受話器を取ると気の強そうな年配の女性の声。電話の内容は、店の餃子を食べて全身に発疹が出たから病院代を払ってもらいたい、というものでした。順を追って話を聞くと、火曜日に来店して餃子を食べて、翌日に症状が出て、よくならないので病院に行ったが、かなり重い症状らしくて入院が必要かもしれない、と医師に言われたとのことでした。
食中毒なら嘔吐や下痢の症状が出るものです。発疹が出たというだけでは、食品由来の原因かどうかはわかりません。対応としては、まず保健所に連絡し、こういう事例があったことを報告します。保健所によってはすぐに調査に来たり、本人や診断した医師から連絡があるまで動かなかったりします。一方的に強く金銭を要求してくるなどの場合には警察に届けます。警察は動いてくれませんが、警察に届け出たと相手に知らせることで抑止力となります。
別の店舗では、一万円を出したのに釣りが五千円足りなかったと、ご自宅に戻ってから電話がありました。またしても年配の女性です。レシートもないとのこと。丁度レジ締めをしているところだったので、現金が合っていることを伝えましたが、納得いかない様子。別の人間がもう一度数え直して電話すると言い、再度確認して電話。やはり納得できない様子でしたが、それ以上の対応はありません。無理に要求してくるようなら警察に届け出ることになります。脅迫、恐喝、威力業務妨害など、いろいろ罪に当てはまるでしょう。もちろんお婆ちゃんを相手に訴えるようことはしませんし、お婆ちゃんは法律のことなど何も意識していないでしょう。問題はお婆ちゃんが法律を知らないことではありません。今も昔も庶民は法律に詳しくありません。法律に詳しくなる必要がなかった。それは法律を知らなくても、やっていいことといけないことの区別ができていたからです。
問題なのは、誰もが平気で人を疑い、自分を省みないことなのです。それをお婆ちゃんがしてしまうことが、更に問題なのです。お婆ちゃんの若い時代は、簡単に人を泥棒呼ばわりすることはしなかったはずです。かつてはそういう倫理観を持っていた。ところがいつの間にかそういう感覚をなくして、自己責任を省みることなく平気で人を疑うようになった。それはそういう世の中になったということなのです。そこが問題なのです。
かつて「七たび探して人を疑え」という諺があって、物やお金をなくしたら、基本的に自己責任でした。いきなり人を疑うのはよろしくない。「人を見れば泥棒と思え」というのは、物やお金をきちんと自己管理するための方便です。あくまで「思え」ですから、心の中で思うだけで、人に向かって泥棒呼ばわりすることはありません。所謂、倫理観念が世間一般にある程度浸透していましたから、自分の財布の中のお金が思っているより少ないからといって、すぐに行った先々の店舗を疑うようなことはしなかったと思います。
私の会社の客にも、お金を払えば神様だと、支払った額以上のサービスや物を要求する人が本当に多くなりました。世の風潮なんでしょうか。そんな風潮が、かつては人の気持ちを考えて生きていたお婆ちゃんにも影響して、自分の責任や義務は棚に上げて要求ばかりするようになったのです。だから平気で電話をしてくる。お宅が間違えた、お宅のせいだ、お金を払え、お金を返せ。他人に対して常に苛々して、少しでも迷惑を被ろうものなら烈火のごとく怒り狂います。損得勘定の感覚が生活を支配して、非常にギスギスした世の中になりました。
オークスはトールポピーが勝ち、兄の無念を晴らした格好になりましたが、池添騎手の直線の乗り方はいけません。おまけにガッツポーズ。他人に迷惑をかけても自分さえよければいいと開き直っているように感じました。人格的に疑問をもたれてしまう行為です。騎手は毎日、厳しい勝負にさらされていて、互いに相手の馬の邪魔をせず、全馬が能力を出し切るような競馬を目指しています。その中で人格を疑われては、今後のレースがやりにくくなるのは間違いないところです。もう私が池添騎手の馬券を買うことはないと思います。本当に残念なレースでした。
無償の行為という言葉があります。人の役に立つことをすること。それに対して何も要求しないこと。文字通り感謝の気持ちだけを受け取ることで十分幸せになれる、そういう行為。
電話してきたお婆ちゃんたちや池添騎手の行為は無償の行為と対極にある、独りよがりの貪欲な行為です。他人の事情を考え、他人を許し、多少のことは気にしないで、困った人がいれば躊躇なく手を差し伸べることができる人は、もはや少数派になってしまったのでしょうか。無償の行為は死語なのでしょうか。