三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「正義の行方」

2024年04月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「正義の行方」を観た。
文化庁芸術祭大賞受賞の傑作ドキュメンタリー、ついに映画化。4/27(土)より[東京]ユーロスペース [福岡]KBCシネマ1・2ほか全国順次公開

文化庁芸術祭大賞受賞の傑作ドキュメンタリー、ついに映画化。4/27(土)より[東京]ユーロスペース [福岡]KBCシネマ1・2ほか全国順次公開

 DNA(デオキシリボ核酸=遺伝子の本体)の鑑定について、以前から考えていることがある。国家権力が信頼に足る国では、生まれたときにDNAを採取してそのゲノム配列を記録しておけば、犯罪の捜査がやりやすくなるし、顔を認証しておけば、防犯カメラ等による個人の特定も簡単になる。
 ニュースによると中国では既に顔認証を使っているらしい。信号無視などの軽微な違法行為に対して、直ちに個人を特定、AIシステムで罰則を課すようにしたら、信号無視は劇的に減ったそうだ。
 中国の例は少しやりすぎのような気もするし、個人が国家を信用するとかは一切関係なく、有無を言わせず実行しているところに国家権力の恐ろしさを覚える。しかしAIを使用した顔認証システムは、年々正確さを増しており、そのうち免許証や保険証、マイナンバーカードなども不要になるかもしれない。
 AIが権力を運用するとどうなるだろうか。AIも自分の都合のいいように権力を濫用するかというと、それは考えにくい。濫用するのはあくまで人間だ。

 権力は長期化すると必ず腐敗するし、逆の言い方をすれば、権力者は死ぬまで権力を保持したいと考える。プーチンや習近平が恣意的に在職可能期間を伸ばしていることからも、それは明らかだ。腐敗すると、権力を自分の都合のいいように使う。役人も同じである。
 組織が長く続くと、所期の目的を忘れてしまい、組織の維持に汲々とするようになる。警察組織は、市民の生命、身体、財産の安全を守ることが目的だったはずだが、いつの間にか人々を取り締まることが目的になっている。そして二言目には「警察の威信」という言葉を使う。大胆な犯罪が起きると「これは警察に対する挑戦だ」と言う。よく考えてみると、意味不明の言葉だが、警察官は違和感さえ感じないみたいだ。「警察の威信」が冤罪を生み出していることも、警察官は理解していない。

 本作品に登場する元警察官の話しぶりは、物事を順序立てて話したり、大前提、小前提、結論といった具合に、論理を組み立てて話たりすることがない。弁護士や新聞記者の話し方と比較すると、その違いは歴然としている。
 警察官はただ知っている小技を話すのみだ。大局観も、論理もない。もちろん哲学もない。理解できないのだろう。理屈が分からない人には、理屈が通じない。思い込んだら一筋にそいつを犯人に仕立て上げる。それが男のド根性。たまったものではない。
 
 推定無罪の原則は、行政でも司法でも、なかなか守られていないようだ。もし久間さんが本当は無罪で、真犯人が別にいるとしたら、とても恐ろしい。行政も司法も、AIに任せたほうがよほどうまくいく気がしてきた。

映画「悪は存在しない」

2024年04月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「悪は存在しない」を観た。
映画『悪は存在しない』公式サイト - EVIL DOES NOT EXIST|監督:濱口竜介×音楽:石橋英子

映画『悪は存在しない』公式サイト - EVIL DOES NOT EXIST|監督:濱口竜介×音楽:石橋英子

2024年4月26日(金)Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シモキタ - エキマエ - シネマ『K2』ほか全国順次公開|第80回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(審査員グランプリ)受賞|...

映画『悪は存在しない』公式サイト - EVIL DOES NOT EXIST|監督:濱口竜介×音楽:石橋英子

 森のシーンがとても美しい。殆どのシーンのBGMは重厚な弦楽四重奏だが、一度だけ、タクミの娘のハナがひとりで歩くときはシンセサイザーの電子音が響き渡っていた。メロディラインに無理がなく、森をはじめとして、自然を描くシーンにはクラシック音楽が一番よく合うと思った。石橋英子はロックやポップスのジャンルとされているが、本作品のようなクラシック調の音楽も作れる。凄い才能だ。
 もともとは音楽に合わせて濱口竜介監督が映像を製作したのがはじまりらしい。そして自ら製作した映像と音楽にヒントを得て、森で暮らす人々を見舞うエポックメイキングな出来事を想定し、映画にしたのが本作品という訳だ。

 タクミは薪を割り、タンクに湧き水を汲む。学童保育の場所に自動車でハナを迎えに行くが、時々失念して、歩いて帰るハナを探すことになる。淡々としているように見えるタクミだが、地元の歴史や行く末について、自分なりの考えを巡らせている。それはこの森に暮らす人々の誰もが同じだ。時間に追われ、仕事に追われ、不安と恐怖に追われる都会に暮らす人々は、住んでいる地域の来し方行く末など、あまり考えもしないだろう。その場所で商売をしている人たちは、少しは考えもするだろうが、主に今後の商売についてである。その場所での商売がだめになったら、別の場所へ引っ越すだけだ。
 しかしタクミたちはそうはいかない。火も水も土地から貰っている。人間として生きている以上、自然も破壊しているという自覚はある。しかしなるべく自然を壊さないように努力している。土地が汚染されれば、自分たちも汚染される。命に関わる話だ。都会の人間は、多分そこが分かっていない。
 ただ都会には都会の苦労がある。カネがなければ水も飲めないし、人間関係は薄く、しかもややこしい。誰もが他人より優位になろうとする一方で、誰も責任を取りたがらない。顔を合わせるよりもソーシャルメディアを優先するから、言葉も軽くなる。同じ空間にいる安心感や、行間を読み合うといった、身体感覚の関係性がない。互いに疑い合い、損をしないように身構える。

 みんな一生懸命に生きているだけだ。なのにだんだん悪くなる。切羽詰まれば犯罪に走るかもしれないが、いまは踏みとどまっている。不安で、もどかしい。しかしそんなふうに生きるしかない。それがいまの世界だ。

 鹿のエピソードは秀逸。解釈は観客の数だけ存在する。自然は美しい。自然は厳しい。そして自然は理不尽だ。

映画「Rapito」(邦題「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」)

2024年04月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Rapito」(邦題「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」)を観た。
映画『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』公式サイト | 4/26(金)YEBISU GARDEN CINEMA、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか公開

映画『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』公式サイト | 4/26(金)YEBISU GARDEN CINEMA、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか公開

スピルバーグが映像化を断念した衝撃の史実「エドガルド・モルターラ誘拐事件」を、マルコ・ベロッキオ監督が映画化! | 監督:マルコ・ベロッキオ | 出演:パオロ・ピエロ...

映画『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』公式サイト | 4/26(金)YEBISU GARDEN CINEMA、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか公開 - スピルバーグが映像化を断念した衝撃の史実「エドガルド・モルターラ誘拐事件」を、マルコ・ベロッキオ監督が映画化! | 監督:マルコ・ベロッキオ | 出演:パオロ・ピエロボン、ファウスト・ルッソ・アレシ、バルバラ・ロンキ、エネア・サラ、レオナルド・マルテーゼ | 原題:Rapito | 配給:ファインフィルムズ | 2023/イタリア、フランス、ドイツ/カラー/イタリア語/134 分 | 4/26(金)YEBISU GARDEN CINEMA、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか公開

 宗教は、宗教団体になった途端に、権威主義に堕し、場合によっては政治にまで影響力を発揮して、人々を不幸にする。本来は人間を不安や恐怖から救い出すはずの宗教が、宗教団体自身を守るための大義名分となってしまうのだ。だから宗教団体の歴史は、人類の不幸の歴史でもある。
 本作品は、宗教団体とそれに属する人々の盲信の恐ろしさを上手に描いていると思う。最初から最後まで、登場人物の愚かしさが目立つ。結局、カトリックはタリバンと同じなのだという印象もある。ユダヤ教徒にも容赦がない。父親や母親が示した盲信は、現在のユダヤ教徒にも脈々と受け継がれているのだろう。愚かな人しか登場しないから、だんだん嫌になってくるし、宗教が恐ろしく思えてくる。

 何より恐ろしいのは、宗教団体による洗脳だ。洗脳は権威に裏打ちされ、弱い人々は権威に逆らうことができず、やすやすと入信してしまう。宗教団体は、組織をヒエラルキー構造に仕立て、仰々しい儀式をたくさん創作する。それが権威となる。どんなに愚かに見える儀式でも、大勢が同じことをすれば、一定の影響力を生む。
 本作品が問題にしているのは、儀式の中でも重要視されているバプテスマ=洗礼だ。ひとたび洗礼を受けた者は、その瞬間にキリスト教徒となる。赤ん坊でも同じことだ。それがキリスト教の宗教団体の考え方であり、布教の手段でもある。
 洗脳されてしまった人間は、権威の前に跪き、自分の価値を貶めることで従順を誓う。そして階級の高い者から言葉を貰うことで、無償の行為に対する褒美とするのだ。逆に言えば、権威を保つために、団体の中で高位の者は、強制的に信者を跪かせる。または立ち上がって礼をさせる。裁判で、裁判官が入場するときに全員を立ち上がらせるのも同じ理由だ。国家という権威の前に畏まれというのである。

 こういう作品をみると、つくづく、宗教はその役割を終えたのではないかと思う。オリンピックはいらないという議論が世界的に起こっている。宗教はいらないという議論はまだ報道されていないが、密かに広まっていると思う。先進国では、無宗教の人が増えている。日本では結婚式のときはキリスト教や神道、葬式のときは仏教の儀式を使うが、日常的にはほぼ無宗教だ。それは先進国の人々の多くが、衣食足りた生活をしているということに由来するのではないかと思う。
 極言すれば、貧しい人々、困っている人々、抑圧されている人々の中で、宗教が広まるのだと思う。アメリカの黒人解放運動で活躍したキング牧師はキリスト教徒、マルコムXはイスラム教徒、日本の天草四郎はキリスト教徒だ。一向一揆の百姓たちは浄土真宗の信徒だった。

 生活が向上し、人権が遍く認められる世の中になれば、宗教は不要なのだ。いや、正確に言えば、宗教団体は不要である。人々の心の問題に、一個の団体が深く関与して、束縛したり金銭(寄付)を要求したりするのはおかしい。
 それに、宗教団体同士の争いは、時として戦争にまで発展する。幻想に過ぎない宗教が、これほどの力を持つようになったのは、宗教団体が作り出してきた権威によるところが大きい。

 人間は弱くて、権威の前にひれ伏してしまう。権威が権力を持っていたら尚更だ。アフガニスタンの貧しい人々は、武器を持って権力を乱用するタリバンに逆らえない。そして、いつかアッラーが助けてくれると信じている。そのアッラーは、タリバンがイスラム原理主義で想定しているアッラーとは、おそらく別のアッラーだ。宗教は人々の心の中にあるだけで十分なのである。

映画「革命する大地」

2024年04月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「革命する大地」を観た。
革命する大地 | ブエナワイカ

革命する大地 | ブエナワイカ

ブエナワイカ

 1776年6月にアメリカのバージニア権利章典、1789年8月のフランス人権宣言が採択された。いずれも、基本的には人間の自由と平等の権利を謳ったものである。それから200年以上経過したが、いまだに自由も平等も実現していない国や地域がたくさんある。ペルーもそのひとつだ。

 本作品は、不自由と不平等の蔓延する国の現状を打開しようとした軍人ベラスコ将軍の話が中心になっている。16世紀はじめにスペインの軍人ピサロによってインカ帝国が滅ぼされ、入植したスペイン人が支配していて、彼らが本国スペインからの独立を果たしたのが1824年で、ちょうど200年前だ。独立と言っても民族自決ではない。先住民であるインディオやメスティーソ、黒人、それに女性の権利は依然として蹂躙されたままだった。

 1968年のベラスコ将軍による軍事クーデターが革命と呼ばれる所以は、もちろん本人が革命と呼んだこともあるが、農地改革によって寡頭地主を追放して、土地が農民に分与された。ペルー革命は必ずしも上手くいった訳ではないが、少なくとも国民全員が政治に参加できる体制を作ることができた。
 ベラスコは中国やソ連、キューバといった共産圏の国々と国交を結んだが、どうやらそれがCIAの不興を買ったらしい。CIAは1947年の設立時から、反共活動を中心にやってきているから、共産主義国に近づいたベラスコを裏工作で失脚させたようだ。共産圏の諸国との共存を訴えたJFKを暗殺したのも、おそらくCIAである。
 ベラスコ失脚以降の政権は、交代して腐敗を繰り返しており、ペルーの国民の生活はなかなか豊かにならない。世界はグローバル化しており、鎖国して生きられる国は殆どない。他国との取引で国民生活を維持するしかないのだ。そうすると、経済的な失敗や株式の暴落、オイルショックなどの出来事のしわ寄せは、どうしても弱い国に集中する。そうやって大国は生き延びてきたのだ。人間の自由と平等がなかなか実現しないのと同じで、国の自由と平等もなかなか実現しない。

 フランス革命のスローガンは自由、平等、友愛である。トリコロールの三色は自由、平等、友愛を示していると言われる。自由と平等は分かるが、どうして友愛なのか。
 高校の世界史では教えてくれなかったが、自分なりに考えてみた。人間の自由権は、他人の自由権を損害しない限り、保障されている。しかしそうすると、豊かになる人と貧しい人の格差がどうしても生ずる。これを平等にしようとすると、自由権の侵害になる。自由と平等のパラドクスだ。
 フランス革命の指導者たちは、この問題に気づいたのだと思う。自分の権利も主張するし、他人の権利も尊重する。しかしそれだけでは平等は実現しない。解決するには寛容と優しさが必要になる。それが友愛だ。具体的に言えば、たとえば税金を困っている人たちのために使うことに賛成することなどである。
 汚職政治家の精神に、友愛はない。友愛のない政治家に投票している有権者にも、もちろん友愛はない。裏金問題を言い訳する政治家の演説にも、友愛はない。友愛のない演説は、すなわちヘイトスピーチだ。最近は、友愛が失われ、逆にヘイトが急増している。これは世界的な傾向だ。それは自由と平等の危機であり、戦争の予兆でもある。

映画「マリウポリの二十日間」

2024年04月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マリウポリの二十日間」を観た。
映画『マリウポリの20日間』公式サイト

映画『マリウポリの20日間』公式サイト

映画『マリウポリの20日間』公式サイト

 1991年のソビエト連邦解体後、ウクライナ国内では、親ロシア派と反ロシア派の対立が続いている。政権は親ロシア派と反ロシア派が入れ代わったりしていて、一筋縄ではいかない複雑な状況だ。親ロシア派の武装勢力がクリミア議会を占拠したのが2014年で、ロシアはこの紛争に介入してクリミア半島を併合した。紛争そのものも、ロシアが裏で糸を引いていたことは容易に想像できる。そもそもプーチンはKGB出身だ。裏工作が本業である。

 2019年にウクライナ大統領となったゼレンスキーは、親ロシア派が多い東部出身で、芸人としては主にロシア語を使っていた。しかしウクライナの公用語はウクライナ語だ。反ロシア派として政治家に転身したときに、ウクライナ語を猛特訓したらしい。国内の親ロシア派が気に食わなかったようで、武装勢力をドローンで爆撃するなどの強硬手段を取ってきた。ロシア人からすれば、仲間を攻撃されたように受け止めてもおかしくない。
 加えて、ソ連解体時にワルシャワ条約機構が解散したのに対して、対ソ連の軍事同盟であったNATOが解散していないことも、ロシアからすれば面白くないことのひとつだ。ましてや、かつて連邦の共和国のひとつであったウクライナが、NATOへの加盟を打診しているとあっては、ロシアへの敵対を露わにしていると受け取ってもおかしくない。プーチンは、ゼレンスキーのこういった政策を、ウクライナ侵攻の大義名分に使っている。
 ゼレンスキーが対ロシア強硬策に突き進む理由はよくわからない。政治家としての人気取りなのか、支持基盤がタカ派なのか、不明だが、少なくともウクライナ国民のためを思ってではないことだけは確かだ。ウクライナ国民は誰も、戦争を望んでいないからである。

 本作品では、マリウポリ侵攻の悲惨な実情が、バイアスなしに示される。我々が2年前にニュースで見た断片の完全版みたいだ。住民には情報がなく、どうして民間人が攻撃され、民間の施設が砲撃されるのか、意味がわからないまま、ただ右往左往する。最初から最後まで、危険で悲惨な映像が続く。その見ごたえは凄かった。

 日本人はどうだろう。戦争を望んでいる人がたくさんいるだろうか。殆どの国民は、前線に行きたくないし、他国民を殺したくないだろう。しかし岸田政権は米国から兵器を大量に購入しており、あるいは自国で開発、生産した武器を他国に売却している。憲法を曲げて、そういうことを可能にしたのだ。
 与党の政治家は、ウクライナは他人事ではないと言うが、やっていることはゼレンスキーと同じだ。他人事でなくしたのは、政権自身である。まさにマッチポンプだ。この上、国内の朝鮮人や中国人を弾圧したら、朝鮮や中国は黙っていないだろう。本当にウクライナと同じことになりかねない。国民の誰がそんなことを望んでいるのか?

 政治家は、国民の多くが望まないことを、往々にしてやりがちだ。政治家を志した頃の理想はあっという間に失せてしまい、取り巻きと、金を出してくれる有力者、有力企業の要望に応えるだけの人間に堕してしまう。ゼレンスキーもプーチンも、それに岸田文雄も例外ではない。そういう人間を選び続けているのが有権者である。ゼレンスキーも選挙で選ばれた。プーチンの侵攻を受けて、国家非常事態を宣言し、ずっと大統領に居座ることになるだろう。ウクライナの有権者は、この戦争が自分たちの投票の結果だなどとは、夢にも思っていないに違いない。

 もし日本で近々に総選挙になったとしても、現職総理大臣は常に選挙に強く、岸田はまた当選するに違いない。しかし、岸田を始めとする自民党や公明党その他の、戦争をしたい政治家に投票する有権者は、その投票行動が、日本を再び戦禍に巻き込む意思表明であることを自覚したほうがいい。

映画「あまろっく」

2024年04月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「あまろっく」を観た。
映画『あまろっく』公式サイト

映画『あまろっく』公式サイト

2024年4月公開!「人生に起こることは何でも楽しまな!」関西出身の豪華キャストで贈る、笑って泣いてロックに生きるご実家ムービー

映画『あまろっく』公式サイト

 細かいところまで、よく考えられている。笑いながら、感心しながら、楽しく鑑賞した。
 愛子と竜太郎のイニシャルAとRは、そのまま、尼ロックのイニシャルになっている。映像の見せ方で、語らずとも分かる仕掛けになっていて、直感的に理解できる。
 具が乗っていないうどんを、関東ではかけうどんというが、関西では素うどんだ。食文化の違いで、関西の出汁の色は薄い。このうどんも含めて、出てくる料理が全部美味しそうだった。このあたりの演出は素晴らしい。
 
 関西人の庶民の日常会話が漫才みたいだというのは、よく言われている。会話そのものが掛け合いなのだ。
 本作品では、様々な掛け合いのバリエーションが登場する。間を外したり、伸ばしたり縮めたりで、昔の漫才師みたいな面白みがある。そして、そのバリエーションの違いが、登場人物の関係性の変化も表現している。一石二鳥だ。
 
 他人との関係の中にしか幸せを見出だせない人しか登場しないのが、本作品の唯一の憾みだが、必ずしもそれは悪いことではないし、関西は歴史的にそういう地域である。
 ストーリーは観ていて大方の予想はつくし、落とし所もベタではあるが、伏線をもれなく回収するところは、古典落語みたいで面白い。漫才みたいな「あまろっくや」の繰り返しに、他人の役に立ちたいという人生観が浮かび上がる。
 
 主演の江口のりこはとてもよかった。芸達者の彼女にとっては朝飯前の役柄だっただろう。演技にも余裕が感じられて、安心して観ていられた。

映画「陰陽師0」

2024年04月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「陰陽師0」を観た。
大ヒット上映中!映画『陰陽師0』公式サイト

大ヒット上映中!映画『陰陽師0』公式サイト

大ヒット上映中!実在した《最強の呪術師》安倍晴明。呪術は、ここから始まる―。原作・夢枕獏 #陰陽師0

ワーナー・ブラザース映画

 主人公が同じとあっては、どうしても滝田洋二郎監督、野村萬斎主演の「陰陽師」と比べてしまう。佐藤嗣麻子監督は、ご主人の山崎貴監督の「ゴジラ-1.0」にあやかってかどうかはいざ知らず、本作品を「陰陽師」シリーズの前日譚としたので、「ゴジラ」シリーズの前日譚であったご主人の作品と同じような期待をしてしまった。

 それにしても、たくさんの要素を盛り込んだものだ。陰陽道そのものが、仏教や神道から影響を受けて形作られているから、陰陽五行思想の他に、仏教のマントラ(咒=呪=真言)を解説し、更にはユングばりの超心理学も解説しなければならない。すると、唯心論と唯物論の考え方にまで及ぶことになる。
 細かい部分を言えば、御香の効果や集団催眠のテクニック、それに権力と権威の関係と平安京のヒエラルキーなど、あらかじめ知識がないとついていけない部分もあるかもしれない。とにかく、解説がやたらに多い。セイメイ自身による解説もある。
 そのせいか、変に間延びするシーンが何箇所かあった。馬で逃げたあと、セイメイがヒロマサを探すシーンは、何故かのんびりしている。追手が迫っているのに、急にのんびりするから、調子が狂う。映画としての完成度は滝田洋二郎版が上である。

 ただ、役者陣は揃って好演。主演の山崎賢人の息ひとつ乱さないアクションシーンは見ごたえがあったし、染谷将太のヒロマサは、人間味があって面白い。ユニークな人物造形なので、思い切ってヒロマサを主人公にしてもよかった気もする。豪華な脇役陣は、セイメイの才能を際立たせている。ミカドにもうちょっと迫力があれば、もっとよかった。
 VFXもとてもよく出来ていたし、佐藤直紀の音楽は「ゴジラ-1.0」と同じくらい素晴しかった。全体として、かなり楽しく鑑賞できた。

映画「マンティコア 怪物」

2024年04月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マンティコア 怪物」を観た。
映画『マンティコア 怪物』オフィシャルサイト

映画『マンティコア 怪物』オフィシャルサイト

ゲームデザイナーの青年が生み出したマンティコア[怪物]。人間の心の闇のタブーに踏み込んだ、衝撃のアンチモラル・ロマンス。4月19日(金)全国順次公開

映画『マンティコア 怪物』オフィシャルサイト

 タイトルの意味はラスト近くになって、ようやく分かる。少なくとも、マンティコア=怪物ではない。原題は単にマンティコアである。邦題は観客を惑わす方向でつけられていて、よろしくない。
 ただ、ラスト近くになって分かると言っても、マンティコアの意味を知らないと、分かりようがないので、ここではマンティコアの概要を紹介する。それは、古代ペルシア帝国の時代に考え出された、人面獣身の人食い魔獣である。もしかしたら監督も、アメリカのB級映画「マンティコアvsU.S.A」を観た可能性がある。思い出すと笑ってしまうアホな作品だった。

 主人公フリアンは、内気で繊細な性格で、ゲームのキャラクターデザイナーという仕事がとても合っているようだ。内気で繊細な性格ということは、それだけ傷つきやすい部分がある訳で、悪い言い方をすれば、何があっても自分のせいではないと、責任回避の志向が強い傾向がある。そのせいで、思ったように生きてこられなかったと想像できる。欲望を押さえつけて生きてきたのだ。
 その欲望というのが、どうもペドフィリアのようで、知られた途端に社会的信用を失うから、ひた隠しにして生きてきた。それがフリアンの正体だと推測できる。話したがらなかった父親との過去に、その原因がありそうである。フリアンが和食好きだったり日本のネット番組を視聴していたりするのは、精神性が普通でないことを表現したかったのか。

 真相が明かされず、観客の推測に委ねられると同時に、作品自体のテーマや世界観も、観客に向かって放り出されたみたいな感じだ。受け止める方としては、なんだか面食らってしまう。かといって、物語として観客をぐいぐいと引っ張っていく訳でもない。

 カルロス・ベルムト監督の作品を鑑賞するのは本作品が初めてで、これを鑑賞しただけでは、製作の動機も思惑も測りかねる。知り合った女の子との関係性が変化していくところなどは面白かったので、人間関係に重きを置くタイプなのかもしれない。いいシーンもあったが、全体としてはやや暗すぎた。ペドフィリアを笑い飛ばすような視点や、病気として真剣に向き合うシーンなどがあればよかったと思う。

舞台「夢の泪」

2024年04月18日 | 映画・舞台・コンサート
 新宿の紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAでこまつ座第149回公演「夢の泪」を観劇。
 ラサール石井が座長のミュージカルで、舞台は新橋の弁護士事務所。極東国際軍事裁判のA級戦犯松岡洋右の弁護人を務めることになった話と、弁護士事務所に駆け込んでくる市井の人々の群像劇である。
 東京大空襲で10万人、ヒロシマ、ナガサキで20万人を殺したアメリカが、日本人を裁くのはおかしくないかという疑問。いったい日本はどこで間違えたのかを検証したいのに、書類はすべて焼き尽くせという命令が出て、ろくに資料がない上に、残った書類はアメリカがすべて持ち帰ったという事実。アメリカに都合のいい書類だけが証拠として使われるのではないかという懸念。
 弁護士夫婦は心穏やかではない日々を送るが、裁判が結審する前に松岡洋右が死んでしまい、目標を失って意気消沈する。
 東京裁判はアメリカが日本の政治家と軍人を裁いたが、まだ日本人そのものは裁かれていない。自ら裁くのが筋ではないかと主張する娘。
 敗戦直後の10月に、在日朝鮮人はすべて日本人と認めるという、誰も知らない法律がいつの間にか成立していたこと。それは炭鉱で働く朝鮮人に対して、日本政府が何も補償しなくて済むための都合のいい立法だった。体のいい棄民政策だ。
 そこかしこに民衆の愛すべき側面と、無知と刷り込みで政府を支持した愚かさが散見される。人生は悲惨だ。しかしそれでも生きていくのだという力強い意志が、いかにも井上ひさしらしい世界観である。とても感動した。

映画「ザ・タワー」

2024年04月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ザ・タワー」を観た。
ザ・タワー - 株式会社クロックワークス - THE KLOCKWORX

ザ・タワー - 株式会社クロックワークス - THE KLOCKWORX

株式会社クロックワークス - THE KLOCKWORX

 ギョーム・ニクルー監督の作品は、2020年に「この世の果て、数多の終焉」を観た。2018年製作の戦争映画だが、公開は2年後だった。
 本作品も製作は2022年だが、公開は2024年だ。そして、本作品も戦争映画のような様相を呈している。つまり、状況が切迫すると、人々は哲学や理想、寛容や話し合いを捨てて、生き残りをかけて互いに争うようになる訳だ。もはや人々の関心は、食と性、そして暴力と権力闘争に限られる。
 ひとりでは弱いから、徒党を組んで他人の権利を奪いはじめる。国家という徒党を組む侵略戦争と同じだ。中学生の番長争いや暴走族同士の衝突、ヤクザの縄張り争いに至るまで、みんな同じ図式である。そこに人類の愚かさが集約されている。
 団地を包む闇は、地球環境が悪化し続けた未来の、住めなくなった土地を示している。放射能や毒素が充満して、足を踏み入れた途端に命を落とす。残った人間は、地球環境の保全や改善に努めるよりも、自分だけ、自分たちだけが生き残ろうとして、互いに争うのである。
 不思議なことに、徒党を組んだ連中が互いに殺し合って姿を消した後には、束の間の平安があり、文化と哲学の復活がある。しかし闇は常に迫り続けている。人類最後の日は近い。
 
 かつて恐竜が絶滅したように、人類の絶滅も必至である。新約聖書に記されている「悔い改めよ、天国は近づいた」は、バプテスマのヨハネの予言であり、イエスが教えを述べはじめた第一声であるが、まさに現在の地球のことを言っているように思える。仏教の末法思想も同じだ。科学が人類の絶滅の可能性を導き出す遥か前に、イエスもゴータマも、人類の先行きが不幸な結末であることを予言していたのだ。
 
「この世の果て、数多の終焉」と同じように、本作品にも、人類の終末についての厭世的な思想が通底している。それがニクルー監督の哲学なのだろう。歴史の縮図を1棟の団地に閉じ込めてみせた傑作である。