、ホンワカしたヒューマンドラマである。ブレグジットで経済も社会も揺れているイギリスだが、こういう映画が作られるのは、まだまだ民衆の気持ちに余裕があるからだろう。
映画「私は絶対許さない」を観た。
http://watashihazettaiyurusanai.com/
タイトルからするとリベンジの物語のように思われるが、実は救済のドラマである。
中島みゆきの「友情」という歌の歌詞に「救われない魂は傷ついた自分のことじゃなく(中略)傷つけ返そうとしている自分だ」という一節がある。
人は他人を理不尽に傷つける。傷つけた人間はいつかそのことを忘れてしまうが、傷つけられた側は、一生忘れることはない。子供のころにいじめられた思い出は数十年後にも激しい怒りの発作をもたらすことさえあるのだ。
しかし復讐することには、一瞬のカタルシスがあるだけだ。復讐もまた、行為としては人を傷つける以外の何物でもない。傷つけられたから傷つけるというのは、相手と同じ罪に自分を貶めることになってしまう。そこに魂の救済はない。
理屈で理解するのと、感情としてコントロールできるようになるのとは雲泥の差がある。高ぶる魂を鎮めるのは、恨みが深ければ深いほど困難を極めることになる。レクイエム(鎮魂歌)は死んだ人のためにあるのではない。生きている人の魂を鎮めるためにあるのだ。中島みゆきはそのあたりを朗々と歌い上げる。「友情」は彼女なりのレクイエムなのだ。
さて、レイプされて心身ともに深い傷を負った本作品の主人公だが、ムラ社会の力関係とメカニズムから、泣き寝入り以外の選択肢がないことを中学生ながらよくわかっている。自分が死ぬか相手を殺すかの極端な二択を思いつきはするものの、実行に移すにはあまりにも代償が大きすぎることもわかっている。
救われない魂を抱えたまま流されるままに生きて、いつしか、いつまでも消えないでいる怒りの炎と折り合いをつけてゆく。凝り固まった魂を溶かし、怒りと憎しみを春の川に流す。人は故郷を捨てて流浪の民となるが、どこかで心の中の故郷に帰っていくのだ。
女が女であることだけで曝される偏見と差別の中で生きていくのに、外見はいろいろな意味で影響力のあるファクターとなる。何度も出てくるヌードはいずれも必然性のある場面となっていて、女優陣も納得の演出だったと思う。
主人公が救われることで観客も救われる。陰惨ではあるが、ホッとする物語でもある。心に残るいい映画だった。
Bunkamuraオーチャードホールの加藤登紀子のコンサートに行ってきた。
御年74歳、小柄なこの女性のどこにこれほどのエネルギーが詰まっているのかと驚くほど、エネルギッシュな歌声がホール全体に響き渡る。高い声は震えるし、低い声はかすれるが、そんなことはどうでもいい、加藤登紀子という女性が20世紀に生き、そして21世紀にも生きているということが重要なのだ。
知床旅情、百万本のバラ、紅の豚、ひとり寝の子守唄、鳳仙花、黒の舟歌など、加藤登紀子の歌には思想があり、抒情がある。ハルピン生まれの彼女には賛否両論さまざまあるが、74年間、女性として、歌手として、精いっぱい生きてきた物語の重さは、誰にも否定できない。最後は観客総立ちのとても盛り上がったコンサートだった。
映画「ラブレス」を観た。
http://loveless-movie.jp/
この作品を観る数日前に「レッドスパロー」を観たので、アメリカから見たロシアとロシア人みずから見たロシアの違いがよく分かった。
ロシア人の生活はアメリカ人が考えるほど政府に束縛されておらず、何を考えても、どこに行って誰に何を喋っても大丈夫である。もはや祖国という言葉も、その概念さえも意識から失せているように見える。いまだけ、自分だけよければいいという精神状態はロシアにも蔓延しているようだ。
明日のない親に育てられる子供は、未来について何も描けない。自分をなくしてしまうこと、いまという時間を抹殺することだけが彼の取りうる唯一の行動である。
親から愛情を受けずに育った子供は人を愛せない人間になる。人に対する思いは欲望と憎悪だけだ。憎悪し合う夫婦。欲望を満たすだけの愛人。他人の精神に無関心で、ただSNSの中で虚栄心を満たしていく。いなくなった息子を探すのは、世間体のためだ。見つかろうと見つかるまいと構いはしない。しかし死なれていると困る。生きているうちに見つかるか、それとも見つからないかのどちらかだ。
見つかったのは息子だったのか。そうだと認めれば自分たちは息子を見殺しにした親になる。DNA鑑定は当然拒否し、子供はいつまでも見つからないままにしておく。罪の重さに戦くが、それでも子供を愛せないのは仕方がない。子どもだけではない、誰のことも、自分のことさえも愛せないのだから。
役者たちはこうした精神構造を卓越した演技力で表現する。愛人が産んだ子供も、子供には変わらない。やはり愛せないのだ。人を愛せない人間は世界中に存在する。そして増加の一途をたどっているように見える。世界から優しさが消え去れば、欲望と憎悪と駆け引きだけの世の中になる。この作品はその警鐘なのかもしれない。
映画「The Post」(邦題「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」)を観た。
http://pentagonpapers-movie.jp/
日本のマスコミではこうはならないだろうなというのが、ため息と共に出る最初の感想である。勿論アメリカも日本と同じく大多数の人々は権力に屈してささやかな日常を守ろうとしているのは間違いない。しかしアメリカには民衆自身の手で自由と権利を勝ち取ってきた歴史がある。アメリカ人にとってアメリカは自分たちが作り上げた自分たちの国なのである。「天皇を中心とした神の国」(by森喜朗)を有り難く戴いているのとは訳が違うのだ。
だから国民の主権や自由が奪われそうになると敏感に反応する。そして声を挙げる人々が少なからず出現する。抵抗する保守勢力は大変に強力だ。彼らは持てる権力のすべてを稼働させて反体制の芽を叩き潰そうと画策する。そんな強大な権力に民衆が立ち向かう武器はひとつしかない。
メリル・ストリープ演じるワシントン・ポスト紙の社主は、女性であるということだけで知見に乏しく判断力がないと役員たちから軽んじられている。あがり症気味な面もあって上手く意見を表明できずに鬱々とその立場に甘んじているが、会社が迎えた危機がアメリカの自由と人権の危機そのものであることを看破し、社を守るだけに汲々とする役員たちに対して敢然と決定を下す。人々はその勇気に感動しその行動に高揚する。
会社第一の会社の役員たちや保身だけの元政治家、熱血編集者たちと丁々発止に渡り合う中で、彼女は夫の言葉を蘇らせ、本来の自分の考え方を取り戻していく。短い期間で彼女が変わっていく様子を大女優は見事に演じ切る。
民主主義を守っていくのは民衆の意志と勇気なのだという当たり前のことに我々がこれほど感動するのは、今の世の中が当たり前でなくなっていることの証左でもある。日本の民主主義に希望はあるだろうか。
映画「Red sparrow」を観た。
http://www.foxmovies-jp.com/redsparrow/
ロシア民謡「ともしび」の日本語訳詞に「祖国の灯よ」という一節がある。物悲しい旋律で歌われるこの曲に、ロシア人の祖国に対する思いみたいなものを感じていたが、ソ連時代に作られたこの曲は、短調のメロディに愛国の詞を乗せたプロパガンダだったのかもしれないと思うようにもなった。
あるいは、ソ連の時代を経験したロシア人にとって「祖国」という言葉は、すべての大義名分が集約するという意味で日本人にとっての「天皇陛下万歳」に等しいのかもしれない。
本作品では主人公が「祖国」や「愛国者」という言葉を何度も口にする。それは自分の身を守るために上辺を取り繕う言葉でもあり、相手を推し量る質問でもある。そこから本作品が、ロシア人にとって「祖国」や「愛国心」が精神構造の重要な基点になっているであろうという世界観によって作られた映画であることが読み取れる。
しかし本当のところはわからない。ロシア人にも愛国者もいればそうでない人もいるだろう。本作品に出てくるロシア人は皆、大義名分だけの愛国者に見えたが、それは日本人の私から見た偏見かもしれない。
という訳で、ロシアを主な舞台としたハリウッド映画なので更にややこしさが増している。どこまでが駆け引きでどこからが本音なのか、映画を見終わっても少しよくわからないところがあった。ディテールの整合性を曖昧にしているようにも見える。
オスカー女優ジェニファー・ローレンスは、私生活の動画流出などものともしない精神力で鉄面皮の女性を最後まで演じきった。見事である。
ストーリーはというと、面白いのか面白くないのかよくわからないが、嘘か本当かわからないのでどんな場面も目が離せない。ラストも痛快というほどでもなく、どこに見処があるのかよくわからなかった。
中野サンプラザで「ザ・カラオケバトル コンサート」に行ってきた。
http://a.ponycanyon.co.jp/karaoke-concert/nakano/
カラオケの点数について、点数が高くても歌に心がないだとか、胸に響いてこないだとかいう人がいる。しかし、カラオケの点数は、結局聞く人にとってどのように聞こえるかを基準にして採点している訳だから、点数が高いということは、作詞家と作曲家の意図した音楽を正確に伝えているということになる。点数が高いのは歌手としての最低の条件なのだ。歌い手の気持ちを伝えるのはその上でのことである。もしカラオケマシンでの点数が低い歌手がいたら、それは伝える能力に乏しい歌手だということになる。カラオケの点数を否定するのは歌唱の基本技術を否定するのと同じことだ。
カラオケで99点を出す新妻聖子が、先日行った武道館の「中島みゆきリスペクトコンサート」の出演者の中で最も歌がうまく聞こえたが、今回の出演者たちも皆、カラオケで99点を出す人ばかりだ。新妻聖子に負けず劣らず歌がとてつもなくうまい。テレビで聞くのと全然違っていて、どの歌い手も、まさに圧巻と言っていい歌いっぷりである。2時間半近く連続で聞いていると、それだけでぐったりと疲れてしまった。最後に出演者全員で歌う「夢は終わらない」は、アップテンポでとても乗りやすい歌で、出演者それぞれに得意のソロパートがあって、なかなかに聞かせる。
とても楽しいコンサートであった。
映画「北の桜守」を観た。
http://www.kitanosakuramori.jp/
吉永小百合はその精神性そのものが訴えかけてくる稀有な女優である。そこにいるだけで周囲に熱を与え、気持ちを変えさせる。オードリー・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンなど、大女優と呼ばれる人たちに共通の特性である。
吉永小百合の映画はいつも何かをしでかす道化者がいて、愛すべきそのキャラクターを温かく見守る吉永小百合というのがお決まりの構図になっているが、本作では、吉永小百合演じる主人公テツの気持ちが中心になって作品が展開する。
金儲け主義に凝り固まってしまった息子の精神が、崩壊していく母親の精神と寄り添うことで再び人の愛情を取り戻すのが物語の主眼である。
いつもと勝手の違う設定だが、流石に大女優は、次々に落ちていく記憶と思いもしないときに甦る記憶との間で、喜びと悲しみと淋しさと愛しさが洪水のように押し寄せる様子を見事に演じ切る。妻としての喜び、母としての息子たちへの愛情と責任感、そして女としての人生のすべてがひとりの女性の中で混沌としている様子が伝わり、そのありようが観客に迫ってくる。
戦後をこんな風に生きたひとりの無名の女性がいた。求めず、奢らず、決して怒らず、夫を愛し、夫の残した桜を愛し、息子たちを愛する。自分のことはいつも後回しだ。こういう精神性が世の中に存在しているということだけで、ホッとするし癒される。
吉永小百合がこの映画を全国を宣伝して回った理由は、今だけ、カネだけ、自分だけという現代人に、どうしてもこの映画を見てもらいたかったからだと思う。その気持ちに共感する。