映画「美晴に傘を」を観た。
歳を取った昭和の男が主人公とあって、言葉遣いに遠慮がない。口に出すのが躊躇われる「知恵遅れ」という言葉も、平気で口にする。昔からのTPOを重んじて、それに外れることや外れる人を嫌う。
だからといって、本作品が差別的な作品かというと、そうではないと思う。差別の問題は、差別して相手の人格を軽んじるか、差別せずに相手の人格を重んじるかどうかである。言葉遣いの問題に矮小化するのは、差別を形骸化してしまうことになる。
最近は、言葉遣いや態度を研究することで、どうすれば差別していないように思われるか、どうすれば誠意があるように見えるか、誰もがそんなことに勤しんでいる。そういうアドバイスを仕事にしているような人々もいる。そんな連中に頼らざるを得ないほど、社会全体が形骸化していると言ってもいい。中身がないのだ。
本作品は、言葉を大事にしていることがよく分かる。取ってつけたような台詞、表面を飾る台詞を極力排して、登場人物が本音で話しながらも、愛情や優しさが滲み出るような、そういう脚本と演出である。
升毅は、2016年製作の「八重子のハミング」以来の映画主演だが、やや強引なストーリーを演技でねじ伏せているような実力を感じた。この俳優本来の、消えてしまうかのような存在感の淡さに加えて、感情を抑えた渋い演技がとてもよかった。
映画「籠の中の乙女」を観た。
2023年製作の「哀れなるものたち」と2024年製作の「哀れみの3章」のヨルゴス・ランティモス監督が2009年に製作した作品である。やはりランティモス監督に通底する、支配とセックスと死がテーマとなっている。3作品とも実験的な作品だが、本作品は物語そのものが壮大な実験の記述となっている。
下世話な話で恐縮だが、世界一セックス頻度が高い国がギリシアだそうで、本作品はギリシア映画だから、食事のシーンと同じくらい、セックスのシーンが登場する。ちなみに日本のセックス頻度は飛び抜けて低いというアンケート結果がある。邦画にセックスシーンが少ないのは、そもそもセックスが日常的ではないからという理由が濃厚である。
子どもたちを外へ出さず、知識と経験を限定したら、どのような人間に育つのか。ひたすら従順に、勤勉に、正しく育つだろうという両親の思惑は、途中まではうまくいっていたように見えるが、思春期を迎えて歪みを生じたようで、その時期を描き出したのが本作品である。
健康に育った子どもたちには、食欲と性欲を満たしてやる必要がある。食事には食材が必要で、セックスには相手が必要だ。それらは外界から調達するしかなく、家の外との僅かなつながりは、避けようがない。夫婦が最も苦心しているところだ。子どもたちが覚えてしまった不適切な言葉には、本来とは別の意味を与え、家の外は恐ろしい場所で、自動車でしか行くことができないと教え込む。
子どもたちの知識欲と自由への欲求不満は凄まじく、暴力や悪意となって現れる。兄弟を傷つけたり、飛行機を見て、落ちればいいと願ったりする。飛行機については、目視で確認できるものだから、両親も正確に説明せざるを得ず、たくさんの人が乗っている認識がないことは考えにくい。落ちればいいと願うのは、明らかな悪意である。自由には、悪意も含まれるのだ。
個人が頑張っても限界があるが、共同体が家族よりもずっと大きくなって、たとえば国家ならどうか。北朝鮮を扱ったドキュメンタリー映画を見る限り、情報の制限は、国家指導者に対する無条件の尊敬と服従を徹底できたように思える。しかし脱北者が存在するということは、どこかに破綻があるのだ。
ジョージ・オーウェルの「1984」にも通じるような、国家的な洗脳を、家庭における思考実験として映画化した作品に思えた。メタファーとしてのヒントはいくつも散りばめられていて、微かなヒントからでも、子どもたちはものごとの本質に辿り着こうとする。それは人間という存在の可能性を示しているとも言える。意欲作である。
映画「雪の花 ともに在りて」を観た。
独自の空気感がある作品で、それだけで、そこはかとない感動がある。登場人物がみんな真っ直ぐという、歪みまくっている現在の社会からは考えられない人々で、台詞のひとつひとつに真剣味と重味がある。人間関係はとてもダイナミックだ。
志の高い人がいて、そういう人はエネルギッシュだから周囲を巻き込んでいくが、現状を維持して自分の利益を守りたい人々とは対立関係になる。時代劇の典型的な構図だ。相手が強大なほど、判官贔屓の観客は盛り上がる。
本作品もそうだったが、殿様が名君だったおかげで、水戸黄門みたいな収束になっている。水戸黄門が人気だったのは、観終わったら晴れやかな気持ちになるからで、本作品も同じように晴れやかな気持ちになる。
松坂桃李は好演だったが、見事だったのは芳根京子である。2018年の映画「累 かさね」では、共演した土屋太鳳に演技力で押されていたが、その後どんどん上手くなって、本作品では、才長けて見目麗しく情ある妻を、演出のケレン味も含めて、上手に演じ切った。
ピアノとチェロとフルートだけのシンプルな劇伴が味を出していて、上田正治のカメラワークと合わせて、作品の上質な空気感を演出している。はつを演じたミュージカル女優の三木理紗子が上手な職人歌を披露していて、職人医を目指す笠原の心境にシンクロする。このあたりの演出もとてもいい。
最近の映画にはない独特な空気感は、性善説に基づく人間愛であったり、未成熟の社会に暮らす人々の向上心であったりして、人間関係が濃密な社会が持つ、ある種の希望に由来するのかもしれない。いい映画だった。
映画「アーサーズ・ウイスキー」を観た。
ダイアン・キートンが出演した最近の映画は、どれもこれも、年寄だって悲観することはない、遅すぎるということもない、まだまだ頑張れる、人生楽しく生きなきゃという世界観で、いささか食傷気味だ。
本作品も例に漏れず、3人のおばあちゃんが元気に騒ぐ作品である。ただ、自分の人生がこれでよかったのかを悩む場面もあり、人生の切なさが少しだけ盛り込まれている。得るものはなにもないが、ほのぼのする映画である。
バーの謎の黒人男の正体が不明のままで、ちょっと気になった。
映画「ストップモーション」を観た。
ホラー作品と捉えれば、それなりに楽しめると思う。曰く不条理。主人公を取り巻く人物は、不可解な少女、底の浅い男女など、芸術性からはほど遠いと思われる人間ばかりだが、そこにストップモーション作品が関わると、途端に不気味な関係性に変化する。
人形は怖いものだ。ことに人間を模した人形は、人間の実存が乗り移ったかのようで、自発的な行動を想像させる。つまり魂が入ってしまうのだ。それを利用して、墓に一緒に埋葬して死後の世界を賑やかにするという祭祀があるし、人形を使う呪術も多い。
死は身近だが、最も遠い体験である。死を体験した人の話を聞くことも、本を読むこともできない。あくまで介在的な体験として、認識するだけだ。人は死を恐れ、死後の世界を想像する。死がなければ、ホラー作品は成立しない。
本作はストップモーションの製作を通じて、死がどのように人間を迎えるのかをおどろおどろしく描く。ジャンプスケアでびっくりさせる作品ではないが、怖さがじわじわと忍び込んでくる感じだ。味わいのある作品だと思う。
映画「敵」を観た。
原作を読んだのはかなり前だが、いくつか印象に残っていることがある。まず主人公が渡辺という苗字でフランス文学者の権威となると、渡辺一夫さんが思い浮かぶ。東大のフランス文学教授で、大江健三郎の恩師として知られている人だ。
カネの切れ目が命の切れ目。そのときは濡れタオルを絞って摩擦を強め、ゆっくりと頸動脈を圧迫しながら首を絞める。一度やってみて、気が遠くなりそうだったから、これでいけそうだと覚悟する。
原作はうろ覚えだが、本作品の雰囲気は原作そのものだ。映画だから原作のとおりとはいかないだろうが、世界観は忠実に作られていると思う。白黒にしたのは、ある意味で当然かも知れないが、それでも秀逸なアイデアであることに間違いない。
文化的な権威は、自分が権威であることを自覚していると同時に、権威の基盤がとても脆いものであることも自覚している。それは文化の脆さにも繋がるもので、文学にも流行り廃りがあって、そのときどきの評価が権威を左右することがある。敷衍すれば、人類の存在そのものの脆さにも通じる。
筒井康隆はパロディとスラップスティックの作家だ。既存の権威を笑い飛ばすのが常だが、本作品では権威者を裸にすることで、俗物と何ら変わらない本質を示し、しかも権威者本人がそれを自覚していることも描く。
昭和の男の女性に対する態度の本質も暴かれていて、主人公が学者らしく男女平等の姿勢を示そうとしたり、四つん這いで肛門丸出しの状況でも平静を保とうとしたりする様子は、かなり笑える。
言うなれば老い先短い男の終活の奮闘記なのだが、どこか滑稽で物悲しいのは、人間という存在そのものの滑稽さと物悲しさなのかもしれない。長塚京三は見事に演じきったと思う。
映画「サンセット・サンライズ」を観た。
菅田将暉が演じた西尾晋作は、いまどき珍しい本音の人だ。釣り好き、魚介好きの人は、当然ながら、自然を大事にする。自然災害も自然のうちで、たまたま人間に被害があった場合に、災害と呼ばれる。被災者が大変なのはわかるが、偶然そこにいたから被害にあったとも言える。言い換えれば、誰もが被災者になる可能性がある訳だ。
だからこそ、共同体は全力で被害者を助けなければならない。しかし現状は被害者を置き去りにして、武器や兵器を買うのに巨額の予算を使う。こんな予算の使い方では、将来自分が被害に遭ったときに、共同体は助けてくれないのだと、誰もが思う。子供を作りたくないと思う人がたくさんいるのは当然だ。少子化は共同体の指導者層の自業自得なのである。
そういったことを踏まえて本作品を観ると、行政のちぐはぐさが見えてくる。コロナ禍の政府の対応は、いまから考えれば、とても滑稽なものだった。
そもそも保健体育という科目が小学校からあるのに、感染症の教育は全く行なわれていないのが現状だ。ただ手を洗え、うがいをしろと言われても、応用が効かない。どうして手を洗うのかをしっかり教育していれば、コロナウイルスの蔓延にも、各自が適切に対応できただろう。
こういうところにも、為政者の「由らしむべし、知らしむべからず」という高慢な態度が見え隠れする。そういう為政者ばかりが選挙で当選するのは、有権者のレベルがダイレクトに反映されている訳だ。やれやれである。
これといった事件も起きず、坦々としたストーリーが展開する作品だが、東日本大震災とコロナ禍をうまく組み合わせて、登場人物たちの自然災害に対する姿勢の微妙な違いが、人間関係にダイナミズムをもたらしていて、それが力強く物語を牽引していく。上手に作られた作品だ。菅田将暉も井上真央も、とてもよかった。それに菅田将暉の絵が上手なことにも感心した。歌も歌えるし、絵も描ける。才能に恵まれているというのは、こういう人のことを言うのだろう。
映画「アンデッド愛しき者の不在」を観た。
ビデオゲームの「バイオハザード」で定着したゾンビの印象も、原作者ヨン・アイビデ・リンドクビストにかかると、まったく違うものになる。
本作品のゾンビたちは、終始無言だ。アーウーと言いながら千鳥足でヨタヨタ歩いたり、近くの人間に襲いかかったりしない。しかし時折見せる残虐な一面には、空恐ろしいものがある。こちらのゾンビのほうが、よほど不気味だ。映画では一度も観たことのないキャラクターである。さすがは傑作映画「ボーダー二つの世界」の原作者だ。
本作品の前日に邦画「君の忘れ方」を鑑賞していて、近しい人間の死と、残された者たちの振る舞いについての作品を、期せずして連続して鑑賞することになった。
人の死を扱う作品が相次いで公開されたのは、偶然ではない気がする。世界にはどんよりとした不安が充満している。民主主義と金融資本主義が、縁故民主主義と強欲資本主義に変化してしまって、自分さえよければいい、いまだけよければいい、カネさえあればいいという刹那的な利己主義が蔓延しているのだ。
働き者でずる賢くて、しかも運がいい者たちがのし上がる一方、金儲けの才も運もない者たちは、安い賃金の労働でなんとか生を繋いでいくしかない。近しい者の死は、自分の生を顧みる機会であって、それは自分の死を考える機会でもある。果たして自分の生に意味があるのか。
近しい者がゾンビになって戻ってきたら、その疑問は立体的になる。ただ息をして心臓が動いているだけで、コミュニケーションが取れない存在に、どんな意味があるのか。
振り返って、自分はどうなのか。ただ労働をして食っていくだけの生活に、ゾンビたちと何の違いがあるのか。強引に敷衍すると、人類の存在に何の意味があるのかという疑問になる。
そう考えると、人類はゾンビそのもののような気がしてくる。強欲な利己主義者が共同体を牛耳って、他の共同体と衝突すれば、たちまち戦争になるだろう。弱い者は、誰かに殺されるのをただ待つしかない。ほとんどゾンビである。本作品には深い意味があると思う。
映画「君の忘れ方」を観た。
昨年は相次いで年配社員が亡くなった。ふたりともひとり暮らしの独身男性で、出社してこないから部屋を訪ねてみると死んでいた、というパターンだった。
人間が死んだら、人格も何もなくなってしまうことは、誰もが知っている。しかし、ふとした瞬間に、面影が蘇ることがある。幽霊を信じるのではなく、死を消化しきれていないのだ。
年配の孤独死は、家族を探すことからはじまるが、それは警察の仕事だ。家族から連絡が来ない限り、葬式にも出られない。
だから二人のお別れ会を催した。二人とも社歴が長いから、たくさんの人々が参加してくれた。社員たちは、それなりに納得した顔をしていた。セレモニーには、それなりの意味があるのだ。
故人を偲ぶのは、義務でなくて権利だと思う。一番思うのは、あの人たちが生きているときに、何をどのように感じていたのかなということだ。
人と人とは決してわかりあえないが、想像することはできる。感謝することもできる。死者に感謝することは、死者に対する何よりの弔いだ。
近しい人のロスに対して、おせっかいな口出しをしてくる人がたくさん登場する作品だが、主人公が懐の深さをみせて、単純に拒否しないところがいい。もっとも、主人公の寛容がなければ、本作品は成立していない。脚本家という設定が、その寛容さを担保している。いろいろと考えさせられる作品だった。
映画「ねこしま」を観た。
以前、野良猫を手懐けようとしたことがある。駅から自宅への帰り道にある駐車場に、親子らしき数匹のキジトラがいて、見かけるたびに呼びかけていた。すると猫たちもこちらに注意を払うようになったので、次の日から、カリカリ系の猫の餌をカバンに入れて、猫がこっちを見たら、餌を少し置いて帰った。仕事帰りのたびにそれを繰り返していると、徐々に猫が近づいてくる距離が近くなって、呼ぶと走ってくるようになった。
半年ほど経つと、すっかりなついて、手から直接餌を食べるようになった。野良猫に餌をやっていいのかどうか、自治体や地域住民の考え方はあるだろうが、週に何日か、僅かな餌を置いていく人間に頼らざるを得ないほど、野良猫の生活は逼迫しているということだ。短い期間だけ餌をやって、そのあとはどんなふうに責任を取るのかと追及されると、答えようがない。ただ、追及する権利が誰にあるのか、それもわからない。
なついてくれたのはよかったが、休みの日に駐車場の隣の弁当屋に弁当を買いに行くと、猫たちがやってきて当方の足元にじゃれついてくる。中学生らしい女子たちから「何あれ?」と不審そうに見られてしまって、往生した。飼えればよかったのだが、残念ながら住んでいた集合住宅はペット禁止だった。
餌をやり始めてから一年ほどでその街を引っ越したので、猫たちがどうなったのかはわからない。わからないが、餌をやり続けた一年間の猫との時間は、とても大事な時間だった。一日に数分でも、猫と触れ合うことで、精神的な安定を図れた面もあったと思う。
猫は世界的に同じように振る舞うようで、マルタの猫も日本の猫と同じように、天上天下唯我独尊だ。2022年の邦画「たまねこ、たまびと」のレビューにも書いたが、猫は暴力や暴言を受けても、柳に風と受け流す。決して弱いものいじめをしない。ひとたび自分に被害が及びそうになると、どんな相手にでもひとりで立ち向かう。そして欲望に忠実だ。
過去を引きずらず、未来に怯えず、淡々と現在を生きる。猫は愛おしい動物であり、長い間の人間との歴史に、無形の価値をもたらしている。そういう存在が虐待されることのない社会にしていかねばならないと、改めて思った。