三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「コヴェナント」

2024年02月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「コヴェナント」を観た。
映画『コヴェナント/約束の救出』公式サイト - 2024年2月23日公開

映画『コヴェナント/約束の救出』公式サイト - 2024年2月23日公開

監督:ガイ・リッチー。出演:ジェイク・ギレンホール、ダール・サリム。米軍兵士と現地通訳。国境を超えた二人の固い絆を描いた、衝撃の感動作

映画『コヴェナント/約束の救出』公式サイト - 2024年2月23日公開

 面白かった。戦争は容赦がないと改めて実感した。銃撃戦は、いつどこから弾丸が飛んでくるかわからず、いつ死んでもおかしくない。戦闘シーンはとてもリアルで迫力があって、ガイ・リッチー監督の面目躍如と言っていい。ジェイソン・ステイサムを主役に迎えた前2作の「キャッシュトラック」と「オペレーション・フォーチュン」がいまひとつだったので、今回は満足できる作品でよかった。

 戦争は平和の顔をしてやってくるという。本作品の兵士たちも、米軍がアフガニスタンに平和をもたらすために戦っていると思っていたのかもしれないが、民衆が必ずしも米軍を歓迎していないことも自覚していたようだ。しかし悲壮感を口にすることはない。
 ジェイク・ギレンホールはそのあたりの表情がとても上手くて、何のための任務なのかを自問自答しつつも、軍人としての役目を果たそうとしている複雑な主人公の気持ちが感じられた。国際紛争について考えさせられる、奥行きのある作品だ。

 返報性の原理という言葉がある。他人の恩義に報いなければならないという義務感のような心理のことだ。営業マンが顧客を接待したり、会社が役人や政治家に賄賂を渡したりするのは、返報性の原理を利用している訳だ。恩義が大きいほど、返報の心理は大きくなる。
 では恩義が大きいとはどういうことか。多額の金銭や物品の供与を受けることも大きいが、それよりも大きいのは、時間と労力を提供されることだ。大変な苦労をして、自分のために尽くしてくれた人には、途方もない恩義を感じる。義務感を通り越して、強迫観念のようになることもある。
 本作品は、恩義の中でも最も大きい、命の恩人の話である。返報性の原理の本質がわかる物語だ。恩義に報いるには、感謝の言葉だけでは不十分で、命懸けの行動が必要になる。そうでないと自分自身が納得できないのだ。

 本作品では、背景となった世界情勢もさりげなく解説されている。2001年の911事件の復讐のために、ウサマ・ビンラディンが率いるアルカイダが潜伏するアフガニスタンに米軍が侵攻して以来、地元の武装勢力との緊張関係が続いていて、タリバンと米軍は実質的な戦争状態にあったことがわかる。
 イスラム原理主義でアフガニスタンの人々を蹂躙しつづけるタリバンは、いまも恐怖政治を続けている。にもかかわらずアフガニスタンの人々がイスラム教を捨てないのは、人と違うことをするのが怖いからだと思う。イスラム教を捨てれば、社会から干されるが、敬虔なイスラム教徒を装えば、共同体に受け入れられる。仕事ももらえるかもしれない。イスラム教徒でいることは、生き延びる道でもあるのだ。
 イスラム教は子供を生むことを奨励しているから、アフガニスタンは圧政下でも人口が増え続けている。子供を生むことは、ある意味で新たな不幸を生み出すことだが、アフガニスタンの人々は、世の中はいまがどん底で、子供にはいい未来が待っていると思っているのかもしれない。未来を信じるのも信仰みたいなものだ。
 しかしいい未来は、少なくともタリバン政権下ではないだろう。人々もそれはわかっていると思う。しかし反抗するのは困難だ。暴力で制圧するタリバンに反抗することは、命を落とすことと同義だ。
 そのタリバンが暴力を継続できるのは、武器を提供する軍需産業があるからだ。提供することで軍需産業は儲かるが、従事者には、多くの生命を奪っている反省はない。全米ライフル協会みたいな不寛容な団体が軍需産業を後押ししていることもあって、これからも着実に武器を作り続けるだろう。

 人類が武器や兵器を生産することをやめれば、紛争の規模は縮小し、虐殺も激減するだろうが、どこまでも愚かな人類は、敵を憎み殲滅するために武器生産に勤しんでいる。他人を傷つけたり殺したりすることが平気な精神性は、宗教を大義名分に使っている。イエスもマホメットも、こんな世の中は望まなかったに違いない。

映画「マダム・ウェブ」

2024年02月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マダム・ウェブ」を観た。
映画『マダム・ウェブ』オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

映画『マダム・ウェブ』オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

映画『マダム・ウェブ』2024年2月23日(祝・金)全国の映画館で公開!マーベル初の本格ミステリー・サスペンス!

映画『マダム・ウェブ』オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

 未来が見える設定の映画というと、ニコラス・ケイジ主演の2007年の映画「ネクスト」を思い出す。主人公は2分後が見えるという設定だったが、物語が進むにつれて段々と整合性が取れなくなって、終盤は何でもありの、観ているこちらが面食らう展開だった記憶がある。
 未来が見えるとなると、見えている間も時間が経過する訳で、それを理解するのにも時間がかかる。見えた未来が複雑なときは、相当の記憶力も必要になる。未来が見えてから現実に話を戻すのは、意外に一筋縄ではいかないのだ。タイムラグは、なかったことにするか、スルーするしかない。そこに違和感がある。
 
 本作品も「ネクスト」と同じように、見えた未来に対策を立てて臨むことになるが、一連の描写が「ネクスト」よりも分かりづらいし、繰り返しがくどいと感じる部分もある。アメリカ映画らしく、暴力的な敵が登場して主人公が追い詰められるところも「ネクスト」に似ている。どうしてもバトルにして盛り上げないと気がすまないようだ。
 もっと地に足のついた地道なストーリーにすれば、時間とは何か、記憶とは何かといったテーマも織り込むことができたかもしれないが、エンターテインメントとしてはスリリングな展開が望ましかったのだろう。テーマを掘り下げるよりも、バトル優先なのだ。
 
 やはり、未来が見えるという設定は、タイムマシンのパラドックスと同じような矛盾を孕んでいるようだ。物語を広げすぎると、破綻とまでは言わないが、そこかしこに綻びがでてくる。映画としてつまらなくはないが、なんとなく納得のいかない収束になってしまったところも「ネクスト」と似ていた。

映画「ボーはおそれている」

2024年02月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ボーはおそれている」を観た。
映画『ボーはおそれている』公式サイト|絶賛上映中

映画『ボーはおそれている』公式サイト|絶賛上映中

『ミッドサマー』『ヘレディタリー/継承』で世界を震撼させたアリ・アスター監督×主演ホアキン・フェニックス。最狂コンビから、貴方の精神に挑戦状。怪死した母の元へ駆け...

映画『ボーはおそれている』公式サイト|絶賛上映中

 ボーは「Beau」と書くようだ。ご承知のとおり、フランス語で「美しい」という単語である。女性形は「Belle」で「Belle ami」と書くと「親友」の意味になる。モーパッサンの小説のタイトルで有名だ。本作品での英語のBeauは、BabyとDarlingの両方の意味がある気がする。母親にとって息子は、Babyのときと、Darlingのときがあるという訳だ。

 アリ・アスター監督は「ヘレディタリー/継承」では、製作意図が理解できなかったが、本作品はわかりやすい。きっと信仰にこだわる人なのだろう。鍵は聖書にある。マタイによる福音書の第六章には、次の一節がある。

 祈るときには、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りの辻に立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈るとき、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

 ボーが住んでいる都会は、ボーから見ると危険極まりない理不尽な場所だ。治安は極端に悪く、人は信じられないし、権力の統治はあてにならない。自宅も含めて安全な場所はどこにもない。実際の世界がどうかではなく、ボーにとっての世界がそんな感じなのだ。ボーにとっての世界が本作品のひとつの側面であり、もうひとつの側面は神の視点である。
 誰も信用できない嘘と独善の世界だが、それでも勇気を出して、為すべきことをしなければならないというのが、本作品の神の視点からの主張だ。対してボーは、ごく普通の感性の持ち主であり、ピンチが訪れればなんとかしてそこから脱出しようとするし、不利な場面では自分の無実を主張する。謂わばボーは人間代表であり、周囲の人々は誰もが神の代表だ。

 ボーは他人に危害を加えたりすることはなく、できれば他人に迷惑をかけたくないと思っている。普通に考えれば「いい人」だ。それが酷い目に遭うのは、本人の責任ではなく、世界がおかしいと考えるのが当然だが、本作品はそうではない。
 キリスト教には「原罪」という概念がある。人間はそもそも罪深い存在であるという考え方だ。ボーは何も悪いことをしていないように見えるが、実は存在するだけで罪がある。罪は償わなければならない。
 ボーが恐れているのは、この世の不条理や理不尽である。具体的には暴力や略奪だ。しかしその元凶が実は神なのだということに、ボーは気づいていない。不条理や理不尽は神が人間に与えた試練なのだ。
 そのあたりが本作品の世界観なのだが、クリスチャンではない当方には、理解し難いものがある。不条理や理不尽を生み出すのは、人間の煩悩だとしか思えない。聖書には、右の頬を打たれたら左の頬も差し出せと書かれてあるのに、現実の世界では、キリスト教の国の筈のアメリカが海外に軍隊を派遣して人を殺しまくっている。自国が攻撃されたら必ず倍返しだ。アメリカは本当にキリスト教の国なのだろうか?

 そこかしこに神に関するヒントがあって、ボーが神に弄ばれているように見えてくるが、アリ・アスター監督が人間をおちょくっているのか、キリスト教を揶揄しているのか、あるいは大真面目に原罪に対する人間の責任を問おうとしているのかは、不明のままだ。少なくとも、ボーが自分の安全を守ろうとしたり社会的な役割を果たそうとしていることは責められないと思う。

 映画として面白くないことはないのだが、長いと感じさせる作品である。ホアキン・フェニックスの見事な演技がなければ、最後まで見続けるのはしんどかったかもしれない。

映画「コーヒーはホワイトで」

2024年02月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「コーヒーはホワイトで」を観た。
映画「コーヒーはホワイトで」公式サイト

映画「コーヒーはホワイトで」公式サイト

映画『コーヒーはホワイトで』公式サイト 2月16日(金)よりシネマート新宿、シネマート心斎橋ほかロードショー|真っ白なゴスロリ衣装のメイド探偵「モナコ」がシャーロック...

映画「コーヒーはホワイトで」公式サイト

 これはいけない。ドラマに深みもなければ、謎解きの面白みもない。おまけに主人公に人間的な魅力がない。つまり見どころがひとつもない。これほど楽しくない作品も珍しい。
 加藤小夏は、2022年の映画「君たちはまだ長いトンネルの中」で主演を務めている。ある意味で挑戦的な役柄をこなしていて、ちょっと感心した記憶がある。今年公開された「身代わり忠臣蔵」では、賑やかしの役柄ではあるが、コケティッシュな遊女を好演。
 本作品にもそこはかとなく期待していたのだが、いかんせん、この設定とプロットでは、どんな天才女優が演じても、凡作の域を出ることはない。
 ただ、タイトルのセンスはとてもいい。コーヒー好きの興味をそそる。お蔭ですっかり騙されてしまった。

映画「瞳をとじて」

2024年02月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「瞳をとじて」を観た。
映画『瞳をとじて』公式サイト

映画『瞳をとじて』公式サイト

『ミツバチのささやき』のビクトル・エリセ監督31年ぶりの長編新作にして、集大成!

映画『瞳をとじて』公式サイト

 スペインと言えば闘牛とタンゴとフラメンコとパエリアとアヒージョとサグラダ・ファミリア。ワインもカヴァも安くて美味しい。ラテン系の人々は情熱的だとよく言われるが、当方にはよくわからない。情熱的という言葉の意味もあまりわからない。何をもって情熱的というのだろうか。少なくとも、ハロウィンやワールドカップのときに渋谷で騒ぐ人々のことは情熱的とは言えない気がする。

 本作品も難解だ。しかし読み解く鍵はある。それは記憶と時間だろう。22年前に失踪した俳優のことをテレビが取り上げたことをきっかけに、友人でもあるその男の過去を振り返る。それは同時に自分の過去を振り返ることでもある。
 若い頃に、浅はかで愚かな時間を過ごした人は、若い頃の自分を振り返りたくはないだろう。振り返るのに抵抗がないのは、若くして賢明な時間を過ごすことのできた偉人か、あるいは若い頃の自分の愚かさを自覚していない人々である。
 主人公の映画監督ミゲルは推定70歳だから、1950年頃の生まれである。フランコ独裁時代に青春を過ごした訳だ。スペインが民主的な政治を取り戻すのはフランコが死んでから更に数年が必要で、ミゲルが30歳くらいのことだろう。それより若い頃のことは出てこない。思い出したくないに違いない。

 政治が変われば社会も変わる。人間の本質はあまり変わらないが、行動は変わる。しかしミゲルの魂は子供の頃のフランコ政権時代にある。魂が、無意識の領域に断片的な記憶や情緒や思索のカオスとして存在しつづけるとすれば、ミゲルの映画監督としての魂が撮影したかったものは、不条理な存在として生き続けている自分自身だろう。劇中劇の映画「別れのまなざし」がまさにそんな感じだった。

 映画が監督や俳優の魂を救うことができるのか。それとも海で溺れて沈んでしまうのか。ビクトル・エリセ監督の静かな悲しみが、物語に通底している。しかし同時に人の優しさも描く。人と人とは分かりあえないが、いたわりあうことはできる。悲しく生きながら、優しくあること。フランコ独裁の時代に青春を過ごしたが、魂は汚れていなかった。政治は個人の心にまでは及ばないのだ。

映画「風よあらしよ劇場版」

2024年02月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「風よあらしよ劇場版」を観た。
映画『風よ あらしよ 劇場版』公式サイト

映画『風よ あらしよ 劇場版』公式サイト

主演 吉高由里子 100年前、自由を求め闘った一人の女性の生涯 2024年2月9日(金)新宿ピカデリーほか全国順次公開

映画『風よ あらしよ 劇場版』公式サイト

 平塚らいてうについては、2019年の二兎社の公演「私たちは何も知らない」を観劇して、朝倉あきの名演が印象に残っている。女の独立と平等を主張する一方で、恋をし、女の性欲を語り、人を思いやるニュートラルで深い精神性が素晴らしいと思った。その芝居で藤野涼子が演じたのが伊藤野枝で、東京に出てきた田舎娘が、持ち前の独立心で突き進んでいく役柄だったと記憶している。
 本作品はその伊藤野枝が主人公だ。自分の本名がノヱだからかもしれないが、ときとして口遊むのが「ノーエ節」である。「富士の白雪ゃノーエ」ではじまり「島田は情にとける」で終わる歌詞で、途中に「三島女郎衆」という単語もでてくる。女性解放を訴えた伊藤野枝が歌うのは皮肉な話だ。伊藤野枝を揶揄するのに「ノーエ節」の替え歌が歌われたという話もある。どこまでも弱者に厳しい社会なのは、今も昔も変わらない。
 
 吉高由里子は、17歳から28歳までの伊藤野枝を好演。幼さの残る女学生時代から、覚悟を決めた執筆生活まで、年令を重ねていく野枝を、ちょっとした表情や仕種で見事に演じ分けてみせた。たいしたものだ。
 
 伊藤野枝は、日本の軍国主義、全体主義、国家主義、権威主義に真っ向から反対した。信念の人である。立場の弱い人の立場を向上させるのが理想で、女性解放はその中のひとつだった。立場が弱くても強く生きることはできる。それは非常に難しいことだが、精神的な強さが抜きん出ていた野枝には可能だった。
 本作品で紹介される野枝の言葉の中で、ハイライトは、内務大臣の後藤新平に宛てた手紙だと思う。文言は多少変更されているようだったが、大意は次のとおりだ。
 
 国家権力を笠に着るあなたがたは、私より、弱い。
 
 驚異的な精神力で悲壮な人生を生き抜いた、伊藤野枝の面目躍如である。これほど真っすぐで、強くて、正しい女性は他に例を見ない。日本の近代史上、稀有の女性だが、彼女があまり知られていないのは、学校の歴史の授業で近代史をほとんど扱わないからだ。大杉栄のことも知らない人がたくさんいる。権力者にとって、知られては困る人たちなのだろう。
 今も昔も、権力者は都合の悪いことは知らせない。だから映画や文学や漫画が代わって知らせるしかない。とても意義のある作品である。

映画「身代わり忠臣蔵」

2024年02月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「身代わり忠臣蔵」を観た。
映画『身代わり忠臣蔵』公式サイト

映画『身代わり忠臣蔵』公式サイト

痛快時代劇エンターテイメント!!絶体絶命の“身代わりミッション”、いざご開帖!映画『身代わり忠臣蔵』大ヒット上映中!

映画『身代わり忠臣蔵』公式サイト

 テレビドラマ「セクシー田中さん」の原作者の自殺は、映画人にも衝撃を与えたと思う。視聴率至上主義が原作を軽んじてしまった構図だが、映画でも同じようなことは起こり得る。台詞は変えても、原作の世界観はあくまで尊重しなければならないということなのか。
 しかしドラマにしても映画にしても、たくさんの人が関わって製作されるものだ。脚本家の想像力、演出家の想像力、俳優のアドリブやカメラワークや劇伴など、人々の想像力がぶつかりあう。昇華の仕方によっては原作を超える名作にもなるだろうし、原作に遠く及ばない凡作になることもあるだろう。
 小説にしても、漫画にしても、ひとたび作品として発表したら、原作者の手を離れて、独り歩きするものだ。原作と似ても似つかぬ映画やドラマになったとしても、それはそれで受け入れるしかない。観客や視聴者は、原作と違う作品だとわかって観ている。
 原作者の意向に厳密に従わなければならないとしたら、映像作品の関係者の想像力は、どうしても縮こまってしまう。原作の使用を許可して対価を受け取ったら、原作者は一歩引いたほうがいい。世界観が異なっても、原作とは別のものだとして、むしろひとりの視聴者や観客として作品を楽しむ余裕がほしい。「セクシー田中さん」はドラマとして面白かっただけに、原作者の自殺は残念だ。この事件によって、映画やドラマに制限がかかることがないように願う。
 
 さて、本作品は原作者が脚本を書いているから、原作との乖離はそれほど心配しなくてよさそうだ。コメディだから、漫才のネタのように、どのように演じるかによって面白くもつまらなくもなる。その点、ムロツヨシをはじめとする俳優陣の演技は見事で、笑わせてくれるし、ホロリともさせてくれる。
 
 吉良上野介については、実は悪いやつではなかったのではないかという考証がある。大谷亮介が吉良上野介を演じた舞台「イヌの仇討ち」でも、これまでの通説だった悪人とは違う吉良上野介像が紹介されていた。井上ひさしの戯曲を舞台にするこまつ座の公演で、2017年に観劇した。井上ひさしらしく、お笑いがふんだんに盛り込まれて笑える場面が多い一方、言葉のやり取りだけでみるみる真実に迫ってゆく芝居に、思わず息を飲んだ記憶がある。
 
 本作品でムロツヨシが演じた主人公の名前が字幕で「孝証」と紹介されて、意図的に「考証」と似た名前にしたのだろうとすぐに思った。ネーミングからして、すでにコメディだ。最後は少しフザケすぎの感はあったが、これはこれで悪くない。
 無理のないストーリーで、林遣都、寛一郎、森崎ウィンといったクソ真面目組がコメディの下地を作っていた。悪役は柄本明がひとりで引き受ける形だが、さすがの存在感である。面白かった。

映画「夜明けのすべて」

2024年02月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「夜明けのすべて」を観た。
映画『夜明けのすべて』公式サイト

映画『夜明けのすべて』公式サイト

松村北斗と上白石萌音のW主演『夜明けのすべて』2024年2月9日(金)ロードショー

映画『夜明けのすべて』公式サイト

 なんだか幸せな映画だ。幸せは、日々移り変わる世の中の、平安で充足した時間のことだから、今日は幸せでも明日は不幸になることがある。朝は幸せでも夕方には不幸になることもある。過去は変わらないし、未来のことは分からない。まして持病があると、いつ発作が起きるかわからないから、気の休む暇がない。平安で充足した時間など、永遠にやってこない気さえする。
 
 本作品の二人の主人公は、それぞれパニック障害とPMSを抱えている。幸せとは縁のなさそうな二人だが、互いに協力したり、それぞれに工夫したりして、発作と向き合うようになる。主人公以外の人々はというと、家族を亡くした喪失感をいつまでも引きずって、隠れて悩んでいたりする。
 悩みを持つ人は、他人の同じ悩みを理解できる。同病相哀れむというやつだ。想像力次第では、違う悩みでも理解できることがある。または、理解できなくても、優しく接することができることがある。思い遣り(おもいやり)は、字の通り、思いを遣い(つかい)に出すことだ。他人を理解しようとすることは、そのまま思い遣りに通じる。優しさと言ってもいい。
 
 本作品は、自分のことだけで精一杯だった若い二人が、人の優しさで生かされていることに気づき、やがて人に優しくできるようになる成長物語である。上白石萌音と松村北斗の演技が上手なのと、脇を固める光石研や久保田磨希が空気みたいな自然な演技をしていることで、無理のない話になっている。
 出逢いや別れは、人の世の常だ。いいことでも悪いことでもない。ただ自然に受け入れる。いつかは自分も死んで、この世に別れを告げなければならない。
 
 現代社会は、自分の利益を求めて他人にマウントを取るような下衆が目立つ。そして実際に儲けている人間はそんな連中ばかりだ。しかし本作品の登場人物のような優しい人たちもたしかにいる。損ばかりしているが、我利我利亡者になって気の休まらない思いをするよりは、よほど幸せな時間を過ごすことができるだろう。そんなふうに思うことができて、よかった。

映画「オスカー・ピーターソン」

2024年02月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「オスカー・ピーターソン」を観た。
映画『オスカー・ピーターソン』

映画『オスカー・ピーターソン』

来たる2025年に生誕100周年を迎える鍵盤の皇帝 その音楽と人生を綴った伝記映画がスクリーンに登場!超絶技巧を誇る演奏で「鍵盤の皇帝」と呼ばれた天才的ジャズピアニスト...

Oscar Peterson Black + White

 ジャズ・ピアノと言えば、ビル・エヴァンスとオスカー・ピーターソンを学生の頃によく聞いていた。オスカーのは古いアルバムで、「枯葉」「いそしぎ」「ビギン・ザ・ビギン」などのスタンダードナンバーが中心だった。その中にオスカーみずから渋い声で歌う「ペイパー・ムーン」があって、それが特に印象に残っている。サッチモことルイ・アームストロングに匹敵する、味のある歌声だった。

 本作品では、冒頭からエンディングロールまで、ずっとジャズが流れ続ける。インタビューはスイングに乗って語られる。若いオスカーと、年老いたオスカー。栴檀は双葉より芳し。天才ピアニストは、10代の前半から、隠しきれない才能が溢れ出ていたようだ。抜きん出た才能は、往々にして周囲を巻き込んでしまう。天才の結婚はうまくいかないことが多いのは、事実だと思う。

 オスカーは自分でも言っているとおり、才能に恵まれ、チャンスに恵まれた。才能がある人の共通点は、持続する力があることだ。オスカーも例に漏れず、四六時中、音楽に打ち込む。ツアーを続け、たくさんの拍手を浴びるが、ホテルに戻っても喜びを分かち合う人がいないと嘆きつつも、コンサートをやめることはない。黒人差別に遭ったり、孤独で辛いときもあったりしただろうが、我々から見れば、とても充実した、素晴らしい人生だ。インタビューを受ける有名人たちは、例外なくオスカーを称賛する。ただ、ビル・エヴァンスが登場しなかったのは意外だ。そこだけが少し気になった。

 オスカーが作曲した「自由への賛歌」をはじめ、彼らしい優しくてリズミカルでアグレッシブなピアノの音が、BGMなどというレベルをはるかに超えて、上映中ずっと、強烈に響いてくる。本作品はほとんど1枚のアルバムである。グルーヴ感が凄くて、観ながら体が揺れるのを抑えきれないほどだ。とても楽しい81分だった。

映画「沖縄狂想曲」

2024年02月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「沖縄狂想曲」を観た。

 この年末年始に沖縄に行ってきた。元旦に初日の出を見るのに辺野古の海に行くと、反対運動のテントがあって、入れ代わり立ち代わり、演説していた。純粋に初日の出が目的の人もいたし、当方のように、両方見たい者もいた。米軍の黒い戦闘ヘリコプターが威嚇するように飛んでいたのが印象に残る。
 翌日はひめゆりの塔に行って悲惨な記録を見て、アメリカンビレッジで昼食を食べたあと、チビチリガマとシムクガマを見に行った。ガマというのは天然の洞窟を防空壕に使ったもので、チビチリガマには140人がいて、指導者だった日本兵を信じた83人が集団自決したとのことだ。こんな狭い場所に140人もいたのかと、驚くほどの小さなガマである。
 一方のシムクガマは、チビチリガマから坂を登って20分ほど行ったところにある。こちらは広い洞窟だが、広いと言っても1000人も入ることができるとは思えなかった。やはり日本兵がいたが、ハワイ帰りで英語ができる比嘉さんという兄弟がいて、米軍と話をして、暴力で抵抗しない限り殺したりしないとの約束を取り付けて、ひとりも死ぬことなく捕虜になったそうだ。言葉が通じるということは、生死を分けるほど大事なことだと、改めて思った。観光客は当方以外、誰もいなかった。正月の2日から沖縄戦の残された現場を見ようという人はいないのだろう。

 日本には、同じ日本語を話しながら、言葉が通じない人たちがいる。沖縄県の有権者が、選挙で基地反対の知事を何度選んでも、県民投票で辺野古新基地建設反対が可決されても、閣僚にも官僚にも通じない。菅官房長官は「工事は粛々と進める」などと意味不明のことを言う。シムクガマに攻めてきた米兵よりも言葉が通じない。何が粛々となのだ。そんな男が総理大臣になって、自助、共助、公助などと偉そうに言う。そんなことだから能登半島地震の救済も遅れに遅れている。地震の被害者も自助しろというのだろうか。
 日本国憲法第15条第2項には「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」と記されている。役人もそうだが、選挙で選ばれた公務員も、もちろん全体のために尽くさなければならない。
 政治家の大事な役割は、税金の使い方を決めることだが、どうも国民のため、住民のために使っていない感じだ。一番の使い道は困っている人のために使うことで、反対する人はひとりもいない。にもかかわらず、マイナンバーカード保険証みたいに、国民を困らせることにせっせと税金を投入する。被災者はいつまで経っても救われない。
 アベもアソウもスガもキシダも、アメリカの言いなりになりつつ、自分と周囲が儲かることしかしないのだ。マイナンバーカードを進めれば儲かる連中がいるし、辺野古新基地建設を日本が進めると、米軍は費用が浮くし、日本のゼネコンは儲かる。ゼネコンが儲かれば、鉄筋の会社やコンクリートの会社、警備会社も儲かる。そういう連中のために総理大臣をやっていると言ってもいい。そしてそんな奴らが選挙では必ずゼロ打ちで大勝する。それが日本という国なのだ。

 映画としては、いい作品だった。沖縄の歴史と戦後の推移がわかりやすく紹介されている。沖縄で困っている人々がいるのに、対岸の火事みたいに思っている人が多いことも分かる。

 舞台挨拶は太田隆文監督と、鳩山由紀夫元総理大臣。鳩山さんは総理就任時、辺野古新基地について「最低でも県外」と言っていたので、当方をはじめ、期待した人はたくさんいたと思う。そして当方と同じように、アメリカの圧力と日本の官僚に潰されるだろうと予想した人もかなりいたと思う。実際に潰されてしまったが、態度は立派だった。当方が、戦後の総理大臣として、田中角栄の次に鳩山由紀夫を評価している理由はそこにある。人としてマトモなのだ。逆に言えば、マトモじゃない人間ばかりを総理大臣にしてきた政治家を、日本の有権者は選び続けてきた訳である。
 鳩山さんも言っていたが、あと21年で戦後100年になる。しかし未だにアメリカの支配から抜け出しきれていない。日本の有権者も、いい加減気づいていい頃じゃないのか。このままだと日本は戦争に巻き込まれる国になってしまう。まったく同感である。