三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「シモーヌ フランスに最も愛された政治家」

2023年07月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シモーヌ フランスに最も愛された政治家」を観た。
映画『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』公式サイト

映画『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』公式サイト

フランスの年間興行成績No1(国内映画)に輝いたシモーヌ・ヴェイユの奇跡の生涯 その誇り高き生き方に、胸が熱くなる感動の物語 7月28日(金)よりヒューマントラストシネ...

映画『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』公式サイト

 田中角栄は「俺たちのように戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは大丈夫だ。しかし戦争を知らない世代ばかりが政治の中心になったら、とても危ない」と言っていた。日本の政治は、第二次安倍政権以降、角栄の懸念が現実のものになりつつある。

 ナチスドイツで最も危険だったのは、役人根性だという話がある。政策が決まり法律が改正されると、ひたすら忠実にそれを実行する。日中戦争、太平洋戦争での日本の軍官僚や特高警察も同じだ。おそらくではあるが、ブラック企業の社員も同じだと思う。会社のやることに疑問を感じることはあるが、生活のため、保身のため、ブラック経営者の言いなりになる。このところ報道されているビッグモーターの事件も同じ構図に違いない。

 本作品で紹介されるアウシュヴィッツやビルケナウ収容所で、囚人ながらユダヤ人の虐待に手を貸していた人々も同じ精神構造だ。やらなければ自分がやられる。考えてみれば、学校におけるいじめの構造もそっくり同じだ。本来は、いじめの元凶がいても、ひとりでは何も出来ない。単なるバカな子供である。しかし取り巻きたちがいて、そのバカに盲従することで、権力構造が出来上がる。いじめ集団みたいな小さな共同体から国家のような巨大な共同体まで、いずれも同じ構図だ。世界的にナチスドイツの役人根性みたいな精神性が蔓延していて、それが差別と格差と全体主義を支えている訳だ。

 それもこれも、すべて人間の弱さに由来する。弱さが人間を差別し、弾圧し、虐待するのだ。強制収容所の経験で、シモーヌは敵は人間の弱さであるという真実を知ったのだと思う。戦後のシモーヌの戦いは、人類の弱さとの戦いであった。

 シモーヌは「強制収容所で一緒に過ごした母と姉には、自分のような強さがなかった。だから自分が二人を支えた」と語る。それではシモーヌの強さはどこに由来するのか。「私の心の中には、いつも怒りがあった」とシモーヌは告白する。強権に対する怒り、理不尽に対する怒り。それは子供の頃から読書家だったシモーヌの自由闊達な精神性から生まれた怒りだ。自分は自由だ。誰にも自分の自由を侵害する権利はない。石川啄木の「強権に確執を醸す志」と同じだと思う。

 家族を支え、家族に支えられながら世の理不尽と戦ったシモーヌの人生は、実に天晴れだ。ただ、彼女の生き方に感心するだけではいけない。人類は弱くて愚かだ。油断すると差別と全体主義、そして役人根性の陥穽に陥るということを忘れてはならない。常に理不尽と戦い続けることが、人類の不幸を防ぐ唯一の方法である。世界はキナ臭い方向にまっしぐらに進んでいる。日本も例外ではない。戦争法案が成立し、軍拡政策が認められ、予算がつけられた。
 戦争を防ぐにはどうすればいいか。シモーヌは自分のやったことは大海の一滴かもしれないと危惧したが、彼女の果たした役割は大きかった。理不尽な相手は政治家や役人だけではない。近くにいる理不尽な人間たちとも戦わなければならない。そういう日常的な戦いが、戦争政治家が権力を握ることを防ぎ、人権蹂躙の世の中の到来を防ぐことになる。本作品はそのための勇気をくれるようだった。

映画「イノセンツ」

2023年07月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「イノセンツ」を観た。
映画『イノセンツ』オフィシャルサイト

映画『イノセンツ』オフィシャルサイト

7月28日(金)新宿ピカデリー他全国ロードショー|『テルマ』『わたしは最悪。』アカデミー賞脚本賞ノミネート 監督・脚本:エスキル・フォクト

映画『イノセンツ』オフィシャルサイト

 ホラー映画としては異色の作品だ。監督・脚本のエスキル・フォクトは映画「私は最悪」の脚本と製作総指揮を担当しているくらいだから、ホラー作品であるだけでなく、社会のありようについて疑問を投げかけた作品でもあると思う。

 自閉症スペクトラムは症状が人それぞれだから、一概に家族の悩みはこうだと言えない。自閉症の本人が必ずしも不幸だとは限らないし、それにサバン症候群などで、特異な能力を発揮する場合もあって、社会に適応して経済的に自立できる場合もある。ただ本作品のアンは難しそうだ。
 顔にハタケが出来る子供は、日本では昭和の高度成長期ぐらいまではいたと思うが、最近は見かけない。住居の衛生環境が改善されたからか、子供の顔が白くなったからだろうか。黒人の子供だと目立つから、差別されることもあるだろう。まして女の子だと、親の心配は計り知れない。アイシャが優しい子供に育ったことが救いだが、その優しさのために追い詰められる。
 インドやパキスタン、中東などからノルウェーに移民として流れ着く場合もある。同年代の子供との交流もなく、親が家父長主義だと、想像力に欠けた酷薄な子供に育つこともあるだろう。

 それぞれ問題を抱えた子供たちだが、孤独を抱えている分、互いの交流に喜びを見出す。しかしそれも束の間、親しんでいくうちに本音が漏出し、感情的になってしまう。
 親は結局、自分たちの考えでしか子供に接しない。子供たちにもそれが分かっているから、何もかもを親に話すことをしない。大丈夫でなくても大丈夫と言う。子供たちは再び元の孤独に戻っていく。恐ろしくも不気味で切ない物語だ。

 エンドロールが下から上に流れるのをはじめて見た。時間が巻き戻っているみたいで、不気味さが蘇ってくるようだった。

映画「リバー、流れないでよ」

2023年07月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「リバー、流れないでよ」を観た。
映画『リバー、流れないでよ』公式サイト

映画『リバー、流れないでよ』公式サイト

映画『リバー、流れないでよ』公式サイト

 舞台はこぢんまりと限られた地域である。登場人物も少なく、衣装はずっと一緒だ。世界中を舞台に巨額の予算をかけて製作される大作もいいが、この映画のように低予算でも上手にまとめた作品も悪くない。

 本作品の面白さは、登場人物の正常性バイアスにある。まさかの事態が起きているのに、パニックにならず、日常的に解決しようとする。それもままならないことに気づくと、みんなで話し合えばなんとかなると思う。なんともならないと分かると、今度は神仏の超常現象に可能性を見出そうとする。
 一方で、状況に慣れてしまう部分もあって、一度やってみたかったと思うことをやってみる。飛び降りたり人を刺したり本音を剥き出しにしてみたりする。追い詰められてではなく、日常の精神性での行動というところが面白い。
 まさかの事態はまさかの結末を迎えようとするが、人々の反応は相変わらず日常的だ。日常と非日常の振れ幅が大きいほど、滑稽になる。演劇的な面白さだ。

 ループものはあまりハズレがない印象だ。同じことの繰り返しは人を急激に成熟させる。試行錯誤も面白いし、徐々に結論が収斂されていく過程も面白い。本作品にも、規模は小さいが同様の面白さがある。プロローグをエピローグに繋げているのは王道だが、これもある意味でひとつのループなのだろう。よく出来ている。

映画「マッド・ハイジ」

2023年07月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マッド・ハイジ」を観た。
映画『マッド・ハイジ』公式サイト

映画『マッド・ハイジ』公式サイト

映画『マッド・ハイジ』公式サイト

 出だしから笑える。パラマウント映画のパロディになっているのだ。星の代わりにチーズ。円盤状のゴーダチーズ風のホールチーズが二十数個、山の周囲に弧を描き、Paramount の代わりに Swissploitation の文字が出る。Swiss と Expoitation を掛け合わせた造語だろう。Sexploitation や Nunsploitation、Nazisploitation など、このジャンルは意外に奥が深い。

 日本のアニメ「アルプスの少女ハイジ」では、アルペンホルンとヨーデルのイントロから「くちぶえはなぜ とおくまできこえるの」の歌いだしで有名な「おしえて」が主題歌になっている。本作品でも大人のハイジとペーターが山道を移動するシーンがあるから、てっきり「おしえて」が流れるのかと期待したが、残念ながら聞けなかった。家庭教師のトライのCMでハイジのパロディが使われるくらいだから、本作品にオープニング曲を提供してもよかった気がする。金銭面での折り合いがつかなかったのだろうか。

 アルペンホルンのシーンはあるが、ヨーデルは聞けない。ヨーデルの代わりに残虐なシモネタシーンがある。軍隊の腕章が赤地に白十字のスイスの国旗の模様になっているのは、どこかナチの軍隊と似せているように思える。どこまでも人を食った映画である。
 登場人物の精神状態が振り切っていて、暴力に対していささかの躊躇いもないところがいい。能書きはいらない、殺すのみだ。殺し方のバリエーションにも凝っていて、観ているこちらの鬱憤晴らしにもなる。
 ジャッキー・チェンのカンフー映画や、コロッセオが舞台のグラディエーター映画のパロディみたいなシーンがあって、面白おかしく鑑賞できる。次作?らしい「ハイジとクララ」が万が一公開に漕ぎつけるようなら、是非観てみたいものだ。

映画「ナチスに仕掛けたチェスゲーム」

2023年07月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ナチスに仕掛けたチェスゲーム」を観た。
映画『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』公式サイト

映画『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』公式サイト

これは、ナチスとのチェス・ゲームだ―― 7/21(金)シネマート新宿他全国順次ロードショー

映画『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』公式サイト

 ナチが人の心を操ることに長けていたのは、言葉巧みに民衆を扇動したヒトラーの演説の延長にありそうだ。嘘も百回言えば本当になる。ナチのやり方を学べと演説したのは麻生太郎だ。本物のバカである。
 ヒトラーが饒舌に語り、短期間でユダヤ人を民衆の敵だと見做すパラダイムを蔓延させるのに成功した。ドイツ国民はみずから進んで、ユダヤ人の迫害や虐殺に協力したのである。日本でも戦前の愛国婦人会などは喜んで戦争に協力した。バカは麻生太郎だけではないのだ。

 愛国主義が盛り上がると、反戦の平和主義者に危険が及ぶようになる。反体制的、反社会的と批判され、国賊や売国奴と非難される。そして弾圧され自由を奪われ、拷問を受ける。日本では特高、ドイツではゲシュタポがその任に当たった。

 本作品では、同じドイツ語の国であるオーストリアにもヒトラーのパラダイムが押し寄せてくる。若者を中心として、オーストリア国民がヒトラーに熱狂してしまう様子が描かれる。知恵のある友人は、この国はおしまいだと真実を語るが、裕福な主人公は正常性バイアスに囚われ、友人の話を信じない。

 しかしあっという間に状況は変わる。ワイマール憲法を蔑ろにしたナチは、民主的な手続きを無視して、オーストリアのユダヤ人を拘束し、反体制的な人間を拉致する。人々が油断する夜に活動するのだ。
 逃げ遅れてゲシュタポに連行された主人公が、ホテルに幽閉される。一切の情報が断たれ、ただ食事だけが与えられる。誰も言葉をかけないし、返事もしない。そんな孤独刑とでも言うべき状況は、主人公の精神を蝕んで、発狂寸前に追い込む。
 本作品では、チェスが重要な役割を果たす。チェスの奥深い世界の探求が、主人公の精神の拠り所となるのである。しかし幽閉された孤独の記憶はその後も主人公を苦しめ続ける。思い出すきっかけになるのがチェスだ。船上と監禁のシーンが交互に映し出されて、主人公の苦しみを浮かび上がらせる。

 世界はキナ臭い。タモリは2022年末の「徹子の部屋」で、来年はどんな年になりますかという徹子の質問に「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と答えた。流石に時代の雰囲気を読むのに長けたコメディアンである。
 本作品を観て、ますます新しい戦前が近づいた気がしてきた。コロナ禍もプーチンのウクライナ侵攻も、誰も予想しなかった。社会の変化は常に急激で、驚くほど規模が大きい。明日になって突然徴兵制が始まってもおかしくない。現に軍拡を進める政治家が当選しつづけている。「新しい戦前」を望む有権者がたくさんいるという訳である。バカは昔の人々だけではないのだ。

映画「古の王子と3つの花」

2023年07月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「古の王子と3つの花」を観た。
映画『古の王子と3つの花』オフィシャルサイト

映画『古の王子と3つの花』オフィシャルサイト

映画『古の王子と3つの花』オフィシャルサイト

 同じミシェル・オスロ監督、脚本の前作「ディリリとパリの時間旅行」とは趣を変えている。本作品は若者たちの愛の物語だ。相変わらず芸術性が高い。

「ディリリ…」ではベルエポックの時代を描いたが、本作品は3000年前と700年前と300年前の、それぞれスーダンからエジプト、フランス、モロッコが舞台となっている。国や言語や人種が違っても、愛は変わらないのだ。

 邦題は第一話を表現しているが、原題の直訳は「ファラオ、野生児、王女」である。3人の王子の3つの物語が過不足なく描かれている。冗長に陥ることも、説教臭くなることも、拙速なストーリーテラーになることもない。必要十分なシーンが緩急自在に展開されて、観ているこちらは否応なしに惹き込まれる。観ている間は夢見心地の時間である。

 オスロ監督の作品は、他のアニメ作品とはまったく違った、ユニークで魔法のような作品だ。いずれの物語も優しさに満ちていて、凹んでいるときや心が荒んだときに観れば、産着みたいに心をくるんでくれるだろう。あたたかい気持ちになるのは間違いない。

 ところで「美しい言葉」とは、どんな言葉なのだろうか。作品の中に答えは示されない。鑑賞後に考えてみるのも映画の楽しみ方のひとつだろう。

映画「Etre Prof」(邦題「世界のはしっこ、ちいさな教室」)

2023年07月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Etre Prof」(邦題「世界のはしっこ、ちいさな教室」)を観た。
映画『世界のはしっこ、ちいさな教室』公式サイト

映画『世界のはしっこ、ちいさな教室』公式サイト

未来に明かりを灯そうとする3人の先生と、学びに目覚めた子どもたちを描く感動ドキュメンタリー! 7/21(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国公開

映画『世界のはしっこ、ちいさな教室』公式サイト

 辺境で子供たちを教える三人の教師のドキュメンタリーである。タリスマとサンドリーヌとスヴェトラーナ。彼女たちが共通して口にする言葉は子供たちの自由だ。将来の可能性と言ってもいい。

 原題は「Etre Prof」というフランス語である。英語にすると「Be a teacher」だろうか。日本語だと「教師として」や「教師であること」ということになる。ちょっとそっけない。「世界のはしっこ、ちいさな教室」という邦題は、かなり優れていると思う。

 子供たちに言葉を教え、計算を教える。飲み込みの早い子もいれば、そうでない子もいる。出来る子には手伝ってもらい、みんなが出来るまで、何度も何度も教える。決して投げ出すことなく、根気よく教えつづける。子供たちが学んだその先には、自由があり、可能性がある。だから彼女たちは絶対に諦めない。強い意志があり、不断の努力がある。

 バングラデシュで娘を嫁にやろうとする親は、相手の男性に結納金の額や宝石の値段を聞く。娘は商品なのだろう。母親の言い草は、娘の将来は親が決める、家名に傷をつけてはならない、というものだ。タリスマはそんな母親を粘り強く説得する。母親の事情は理解できる。国全体の事情でもあるからだ。それでも、子供の将来は子供自身が決めるのでなければならない。
 いまはまだ知識が少なくて考え方も身についていないから自分では決められない。だからタリスマは教える。言葉や数学だけでなく、進むべき道についても教える。18歳未満の児童婚は違法であることも教える。子供たちに必要な知識は山ほどあるのだ。
 弱冠22歳のタリスマ。学校を休んだ子供は家庭訪問をして事情を聞く。親たちから怒鳴られ、邪険にされて泣いたこともある。しかしタリスマは負けない。自分が負けたら、子供たちの自由が遠ざかる。可能性が狭められる。負ける訳にはいかないのだ。

 ブルキナファソの貧しさは想像を超えている。サンドリーヌは自腹でソーラーパネルを購入し、自宅に明かりをつけて、子供たちに向けて開放する。勉強したい子供は夜にサンドリーヌの自宅を訪ねるのだ。実家に残してきた二人の子供たちを案じながら、サンドリーヌは50人の子供たちと毎日向き合う。

 シベリアでトナカイの橇にテントと机と椅子と勉強道具を乗せて、遊牧民の子供たちのいるキャンプを訪ねて勉強を教えるスヴェトラーナ。子供たちに会えるなら、移動はまったく苦にならないと彼女は言う。子供たちが学んで、そして自由になってくれたら、どんなに素晴らしいことか。

 彼女たちの献身的な努力は称賛に値する。しかし国家や自治体などの共同体が、教師たち個人の自己犠牲にも似た努力に頼っているのはおかしい。未来は子供たちの自由にある。共同体こそ、そこに努力を傾注すべきなのだ。

 本作品は世界のありように疑問を投げかける。しかし同時に、こういう教師たちがいるということに人類の希望の種火があるようにも感じさせてくれる。改革は辺境から起きる。人間もまだ、捨てたものではない。

映画「ミッション:インポッシブル デッドレコニング」

2023年07月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ミッション:インポッシブル デッドレコニング」を観た。
映画『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』公式サイト

映画『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』公式サイト

トム・クルーズ演じるスパイ組織IMFに所属する主人公イーサン・ハントと彼率いるチームの活躍を描く全世界で大ヒットシリーズの最新作『ミッション:インポッシブル/デッド...

映画『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』公式サイト

 タイトルの最後に「Part One」とあるように、第一部である。第二部は当然あるだろうし、第三部もあるかもしれない。英語には前編、後編みたいな便利な言葉はなくて、Part1、Part2しかないから、全部で何作あるのかわからない。普通に想像するとパートⅠとパートⅡだろうとは思う。

 タイトルの話で言うと、Reckoningは推測とか計算とかで、それにDeadがつくと推測なし、計算なしとなる。当てずっぽうということだ。船舶や航空機に当てはめると、適当に進むという意味で、だいたいこっちだろうという感じで進むことを意味する。この言葉は船舶についてと、イーサン・ハントの人生についての両方を表現している気がする。
 多国籍語が飛び交うが、大抵のスパイ小説の主人公と同じく、イーサンは苦もなく対応する。言葉はどんな場面でも最強の武器のひとつだ。殺し屋にとっても同じである。ゴルゴ13も何ヵ国語かを話している。本作品のパリスが最期に話すフランス語はとても美しかった。

 作品自体はとても面白い。映画館では予告編やCMの時間を入れると3時間の鑑賞時間となるが、少しも退屈しなかった。映像は迫力があるし、音楽も実に効果的に使われている。そして例によってスタントなしのアクションシーンには、ヒヤヒヤしっぱなしだ。何より、歳を取って味が出てきたトム・クルーズの顔がいい。

 シリーズ物はマンネリ化するはずなのに、この作品に限っては、進化しているように思う。新作のほうが常に面白いのだ。それは時代を捉えるセンスがあるということなのだろう。AIが問題になっている時代にAI暴走の作品を作る。その感性とチャレンジが素晴らしい。Part Twoがとても楽しみだ。

映画「裸足になって」

2023年07月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「裸足になって」を観た。
映画『裸足になって』公式サイト

映画『裸足になって』公式サイト

夢と声を失った少女がダンスを通じて生きる力を取り戻す アルジェリアの大自然で呼吸する命がきらめく再生の物語

映画『裸足になって』公式サイト

 映画はよく観るし、芝居やコンサートにも行くが、バレエは一度も観たことがない。バレリーナたちの極端にガニ股の歩き方と、トゥシューズでつま先立ちになる踊り方に不自然さを感じてしまう。爪先が痛そうで、見ていられないのだ。
 バレエの型に嵌まった踊りなら、そのうちにAI搭載の人型ロボットが、プログラムに従って完璧な踊りを披露する時代が来るだろう。もしかしたら感動するかもしれない。しかし踊りはやはり自分で踊るもので、見るものではない気がする。

 アルジェリアは19世紀のフランス帝国主義のアフリカ横断政策で征服された歴史がある。100年以上も占領されていた。独立は60年ほど前の1962年で、最初は社会主義国だった。その後イスラム原理主義が幅を利かせて、一夫多妻はいまでも合法だ。
 テロリストが多く、観光客には危険な国である。日本の外務省の安全レベルでは他国との国境付近はレベル4(退避勧告)だ。人が多く住んでいる地中海側もレベル1(要注意)である。重大な用事がなければ行かないほうがいい国だ。
 イスラム原理主義の典型みたいなタリバンが支配するアフガニスタンと同じく、アルジェリアでも女たちは人権を蹂躙され続けている。原理主義者は、宗教の掟や戒律のうち、自分に都合のいいものだけをピックアップする。つまり自分または自分たちの権利や主張は守られるが、他人の権利や主張はスポイルされて構わない。そういう原理である。勢い、立場の弱い者たちの権利が蹂躙される。女たちがその典型だ。

 本作品と同じムニア・メドゥール監督、リナ・クードリ主演の映画「Papicha」(邦題「パピチャ 未来へのランウェイ」)とテーマは同じで、理不尽な世の中で女性の自立を模索するというものだ。アルジェリア人が見ず知らずの他人への優しさを獲得する日はかなり遠そうである。
 本作品の女たちには食べる喜び、踊る喜び、人と触れ合う喜びがある。しかし男たちにはちっぽけなプライドと怒りと逆恨み、それに下心しかない。男たちの歴史は戦争の歴史だった。これからは歴史の主役は女たちになるだろう。マーガレット・サッチャーみたいな例外もいたが、女性は大抵、他人や他国を敵対視せず、共存を図ろうとする。アンゲラ・メルケルがそうだった。

 本作品のフーリアも、復讐に囚われることはない。そういう心の狭さから脱却し、他人の存在を認め、仲間を作って一緒に人生を楽しもうとする。そういう方向に、これからの世界は舵を切るしかない。そうでなければ人類に未来はない。大事なのはこの作品が不自由なイスラム原理主義が支配するアルジェリアで製作されたということだ。先進国の女性たちよりもよほど人権を理解している。

 余談だが、主人公フーリアが自動車で移動しているときに、マリア・カラスの歌が流れてきた。聞いたことがある人にはすぐにカラスの声だと分かるのだが、歌い手について何の説明もないまま、母親が唐突に「パパはカラスが好きだった」と言うので、日本語の字幕で見るとちょっと笑ってしまった。

映画「アイスクリームフィーバー」

2023年07月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アイスクリームフィーバー」を観た。
映画『アイスクリームフィーバー』

映画『アイスクリームフィーバー』

映画『アイスクリームフィーバー』吉岡里帆、モトーラ世理奈、詩羽(水曜日のカンパネラ) 、松本まりか / 監督:千原徹也 原案:川上未映子「アイスクリーム熱」(『愛の夢とか...

映画『アイスクリームフィーバー』

 世界の中で何かを成し遂げようとか、世界を変えようとか、困っている人々を救おうという話ではない。自分が困っていたり、スランプに陥っていて、そこから脱しようという話でもない。迫りくる危険を回避する訳でも、敵をなぎ倒すわけでもない。
 ただ自分がいて、他人がいる。大事なのは自分がどう思うか、そして他人からどう思われるか。金銭や打算ではなく、情緒的な関係だけが描かれる。自分は誰といたいのか、誰といたくないのか。他人とどう関わりたいのか。セックスは?

 バラバラに思えた女性たちの物語が、時間と空間の繋がりが徐々に見えてくることでひとつの時系列に収斂していくという作品だが、大して面白くはない。情緒が中心にあって、それが他人との関係に左右されるから、登場人物の誰にも感情移入できずに終わる。
 互いに本音を言わず、バリアを張って安全圏を確保する。コンフォートゾーンが一番大切。SNSで盛るのと同じような人間関係だ。何が楽しいのかよくわからない。ベートーベンの第5番がフュージョンみたいな演奏の大音量で流れるのは、現代的かもしれないが、楽しくない。
 いつ面白くなるんだろうと思っていたら、特に何事もないまま終わってしまった。登場人物それぞれに得たものと失ったものはある。しかしそれは誰もが日常的に経験していることだ。物語としての力が極端に乏しい。ワクワクもドキドキもなかった。

 吉岡里帆をはじめ、役者陣はおしなべて好演。登場人物それぞれの個性を十分に表現していた。しかしどの人物も危機感に欠けている。日常を日常のままに表現するなら映画にしなくてもいい。日常を異化してみせるところに映画の価値がある。ぬるま湯に浸かっている人を映画で観る意味はない。

 原作は読んでいないが、短編の小説で読むのには適した物語なのだろう。映画にするには濃さが足りない。悪い作品ではないが、味にパンチがなくて、心を揺さぶられるところがひとつもない。「牛乳を薄めてこしらえたアイスクリーム」みたいだった。