三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「クワイエット・プレイス」

2018年09月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「クワイエット・プレイス」を観た。
 https://quietplace.jp/

 百聞は一見に如かずというのは誰もが納得できる諺だが、それは見ることも聞くこともできる健常者にとっての話で、盲目の人には意味を成さない。健常者は盲目の人の感覚がなかなか想像できないだろう。
 視力がなければ補完する感覚としての聴力が発達するのは、なんとなく予想できる。しかしエビデンスがあるわけではない。座頭市のドラマを見てもよくわからなかった。

 さて本作品は目が見えない強力な外敵に襲われる話である。視覚のない生物が宇宙空間を渡って地球に来られるのかという疑問はあるが、そもそも宇宙の他の生物が地球に来られる可能性自体、相対性理論からすればほぼゼロである。だから固いことは言わないで、そういう設定であることを受け入れるのが筋だ。
 とはいえ、敵がどの音をもって人間と判断するのかよくわからないままなので、なんとなくモヤモヤしたまま鑑賞することになる。敵の強さもよくわからない。ゲームをしているのか捕食しているのかも不明だ。人間が関わらないところでも風や雷など自然はしばしば大きな音を発するが、そういう自然の音と人間が発する音をどうやって区別しているのかもわからない。わからないことばかりである。正体不明の敵は確かに怖いが、何もかも不明だと逆に怖がりようがないのだ。もう少し敵の残虐性を示すひどい殺され方などのシーンがあったほうがホラーとして恐怖心を産んだと思う。怖かったのはいきなり来る大音量の効果音だけである。
 どちらかというと家族間の関係性が変化し、成長していくドラマに重点が置かれている気もするが、それにしては描写が少なすぎる。ホラーにしたかったのか、家族の物語にしたかったのか、制作者の意図が最後まで理解できないまま、中途半端に終わってしまった感がある。

 最初に書いたとおり、盲目の感覚は健常者には理解できにくい。だから本作品の敵についても理解できない。音を立ててはいけない登場人物に感情移入して、観客も音を立ててはいけない気持ちにはなるが、そこまでの作品で、高評価は不要である。


映画「散り椿」

2018年09月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「散り椿」を観た。
 http://chiritsubaki.jp/

 岡田准一はすっかり俳優である。本人もそのつもりで身体を相当に鍛えているようで、立ち姿や歩く姿に迫力がある。映画監督がこの人を俳優として起用したくなる理由がなんとなくわかるような気がする。人間エネルギーのオーラを発散しているとでも言うのだろうか、意志の強さが滲み出ているのだ。強い男はそのまま演じればいいし、存在感があるから弱くて情けない男を演じるのもいい。向いていないのはチャラい役柄くらいである。高倉健と同じ路線と言えばかっこよすぎか。

 さて本作品では意志が強いあまりに潘を追い出されてしまった浪人の役を演じている。静かな男の表情に淋しさや悲哀がそこはかとなく伝わってくる。共演の西島秀俊、緒方直人も男の優しさと矜持を併せ持つ役柄を十分に演じていて、この三人の男が、保身に汲々とする役人たちと対峙するダイナミズムが作品に奥行きを与えている。
 黒木華がいい。この人が出演すると映画に深みが出るように感じる。この人の演技には、いまはもうあまり見かけることがない「女の優しさ」がある。今後公開予定の「日々是好日」や「ビブリア古書堂の事件手帖」も楽しみである。
 池松壮亮が演じた坂下東吾が一年間で少しずつ視野を広げ、人間的に成長していくのもさりげなくて受け入れやすい。黒木華と並んで演技の上手な若手俳優で、11月公開の「斬、」も鑑賞予定に入っている。
 敵役の奥田瑛二も、いまや大御所の富士純子も、それぞれに好演。

 ストーリーは一本道だが、経緯が少しずつ明らかになっていく演出で、飽きずにみられる。タイトルでもある散り椿の映像は非常に美しい。この映画で初めて散り椿という言葉を知った人もいるだろう。雪と雨が効果的に使われ、移り行く四季の中で散る花と咲く花が、人々の運命のメタファーとなっている。静かに進む物語だが、起承転結がはっきりしていて、大団円では主人公のポテンシャルが存分に発揮される。メリハリのある佳作だと思う。


映画「若おかみは小学生!」

2018年09月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「若おかみは小学生!」を観た。
 https://www.waka-okami.jp/movie/

 いい作品だと思う。変に説教臭くもなく、子供の人格を軽んじることもない。
 小学生でも高学年になると人間関係を敏感に意識するようになる。世界観はまだ形成されていないから、大人以上に人間関係に一喜一憂する毎日を過ごしているはずだ。どこかで視野を大きく広げることで、人間関係の渦の中から抜け出し、自分も含めた全員を客観視できるようになり、孤独にも耐えられるようになる。

 実は鑑賞前には、小学生にして旅館の女将になった女の子が特異な能力を発揮するマンガみたいな作品かと思っていた。レビューを読んで、意外とそうではないかもしれないと思って、先入観を捨てて観ることにした。
 映画館にはたくさんの子供たちがいて、映画が始まる前まで賑やかだったが、はじまると間もなく静かになった。小学二年生以下くらいの子供は1時間もすると飽きはじめていたが、三年生以上くらいの子供たちは、引き込まれるようにスクリーンに見入っているようで、終幕近くにはたくさんの子供たちが泣いていた。
 自分のことで精一杯だった女の子が、旅館での経験を経て他人を許す寛容さと優しさを体得していく成長物語であるが、その成長ぶりを子供たちにぜひ理解してほしい。

 狂言回しとして登場するウリ坊、みよちゃん、鈴鬼の役割も重要で、物語としてとてもよく出来ている。声優陣もそれぞれの役柄にぴったり合っていて、自然に鑑賞できた。主人公の声を担当した小林星蘭もよかったが、相手役ともいうべき真月の声の水樹奈々が、声優としての職人芸を見せてくれたと思う。
 世界観といい、プロットやストーリーといい、子供たちだけではなく大人も含めた、小学三年生以上のすべての人の鑑賞に堪える傑作である。


映画「Please stand by」(邦題「500ページの夢の束」)

2018年09月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Please stand by」(邦題「500ページの夢の束」)を観た。
 http://500page-yume.com/

 世の中に、自閉症ではないが、少なからず自閉症気味であると自覚している人は、かなりいると思う。実はその人たちは既に自閉症なのである。
 他人とのコミュニケーションをなるべく避けたいのが自閉症だ。避けたい理由はたくさんあるが、根底にあるのは恐怖心である。他人は何をするかわからない。前を歩いている人が急に振り返って襲いかかってくるかもしれないし、走って来る自動車がいきなり歩道に乗り上げてくるかもしれない。こちらの歩き方がおかしいとか、顔が不細工だとか、着ているものがセンスがないとか安物だとか言われて嘲笑されるかもしれない。体や口が臭いと避けられるかもしれないし、存在そのものが邪魔だと嫌われるかもしれない。
 兎に角、一歩外に出ればろくなことはないと思ったり、会社や学校に行きたくないと思ったりする人は、他人との関わりをなるべく避けたい人で、それはとりもなおさず自閉症なのである。そう考えれば自閉症の人は相当な人数になり、もはや病気ではなく症状のひとつとするのが適当だ。

 人と関わり合うのが苦手だと生きていくのに苦労するのは確かである。だから世の中の親たちや教育者は子供のコミュニケーション能力を高めるのに余念がない。コミュニケーション能力が収入の多寡に影響することを実感しているからどうしてもそうなってしまう。
 ところで、歴史上最もコミュニケーション能力が高かった有名人は誰か。言うまでもなくそれはアドルフ・ヒトラーである。その類い稀な能力で人心を掌握し、世界中を巻き込んで人類を不幸に陥れた。ヒトラーのコミュニケーション能力は、最終的には人を屈服させて他国民やユダヤ人を虐殺させるまでに至った。
 世の中にはヒトラーほどではないにしろ、他人の恐怖心につけこんで服従させるミニヒトラーがたくさんいる。おのずから社会は自閉症傾向になってしまうのだ。
 自閉症は疾病ではなく人間の個性のひとつだと考えて、そういう人も生きやすいように世の中のほうを変えるべきだというふうに、考え方の転換を図る訳にはいかないものだろうか。自閉症は他人事ではないのだ。

 さて、本作品の主人公は誰が見ても自閉症である。施設の担当者は例に洩れず、社会に適合できるようにルールを教え、規則正しい生活を強制する。そのやり方が本人に幸せをもたらすのかどうか、映画は鋭く問いかける。
 問題は自閉症にあるのではない。不寛容な社会のありようそのものにあるのだ。主人公は不寛容な世の中にあって、誰を恨むこともなく、勇気を振り絞って歩いていく。もはや彼女には誰の助けも必要ない。
 社会の役に立つことが人間の大きなモチベーションであることは間違いないが、人間は必ずしも社会の役に立つために生まれてくるのではない。社会の役に立つか立たないか、それはつまり生産性があるかないかという判断になるが、社会に対する生産性とは無関係に人間の根源的な人格を認め合うことが、ヒトラー化しつつある傾向を食い止めることになる。


映画「ザ・プレデター」

2018年09月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ザ・プレデター」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/the-predator/

 多くのアメリカのアクション映画では若い父親が活躍する。最後は家族の笑顔で終わるパターンだ。テレビドラマの水戸黄門やドクターXが飽きられないように、このパターンも飽きられることはない。
 本作品も例に洩れず、若い父親である軍人が主人公だ。そして子供は自閉症のサバンである。最近のアメリカ映画にはこういう設定が多い。穿った見方をすれば、弱者を守る軍人という図式は国家主義的な共感を得やすく、それがそのまま興業収入に直結するのかもしれない。
 ただこの映画については、監督の悪趣味というか悪乗りみたいな要素があって、アクション映画というよりもスラップスティック映画に近い。だからシュワちゃんが主演した第一作に登場したプレデターの圧倒的な強さや得体の知れぬ恐ろしさは、この作品にはない。
 幽霊の正体見たり枯れ尾花ではないが、人知の及ばぬ敵は常に恐ろしいが、正体がわかってしまえば恐ろしさは半減どころか、十分の一以下になってしまう。本作品がまさにこれで、プレデターをジョークにするためには相対化する必要があり、相対化するためには人知の対象にするしかない。簡単に言えば、ヒグマやホッキョクグマに素手で立ち向かうレベルである。たしかにヒグマもホッキョクグマも凶暴で恐ろしいが、正体がわかっているだけに不気味さはない。心の底から恐怖する相手ではないのだ。本作品のプレデターはヒグマと同じレベルの、なんとも迫力のないプレデターになってしまった。
 それに対して、プレデターの武器の破壊力は桁違いで、グロかったりやりすぎたりする場面がしばしば出現するのも露悪趣味的でどうかと思う。他人が酷い目に遭っても平気というのは、他国民を同じ人間として扱わない国家主義者と同じ精神構造だ。戦前の鬼畜米英という言葉が国家主義者たちの精神構造を如実に示している。日本を神の国と呼んだ、サメの脳みそと呼ばれた元首相などが、頭の悪い国家主義者の代表である。本作品は国家主義の親子が活躍するという、なんともおぞましい作品で、その他大勢の兵士たち、市民たちの死は一顧だにされない。不寛容な全体主義そのものである。こういう映画が作成されるところがアメリカという国の現代の様相を露呈していると考えていい。
 世界観はおぞましい、プレデターは怖くない、主人公は国家主義者と、いいところのない映画だったが、CGの技術は大したもので、アクションの迫力だけは評価に値する。


映画「累‐かさね‐」

2018年09月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「累‐かさね‐」を観た。
 http://kasane-movie.jp/

 ドッペルゲンゲルというドイツ語はもうひとりの自分を見る幻覚の意味で、芥川龍之介やドストエフスキーもそれについて言及したり作品を書いたりしている。ひとりの肉体の中に異なるふたつの人格が現れる設定ではスティーヴンソンの「ジキル博士とハイド氏」が有名だ。
 本作品は、それらとはまた一線を画した設定で、ふたりの女性の、心ではなく外見が入れ替わる。当人たちにとってはドッペルゲンゲルのように、自分そっくりの他人を見ることになる。こういう設定の場合は、わかりやすくするために性格の違いを際立たせる手法があり、往々にして善と悪、白と黒といった違いになりがちであるが、本作品はそういう手法に頼らない。
 性格で言えばふたりとも強気であり、癲癇質である。違いは生きてきた環境と劣等複合だ。それぞれが持つ劣等複合が、ふたりの関係にダイナミズムを生じさせ、物語をぐいぐいと進めていく。アイデンティティのありかは肉体にあるのか精神にあるのか。観客は揺さぶられ続け、スクリーンから目を離すことができない。

 異なる二つの人格を演じた若いふたりの女優はいずれも熱演だった。特に土屋太凰は、異なる人格で劇中劇の同じ役を演じるという難役を見事に演じ切ったと思う。特技のダンスもうまく生かせていた。
 浅野忠信が演じた羽生田。この男の目的は何なのか。ニナが地下室で見かけた数十年前の写真に写った姿は、いまとあまり違わない。この得体の知れない狂言回しを浅野忠信が存在感たっぷりに演じ切った。この人の存在がなければ、ふたりの女優の見事な演技も上滑りしたものになっていただろう。


映画「響 -HIBIKI-」

2018年09月16日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「響 -HIBIKI-」を観た。
 http://www.hibiki-the-movie.jp/index.html

 観ている間は面白かった。しかし観終わったらなんとなく重い気分になってしまった。

 大学時代に応援団長をしていたという中小企業の社長がいて、その男が応援団時代に先輩から「場を乱すな」と教わったと得意げに言っていたのを聞かされたことがある。非常に不愉快であった。KY(空気読めない)という言葉が一般に広まったとき、同じ不快感を感じた。
 日本社会の支配層にはこの元応援団長みたいな人間がうようよいる。最近次々にパワハラで訴えられているスポーツ界の老害たちも多分そうだ。そういう連中の、全体のために個々の意見を封殺するという考え方は、民主主義と真っ向から対立する、文字通りの全体主義である。
 テレビで漫才コンビのダウンタウンが「空気読め」と怒鳴るのを聞いて、非常に苦々しく感じていた。何故空気なんか読まないといけないのかわからないのだ。同じように不快に思っていた人も結構いると思う。
 ところが、だんだんKYという言葉が浸透してくると、一般人の間にも空気を読まないのはよくないことだ、みたいな考えが広まり、言論の自由を自分たちから放棄する世の中になってきてしまった。若者にアベシンゾウ支持が多いのも、そのあたりかもしれない。一億総体育会系と言ってもいい。
 全体主義の共同体では、全体のためにと言いつつ、結局は支配的な立場の人間の個人的な意見ばかりがまかり通ることになる。スポーツ界のパワハラの構造と同じだ。それは結局、ナチスと同じ独裁主義である。
 人間には無意識に安全無事を願うところがある。「君子危うきに近寄らず」とか「李下に冠を正さず」とかいった、保身が目的の諺を大事にしているのはその現れだ。
 本作品はそういったKYとは対極にある自由な女子高生が主人公である。誰もが安全無事を願い、穏便に済ませようとするような場面でも、主人公は言葉を飾らず、敬語を使わず、本音だけで勝負する。攻撃的な言葉に対しては、時に実際の暴力で対処する。
 痛快さはたしかにある。しかし危うさもある。その危うさとは、自分の意見で相手の人格や人権を蹂躙することに反省がないところだ。暴力は常に相手の人権の蹂躙である。言葉の暴力という言い方がある。確かに人を傷つける言葉はある。しかし、それに対して暴力で反撃するのは戦争主義者である。言葉は常に多義的であり、他人の本心をすべて理解することはできない。そもそも自分の本心さえなかなか理解できないのだ。にもかかわらず自分の理解だけ、自分の価値観だけで相手に暴力を振るうのは、いかにも理不尽である。
 社会で生きていくには他人と折り合いをつけなければならない。そのために何が必要かというと、寛容であり、想像力である。この映画の主人公みたいに不寛容な人間は、KYと言われて排除されるかもしれないが、場合によっては共同体の中で力を持つようになるかもしれない。自分の価値観で他人を断罪する人間が、権力を持ち、そして暴力に裏打ちされれば、近頃摘発されているスポーツ界のパワハラ指導者たちと同じことになる。
 本作品は、そういった痛快さと危うさを併せ持つ主人公が、闇の中で高いところに張られたワイヤーを目隠しして綱渡りするような、そういう映画である。主人公に感情移入はできないが、北川景子の花井ふみや小栗旬の役には感情移入する。つまりこの映画はトリックスターを主人公にした、価値観を次々に相対化させていく作品なのである。そういうふうに理解すれば、観ている間は面白かったのに観終わったら重い気分になったことの合点がいく。


芝居「マンザナ、わが町」

2018年09月16日 | 映画・舞台・コンサート

 紀伊國屋ホールでの芝居「マンザナ、わが町」を観てきた。
 http://www.komatsuza.co.jp/program/index.html

 1942年3月のアメリカ砂漠地帯にあるマンザナ強制収容所を舞台に、所長から「マンザナ、わが町」という芝居を上演するように命じられた5人の日系人女性が、芝居の練習を中心に、歌ったり話したりしながら、互いの人間関係を深め、その中で自分たちの置かれた立場や状況を分析し、民主主義とは何かを悲壮の覚悟で追究していく会話劇である。
 色々な色はそれぞれにすべて美しいように、人もそれぞれだ。しかし「お国のため」という一言で、人は色を失い、同時に自由も人権も失ってしまう。だから井上ひさしは「お国のため」というパラダイムを断固として拒み続ける意思を示す。この時代にこそ上演しなければならない重要なテーマである。
 コミカルとシリアスが瞬時に転換するという難易度の高い演出だが、達者な役者陣が見事に、胸のすくタイミングでそれに応える。観客のほうも笑ったり泣いたり大忙しである。
 台詞の言い回し、間のタイミング、掛け合いのリズムなど、否応なしに観客の気持ちを盛り上げる、鵜山仁の天才的な演出である。芝居の力、演出の力をまざまざと感じさせてくれた素晴らしい舞台であった。芝居でこれほど感動したのは初めてである。近くに座っていた有名人は、終演後はずっとスタンディングオベーションをしていた。
 出演者では熊谷真実のべらんめえ調の浪曲師はもちろんよかったが、土居裕子の歌のうまさには舌を巻いた。今年で60歳になるというのに、声にはとても張りがある。その歌声は思春期の娘のようでもあり、子供を抱いた母のようでもあり、声楽隊のようでもある。
 伊勢佳世は「父と暮らせば」という芝居を6月に六本木の俳優座劇場で観て、その演技力と存在感に感心したが、その時の演出も鵜山仁だった。演出家との相性がいいのだろう。今回の芝居ではさらに、わざとカタコトの日本語を話す中国系の女性という難しい役柄でたくさん笑いを取っていた。


映画「泣き虫しょったんの奇跡」

2018年09月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「泣き虫しょったんの奇跡」を観た。
 http://shottan-movie.jp/

 瀬川晶司のプロ合格は、少しでも将棋に関心がある人なら割合と知られた話である。だからこの作品は最初から結末がわかっている。であれば、ストーリー以外のところで人間ドラマを描くしかない。そんなことは制作サイドの全員が承知しているとは思うが、それでもストーリーを語るのに精一杯で肝腎の人物像が描かれないから、観客は誰にも感情移入出来ない。泣くのは主人公のしょったんだけだ。
 何のハンディキャップもなくて、周囲がいい人ばかりで育った健康体の男が主人公では、そもそもドラマにならない。原作を否定する気持ちはないが、映画にするには弱すぎる設定だ。
 こういうときこそ演出の力が要求されるが、時系列を追ってストーリーを描くという手法はあまりにも芸がなさすぎた。対局のシーンは誰もが駒を叩きつけるように指しているが、温和しく指す人も結構いる。将棋は静かに盛り上がる精神的なゲームで、対局、負けました、対局、負けましたというせわしない描写は著しく興を削いでしまう。盤面も、やぐら模様で進んでいたのがいきなり振り飛車になったりして、別の対局をいっぺんに表示したのか、よくわからないままだ。
 一局の将棋には起承転結があり、それだけでひとつの物語になるくらいの内容がある。プロになれるかなれないか、勝負の一局をはじめから最後まで一手ずつ描いて、その合間に子供の頃からこれまでのエピソードを入れるくらいの工夫がほしかった気がする。門外漢の勝手な意見で申し訳ないけれども。
 結局最後まで将棋指しの内面が描かれないままで終わり、消化不良のまま映画館を出ることになった。小林薫も國村隼も松たか子も、それぞれに光る演技があったし、松田龍平も将棋指しらしい思索的な人柄を上手に演じていたが、全体としてパッとしない映画になってしまったのはストーリーテラーになってしまった演出に原因があるのだろう。残念である。


映画「ヒトラーと戦った22日間」

2018年09月12日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ヒトラーと戦った22日間」を観た。
 http://www.finefilms.co.jp/sobibor/

 大抵の人は、他人の人権を蹂躙することに躊躇いを覚える。他人が感じる苦痛を想像してしまうから、人に苦痛を与えることに抵抗を感じる。人を殺したり怪我をさせたりすることは、それをやった人の心にも傷を負わせるのだ。
 ところが、世の中には人を傷つけても殺しても平気な人間がいる。想像力が欠如していて他人の痛みがちっともわからない人間だ。血も涙もないというのは想像力の欠如のことを言う。そういう人間にはそもそも良心がないから、良心の呵責に悩むこともない。PTSDとは全く無縁のタイプの人間だ。ジョン・レノンがどれほど切々と歌っても、最初から想像力のない人間に、想像しろと言っても無理なのである。
 平気で人を殺せる人間は、しばしば人格障害と呼ばれ、犯罪者に多く見られるが、困ったことに、国や企業の指導者にも大変多くみられる。ヒトラーは当然ながら人格障害である。そして極東の小国でトリモロスと叫ぶ滑舌の悪い人も人格障害だ。
 人間は不安と恐怖に弱い上に、マゾヒスティックな生き物で、他人を平気で殴ったり怒鳴ったり殺したりする人間に抵抗できない。理屈で対抗できない暴力的な相手には心が折れてしまい、無条件に従ってしまうのだ。多くのブラック企業で天皇制を敷いている独裁経営者がつかまりもしないでいられるのは、人間が羊の群れと変わらないからだ。羊にとって暴力的な人間は狼である。自分は相手を殴れないが、相手は平気で自分を殴ってくる。いつか殺してやると思っていても、そのいつかは永遠にやって来ない。
 中には、逆に人格障害者の社長に媚を売ったりして、立場をよくしようとしたりする人間が現れる。虎の威を借りる狐である。狐は、立場が下の者を当然のように貶め、狼経営者の覚えがめでたくなるように努力する。最終的に割りを食うのは、黙って長時間労働をして体を壊す羊のような従業員たちである。こういう構図は日本全国に蔓延している。スポーツのパワハラが騒がれているが、同じことは全業種、全業界に亘って起きている。家庭内でも、学校の友達同士の間でも起きているだろう。
 75年前のソビボル収容所におけるナチスドイツの将校たちは、程度の差こそあれ、全員人格障害であった。息をするように平気で人を殺すことができないとナチスの将校にはなれないからだ。

 我々の周囲に、ナチスの将校はいないだろうか。ソビボル収容所はないだろうか。
 ドイツ人だけが残虐な訳ではない。南京で無防備の村人を襲って強かんし略奪し放火したのは我々の祖父や曾祖父たちだし、ベトナムでジェノサイドを繰り返したのは、米軍をはじめとする多くの国々の兵士たちである。その血は途絶えることなく受け継がれている。
 そして程度の差こそあれ、我々の周囲にもたくさんのソビボル収容所が存在している。羊たちが解放される日は来るのだろうか。