よく知らない女性から、老女同士のレズビアンになにか問題ある?と啖呵を切られたら、多分ちょっと困る。勿論なんの問題もありませんと答える以外にない。犯罪や迷惑行為でなければ、他人のすることにとやかく言わないのがフランスだ。自由な精神が充満しているパリに比べれば、モンペリエのような田舎は少し違うのかもしれないが、それでも家父長制的な、封建的な考え方はまったくない。ホモだろうがレズビアンだろうが、その人の自由である。責める人はいない。ということは、問題は啖呵を切った側にありそうだ。
赤の他人の不動産屋に啖呵を切ったニナは、老女同士のレズビアンを隠そうとした。そこから問題が派生し、悲劇も起こる。すべての原因はニナの不自由な精神性にあるのだ。堂々と事実を説明していれば、何の問題も起きなかっただろうが、それでは映画にならない。本作品はニナの性格を原因とする悲劇だ。シェイクスピアの悲劇と同じ構図である。
幼い頃のかくれんぼが何を意味しているのかは不明だ。池に落ちて沈んだ少女がマドレーヌだったのか、それとも別の少女をマドレーヌが発見したのか、よくわからない。ニナの記憶にもあるということは、池に落ちたマドレーヌをニナが助け出したのかもしれない。そしてその出来事が二人の絆になっているという図式なのだろうか。あるいは、ドアの内側に隠れて覗き穴を覗くニナの精神性をかくれんぼにたとえたのだろうか。
イタリア人の監督だからなのか、象徴的な歌はタイトルは失念したが「La terra la terra la terra」の歌詞で聞き覚えのある歌で、歌詞からしてイタリアの歌謡曲だと思う。老女同士のダンスにこの歌を使うのはセンスがいい。歌詞に出てくる terra(地球)と luna(月)をニナとマドレーヌに見立ててこの歌を選んだのかもしれない。
終始、問題行動を起こすニナに対して、マドレーヌは静かである。脳卒中を発症した後はひと言も発しない。ただ手の動きと目線だけでマドレーヌを演じる。レズビアンを隠そうとするニナに苛立って物を落としたり、意味ありげな視線を送ったりする。大した演技力である。
ニナが老女であるところもポイントだ。ニナが育った時代はレズビアンに対して寛容ではなかった。その精神性が尾を引いていて、時代が変わってもレズビアンを隠そうとする。三つ子の魂百まで。自由な精神性を獲得するのは難しいものだ。そういうところにもかくれんぼのメタファーがあったのかもしれない。意外に難解な作品だ。