三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ツユクサ」

2022年04月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ツユクサ」を観た。
映画『ツユクサ』公式サイト | 2022年4月29日全国ロードショー

映画『ツユクサ』公式サイト | 2022年4月29日全国ロードショー

小林聡美主演作。隕石が人に当たる確率は一億分の1。そのありえない偶然に遭遇した、ちょっと歳の離れた僕の大切な親友・芙美(ふみ)ちゃんの物語。

映画『ツユクサ』公式サイト | 2022年4月29日全国ロードショー

 小林聡美の演じた五十嵐芙美さんが、大林宣彦監督の映画「転校生」の斉藤一美とタブって見えた。三つ子の魂百まで。女は歳を重ねても乙女のままなのだ。

 芙美さんは古臭い価値観から抜け出せないでいる。子供は親の言うことを聞かなければならない。義理の親でも親は親。尊敬して大切にしなければならない。昭和と呼ばれそうな価値観だ。
 そんな価値観が息子を死に追いやったことを、芙美さんは未だに理解していない。だから友達の息子の航平の話すことを理解しようとせず、一方的に偉そうに説教をする。映画だから航平は芙美さんのことを嫌いにならないが、現実なら愛想を尽かしていたはずだ。

 主題歌は昭和に大ヒットした中山千夏の「あなたの心に」である。中山千夏は歌手活動の後に国会議員になったり、たくさん本を書いたりしている。何冊か読んだ記憶がある。内容は殆ど忘れてしまったが、その中のひとつに、恋とは性欲のことだと看破している文章があった。誰もが明言を避けている真実を堂々とストレートに書いているところに感心した。改めて歌を聞いて感動した。やっぱり昭和の歌手の歌は、聞いていて心地がいい。

 本作品で芙美さんが成長するわけではない。さすがに50歳のおばさんに成長はあり得ない。しかし松重豊の吾郎さんに逢って、芙美さんは乙女に戻る。キスをして男の舌で口の中を舐め回されれば、心も溶けてしまう。
 芙美さんといい、吾郎さんといい、子供の心のままの大人である。東京で居場所をなくして流れ着いた伊豆の町で出逢い、そして忘れていた恋心に目覚める。そう、本作品は恋愛映画なのだ。優しい大人同士の優しい恋愛である。なんだかホッとするものがあった。

映画「カモンカモン」

2022年04月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「カモンカモン」を観た。
映画『カモン カモン』公式サイト|絶賛公開中

映画『カモン カモン』公式サイト|絶賛公開中

映画『カモン カモン』主演ホアキン・フェニックス×監督マイク・ミルズ×製作A24スタジオが初タッグ!アカデミー賞®常連チームが贈る最高に愛おしい物語。突然始まった甥っ子...

映画『カモン カモン』公式サイト|絶賛公開中

 伯父さんと甥っ子。シーンの多くがふたりのやり取りに割かれる。情緒の発露とその後の反省、そして人生観。ふたりの演技があまりにもハイレベルで、本当の伯父さんと甥っ子にしか思えなかった。ホアキン・フェニックスの演技が名人級なのは映画「ジョーカー」で納得していたが、甥っ子のジェシーを演じた子役が凄い。

 子供たちへのインタビューは、用意された台詞を話しているのだと思う。子供たちの答えがあまりにも哲学的すぎるし、洞察力に優れすぎている。こんな子供ばかりだったら世界はあっという間によくなるだろう。そう願っての台詞かもしれない。本当にアメリカ映画なのかと疑ってしまった。もちろん肯定的な意味合いである。

 ジェシーが自問自答のインタビューで答えた「予想したことは何も起こらない。そして思いもよらないことが起こる。僕たちは進み続けるしかない。どこまでもどこまでも(カモンカモン、カモンカモン)」という台詞が、おそらくコロナ禍を踏まえてのものだと分かる。奇しくも寺田寅彦の名言「天災は忘れた頃にやってくる」を思い出した。

 ドビュッシーの「月の光」がジェシーとジョニーの心模様を彩る。何度も使われるこの名曲が流れるとき、ふたりの心が揺らいでいくシーンが映る。この曲を聞く度にこの映画を思い出すことになりそうだ。

映画「Les Olympiades」(邦題「パリ13区」)

2022年04月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Les Olympiades」(邦題「パリ13区」)を観た。
映画『パリ13区』公式サイト

映画『パリ13区』公式サイト

つながるのは簡単なのに愛し合うのはむずかしい。ジャック・オディアール×セリーヌ・シアマ×レア・ミシウスが描くミレニアル世代4人の男女が織りなす“新しいパリ”の物語。4...

映画『パリ13区』公式サイト

 パリは恋愛に自由な街だ。浮気や不倫で相手を責めるような野暮なことはしない。セックスの相性がいいかどうかは、セックスしてみないとわからない。一度セックスしてから付き合うかどうかを決めるような、そういう自由がある。
 本作品は、青春も終わりを告げようとする年齢の男女3人の群像劇である。人種も出身地もバラバラな3人だが、出逢い、会話をし、そしてセックスをする。
 満足なセックスができれば離れがたくなるが、互いに解りあえた訳ではない。セックスが上手くいかなくても、相手への尊敬がなくなる訳ではない。セックスの相性がよければ人生の楽しみが劇的に増す。しかしハマってしまうと地面から足が離れてしまう。溺れるというやつだ。男に溺れる、女に溺れる。

 台湾出身のエミリーは歌も踊りも上手い。ピアノも弾けるが、それらで食べていけるほどパリは甘くない。ルームシェアを募集すると黒人の青年が現れる。名前はカミーユ。日本の名前なら和美や純、忍、瑞生(みずき)といった男女共通の名前で、見た人の感覚で男女いずれの印象にもなる。エミリーはカミーユを女だと思っていたのだ。迷った末にカミーユを受け入れるエミリーだが、この選択がその後の人生を左右することになる。

 カミーユは頭のいい皮肉屋である。何でも相対化して評価する。絶対的な価値というものを認めない。教師をしていて、子供たちも教師の仕事も好きだが、教師の待遇に不満を持っている。半年ごとの査定で恣意的な評価をされるのだ。基本的に勉強は好きだから、いまよりも上位の教職に就くことを目指して勉強している。とはいえ、若くて性欲があり余っているから、エミリーとはすぐにセックスをする。

 エミリーはカミーユとのセックスに、尋常でないほどの快感を得る。そこで四六時中、カミーユにセックスを求めることになる。
 カミーユはエミリーとのセックスに満足しているが、目指す上位教職のために勉強する時間を確保する必要がある。エミリーの要求に応えてばかりいられない。エミリーとちゃんと交際するかどうかは、エミリーを尊敬できるかどうかにかかっている。

 ノラの人生は悲惨である。ノラという名前で、ヘンリック・イプセンの戯曲「人形の家」を連想した。本作品のノラも、育てられた伯父(叔父?)から、人形のように可愛がられた。つまりセックスの相手をさせられたのだ。そのときに仕込まれたアナルセックスの快感がいつまでも忘れられない。
 カミーユはノラを尊敬する。賢くて勇気があり、行動力もある。それに美人だ。しかしセックスがうまくいかない。ノラが勇気を出して求めてきたアナルセックスに、逡巡してしまうのだ。ノラはカミーユの逡巡を微妙に感じとる。この関係は上手くいかない。そしてネットで知り合ったセックスチャットの女性との関係にレーゾンデートルを求めていく。

 原題は駅名である。パリ13区にある地下鉄のオリンピアード駅だ。パリ13区は多国籍、多民族、多人種という人間交差点みたいな街である。他人の価値観やセクシュアリティに寛容で、SNSで知り合ってすぐにセックスをすることもある。しかし大抵は純粋で傷つきやすく、そして孤独だ。束の間の幸せと長い間の不安に生きている。

 本作品はパリ13区に暮らす30歳前後の男女の人間模様を上手に描き出した。インストゥルメンタルの音楽がお洒落で気が利いている。将来の不安は底知れず感じているが、いまを存分に生きるのだ。

映画「KKKをぶっ飛ばせ!」

2022年04月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「KKKをぶっ飛ばせ!」を観た。
映画『KKKをぶっ飛ばせ!』公式サイト

映画『KKKをぶっ飛ばせ!』公式サイト

4月22日公開『KKKをぶっ飛ばせ!』公式サイト。封印された黒人によるKKK皆殺し事件を完全映画化。『ゲット・アウト』『アス』を超える衝撃!映画史上空前のリベンジ・バイオ...

映画『KKKをぶっ飛ばせ!』公式サイト

 1968年に黒人解放運動の指導者キング牧師が暗殺された。本作品は1971年の話だから、その3年後のことである。アメリカ映画ではなくイギリス映画というところが変わっている。KKKについては知らない人はいないだろうから、差別の歴史というよりも、サバイバルアクションに重点を置いた作品である。
 それにしても内臓系に耐性のある姉弟である。腸には食べ物が詰まっていることもあって、かなり臭いだろうに、平気で把んだり引っ張り出したりする。グロテスクな表現が好きな監督のようだ。睾丸の膜は白で正解だと思うが、中身は白くなかった気がする。見たことないけど。
 グロさにインパクトがあるだけで、作品としてのレベルはあまり高くない。アクションも妙な間があったり、無用な会話で受けなくてもいい反撃を受けたりする。上映時間が短いから最後まで観ていられるだけだ。

 こんなふうに銃を扱えて反撃できる人はまだいい。KKKに迫害されても、反撃できない黒人が大半だったと思う。あくまでも非暴力を貫いたキング牧師が観たら仰天する作品だ。数人を殺したとしても、差別し迫害する人間は後を絶たない。反撃するか、非暴力を貫くか、選択を迫られる機会は誰にでも訪れる。

映画「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版」

2022年04月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版」を観た。
アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版 Babardeala cu bucluc sau porno balamuc | シアター・イメージフォーラム

アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ 監督〈自己検閲〉版 Babardeala cu bucluc sau porno balamuc | シアター・イメージフォーラム

世界は卑猥に満ちているけれど?第71回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞の禁断の映画、ついに公開!パンデミックは人間の性をあぶり出す。ルーマニアの鬼才ラドゥ・ジューデ監督...

シアター・イメージフォーラム


 日本ではセックスについて正面から語られることは、日常生活ではあまりない。話そうとすると猥談と思われたり、場合によってはセクハラだと訴えられることもある。
 しかし性は食と並ぶ基本的な欲望である。どこのメーカーのコンドームを使うとか、避妊リングは何がいいとかいった話題は、どこのレストランが美味しいとか、そういう話題と同じレベルで語られてもおかしくない筈だ。しかし現実はそうではない。
 食事が公の場でも堂々と出来るのに対して、セックスは公の場ではできない。人類もかつては動物と同じようにいつでもどこでも公然とセックスをしていたと思う。それがいつしか秘め事となり、猥褻という概念が生まれる。

 詳しくは文化人類学者に任せるとして、本作品ではヒロインが夫とセックスをした際に、アホな夫が撮影して動画をPCに残し、そのままPCを修理に出して、どこかのタイミングで動画がネットに拡散されてしまった訳だが、ヒロインが名門校の歴史の教師ということで、お堅い学校関係者によって大問題にされてしまう。
 夜に開かれる保護者との会合を前に、ヒロインはブカレストの街をうろつく。街には不満と怒りと欲望が充満している。どの街も同じだ。金を持っている人間だけが街を満喫できる。貧乏人は苛立つだけだ。その苛立ちがヒロインに感染したように、怒りが増幅する。

 保護者会に到着したときは、その怒りが最高潮に達したかのようだが、ヒロインは歴史の教師らしく、保護者たちの無知で筋違いな詰問のひとつひとつに理路整然と反論する。問題はセックスそのものなのか、拡散したことなのか、それともセックスを猥褻とするパラダイムなのか。
 議論は一瞬だけ、本質的な議論に発展しそうになるが、旧態依然の倫理観の持ち主たちが邪魔をして、名門校にあるまじきだとか、破廉恥な行為だとかいった決めつけで終わってしまう。フェラチオもしたことのないような高慢な金持ちのおばさんが主導権を握る保護者会ではそれも仕方がない。
 軍服を着て威厳を示そうとする保護者がいるが、道化にしか見えない。別の制服を着た男は、論理的な発言ができないで茶々を入れるだけだ。ルーマニアには馬鹿しかいないのかと思わせるようなシーンが続く。多分この監督は人が悪い。しかし面白い。結末はルーマニアの人々のくだらない倫理観と頭の悪さを嘲笑うかのようだ。

映画「マリー・ミー」

2022年04月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マリー・ミー」を観た。
 超有名なロックスターと無名の一般人とのシチュエーションラブコメディである。虚像を売って名声と高収入を得るスターのキャットと、実像でフランクに暮らす一般人チャーリーとの間にはギャップがある。チャーリーはそれをひしひしと感じ、とても無理だと最初からキャットを相手にするつもりはない。キャットの方にはそのギャップの感覚はない。このあたりはとてもリアルである。
 どんなふうにドラマにするのかと思っていたら、なるほど上手いこと繋げるものだ。キャットにはロックスターとしての生活があるが、チャーリーにも数学の教師としての生活がある。そしてチャーリーは、キャット側の要請よりも自分の生活を大切にする。キャットは自分を中心に世界が回っているロックスターであり、自分に合わせようとしない人間がいることが不思議だ。
 物語はチャーリーの生活とキャットの生活のそれぞれに振り子のようにシーンを交代しながら進んでいく。互いの生活を理解し合うことで、最初にあったギャップが少しずつ埋まっていく。それが本作品の主眼だと思う。
 異なる世界観の二人が、互いの生活を認め合うことで、二人以外の人々の人生も尊重するようになる。つまりヒューマニズムに目覚める訳だ。アメリカ映画らしく家族第一主義ではあるが、キャットのスタッフたちにもそれぞれの人生があることに目を向けているところがいい。
 チャーリーの娘ルーがカーリーヘアで、チャーリーの別れた妻が黒人であることがわかる。キャットはプエルトリコ人という設定(?)だから、移民問題についても薄っすら感じられる。格差、人種差別、移民問題という現代アメリカの病巣を背景にしている訳だ。単なるラブコメではない、奥行きのある作品だと思う。

映画「ベイビーわるきゅーれ」

2022年04月25日 | 映画・舞台・コンサート
映画「ベイビーわるきゅーれ」を観た。
 はじめて人を殺すには、超えなければならない壁がある。飛び越えなければならない障害と言ってもいい。それは人を殺してはいけないという心の中の禁忌だ。

 我々は子供の頃から、悪いことをすれば罰せられると繰り返し言われて、悪いこととされていることを行なうのに躊躇がある。悪いことの中でも一番悪いのが人を殺すことだ。その禁忌の気持ちを「良心」などと名づけているが、本当は単に恐怖心の裏返しに過ぎない。
 禁忌の気持ちは強く脳を支配していて、人を殴ることや物を壊すことさえ躊躇する。しかし習うより慣れろで、物を壊すことや人を殴ること、果ては人を殺すことでも、慣れれば抵抗がなくなる。中国人を虐殺しまくった関東軍の兵隊がいい例だ。映画「日本鬼子」によると、最初は銃剣で刺すこともできなかったが、慣れたら普通にチャンコロ(中国人)を殺すことができて、殺した直後に普通に飯も食えたそうだ。

 本作品のヒロインふたりも、人を殺すことに抵抗がない。警察に捕まることや罰を受けることも恐れていない。多分死ぬことも恐れていない。
 とにかく爽快に人を殺す。ゴミをゴミ箱に投げ捨てるように、銃弾を撃ち込む。そしてすぐに日常に戻る。というよりも、殺人を極限状況にしないところに、本作品の独自性がある。仕事が日常であるように、殺人という仕事も日常なのだ。

 知り合いの女子高生に、驚くほど哲学的な子がいた。難しい言葉を使うのではない。極めて日常的な言葉を使うのだ。いまの総理大臣が誰か知らないことを、常識がないと笑われると、人を馬鹿にするための常識なら、そんな常識なんかいらないと彼女は言った。笑った連中は一瞬にして黙ってしまった。
 本作品のちさともまひろも、社会のパラダイムを使って説教されるのが苦手だ。そんなところに真実はないと思っている。だから相対化して笑い飛ばす。そこが面白い。真実は彼女たちにある。

 殺しの仕事は他人を騙してスマートに殺すことを求められる。それに対して、一般社会での仕事は、作り笑顔や愛想のいい言葉遣いなどが求められる。つまり自分を騙すことだ。まひろはそれが苦手である。そしてコミュ障と呼ばれる。
 仕事は自分の人格がスポイルされることだ。しかし彼女たちの仕事は、相手の人格を究極的にスポイルすることである。殺すか殺されるかの極限状況が日常なら、一般の仕事は生ぬるくて気持ちが悪いだろう。

 ヒロインふたりの意外に哲学的な会話と、リアルなアクションシーンが本作品の見どころである。ギャップが大きいから、笑えるシーンがたくさんある。面白い映画を作ったものだと感心した。

映画「メイド・イン・バングラデシュ」

2022年04月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「メイド・イン・バングラデシュ」を観た。
ドキュメンタリー映画「メイド・イン・バングラデシュ」公式サイト|2022年4月16日(土)より岩波ホールにて公開予定

ドキュメンタリー映画「メイド・イン・バングラデシュ」公式サイト|2022年4月16日(土)より岩波ホールにて公開予定

「メイド・イン・バングラデシュ」公式サイト|2022年4月16日(土)より岩波ホールにて公開予定。バングラデシュの新星女性監督ルバイヤット・ホセインが描く女性たちの戦いー

「メイド・イン・バングラデシュ」

 ラストシーンは唐突な終わり方に思えたが、これでいいのかもしれない。主人公シムは、してやったりの笑みが浮かびそうになるのを押し殺して、厳しい顔で立ち去る。まだ何の成果も得ていない。やっとスタートラインに立っただけだ。これから長い戦いが待っている。シムの決意の表情が見て取れた。

 バングラデシュはイスラム教徒がインドから独立したパキスタンの内、インドの東側にあるから東パキスタンと呼ばれていた。災害救助の不十分に対する不満などが原因で、バングラデシュとしてパキスタンから独立したのが1971年だから、およそ50年ほどの歴史である。
 イスラム教だから女性は差別されている。シムの夫は無職でシムに家賃を払わせているくせに威張っていて、シムに言うことを聞かせようとする。シムは、結婚しても女性に自由はなく、相変わらず差別されていると嘆く。
 それでもシムは決まった時間に礼拝し、夫と別れようとはしない。そこが理解できないところだが、イスラム教徒の女性は、イスラム教が女性を差別しているとは思っていないようである。男が働いて、女は家で子供を育てる。戦後の日本のパラダイムと同じだ。
 バングラデシュが戦後の日本と違うところは、朝鮮戦争特需やベトナム戦争特需などがなく、自力で価値創造をする力もなかったため、独立してからずっと貧しいという点である。人口が多いことも貧しさに拍車をかける。増えないGDPを増え続ける人口で分配するのだ。

 シムが仲間に読んで聞かせるパキスタンの労働法は、日本の労働基準法の条文にそっくりである。解雇予告手当などは殆どそのままだ。労働者の権利を守る法律は、宗教や産業が違っても、同じコンセプトになるのだろう。フランスでは債権のうちで一番優先されるのが労働債権である。日本では担保付債権や税金が労働債権に優先する。

 シムたちが勤務する縫製工場は、劣悪な環境と長時間労働、それに時間外勤務手当の不払いなど、ブラック企業そのものである。給与明細もなく現金をそのまま渡すところなどは、ブラック企業も顔負けだ。経営者は先月の給料も支払わないくせに、深夜まで残業をさせる。
 その上、労働組合ができると工場は閉鎖されて、お前たちは職を失うことになると脅す。典型的な論理のすり替えである。工場が閉鎖されるのは経営責任であって、労働組合の成立と直接的な関係はない。労働組合が労働環境の改善と待遇の向上を要求するのは当然で、それがただちに工場の閉鎖に結びつくことはない。

 シムはこれからたくさん勉強して、経営者の論理のすり替えをみんなに説明できるようになって、団結力を高めて戦わなければならない。団結した労働者との交渉を繰り返した結果、労働者の権利を理解した経営者は、労働法を遵守するためにクライアントと価格交渉を行なって、自分たちの製品をもっと高く売る努力をしなければならない。そのためには日本や欧米の多国籍企業の言いなりではだめだ。オリジナリティのある商品を作って、新しい価値を生み出さなければならない。労働者の協力が必要だ。
 経営者をそういう方向に仕向けることがシムの使命である。労働者が豊かになれば国も豊かになる。女性たちが社会で才能を発揮する機会も増える。人々はイスラム教から離れ、女性差別は漸減していく。
 ラストシーンの続きを巨視的に想像してみると、いい方向に向かいそうだが、そこは不条理な存在である人間のやることだ。必ず紆余曲折がある。シムの戦いには終わりがない。ずっと険しい上り坂である。なんだかシムを応援したくなった。ラナ・プラザの悲劇は繰り返してはならないのだ。

映画「ハッチング 孵化」

2022年04月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ハッチング 孵化」を観た。
映画『ハッチング ー孵化ー』公式サイト

映画『ハッチング ー孵化ー』公式サイト

誰もが羨む“幸せな家庭”で少女の抑圧された感情が<卵>に満ちる時、悪夢は生まれる。戦慄の北欧イノセントホラー。4/15(金)公開

映画『ハッチング ー孵化ー』公式サイト

 音楽がいい。チェロとコントラバスと打楽器を中心に、終始不穏な空気を醸し出す。ホラー映画みたいなジャンプスケアを使うのではなく、じわじわとした怖さが続く。
 それにしても母親役の女優の顔がそもそも怖い。口が異様に大きくて、見た途端に、日本の都市伝説の「口裂け女」を想起した。ちなみに「口裂け女」の話は、マスクをした若い女が子供に「私、きれい?」と話しかけて「きれい」と答えると「これでも?」とマスクを外して、耳まで裂けた口を見せる。そして「醜い」と言ったり逃げたりすると、包丁で斬り殺されたり、刺し殺されたりするという、なんとも恐ろしい内容だ。
 コロナ禍のせいで街や電車でマスクの若い女性をたくさん見かけるが、きれいな人を見ると口裂け女の都市伝説が浮かんできて、薄ら寒い思いをすることがある。そして母親役の顔を見て口裂け女を連想したのは、強ち間違いではなかったことが終盤でわかる。

 人間関係には、互いへの愛着と、自尊心の闘いがある。加えて、それぞれの心に関係を維持したい気持ちと関係を壊してしまいたい気持ちの相克があるから、複雑すぎて理屈で整理できない。
 人間関係の理想は、互いに尊敬して互いに寛容でいられることである。そのためには、決して相手を傷つけないというルールを厳密に守らなければならない。それは非常に難しい。だから日常的に「ありがとう」と「ごめんなさい」が欠かせない。それでも関係は常に綻びる。仏様でもない限り、綻びひとつない理想の関係はとても無理だ。人間関係は常に壊れたり新たに成立したりを繰り返す。

 しかし家族は否応なしに受け入れなければならない関係である。親は子に名前をつけ、愛着を持つ。子は親に頼らざるを得ないから、親を好きになろうとする。嫌いな人間に頼ることは自己撞着に陥ることになるから、精神の安定が図れない。親は子を生活面で支配しているから、言うことを聞かせようとする。言うことを聞かない子に苛立って、あんたなんか知らない、勝手に生きていけばいいと脅す。中には、あんたなんか産まなければよかったと言う親もいる。

 本作品の家族は、既に綻びが見えているが、母親はそれを隠して理想の家族を演じようとする。SNSで動画をアップすれば、誰もが羨む仲良し家族に見える。しかし上辺を取り繕うことは、内部の崩壊を早めることになる。
 ヒロインの少女ティンヤの表情がいい。壊れていく家族をただ見守ることしかできない無力感に満ちた憂いの表情だ。父親の表情もなかなかである。建築士と思しき彼は、大きな家と自動車の維持ができるだけの収入を稼いでいる。どこまでも寛容でいれば家族関係は維持できると思って、常に自分を殺している。その諦めの表情だ。
 母親は顔が怖いだけの類型で、凡人らしく浅はかな行動を取る。自分が家族を壊している自覚がないまま、家族を自分の思い通りにしようとする。父と娘は薄っすらとそれを感じているが、母親に逆らおうとはしない。無駄だと知っているのだ。

 そこに卵の登場である。卵が登場したそもそもの経緯がおどろおどろしい。母親の正体が垣間見えるのだ。やはり母親は口裂け女なのだろうか。
 卵自体が巨大化する発想は新しい。何が生まれるのかとあれやこれや想像する中で、最も現実的な生き物が誕生する。それは、母親のために感情を押し殺してきたティンヤの、怒りと憎しみが形を成したようでもある。
 ティンヤがそれに名前をつけたところに、本作品の肝がある。名前を付けることは愛着を生じさせることだ。ティンヤは母親になったのだ。
 それが登場して以降、物語は坂を転がるように破滅に向かうが、思わぬラストシーンに目を瞠った。怖いだけだった母親も、同じく目を瞠る。その視線の先には、、。
 どうにでも解釈できるラストシーンだから、解釈は観客それぞれの想像力に委ねられる。ちなみにカラスは、小学3年生くらいの知能があると言われているそうだ。アイデアに富んだ家族崩壊ホラーである。

映画「ふたつの部屋、ふたりの暮らし」

2022年04月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ふたつの部屋、ふたりの暮らし」を観た。
映画『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』オフィシャルサイト

映画『ふたつの部屋、ふたりの暮らし』オフィシャルサイト

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 よく知らない女性から、老女同士のレズビアンになにか問題ある?と啖呵を切られたら、多分ちょっと困る。勿論なんの問題もありませんと答える以外にない。犯罪や迷惑行為でなければ、他人のすることにとやかく言わないのがフランスだ。自由な精神が充満しているパリに比べれば、モンペリエのような田舎は少し違うのかもしれないが、それでも家父長制的な、封建的な考え方はまったくない。ホモだろうがレズビアンだろうが、その人の自由である。責める人はいない。ということは、問題は啖呵を切った側にありそうだ。

 赤の他人の不動産屋に啖呵を切ったニナは、老女同士のレズビアンを隠そうとした。そこから問題が派生し、悲劇も起こる。すべての原因はニナの不自由な精神性にあるのだ。堂々と事実を説明していれば、何の問題も起きなかっただろうが、それでは映画にならない。本作品はニナの性格を原因とする悲劇だ。シェイクスピアの悲劇と同じ構図である。

 幼い頃のかくれんぼが何を意味しているのかは不明だ。池に落ちて沈んだ少女がマドレーヌだったのか、それとも別の少女をマドレーヌが発見したのか、よくわからない。ニナの記憶にもあるということは、池に落ちたマドレーヌをニナが助け出したのかもしれない。そしてその出来事が二人の絆になっているという図式なのだろうか。あるいは、ドアの内側に隠れて覗き穴を覗くニナの精神性をかくれんぼにたとえたのだろうか。

 イタリア人の監督だからなのか、象徴的な歌はタイトルは失念したが「La terra la terra la terra」の歌詞で聞き覚えのある歌で、歌詞からしてイタリアの歌謡曲だと思う。老女同士のダンスにこの歌を使うのはセンスがいい。歌詞に出てくる terra(地球)と luna(月)をニナとマドレーヌに見立ててこの歌を選んだのかもしれない。

 終始、問題行動を起こすニナに対して、マドレーヌは静かである。脳卒中を発症した後はひと言も発しない。ただ手の動きと目線だけでマドレーヌを演じる。レズビアンを隠そうとするニナに苛立って物を落としたり、意味ありげな視線を送ったりする。大した演技力である。
 ニナが老女であるところもポイントだ。ニナが育った時代はレズビアンに対して寛容ではなかった。その精神性が尾を引いていて、時代が変わってもレズビアンを隠そうとする。三つ子の魂百まで。自由な精神性を獲得するのは難しいものだ。そういうところにもかくれんぼのメタファーがあったのかもしれない。意外に難解な作品だ。