映画「人数の町」を観た。
本作品の設定について、ふたつの見方があると思う。ひとつは実際にこういう人数の町みたいな事態が国家によって作り出されている可能性があるということ。もうひとつは現在の日本の縮図として人数の町を表現したということ。
映画としてはあまりいい出来ではない。全体にオブラートに包まれたみたいなモヤッとしたシーンが多い。もっと踏み込んだ過激なシーンがあれば退屈しなかったのだが、どこか世間に遠慮したような部分が感じられた。カメラワークも平凡。
しかしテーマと設定は面白い。ネット時代らしく褒める書き込みと貶す書き込みの両方を集めて何かに利用しようとする場面があるのもいい。ただその書き込みの行く先も描けばより解りやすかった。たとえば首相のツイッターには褒めるコメントが殺到し、反政府の活動家のツイッターには罵詈讒謗が並ぶなどである。我々は民主主義の国にいながら、実は飼い馴らされて状況の変化を望まないようになってしまったのではないかという恐れは、それとなく感じられる。
間接民主制では国民が政治に参加できるのは主に選挙によるが、その選挙を乗っ取ってしまえばいつまでも権力者でいられる。選挙は無記名投票だ。他人の選挙通知書を持っていても誰も気がつかない。そういえば投票所で身分証明書を出したことは一度もない。名前を聞かれて頷くだけだ。ただ同じ人が同じ投票所で何度も投票すればすぐに気づかれてしまう。他人の通知書で投票するには通知書の数だけ人数が必要になる。なるほどそれで人数の町かと納得はした。
石橋静河は好演。普通の人が普通にこういう状況に陥ったらそうなるだろうなというリアリティのある演技だった。普通の人というのは、社会のパラダイムに精神的に蹂躙され、あるいは依存している人のことで、そういう人は家族だからこうしなければならなかったとか、親だから子供を案じなければならないとかいったステレオタイプの考え方しかできない。そんな人でも人数の町には違和感を持つ。そういうトーンで全体を作れば、もう少しましな映画になった気がする。
中村倫也はいまひとつ。表情に乏しくて主人公の葛藤や苦悩が感じられない。だから行動も依存的で突発的に感じられる。倫理観にも整合性がなく、この主人公の人格を信用できなくなる。だから最後の台詞に厚みがない。
日本国憲法第13条には「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれているが、現在の政治は国民をグロスで捉えて画一的に「処理」しようとしている。「自助」が第一という政治理念は、要するに政治は何もしてやらないということだ。しかし選挙は勝たなければならない。そのためにアメを撒く。携帯電話料金の値下げやGotoキャンペーンなどは国民に対するアメである。アメをもらって飼い主に投票する犬扱いされていることに、国民の多くは気づかない。
本作品は権力が如何に国民を操るかを描いた意欲的な作品ではあるが、アメをもらえるからガースーに投票しようとしている脳天気な有権者に響くには、少しインパクトに欠けるのが憾みであった。