三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「騙し絵の牙」

2021年03月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「騙し絵の牙」を観た。
 予告編を観ている方がいたら、一旦予告編の内容を忘れて鑑賞するのがいいと思う。そもそも殆どの映画の予告編は、本編の内容をバラバラにして繋ぎ合わせ、観客に観たいと思わせるように出来ている。予告編が一番面白かったなんてことはざらにある。本作品は珍しいことに予告編よりも本編のほうが面白いが、予告編に騙されると本編のよさが半減する。予告編そのものが騙しなのである。
 大泉洋は相変わらず達者で、演じた編集者速水は、膨大な知識量とそこから生まれる沢山のアイデアに溢れているが、そのことを決して表に出さない。ある意味ストイックな男である。各シーンの速水の言葉をはじめ、登場人物の言葉の端々にその後の出来事を暗示する内容が含まれており、本作品は台詞のひとつひとつを聞き逃さないように注意深く鑑賞する必要がある。
 洞察力。佐藤浩市演じる東松専務に欠けていて、意外にも松岡茉優の演じる新人編集者の高野に備わっているものだ。登場人物の殆どは善人で、善人らしく裏を読む洞察力に欠けていて、真実が見えない。商売人は自分が損しないために必ず裏を取る。手形の決済であれば相手方に裏書きをさせる。松岡茉優が演じた高野を本屋=商売人の娘にした設定がいい。
 本作品では金の流れが見えない。癖のある経理担当者を登場させれば更に複雑な映画になって、より現実的になっただろうと思うが、あまり複雑になりすぎると観客がついてこれなくなる。本作品は複雑さが丁度いい度合いで、終盤になると観客はシーンを溯って速水が演じていた芝居の意味を理解する。なるほどあのシーンはこういう意味だったのか。
 伊庭喜之助のイニシャルは大した意味を持っていないと思う。それよりも登場人物の中で東松専務だけが喫煙者であることと、機関車トーマツと陰で揶揄されていることに意味がある。蒸気機関車は煙を出す。もはや過去の遺物だ。社長室のデスクに座った東松の背広の後ろ姿が物悲しくて、佐藤浩市はやはり大した役者だと思った。
 松岡茉優は他の作品の演技とあまり変わらない。演技はそこそこ上手だが、高野恵という女性の個性があまり見えてこなかった。木村佳乃は上手い。作品ごとにまったく違う木村佳乃が見られる。脇役陣では名人の國村隼と佐野史郎の存在感は言うことなし。小林聡美の演じる評論家が重要な役割を果たす。この人の演技も名人級だ。
 脇役陣ががっしりと土台を固めて、その上で大泉洋を思い切り遊ばせた格好の作品である。吉田大八監督の演出の腕が光っていた。よく出来た作品で、多分何度観ても面白いと思う。

映画「水を抱く女」

2021年03月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「水を抱く女」を観た。
 モーリス・ラヴェルの「夜のガスパール」の第一曲「オンディーヌ」は、ピアノリサイタルで聞いたことがある。小雨が降り注ぐように細かく鍵盤を叩く曲で、「ボレロ」の作曲家の曲とは思えないほど、全体的に暗めの印象を受けた。
 本作品のヒロインであるパウラ・ベーア演じるウンディーネは、その暗いピアノ曲に似合う陰気な雰囲気を持っている。映画全体の雰囲気を彼女がリードしていたように思う。ベルリンの歴史ガイドが仕事という設定もいい。ベルリンは分断から壁の崩壊までの間、東西それぞれの人々にどのような影響を与えたのか、再びひとつになったベルリンはどのように再建されてきたのか、思い入れを一般の意見のようにして説明する。
 私生活ではずっと付き合ってきた男ヨハネスが二股をかけていたことを知り心を取り乱すが、クリストフとの偶然の出逢いが彼女の運命を変えていく。それは女としての彼女の幸福の兆しではあったが、同時に神話のオンディーヌとしての宿命的な不幸のはじまりでもあった。つまり本作品はファンタジー映画なのである。
 ファンタジー映画というとハリー・ポッターやディズニー映画を思い浮かべる人が多いと思うが、本作品は同じファンタジー映画のジャンルに入るにしても、それらの作品とは一線を画していると思う。
 相手役を演じたフランツ・ロゴフスキは2年前に日本公開された映画「希望の灯り」では優しくて思いやりのある主人公を好演していて、本作品でも同じように優しい潜水夫クリストフを演じて、ヒロインを受け止めるだけの器量を見せていた。本作品はクリストフの優しさに救われているところがある。
 柳田國男の「遠野物語」には多くの神話や伝承が紹介されているが、得てして容赦のない残酷な物語である。それは人類の歴史が残酷な物語であったことと無関係ではない。本作品の元になった神話も、例に洩れず残酷なものだ。それを変に脚色せず、残酷なままに表現してみせた潔さは見事だと思う。

映画「ノマドランド」

2021年03月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ノマドランド」を観た。
 ♫サヨナラは言わない昨日の私に 時の流れ少しだけ止めさせて♫ 国鉄の職員だった歌手の伊藤敏博さんの「旅の途中で」の歌詞の冒頭である。旅を歌った歌はたくさんある。歌われる旅は帰る場所があっての旅であったり、または行ったきりの旅立ちだったりする。松尾芭蕉は奥の細道の冒頭で、時の流れそのもの、人の移動そのものがすでに旅なのだと喝破した。作詞家松本隆は「瑠璃色の地球」の中で「地球という名の船の誰もが旅人」と松田聖子に歌わせている。事程左様に「旅」というキーワードには人の琴線に触れる何かがあるのだ。
 本作品では、最愛の夫を亡くし、住んでいる町が消滅して住所も失った主人公ファーンが、古いバンを住居兼移動手段としてアメリカ国内を旅する話である。ロードムービーの王道に洩れず、沢山の出逢いと別れがある。時に悲しいことや辛いこと、老いを感じることもあるが、ファーンは持ち前の体力と冷静さと洞察力で旅を乗り切っていく。
 ファーンの洞察力を感じたのは、姉の家で不動産投資の儲け話に敏感に反応して鋭く反論したときだ。かつてサブプライムローンの不良債権化でリーマンショックが起き、その影響で自分が町も家も住所も失った構図と、不動産投資の儲け話が同じであることにすぐに気づいたのだ。
「旅」という言葉には憧れとともに不安の響きがある。住民登録された住所に住まいがあり、健康保険証を持っていて定職や家賃などの定収入があるという定住の安心に対し、旅は常に不安である。しかしファーンは、定住の安心など、本当は風前の灯に過ぎないことを知っている。丈夫だと思っている足元は、実はいつ崩れ去ってもおかしくないのだ。だから本作品を観て、言い知れぬ不安を覚えた人も多いと思う。自分たちもいつファーンと同じような境遇に陥らないとも限らない。そのときに生きていけるかどうか。
 そんな頼りない我々とは違い、本作品のファーンは不安よりも旅を楽しんでいるように見える。出逢うのはたいてい年老いたノマドたちだが、彼らも皆、旅を楽しみ、旅の途中で死ぬことを恐れていないようだ。人の世話になるくらいなら孤独に野垂れ死ぬほうがよほど潔い。旅は生き方であると同時に死に方でもあるのだ。
 家族第一主義の映画が席巻するハリウッドで、本作品は異色中の異色だろう。家族を捨て家を捨て、孤独な旅に生きるノマドたちの世界。現世の利益に汲々とする人々の目には、野垂れ死には惨めな死に方に映るのだろうが、ノマドたちにとっては理想の死に方だ。「古人も多く旅に死せるあり」芭蕉も野垂れ死にを理想としたのかもしれない。

Google 日本語入力の変換候補がおかしい

2021年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム

 たとえば「歳の瀬」と入力しようとしてローマ字変換で「tosinose」とタイプしてスペースキーを押すと、変換候補が次の順番で出てくる。
年の瀬
斗師のせ
斗士のせ
斗紙のせ
斗誌のせ
斗史のせ
斗氏のせ
斗使のせ
斗肢のせ
斗址のせ
斗死のせ
斗市のせ
斗視のせ
斗子のせ
歳の瀬
 当方が入力したかった「歳の瀬」は実に15番目で、その間に意味不明な「斗~」という変換候補が13個も出るのだ。「tosinose」の他にも「斗」の字が入る、日本語としてはありえないような変換候補が出るときが結構あった。
 面倒くさいので出ないようにしたいのだが、自分で作った漢字辞書の変換候補以外は、消したり変更したりすることが出来ない。Google 日本語入力の仕様だと言ってしまえばそれまでなのだが、時間の無駄であり、ときには気づかないで変な変換のままその文章をアップしてしまうことがある。なんとかならないものだろうか。


映画「ミナリ」

2021年03月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ミナリ」を観た。
 アカデミー賞にノミネートされるほど評判の高い作品だが、当方にはあまりピンとこなかった。序盤のシーンで韓国女性はやはり暴力的なのかと、まず気持ちが冷めた。続いて、妻の説得に子供を使おうとする夫のやり口にも落胆した。互いに約束が違うと言って相手を非難する夫婦。べらんめえ調の言葉遣いの下品なおばあちゃん。
 韓国は儒教の影響が残っていて年長者と家を大事にする。人間に精神的な自由をもたらしたキリスト教とは相容れないはずだが、そのあたりの整合性は問題にされないままストーリーがすすむ。ストーリーといっても、場面は多くなく、家の中と畑、それに教会くらいだ。あとは自動車で道を進むシーン。
 ひよこの雌雄の鑑別はかなり難しいというのはテレビで見たことがある。鑑別師として一定の水準に達した夫は、別の仕事に投資してもっと多くの収入を求めようとするが、まだ鑑別師としては伸びしろのある妻は、スキルアップすればそれ以上の安定した収入が得られ、貯金をはたくなどの冒険をせずに済むと考える。どう考えてもふたりの将来展望は平行線だ。
 昨年の春に鑑賞した映画「ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方」の大きな世界観に比べるのは可哀相だが、家族のありようが問われる部分は同じである。成功して金持ちになりたいだけの男を、不屈の魂とかいう言葉で褒めたくはない。農業に対する愛、もっと言えば生き物に対する愛がないのだ。いや、あるのかもしれないが、それを感じさせるシーンがない。
 将来展望が違う妻は夫の畑仕事を一切手伝わない。妻にしてみれば血の繋がっている自分と子供とおばあちゃんが家族で、夫は家族ではないのだ。そのあたりは夫も感じていて、微妙な疎外感がある。だから子供に自分の存在感を示したい。しかし自分と子供は血が繋がっていることを忘れているようだ。
 結局、登場人物の誰にも感情移入できないままに終わってしまった。エンドロールを見ながら、ウィル・パットンが演じた、トラクターをジェイコブに貸してくれたポールを中心にして本作品を見直してみたらどうなんだろうと思った。日曜日ごとに大きな十字架を肩に担いで道を歩くポール。独特なキリスト教徒で、オカルト的な怪しい雰囲気も漂わせている。意外に面白そうだが、本作品とは別の話だ。
 当方の感受性のなさを露呈しているのかもしれないが、本作品からは何の感銘も受けなかったというのが正直なところである。

映画「生きろ 島田叡 戦中最後の沖縄県知事」

2021年03月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「生きろ 島田叡 戦中最後の沖縄県知事」を観た。
 恥ずかしながら本作品を観るまで、戦時中最後の沖縄県知事である島田叡を知らなかった。今で言うところのキャリア官僚であり、東大法学部卒で野球の名選手となれば、頭脳明晰、身体頑健で、それだけで出世しそうな気がするが、持って生まれた反骨精神が祟って、出世街道からは外れてしまったらしい。好感の持てる人物だ。
 内閣人事局の威光を恐れて忖度を繰り返した挙げ句、国会においてさえも「記憶にございません」を繰り返す現在の官僚たちを見ていると、島田叡の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいである。
 島田叡の気骨はどこまでも本物であり、死にに行くことと分かっていながら、沖縄県知事の辞令を引き受ける。死を覚悟して臨んだ沖縄県知事の仕事は、沖縄県民を生きながらえさせることであった。
 軍は鬼のような存在である。島田が決死の思いで調達した米を掠め取っていく。しかし軍といっても人間の集まりである。島田の気骨を知る人物がおり、島田と同じような気骨の持ち主もいた。勿論県庁職員にもいた。島田は悪徳政治家やヒラメ官僚以外には人気があったのだ。おかげで県民の北部への疎開などの課題がスムーズに実施できたというわけである。
 多くのエピソードが語られる中で中央政府がどうして沖縄を救えなかったのかを考えた。講和を口にしただけで身柄を拘束し場合によっては銃殺した東条英機が権力を独占した結果、戦争を集結させる勢力は発言力を失ってしまった。兵站のできない日本軍は物資が豊富で兵站も十分なアメリカ軍には絶対に勝てないと知った勢力が東条を追い詰め、東条は1944年に内閣を総辞職するが、既に遅きに失した感がある。
 中央政府が島田叡のような気骨のある官僚を重用しあるいは昇進させ、重要な地位をすべて占めていたら、軍による政治支配が果たして可能であったかどうか。しかし明治維新の富国強兵政策は昭和になっても依然として続いていた訳で、その政策を否定することができたのは反骨の官僚と政治家だけだったのかもしれないが、島田叡がひとりの官僚として、あるいは沖縄県知事としてできることは限られていた。そんな中でできることを精一杯やった勇気は評価しなければならないと思う。

映画「スキャナーズ」

2021年03月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スキャナーズ」を観た。
 40年前の映画だが、それなりに面白く鑑賞できるのは、名作のひとつと言っていいのだろうと思う。クローネンバーグ監督の作品では1987年の「ザ・フライ」が凄く印象に残っている。ある装置から数メートル離れた別の装置へのテレポートを成功させた学者の話で、ジェフ・ゴールドブラムの怪演が思い出される。テレポート寸前に装置に侵入したハエと遺伝子レベルで合体してしまうというアイデアが秀逸だった。
 本作品も人体の変化を扱っていて、テレパシーによって他者の意識が勝手に頭に入ってくるだけでなく、テレパスの側からも信号を送ることができるというアイデアだ。それによって相手のバイタルを変化させることができる。流石に頭が破裂するのは少しやりすぎかもしれないが、映画的には衝撃のシーンが必要な訳で、そのあたりはクローネンバーグ監督がよく心得ているようだ。加えて監督は、人体自然発火現象も念頭に置いて作品を作ったように思える。
 ストーリーは常に予想を裏切る形で、より過激な方、より悲惨な方へ進んでいく。各シーンはアイデアの連続である。撮影も見事だが、特殊メイクも凄い。CGよりもずっと迫力を感じるのは当方だけだろうか。
 ラストシーンはこれで終わるのか?という続編の予感を匂わせる格好だが、完結しているようにも受け取れる。そのもやもやが本作品の印象を強くしている。そういう狙いもあってのラストシーンかもしれない。まさにアイデア満載の意欲作であったというのが本作品の妥当な評価だろう。続編は9年後に製作されたが、クローネンバーグ自身はかかわらなかった。当方も続編は観ることはないと思う。

映画「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」

2021年03月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」を観た。
 当方は無宗教である。神は信じる人の心の中には存在するのかもしれないが、当方の心のなかに神は存在しない。だからといって宗教を否定することもないし、信者を侮ることもない。憲法にある通り、信教の自由は守られなければならない。オウム真理教や創価学会といったカルト宗教も例外ではない。
 しかしと、さかはら監督は言う。地下鉄サリン事件を起こしてもなお、オウム真理教と麻原彰晃を信じるのかと、現役の信者でありオウム真理教の広報部長であった荒木浩さんに迫る。痩せて弱々しい荒木さんは、見かけとは裏腹の芯の強さを見せて、それでも信じると断固として信仰を曲げない。
 さかはら監督は、なんとしても荒木さんに謝らせたいようで、何かにつけて謝罪しろと言う。荒木さんは不本意であることをあからさまに示しつつも、何度かに一度は謝罪する。太って強気なさかはら監督が痩躯の荒木さんに謝罪しろと迫るのは、クレーマーが謝罪に来た企業の人に土下座しろと迫るのに似ている。
 荒木さんには山ほどの反論がある筈だ。当方が先ず浮かんだのは、十字軍である。キリスト教の聖地奪回の大義名分の基に略奪と破壊と虐殺を繰り返した。それでなくてもキリスト教は宗派の違いによる戦争でたくさんの犠牲者を出している。それらの犠牲者に対してさかはら監督は、現在のキリスト教徒に謝罪しろというのだろうか。バチカンに行ってローマ法王に謝罪を求めるのか。
 次に浮かんだのは日中戦争である。関東軍は南京大虐殺をはじめ、多くの無辜の中国人を虐殺し物資を奪い女子供を強姦し家に火を放った。当時の日本人はマスコミの大本営発表にも踊らされ戦争に熱狂していた。頑張れニッポンだったのである。結果として中国から東南アジアの広い地域に数多の犠牲者を出した。それらの犠牲者に対して、当時の日本人全員に謝罪させるのか。
 原子爆弾の被害者は広島、長崎の被爆者とビキニ環礁での被曝者である。何十万人も死んだ。加害者は米軍だ。米軍の誰に謝らせるのか。または当時のアメリカ国民全員に謝罪させるのか。広島、長崎は戦争の当事国だったからまだしも、ビキニ環礁の水爆実験の被害者はまったく無辜の人々である。誰が誰に謝罪して、誰が誰に責任を取るのか。
 アメリカの同時多発テロ事件を起こしたアルカイダはイスラム原理主義者である。さかはら監督はイスラム教徒に対して、テロ事件の犠牲者に謝罪しろというのだろうか。ジョージ・ブッシュは人気取りのためにテロとの戦いを標榜し、軍需産業の後押しもあって、ありもしない大量破壊兵器を隠し持っているとしてイラク戦争を始めた。小泉純一郎は「ブッシュ大統領があると言ったらあるんだ」と根拠のない主張でアメリカを支持し、イギリスのブレアは自国の軍隊を参加させた。イラク戦争の犠牲者は数十万人と言われ、民間人も多く含まれている。ブッシュも小泉もブレアも人殺しである。さかはら監督は小泉をイラクに連れて行って謝罪させればいい。
 しかし荒木さんはさかはら監督にひと言の反論もしない。出てくる言葉は非常に内省的で、自分がどのようにして麻原彰晃を信じ、オウム真理教に救いを求めるようになったかを切々と語る。京都大学で直接麻原彰晃と対峙した後で食欲と性欲を感じなくなってしまった話や弟の病気の話をする。特に弟の病気については、自分の精神性について家族と決定的な隔たりを覚える。それは存在と関係性についての認識そのものの危機であったが、さかはら監督には通じない。家族を大事にしろと説教し、両親に会いに行けと強要する。この人は荒木さんの話を聞いていなかったか、理解しようとしなかったか、あるいは理解できなかったのだ。さかはら監督の言葉に「京都大学まで出て」という意味の言葉があった。権威主義の現れである。
 ここで改めて申し上げるが、当方は無宗教である。オウム真理教も荒木さんたちの会も支持することはない。しかしさかはら監督の態度には違和感を覚えざるを得ない。
 非常に考えにくいことだが、本作品は荒木さんによるプロパガンダかもしれない。映画を観れば分かる通り、荒木さんとさかはら監督の関係性は被害者代表と加害者代表のようでありながら、部下と上司のようでもある。荒木さんが部下でさかはら監督が上司だ。部下は上司に逆らえないし、反論も出来ない。さかはら監督が悪役で荒木さんが脅されているみたいに見えるのだ。あるいは権威主義で家族第一主義の単細胞の政治家と思慮深い沈思黙考型の官僚のようにも見える。
 取材の申込みから撮影に至るまで1年間かかったとのことだから、荒木さんの準備は相当なものであったのではないか。さかはら監督は知ってか知らずか、怒りの感情にまかせて謝罪しろと迫り、期せずして悪役を演じてしまった。単純に謝罪を要求するさかはら監督に対して、エピソードトークから信仰の本質に迫る話をする荒木さんの立ち位置は、一連のオウム事件とは無関係の、信心深いひとりの信者といったところだ。それを見事に演じきってみせたように感じた。しかし本当のところは定かではない。多分永遠に分からないだろう。

こまつ座第135回公演「日本人のへそ」

2021年03月23日 | 映画・舞台・コンサート
 新宿の紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAでこまつ座の第135回公演「日本人のへそ」を観劇。
 小池栄子が主人公のストリッパーを演じるが、その抜群のプロポーションと美貌でセーラー服から水着の上下、ハイヒールダンスから髪をアップにした和服まで、何を着ても美しい。
 ある無名の少女が集団就職で上京したが、上京の前の夜に実の父親に強姦されてしまい、その影響で吃りになってしまう。それからはクリーニング屋の店員やトルコ嬢を経て売れっ子ストリッパーのヘレン天津となり、上京して間もなく浅草で出逢ったチンピラの情婦となり、チンピラの情婦からヤクザの親分の情婦、親分の知り合いの右翼の情婦、そして大臣の情婦となる。
 戦後の日本は誰も戦争責任を取らず、戦後の総理大臣東久邇宮稔彦王は「一億総懺悔」と言い出して、戦争に突き進んだ軍部とその言うがままに大本営発表を繰り返したマスコミ、そのマスコミに踊らされて戦争礼賛に熱狂した民衆、それら全てに責任があるということで全員で謝罪するとなった。全員が謝罪するとなれば全員に罪があるということで、では全員を罰するのかというとそうではなく、罰のない罪はもはや罪ではなくなってしまった。
 そういう時代にまたぞろヤクザや右翼や悪徳政治家がしゃしゃり出て日本を牛耳ろうとしていた。ヘレン天津が情婦になる相手が徐々に大物になっていき、最後は日本を左右する政治家の情婦にまでなるという成り上がりの話だが、どんでん返しが二転三転するという驚きのストーリーである。ミュージカルの側面もありつつのえげつないエロ台詞も満載で、貧しい庶民から贅沢な大臣の生活までを俯瞰した、まさに日本人のへそを表現した井上ひさしならではの壮大な芝居である。傑作だった。

映画「奥様は取り扱い注意」

2021年03月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「奥様は取り扱い注意」を観た。
 2017年に放送された日テレのドラマは見ていた。とってもとっても大スキ♫と歌っていた広末涼子が、それから20年経って不倫する奥様役で出ていたのを複雑な思いで見ていたことを思い出す。ドラマは戦闘力の高い夫婦の物語に、地域の人々のDVやパワハラ、不倫や反社組織などの問題が絡められていたが、本作品でも環境問題、資源問題、政治利権に国際的犯罪組織と悪質警官と悪質警察署、悪質公安組織が絡んで、ややこしくも面白いストーリーになっている。
 警察の逮捕訓練と公安警察の訓練はどれほど違いがあるのか知らないが、軍隊のクロスコンバットは敵を無力化する(つまり殺す)ことが目的だから、一般的に言えば近接戦闘で警官が軍人に勝てることはない。自衛官が一人で交番を襲って数人の警察官を殺してしまう事件は何度か起きた。どれほど個人の能力差があっても、書類仕事や巡回でほとんどの時間を過ごしている警官が、毎日人殺しの訓練をしている自衛官に勝てる筈がないのだ。
 というわけで終盤の展開が不自然な本作品だが、綾瀬はるかと西島秀俊の夫婦関係がとてもスリリングで、どこまで本当でどこまで嘘や演技なのかという一点だけで興味を繋ぎ止め、環境問題のサイドストーリーが物語を進める。檀れいの能面のような表情を芝居上手な鈴木浩介が補っていた。
 大して深みのある作品ではないが、綾瀬はるかの演技で最後まで持たせる。アンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップが主演した映画「ツーリスト」を思い出した。綾瀬はるかの作る料理が美味しそうなのが意外によかった。