各シーンには京都の美しい風景が沢山出てくるが、実在するのは風景だけではなく、人も実在の人をうまく登場させている。舞が通う大学で講義しているのは同志社大学の前学長の村田晃嗣だし、舞に書を教えるのは書道家の小林芙蓉さんだ。村田教授はともかく、小林芙蓉さんという本物を登場させることで、書の説得力が格段に違ってくる。パリの展示会で生け花を活ける女性も、迷い続けた舞が座禅をしたときの僧侶も、皆その道のオーソリティの方々である。よくぞ出演されたと拍手を送りたい。
原作の川端康成は美学の小説家である。同じく美学の小説家であった三島由紀夫とは歳の差を超えた親交があった。三島の美学が空間的なのに対し、川端の美学は時間的だ。街の歴史と人の歴史との邂逅を描く。それは茶の湯でいうところの、一期一会の美学だ。
映画にも茶室のシーンが出てくる。碗に抹茶を入れ、茶匙を戻し、湯を入れて茶筅で茶を点てる。主人は最初から最後まで一言も発しない。千利休による、余分なものを究極まで削った静かな作法の美学がある。
京都はいろいろな顔を見せる街だ。かつては和歌と恋に明け暮れる貴族の街であり、その裏では芥川龍之介の「羅生門」に見るようなスラムでもあった。利休以後は文化の中心であり、茶の湯の美学は京都のいたるところ、そして京都人の心に綿々と受け継がれている。
映画も茶の湯の美学に倣い、余分なものを削った引き算の美しさを意図しているように思える。川端の原作のその後の話を創作した訳だから、とかく説明が多くなりがちなところだが、どのシーンにも余分な台詞はほとんどない。そもそも台詞自体が少ない映画なのだ。説明的な台詞よりも、風景と自然の音と役者の表情と音楽で伝える。あたかも茶の湯のようだ。凛として潔い。
生きていくのが苦しいのはどこでも同じだが、京都には伝統があり生業がある。流行りもあれば廃りもある。人生だけでなく、伝統も綱渡りのように歩んできた。数百年の老舗の敷地や建物に伝統があるのではない。京都という古い街に生きてきた人々の心のなかにこそ、伝統がある。
女たちは伝統に支配され、あるいは反発し、儚い人生を生きて、娘に自由を託す。しかし娘もまた、伝統に押しつぶされそうになりながら、綱渡りのような危なっかしい人生を生きていく。それでも何が美しくて、何が大切なのか、女たちは皆知っている。それが京都という古都の伝統なのだ。この映画は川端の美学を真っ向から受けとめて、さらなる美しさを上手に描いている。姉妹都市であるパリでのシーンも、少ない台詞で女の人生をよく表現していた。稀にみる素晴らしい作品である。
惜しむらくは、エンディング曲だ。エンドロールを眺めながら、映画の冒頭のシーンから最後のシーンまで、京都の歴史と伝統と女たちの人生を反芻しているのに、「糸」がかかった瞬間に安っぽくなってしまった。映画の価値を損なうほどではないが、千年以上の歴史をバックボーンにした映画に、たかだか数十年の個人の人生を歌った曲は相応しくない気がする。名曲「糸」は場所を選ばないが、この映画は京都を舞台としなければ成り立たない。そこを考えてほしい。中島みゆきは個人的にはとても好きな歌手ではあるが、この映画に限っては別の曲を選んでほしかった。
そもそも「糸」は出逢いの曲だ。しかしこの作品は別れの映画である。同じ中島みゆきなら、「時代」のほうがまだ、この作品に相応しかっただろう。時代は巡って別れと出逢いを繰り返す。
余談だが、「古都」という名前の日本酒がある。佐々木酒造の大吟醸だ。川端康成が自身の作品名を揮毫したことで知られている。なかなか手に入らないので飲んだことはないが、すっきりした辛口らしい。また京都に旅したときにでも飲んでみたいものである。