三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「レディ・マクベス」

2020年10月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「レディ・マクベス」を観た。
 人間は生き延びようとする本能と破滅へ向かおうとする意志との狭い隘路に生きている。生き延びようとする執念は凄まじい。諦めずにあがき続けるその姿は勇ましくもあり、醜くもある。破滅へ向かう意志は脆くて儚い。現世との絆をひとつひとつ断ち切っていく姿は痛々しくもあり、愚かしくもある。
 フローレンス・ピューは映画「わたしの若草物語」での四女役の演技が秀逸だったので、その3年前にどれほどの片鱗を見せていたのか楽しみにして鑑賞したが、本作品のキャサリン・レスターがエイミー・マーチとよく似ていることに驚いた。ふたりとも生き延びて自らの欲望の充足を図ろうとする若い女性なのだ。そのためには手段を選ばず、意に沿わないことも嫌な顔ひとつせずにこなしていく。こういう役があっているのだろうか、本作品でのキャサリン役も大変見事な演技だった。
 こういう作品を観ると、人間の本質は原始時代から少しも変わっていないのではないかと思わされる。身勝手で暴力的で自分の欲望に忠実。ん? これはどこかの大国の大統領の特徴みたいだ。ブラック企業の創業社長の特徴でもある。そうか。原始人に牛耳られている国や企業があるということか。
 文化が進むと、自分が傷つけられないために他人を傷つけないという暗黙のルールが出来てくる。共同体のルールも加わるから、他人を傷つけることの代償は更に大きくなる。想像力がある人は他人を傷つけなくなる。自分が傷つけられないためである。往々にして気が弱いと決めつけられるが、実は気が弱いのはそれだけ文化的である証左なのだ。逆に言えば、傷つけられることを恐れずに他人を傷つける人間は原始人的であると言える。本作品のキャサリンはまさに原始人である。とても恐ろしい。
 我々の中にもキャサリンのような原始的な部分が少なからず残っていて、理性によって暴走を抑制している。想像力が暴力性を押さえつけていると言ってもいい。不安や恐怖よりも自分の欲望を優先して行動することを一般的に傍若無人と呼ぶが、気が弱くて他人に優しい人間にとって、傍若無人はある意味羨ましくもなる。他人から傷つけられることを恐れないということは、他人にどう思われるかに無頓着だから、不安や恐怖はないだろう。幸せな精神性だ。しかし実際に傍若無人な態度を取ったら後悔する。本質的に傍若無人でない人は、傍若無人にはなれないのだ。
 原始人と文化人の中間でゆらゆらと生きているのが人間だとも言える。より原始的な人間が国や企業を牛耳るよりもそうでないほうがいいと思う。キャサリンの周囲の人間は誰も幸せになれない。しかしキャサリンにはそんなことは関係ない。ひとりになっても生き延びて欲望を充足させるのだ。現代の社会構造の縮図みたいな作品だったと思う。

ミュージカル「生きる」

2020年10月26日 | 映画・舞台・コンサート
 日生劇場でミュージカル「生きる」を観た。
 二度目の観劇で、前回観たのは2年前の10月24日の赤坂ACTシアターだった。キャストも演出も同じだが、ダブルキャストなので前回は主人公渡辺勘治が鹿賀丈史の回、今回は市村正親の回を鑑賞した。
 あくまでも人間を描く黒澤明監督の映画の世界観に沿っていて、渡辺勘治という無名の市役所職員がどのように生きて、どのように死んだかをミュージカル仕立てで描く。鹿賀丈史が掠れるような声で中年男の悲哀を歌ったのに対して、市村正親は強く生きる意志を感じさせる朗々とした歌いっぷりだった。甲乙つけがたい。悪役の助役を演じた山西惇の歌も、二年前よりもだいぶ力強かった。主役に合わせたのだろうか。
 二度目だからストーリーもシーンも全部わかっているのに、なぜか同じように涙が出る。人間の死は常にドラマチックだ。それが生きるということなのだという黒澤監督のメッセージを改めて受け取ったような気がした。

映画「空に住む」

2020年10月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「空に住む」を観た。
 多部未華子の直実、岸井ゆきのの愛子、それにムミラ改め美村里江の明日子の3人の現代女性の心模様を描いた作品である。多部未華子に可愛らしさを封印させた演出は賛否が分かれると思うが、本作品を文学作品と見るのであればこういう演技もありかなとは思った。
 同じマンションに住む若手俳優時戸森則と直実との間で文学的な会話が繰り広げられるのだが、この会話がどうにも頭に入ってこない。言葉が上滑りしていて真実味が感じられないのだ。自分の言葉で話していないからだと思う。敢えてそういう演出にしているのだろうとも思う。
 ひとつだけ「地面に足がついていない」という時戸森則の言葉が印象に残る。タイトルの「空に住む」に呼応するような言葉であり、つまりは生と死、現実を実感として受け止めきれていないという意味に理解できる。
 直実にとっての現実は両親の死である。墓に納めた両親の骨よりも遥かに高い39階に住むことで、両親の死が抽象的になってしまう。本作品の直実は両親が事故で死んでも泣くことが出来なかったことを悩む。しかし文学的な人にありがちな話で、親の死を無意識に相対化して抽象化することで、悲しいという感情に結びつかなくなってしまう。
 当方は高校時代に国語教師から「親が死んで泣かない奴は人間じゃない」と言われたことがあるが、アルベール・カミュの「異邦人」は「Aujourd'hui, maman est morte.」(「今日、母が死んだ」)ではじまる。母が死んでも悲しまないムルソーが非難される話で、カミュはこの小説によって「親が死んで泣かない奴は人間じゃない」という短絡的なパラダイムの終焉を告げたのだ。
「異邦人」は社会と人間関係のありようの変化について書かれた小説でもあり、それは現在日本の冷血とも言えるSNS社会を予言したかのようでもある。本作品では、地面に足がついておらず、情緒が貧弱になって、自分でも信じていない上滑りのする言葉を呟きながら生きていく、そういう「異邦人」のような精神性に対して、現実を受け入れて生と死を実感する体験を対比させることで、脆弱な現代人のありようが浮かんでくる。モヤッとした作品でありながら、そのモヤモヤがいつまでも心にわだかまる、なんとも不思議な映画だと思う。

映画「朝が来る」

2020年10月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「朝が来る」を観た。
 特別養子縁組をした実親と養親の顛末を描いた作品だ。特別養子縁組は実親との親子関係を解消して親権を養親に移動させる法的手続である。養親側は子供が欲しい夫婦ということで画一的だが、実親には様々な事情がある。強姦されたが妊娠に気づかなかったなどだ。
 本作品では特別養子縁組の事案について、養親夫婦と実親のそれぞれの視点から物語が描かれる。ひとつの物語を別の角度から見直すような構成で、観客は人間関係を立体的に理解できる。難解な作品を作りがちの河瀨直美監督にしてはわかりやすい。
 序盤から暫くは養親夫婦を演じた永作博美と井浦新の二人の芝居が続くが、この二人がとても上手なのですぐに感情移入できる。特に他の子供の親とのやり取りでは、仕事でのクレーム対応を思い出して気持ちが酸っぱくなった。クレーマーは自分に都合のいい情報だけを事実と決め込んで、損得感情で責めたてる。様々な場合を想定できる頭のいい人は、却って口ごもってしまう。事実が判明するまでは、クレーマーの罵詈讒謗に耐えるしかない。
 蒔田彩珠が演じた実親片倉ひかりは中学生。妊娠に気づいたときには既に中絶手術が不可能な時期になっていて、育てられないから特別養子縁組を斡旋する施設を利用することになる。この人の物語から映画は悲惨な場面へと展開していく。
 国の文化度が低いほど、性教育がきちんと行なわれていない。日本は当然ながら、性教育後進国である。ついでに言えば、人権教育や憲法教育も殆どない。それはそうだろう、道徳教育を成績査定の対象にして、出来れば教育勅語も組み込みたいみたいなファシスト政権が続いている国である。人権教育や憲法教育は以ての外だ。性教育など眼中にもないのだろう。加えて「ナチのやり方に学ぶ」「コロナ禍が酷くならないのは民度が違うからだ」などと根拠のない妄言を吐く財務大臣がいる国でもある。日本が文化的に後進国であることを自覚したほうがいい。
 性教育をきちんと受けていないから、見様見真似の性行為で妊娠してしまう。無免許運転の自動車が事故を起こすのと同じだ。日本の教育界はどうしてこんな単純なことがわからないのか。道徳の時間を性教育に当てれば子供を作ると生じる義務や権利を学ぶことが出来る。人権教育や憲法教育の時間を作れば差別やいじめが憲法の精神と正反対であることも分かる。有権者のレベルも少しは上がるかもしれない。しかし実は有権者のレベルなど上がってほしくないのが現政権だ。「由らしむべし知らしむべからず」という全体主義者の一元論によって国が成り立っている。日本はどこまでも後進国だ。
 ひかりは性教育の不十分によって最初の不幸に見舞われた上に、社会のパラダイムによって第二の不幸に見舞われる。家族と世間の無理解だ。ひかりの母親もどこぞの財務大臣と同レベルの原始人だから、封建的なパラダイムに凝り固まった偏見で娘をどこまでも追い詰める。先方の両親と話し合って娘や息子が成人するまで助け合いながら、生まれた子供を育てる選択肢もあっただろうに。ひかりはクレーマーを相手にしたときと同じように黙って耐えるしかない。そして人権教育がないから女だけが一方的に不幸を背負い込むことになる。これが第三の不幸だ。
 永作博美が演じた佐都子は頭のいい女性である。ひかりに何が起きたのか、様々な場合を想定し、自分の記憶と繋ぎ合わせることで真相を悟っていく。ひかりは偏見に満ちた世間と家族に背を向けて、帰る場所がなく、居場所もない。放っておけば悪の道に染まっていくしかない。佐都子の中で目まぐるしく想像力が跳ね回るさまを、永作博美は無言の表情のみで演じる。凄い演技力だ。「私はこの人を知っています」は佐都子の覚悟の言葉である。佐都子はひかりを救えるのだろうか。
 形としては思春期の少女の不幸と少女に関わった養親夫婦のヒューマンドラマだが、少女に不幸を齎した社会の歪みを浮かび上がらせる問題作でもある。少女の自己責任に帰してはいけないのだ。

映画「Destroyer」(邦題「ストレイ・ドッグ」)

2020年10月25日 | 映画・舞台・コンサート
映画「Destroyer」(邦題「ストレイ・ドッグ」)を観た。
 
 既視感がある。ボロボロになりながら執念深く犯人を追う姿はダーティ・ハリーに似ているし、朱に交わって赤くなるストーリーは沢山の映画やドラマで観たし、思春期の娘が不良と付き合うシーンはもう観飽きた。
 という訳で本作品の唯一の見処はニコル・キッドマンが推定三十代の女盛りとその17年後の更年期障害か始まっていそうな年増刑事をどのように演じ分けるか、ということになる。
 しかし残念ながら上手くいったとは言い難い。若作りのメイクがそれほどでもなかったから、コントラストを際立たせるために逆に現在の見た目を酷くした感じなのだ。キッドマンにとってはチャレンジだったのかもしれないが、観る側にとっては醜いものを見せられただけである。
 邦題の「ストレイ・ドッグ」は聖書の「迷える仔羊(ストレイ・シープ)」に因んで付けたのだろうが、典型的な思い込み先行のタイトルだ。原題の「Destroyer(破壊者)」の方がずっとマシである。
 主人公エリン・ベル刑事は独善的で暴力的なクズ人間である。当然ながら感情移入できず、どちらかと言えば主人公の独善に振り回される周囲の人たちに同情する。これほど主人公に嫌悪感を覚える作品も珍しい。2時間がとても長く感じた。

映画「スパイの妻」

2020年10月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スパイの妻」を観た。
 ヴェネチア国際映画祭の銀獅子賞(監督賞)受賞作品である。映画館で予告編を何度も観せられて必ず鑑賞しようと思っていた作品だけに、鑑賞前に受賞の報を聞いて期待値が一段上がった。
 本編は予告編の印象とはかなり違っていた。特に蒼井優が演じた聡子は、予告編の可愛らしい妻ではなく、思い込みの激しい独善的なタイプで、その大胆さと行動力によってある意味物語を引っ張っていく。そして高橋一生が演じた夫福原優作は、聡明博識の上に聡子以上に行動力に富んでいるから、こちらも物語を引っ張っていく。聡子が表を担い、優作が裏の部分を受け持って、その両輪の伯仲が波乱万丈なドラマを更に劇的にしていく。なんとも位置エネルギーの高い夫婦なのである。いずれも複雑な人格であり、蒼井優も高橋一生もそれぞれのややこしい役柄を奥行きのある演技で上手に演じていたと思う。
 脚本に参加している濱口竜介は映画「寝ても覚めても」の監督でもあり、その主演が東出昌大と唐田えりかというのも何かの因縁だろうか。本作品で東出が演じた憲兵隊の将校津森泰治は、戦前の軍官僚が想定した国体の護持という大義名分を盲信する愚かな兵士の典型である。こういう思い込みの激しい単純な役柄が東出に合うようで、本作品での国家権力の窓口としての存在感は大したものだった。
 ストーリーは終盤の手前までは意外と一本道ではあるが、ディテールのシーンが沢山あって、坂東龍汰が演じた文雄や恒松祐里の駒子と夫婦の精神的な結びつきが物語の幅を広げている。街なかでは愛国婦人会も登場して、示威行進する歩兵隊に拍手を送る。一方では歩兵隊をまるで通り過ぎるトラックでもあるかのように無造作にやり過ごす歩行者もいて、これらのシーンが物語にリアリティを醸し出している。
 場面は光の当たる明るい場面から映写機が回る暗い場面までメリハリが効いていて、その中で次々と変わる聡子と優作の衣装が映える。大変にお洒落な夫婦であり、優作の「そんなもの(国民服)着ていられるか」という台詞が、権力に屈せず精神的な自由をなんとしても守るのだという強い意志を感じさせる。
 結末には少し驚かされた。それが判明したときの蒼井優の演技は実に素晴らしくて、黒沢清監督が一番描きたかったのがこのシーンではないかと思った。本作品が歴史の悲劇を描いたのではなく、エンタテインメント作品だったのだと初めて気づかされるような衝撃のシーンだった。お見事です。

映画「博士と狂人」

2020年10月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「博士と狂人」を観た。
 辞書の編纂の映画というと三浦しをん原作、石井裕也監督の2013年の映画「舟を編む」を思い出す。その作品ではじめて黒木華を見て、その存在感のある演技に感心したことを覚えている。
 本作品の舞台は打って変わって栄華を極める大英帝国である。例によって帝国主義時代は列強が植民地を奪い合った時代だから領土も流動的だが、ヴィクトリア女王の頃にはアフリカを縦断する国々、インド、オーストラリア、カナダなどを植民地としていた。女王の権力は強大で、その権威は圧倒的だった。しかし議会も存在していて、女王が何もかもを決定する訳ではなかった。議会と女王の力関係が拮抗する部分もあったようだ。女王を主役にしたジュディ・デンチ主演の映画「ヴィクトリア女王 最期の秘密」ではそのあたりの雰囲気が伝わってくる。
 19世紀末のイギリスではすでに資本主義がかなり発展していて、印刷出版業界も売れるものを作らなければならなかった。一方でアカデミーは女王の権威に比肩するほどの価値を持つ重厚な辞典を作成しようとしている。しかしこれまでの取り組みでは、学者たちの学問に対する権威主義が邪魔をして、何も作成できなかった。そこで主人公マレー教授の登場である。「舟を編む」では、編纂者たちが街なかに出て言葉を拾い集めていたが、本作品のマレー教授はボランティア方式を取り入れる。
 ストーリーはとてもよく出来ていて、マレー教授の辞典編纂チームと、まるで無関係に見える殺人犯ウィリアム・マイナーがどこでどのように結びつくのか、前半の興味はそこにあり、マレー教授の取り入れたボランティア方式が重要な役割を果たす。加えて癲狂院の警備係マンシーが果たした役割も大きく、マイナーとマレー教授、それにマイナーが殺したメレットの未亡人イライザを結びつける。マンシーの存在とボランティア方式が本作品を成立させていると言っていいと思う。
 当方には何故かマンシーが一番心に残る役柄だった。演じたエディ・マーサンは主役にはなりにくい俳優だが、本作品では素晴らしい助演ぶりであった。次がショーン・ペンのドクターマイナーで、言葉は世界を広げてくれる、この大空だって頭にすっぽり入る、といった名台詞が印象的だ。マレー博士を演じたメル・ギブソンはアクション俳優だったのが信じられないほどナイーブな演技だった。抑制された表情に、長く生きてきた悲哀やこれからの希望や人への思いやりなど、主人公の気持ちがよく伝わってきて心を敲たれた。
 辞典を作る映画だけに、言葉がとても大事にされる。癲狂院にあっても、言葉の使い方は慎重である。どんな言葉が患者を刺激する引き鉄となるかわからない。一度記録係が不用意に漏らした言葉で患者であるドクターマイナーがエキサイトするシーンがある。言葉は正確に適確に使わなければならない。辞典づくりを後押しする場面だと思った。
 言葉によって人は自由になり、言葉によって不自由にもなる。学者たちが言うように言葉を選別して見出し語を制限するのではなく、マレー博士が主張したようにすべての言葉を見出し語として載せるのが自由を守ることでもあるのだ。広辞苑の見出し語の数は25万語。オクスフォード英語辞典の見出し語の数は60万語である。

こまつ座公演「私はだれでしょう」

2020年10月19日 | 映画・舞台・コンサート
 新宿の紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAでこまつ座の公演「私はだれでしょう」を観た。
 日本放送協会が放送するラジオ番組「尋ね人」は、戦争で離れ離れになった人々が家族の情報を提供する内容で、聴取率が実に90パーセントを超えるという大人気を博していた。製作スタッフたちは忙しくも充実した日々を送っている。
 そこに山田太郎?と名乗る男が現れ、敗戦前の記憶がないと言う。知恵を絞った末に「私はだれでしょう」というコーナーを設けて紹介する。
 山田太郎という名前が役に立つのか、ヤクザの親分や田舎の大百姓が山田太郎の知り合いだと名乗り出るが、いずれも無関係だったことが判る。その経緯の間に、自分が武芸の達人で英語が喋れて歌が歌えてタップダンスが踊れることが分かる。山田太郎?は何者なのか。
 陸軍中野学校は映画「沖縄スパイ戦史」に登場する。出身者が沖縄各地に分散して、あるものは教員となって住民に溶け込む一方、ゲリラを組織して戦う。ルバング島で見つかった小野田寛郎少尉も中野学校の出身者である。生きて虜囚の辱めを受けずとか、最後の一兵卒になっても戦えという戦陣訓と逆の考え方をしていて、捕まったら敵方に寝返った体を装い、二重スパイとして働け、などといった教育をしていたらしい。ほぼCIAの工作員に等しい。山田太郎?は中野学校の出身者であった。
 井上ひさしは戦争の最も暗い部分にも踏み込みつつ、一方で言論の自由を追求する日本放送協会の初期のスタッフたちの頑張りを表現する。歌と踊りが挿入され、辛くて暗い話が何故か明るい芝居になった。
 山田太郎?の話と並行して在米日本人の二世の話や「尋ね人」がヒロシマ、ナガサキを紹介しなかったこと、労働争議の話などが進行する。芝居自体は戦争と言論の自由と労働問題という大きなテーマだが、食べたり飲んだりという場面が、話を常に日常レベルに引き戻してくれる。戦争も言論の自由も、抽象的な話ではなく日常生活を送る生きた人間の話なのだ。
 出演者は歌があまり上手でないところも含めて、みな好演だった。上手に歌うのではなく熱を持って歌うという演出だったのかもしれない。笑える場面もたくさんあった。井上ひさしは何もかも笑い飛ばしてしまいたかったのだろう。感動的で面白くて楽しい、いい芝居だったと思う。

映画「みをつくし料理帖」

2020年10月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「みをつくし料理帖」を観た。
「みをつくし料理帖」と言えば有名な原作で、過去に2回テレビドラマになっているからタイトルに馴染みがある。料理が主体の作品だ。グルメ系の番組が溢れかえっている現在日本のテレビ事情からして、料理を扱った映画は日本人に親しみやすく、本作品もある程度のヒットは約束されている。
 松本穂香はテレビドラマ版の「この世界の片隅に」で、すずさんという大役を好演していたから、本作品でどのような澪を演じるのか、かなり期待していた。
 その期待に違わず、とてもよかったと思う。過去のテレビドラマでは北川景子、黒木華と、それぞれの澪が演じられたが、本作品の松本穂香も、彼女なりのどこかホンワカして悲壮感に陥ることのない明るい澪を表現できていた。
 静かに物語が進む作品で、作品の世界観そのものが何かこちらの琴線に触れるところがあり、何気ない場面にも落涙を禁じ得なかった。その世界観の中心にあるのは多分、思いやりだと思う。
 スープのある担々麺を考案した四川料理の陳建民は「料理は愛情」と表現し、本作品のごりょんさんは「料理は料理人の器量次第」と啖呵を切る。いずれも食べる人のことを思いやる気持ちのことだ。当方の知り合いの料理人は「面倒臭いと思ったら料理人は終わりだ」と言っていた。
 北川景子も黒木華も撮影前にそうしたように、松本穂香も料理を猛練習したのだろう、料理の手付きが非常に手際よく美しかった。こういう努力はそれぞれの女優さんたちの「器量」なのだと思う。
 和食では出汁を引くのに昆布(グルタミン酸)と鰹節(イノシン酸)を合わせるのは今や常識だが、それを考案した天才料理人がいたことに思いを馳せる。
 料理には特許も著作権もない。それでも料理人たちは創意工夫を重ねて、より美味しいものを食べてもらおうとする。聞かれたら食材も作り方も全部教える。自宅でも美味しいものを食べてほしい。競合店に真似されても構わない。もっと美味しい料理を作ればいいだけだ。それが料理人の矜持である。
 澪が作る料理のひとつひとつが美味しそうで、観ている最中から俄然空腹になった。鑑賞後に食事に行くことをおすすめする。美味しいものを食べながら観たばかりの映画を振り返るのも映画ファンの醍醐味だと思う。
 手嶌葵が歌う、松任谷由実作詞作曲の主題歌は、本作品に相応しく静かで透明感がある。タイトルでもある「散りてなお」の歌詞は聴き馴染みのあるメロディで歌われ、初めて聴いた曲という気がしない。名曲の予感だ。
 主題歌をバックのエンドロールでは作品中の料理や場面が一緒に流れ、感動がぶり返して再びハンカチの出番となる。優しさと思いやりに溢れた素晴らしい作品だと思う。

映画「82年生まれ、キム・ジヨン」

2020年10月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「82年生まれ、キム・ジヨン」を観た。
 大江健三郎の「遅れてきた青年」には、戦後復興のパラダイム一色の窮屈な社会に倦んで、戦争で華々しく死にたかったという青年の鬱屈が描かれていた。当時の支配的な考え方といえば男尊女卑と学歴偏重、封建主義であり、本作品の状況と似ている。
 戦後復興のパラダイムのわかりやすい例が「海援隊」というバンドが歌った「母に捧げるバラード」という歌で、とにかく働け、遊びたいとか休みたいとかいっぺんでも思ったら死ね、それが人間だ、それが男だという凄まじい人生観が肯定されている。
 主人公キム・ジヨンは女であり、現在は妻であり母である。妻はこうあるべき母はこうあるべきという、いわゆる良妻賢母の思想が未だに支配的な社会に閉塞感を感じている。儒教に三従の教えという女性向けの人生訓があって「家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え」という内容だ。女性の自立とは正反対の考え方で、本作品では未だにこういう考え方が支配的である様子が描かれる。
 現在の韓国が実際にそういう社会なのかは不明だが、自由に生きていきたい女性にとっては腹立たしい考え方であり、喜んでこの考え方に同調している年配女性が鬱陶しい。しかし自由に生きるためには経済的に自立しなければならず、苦しい人生が待っている。楽をしたい女性は自由を投げ出して良妻賢母を演じれば衣食住には困らない。そうやって暮らしている内に、いつしか考え方も封建的になる。自立を諦めて自由を投げ出した自分を正当化するためには、社会の封建的なパラダイムに同調するしかないのだ。
 ジヨンにはその全体構造が見えていない。だから人の言うことにいちいち動揺する。腹を立てたり、反論を考えたりする。だが家族や親戚の前では、良妻賢母の思想に身を屈めなければならない。なお一層のストレスが積もるから、ジヨンは心に鎧を被せて人格を守ろうとする。その憐れな様子がいくつかのシーンで繰り返される。
 観ていて息苦しい作品である。ヒステリックで暴力的で哲学がない。だから議論がなく、代わりに思い込みと決めつけがある。わずかにグループ長の女性の言葉に客観的な考察が感じられたが、その部分が怖い女として片付けられてしまう。封建主義は「由らしむべし知らしむべからず」である。自分で考える人間は社会の敵なのだ。だから社会に盲従する人間にとっては怖い存在なのである。
 最後はカウンセラーによってジヨン個人の精神的な問題に矮小化される。ジヨンは偶々寛容で協力的な夫がいるが、そうでない女性には救われる道がない。なんともやりきれない作品で、運のいいキム・ジヨンの向こうに何万人もの運の悪いキム・ジヨンが見える気がした。