三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「丘の上の本屋さん」

2023年03月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「丘の上の本屋さん」を観た。
映画『丘の上の本屋さん』オフィシャルサイト

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「読書百遍意自ずから通ず」という諺がある。そのままの意味だから解説不要だ。当方も難解な本は何度も読んだ。聖書などの検索をしたい本は、自分でPCのドキュメントに入力してある。自分で打ち込むと言葉のひとつひとつをなぞるから、理解が深まる気もするし、Ctrl+Fで検索できるので、とても便利だ。昔の人は文豪の本を書き写して勉強したと聞いたことがある。
 読書といえば、最近は黙読が主流だが、以前は音読や朗読が普通だったらしい。どれくらい以前なのかは不明だが、仄聞では明治あたりまでのようだ。黙読よりも音読の方が文章が記憶に残るらしい。そういえば歌ったことのある歌の歌詞や何度も音読した詩は憶えている。学生の頃にゼミの教授に連れられて、詩人たちが自作の詩を朗読するのを聞きに行ったことがあった。

 本作品の本屋さんリベロから無料で本を貸してもらったエシエンは、いつもの公園で本を朗読する。だからかもしれないが、エシエンは本の内容をよく憶えていて、リベロの質問に淀みなく答える。
 リベロは古本屋だけあって、本をとても愛している。造詣も深い。エシエンの理解力と精神性を読み取って、次に読むのに相応しい本を貸す。そのチョイスが面白い。早々とエイハブ船長の物語を読ませたのには少し驚いたが、エシエンはしっかり音読して、自分なりに理解する。想像力の賜物だ。
 想像力があればどの時代のどこの国でも行ける。本を挟んで向かい合うリベロとエシエンの間には広大な宇宙が広がっているように見えた。物語はファンタジーばかりではない。世界には貧しい人、苦しんでいる人がたくさんいる。想像力はそういう人たちのことまで及ばなければならない。エシエンに最後に渡した本のタイトルに、リベロの優しさが伺えた。慈悲に溢れた佳作である。

映画「BLUE GIANT」

2023年03月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「BLUE GIANT」を観た。
映画『BLUE GIANT』公式サイト

映画『BLUE GIANT』公式サイト

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 聴覚や嗅覚や味覚は直接本能に響いてくる。大きな音や耳障りな音、嫌な臭いなどは、生存の危機に直結する恐れがあるのだ。そんな音や臭いや味に触れると、逃げたり鼻や口を覆ったり、または食べ物を食べなかったりする。危険のない安全な音、匂い、味というものは存在する。その中でレベルが高いものは、いい音、いい匂い、いい味となって、我々の生活を豊かにしてくれる。曲を聞くと曲名を思い出したり、誰が演奏しているのか推測したり、曲の出来を勝手に評価したりするが、一定のレベル以上になると、特殊な感覚の持ち主以外は、区別や優劣がつけられなくなる。
 当方はクラシックやジャズのコンサートに時々行く。サントリーホールで聴いたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏はとても素晴らしかったが、オーチャードホールで聴いた西本智実率いるイルミナートフィルハーモニー管弦楽団の演奏も負けず劣らず素晴らしかった。当方の耳がバカ耳なのかもしれないが、いずれも極上の心地よさを覚えたのだから、お金を払った価値は十分あると思っている。
 何が言いたいかというと、高いレベルに達すると、それ以上は評価が困難になるのである。あとは好みの問題だ。コンサートは世界中でたくさん開催されている。どこに行って何を聞くのかは、個人の選択だ。売れるか売れないかは時代とのマッチング次第であり、死んでから人気が出る音楽家もいるだろう。評価は常に相対的なのである。

 世界一のジャズミュージシャンになるという18歳の主人公の夢が、業界の人々から世界一として評価されるということなら、それはもう好みの問題だから、相対的な評価であり、目標とするにはあまりにも不明確だ。世界一売れるのが目標ということであれば、多数が好む音楽を作る才能があればいいということになる。しかし宮本大の夢は、どうやらそういうことではないようだ。

 映画は、言葉としての答えは示さない。代わりにこれでもかとばかり演奏の様子を描く。それぞれのシーンには、ジャズ喫茶やクラブやコンサートホールでの聴衆を巻き込んだグルーヴ感を自然に感じさせるものがある。つまりそれが答えだ。
 宮本大の言う世界一とは、聴衆と演奏者が一体化した高揚感を味わえる、そのグルーヴ感が世界一ということなのだろう。聴いていて楽しい、気持ちがいい、気分が上がる。そんな音楽が聴けるなら、人はそれなりの対価を惜しまない。それは売れることに繋がっていくが、聴衆に迎合しているのではない。

 人は体内に音楽を持っている。というより、人体は様々な音を発している。歩いたり手を使えば音がするし、咳もくしゃみも欠伸も音が出る。骨がポキっと鳴ったり、お腹から音がすることはしょっちゅうある。音楽は人体の音に呼応して、普遍的なグルーヴ感を生み出す。いい曲は時代が経過しても廃れない。ビバルディが「四季」を作曲したのはいまからちょうど300年前の1723年だが、少しも色褪せていない。色褪せないどころか、たくさんの映画のたくさんのシーンで使われている。

 それにしても音楽を担当した上原ひろみは流石である。演奏のシーンは映画館がライブハウスになったみたいなグルーヴ感があった。自然に高揚し、宮本大の音楽に共感する。観ている間中、ずっと楽しかった。

映画「ロストケア」

2023年03月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ロストケア」を観た。
映画『ロストケア』公式サイト

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松山ケンイチ×長澤まさみが贈る、魂を揺さぶる衝撃の社会派エンターテインメント。

映画『ロストケア』公式サイト

 介護の現場は時として悲惨である。本作品より前に、介護の現実を扱った邦画をいくつか鑑賞した。昨年(2022年)12月に公開された「光復」や2017年5月に公開された映画「八重子のハミング」などである。いずれも、介護をする主人公の受難が赤裸々に描かれていた。
 
 介護が必要かどうかの基準は、法律ではどうなっているのか知らないが、常識的に言えば、食事と排泄と入浴の3つがひとりで出来れば、介護の必要はないと思う。そう考えるのが分かりやすいし、現実的だ。3つのうち、どれかひとつでも出来なくなると、日常生活に支障を来たす。要介護の仲間入りという訳だ。
 痴呆症になってしまうと、要介護に加えて、暴力や暴言、暴飲暴食、所構わずの排泄、徘徊などの異常行動も現われる。そうなると介護者は辛い。経済的に余裕があれば、24時間のフルタイム介護の施設に入れることが出来るが、貧乏人にはままならない。ひたすら介護をして、空いた時間に働いて生活を支えなければならない。生活保護を受けようにも、働ける親族がひとりでもいれば、そいつが養えばいいと門前払いされる。「生活保護なめんな」というジャンパーを着て、受給者を恫喝していた小田原市の職員たちの行動は、今でも記憶に新しい。
 
 主演の松山ケンイチは素晴らしい。主人公斯波宗典(しばむねのり)の苦難が手にとるように分かる。「大切な家族との絆」を勝手に壊したと非難する検事に対して、家族の絆は、介護の当事者にとっては絆ではなく呪縛になってしまっていると、斯波は反論する。この主張は真実を突いている。介護殺人事件は年間45件起きている。無理心中を含めればもっと数字は多くなるだろう。絆は大切にしたいものだが、呪縛は断ち切りたいものだ。多くの介護者は、絆と呪縛の間で引き裂かれそうになっているのだ。辛い立場の介護者を演じた坂井真紀と戸田菜穂の演技が秀逸だった。
 正論をぶつけることしか出来ない大友秀美検事を演じた長澤まさみも悪くなかった。斯波から、自分は安全地帯にいて穴に落ちた人間を正論で非難する人間には、介護の当事者の気持ちは理解できないと言われて、言葉を失ってしまう。この場面が本作品の白眉だろう。
 
 斯波は穴に落ちるという表現をしたが、言い換えれば棄民政策のことだ。困窮している人々から目を背け、助けてくれという声を無視し、見殺しにするのが棄民政策である。「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだ暗愚の宰相の「あんな人たち」の中には、痴呆症の人とその家族も当然ながら含まれる。見殺しにされているのだ。
 
 日本国憲法第25条には次のように書かれている。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 
 歴代の自民党政権は憲法を蔑ろにして、社会保障の予算を削ってきた。現政権は、あろうことか社会保障の予算を削って軍拡に費やそうとしている。間違いなく、これからも棄民政策を継続していくつもりだ。そういう政権が選挙で勝ち続けているのが現状だ。棄民政策は有権者から支持されているのである。介護殺人事件は増加の一途を辿るだろう。介護殺人事件を生み出しているのは、我々国民なのだということを思い知らされる作品だった。

映画「ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー」

2023年03月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー」を観た。

 前作の「ベイビーわるきゅーれ」が出来がよすぎたのだろうか。どこか哲学的だったふたりの会話は情緒的になってしまい、凡俗化してしまった。前作では女子高生の殺し屋という設定自体から生まれるギャップで自然に笑えたが、本作品は笑いを取りにいっているところが鼻につく。もしかして前作のスマッシュヒットに気をよくして、阪元裕吾の世界観よりも、二匹目のドジョウを狙う取り巻きの凡人たちの意向が通ってしまったのだろうか。

 前作よりもさらに尖った作品を期待していただけに、二番煎じに少しがっかりした。頭の悪いアルバイトの殺し屋を出すのではなく、殺しが平気になってしまったちさととまひろの精神性をもっと紹介してほしかった。アニメにのめり込んだり、アイドルに入れあげたり、競馬に熱中したりするのもいい。とにかく他の文化とのふれあいで、殺人を日常にしている彼女たちのある種ニヒリズムの精神性が発露したシーンを観たかったのだ。

 とはいえ、アクションは相変わらずリアルで迫力がある。女子高生から少しだけ成長した様子が伺えるのもいい。期待が大きすぎたので落胆はあったが、それでも楽しく鑑賞できた。設定が唯一無二の面白さなので、ここで終わるのはもったいない。ブラッシュアップした次回作を希望する。

映画「通信簿の少女を探して~小さな引き揚げ者 戦後77年あなたは今~」

2023年03月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「通信簿の少女を探して~小さな引き揚げ者 戦後77年あなたは今~」を観た。
通信簿の少女を探して ~小さな引き揚げ者 戦後77年あなたは今~

通信簿の少女を探して ~小さな引き揚げ者 戦後77年あなたは今~

「あの戦争を生き延びた少女に、昭和23年の通信簿を届けたいー」戦時~戦後を生きぬいてきた通信簿の少女を探す中で「日本が歩んだ戦後77年」の断片を体験するドキュ...

BS-TBS

 監督を務めたTBSディレクターの匂坂緑里(さぎさかみどり)さんの執念たるや、いかばかりだろうか。大分県の小学校の戦後間もない頃の通信簿。古書店の本に挟まっていたら、誰もが縁(ゆかり)を覚えるに違いない。通信簿の持ち主に会って、話を聞きたい、手渡しをしたいという気持ちが芽生えるのは当然だ。しかしそこから企画を出して、会社を説得して、予算を引き出して、自ら動き、そして6年もの間、諦めずに探し続けたことは、讃嘆に値する。
 それほど想像力を刺激する情報が、この通信簿にはある。時系列のままにシーンを繋いだドキュメンタリーだが、時折挟まれる「旅人」三浦透子の解説と仲村トオルのナレーションが、少女を探す旅を盛り上げる。
 平壌から2年かかって福岡に引き上げた作家の五木寛之さんが、その地獄のような旅の話を披露しているのを読んだことがある。善意ばかりでは生き延びることが出来なかったと、正直に告白しているのが印象的だった。
 戦争は行くも地獄、残るも地獄、兵士も地獄、家族も地獄である。痛みと苦しみと飢えと喪失の日々が永遠に続く。ある者は逃走を図って殺され、ある者は発狂し、あるいは自殺する。正常性バイアスだけが生き延びる拠り所だったのかもしれない。

 悲惨な戦争を生き延びた人々を、違った側面からの光を当ててみせたことに、作品としての価値があると思う。戦争で儲ける死の商人がいる一方、当事国の人々で不幸にならなかった人は、殆どいなかったのだ。

映画「零落」

2023年03月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「零落」を観た。
映画『零落』公式サイト

映画『零落』公式サイト

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 肥大した自意識は、時として人格を崩壊させることがある。ドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフがその典型だ。本作品は「罪と罰」に似たところがある。文豪の世界的な名作と並べるのは無理があるのは承知している。しかし趣里が演じたちふゆが、デリヘル嬢でありながら素直で洞察力のあるところに「罪と罰」の娼婦ソーニャを想起してしまったのだ。

 斎藤工が演じた主人公のマンガ家深澤薫は、肥大化した自意識を相対化することが出来ないまま、いつまでも思春期のような精神性で大人になってしまった。その辺の斎藤工の演技はとても上手い。
 実はそういう人間は多いと思う。大多数の人間は、肥大した自意識を押し隠し、常識の仮面を被って生きる。大人になるとはある意味でそういうことだ。深澤薫もマンガ家ではなく普通の勤め人になっていたら、大人になれていただろう。
 しかし自意識が肥大しすぎた結果、根拠のない自信を持つに至って、もはや仮面の被りようがない。だから深澤は思ったことをなんでも口にする。普通なら総スカンを食らうところだが、売れているマンガ家は「先生」と呼ばれて、軽んじられることがない。
 ところが売れなくなった途端に世間は掌返しである。再び売れる可能性もあるから、邪険に扱われることはないが、積極的に関わろうとしなくなったことは、深澤にも分かる。自分の自信は何の根拠もなかったことに、生まれて初めて気づいた訳だ。深澤は反抗期のように荒れる。いや、反抗期そのものだ。
 デリヘル嬢ちふゆがニュートラルに接してくれたお蔭で、深澤は少しだけ自分を相対化することが出来た。世界の中心は自分ではないのだ。最初からずっと、世界の中心にはいなかったのだ。

 ネット社会は、他人とあまり接しないから、彼我の差を実感することがなく、劣等感を刺激されることがない。だからますます自意識を肥大させる傾向がある。同時にプライドのハードルは下がっているから、精神的にダメージを受けないまま思春期を通り過ぎる。大人になってからアイデンティティの危機を迎える人が増加しているのだ。場合によってはアイデンティティの危機を迎えないまま、一生を送る人もいるだろう。
 傷ついたことのない人は、他人の痛みがわからないから、平気で他人を追い詰める。ラスコーリニコフはソーニャの優しさに救われたが、深澤はどうだろう。ちふゆの人間性はスケールに乏しくて、深澤を包み込むまでにはいかない。深澤を救うのは、傷ついた人間の命がけの優しさだけだ。そんな作品だった。

映画「妖怪の孫」

2023年03月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「妖怪の孫」を観た。
3月17日公開!『妖怪の孫』公式サイト

3月17日公開!『妖怪の孫』公式サイト

3月17日公開!『妖怪の孫』公式サイト。日本アカデミー賞作品『新聞記者』のスターサンズと、『パンケーキを毒見する』の内山雄人監督&制作スタッフが、“満を持して“日本の...

3月17日公開!『妖怪の孫』公式サイト

 とても面白かった。平日の朝一の回だったが、席は割と埋まっていた。年配の観客ばかりで、若い人を見かけなかったのが少し残念である。仄聞では元総理の誰かが公開初日に鑑賞したそうだ。年配客のひとりだったということなのだろう。
 
 印象的なニュース映像があった。岸信介が進めた安保条約に反対して全国的に沸き起こった安保闘争のニュースだ。国会議事堂前のデモで東大生の樺美智子さんが亡くなり、その後の献花の様子の映像とともに、アナウンサーが「戦後15年の日本の民主主義の底の浅さでありましょうか」と語るのである。
 戦後78年を迎えるいま、日本の民主主義の底は深くなったのかというと、むしろ逆に浅くなってしまったのではないかと思う。そうでなければ口先だけで総理になったアベシンゾーが選挙に勝ち続けた理由がない。
 
 アベシンゾーとは何だったのか、作品で十分に語られているから付け加えることは何もない。鑑賞後は、暗澹たる気分になるが、希望がない訳ではない。是非とも多くの人に鑑賞してほしい。権力者の暴力を恐れずに公開した製作陣に拍手。

映画「シンデレラ 3つの願い」

2023年03月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シンデレラ 3つの願い」を観た。
3月17日(金)公開『シンデレラ/3つの願い』公式サイト

3月17日(金)公開『シンデレラ/3つの願い』公式サイト

3月17日(金)公開『シンデレラ/3つの願い』公式サイト。ノルウェー映画史上、最大の動員記録を達成!彼女が望んだのは、午前0時に解けない魔法。誰も知らないもう一つのラ...

3月17日(金)公開『シンデレラ/3つの願い』公式サイト

 グリム童話で有名な「灰かぶりのエラ」=「シンデレラ」の新解釈だという触れ込みだったので、まったく想像はつかないものの、それはもう振り切ったシーンが見られるのかと漠然と期待していた。
 振り切ったシーンはなかったが、冒頭の墓参りのシーンが中盤の木の実が弾けるシーンに繋がって、再び墓参りのシーンに戻るという極めてほのぼのとしたストーリーに、ちょっとほっこりした。
 
 人間の欲深さと残忍さがテーマのグリム童話と違って、本作品のテーマは親の愛である。シンデレラの亡くなった両親の愛、女主人の愛、それに王様夫婦の愛だ。ディズニーも赤面しそうな場面を大人たちが大真面目に演じているところがいい。流石に幸福度が高いノルウェー映画である。日本では子供騙しと評価されそうな作品を、臆せず堂々と製作する。
 
 戦争、殺人事件、政治家の棄民。世界はおどろおどろしい悪意でいっぱいだ。たまにはこういう善意に満ちた作品もいいものである。

映画「赦し」

2023年03月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「赦し」を観た。
映画『赦し』オフィシャルサイト

映画『赦し』オフィシャルサイト

3月18日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開

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 登場人物はだいたい嫌な感じである。おまけにあまり頭がよくない。そして法廷のシーンが多い。そのせいか終始辛い気持ちでの鑑賞となった。しかし観終えると、シェイクスピアの悲劇みたいなカタルシスがある。不思議によく出来た作品だ。かろうじて明晰なのが、同級生を殺した犯人と、娘を殺された母親のふたりである。必然的にこのふたりを中心に物語が展開していく。
 
 女子高生が同級生を殺したとなると、動機はいじめしか考えられない。いじめがエスカレートして殺してしまったか、いじめられた怒りが爆発したかのいずれかだ。本作品は後者だった訳だが、主眼はいじめそのものではなさそうだ。
 
 尚玄という俳優は初見だが、台詞を言うのに抑揚がなくて、棒読みみたいに感じてしまった。そういう演出なのかもしれないが、娘を殺された作家にしては精神性が単純過ぎるように思わせてしまう演技である。
 対照的に、殺された娘の母親を演じたMEGUMIと、犯人役の松浦りょうは好演。MEGUMIは、殺された娘が親に見せていた顔とは別の顔を持っていた話を聞いて、それを受け入れられない父親に対し、現実的に可能性を認める母親を上手く演じている。遡ってそういう娘に育ててしまった自分の責任を痛感するシーンにはリアリティがあった。
 松浦りょうは、判決を受けてから7年間収監されて、数え切れないほど事件を反芻することで精神的に成長した犯人が、自分が殺した同級生の母親と父親のそれぞれと面会するシーンの演技が秀逸。特に父親との面会は、本作品で一番のシーンだと思う。
 
 単純化すれば、独善的で他人を攻撃する父親の影響で同じような娘が育ってしまったという話だが、一般にいじめっ子がどうやって生まれるのかは謎だらけであり、簡単に図式化するのは難しい。本作品はそれよりも、いじめに遭った側がどうやって自分をコントロールしていけばいいのか、7年の刑務所生活でその答えに辿り着いたような印象を醸し出している。松浦りょうの落ち着いたウィスパーボイスがそこに信頼性を加味していて、なんとなく希望が持てる気がした。

映画「The Son」

2023年03月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Son」を観た。
映画『The Son/息子』公式サイト

映画『The Son/息子』公式サイト

ヒュー・ジャックマン主演 『ファーザー』監督最新作<本年度ゴールデングローブ賞ノミネート>親と子の〈心の距離〉を描く、衝撃と慟哭の物語|3月17日(金)全国ロードシ...

 精神疾患のある息子と離婚した夫妻の話である。

 父親は自分自身も独善的な父親から人格を否定される言葉を投げつけられた記憶があるにも関わらず、息子に対して同じ言葉を投げつけてしまう。社会に適応しなければ生きていけないからだ。しかし息子は適応できない。母親はそんな息子を持て余してしまう一方で、息子との関わりは続けたい。身勝手な感じもするが、オキシトシンの働きだろう。母親というものは多くの映画でそういう描き方をされている。

 社会に適応しなければ生きていけないという言葉は真実だ。父親から言われて怒りに震えた記憶があるのに、自分の息子にそれを言ってしまうのは、息子に生きてほしいからだ。息子に死んでほしいと望む父親も、ある程度の割合で存在するだろう。中年になっても引きこもりで仕事をしない息子を父親が撲殺したという報道には屡々接することがある。

 自殺は善ではないが、悪でもない。ひとつの生き方である。人身事故で電車が止まったり遅れたりすると、電車の乗客はやれやれとは思うが、死んだ人を非難することはない。なるべく他人に迷惑をかけないに越したことはないが、自殺することはひとつの選択として認められるという暗黙の了解があるからだ。
 しかし自分の家族には不寛容だ。自殺を許さず、社会に適応して、出来ることなら社会的な評価も得て、さらに言えば裕福に快適に暮らしてほしいと願う。それが独善であることに気づかない人は、家族の幸せを願って何が悪いと反論するだろう。実は願っているのは家族の幸せではない。自分の精神の安定と充足なのだ。だから独善なのである。

 ニコラスは病気だ。医者は鬱病だと言うが、精神疾患だけではなく、自閉症などの精神障害もありそうだ。17歳だが、不勉強で世の中のことがあまりよく解っていない。自分が世界の中心ではないことに、まだ気がついていない。父親が母親と自分を捨てたことにすべての原因があると思っている。自省することがないから、何もかも他人のせいだ。

 独善的な親と自己中心的な子供。世の中の親子関係のほとんどがこの図式に当てはまるかもしれない。それでも親殺しや子殺しの事件数がそれほど多くないのは、相手の人格をある程度は尊重しているからだろう。それは善意ではなく、相手を全否定したときの反撃が怖いからだ。保身である。それと妥協。そして諦め。
 ピーターとニコラスの父子は、この図式の典型だ。独善的な父親が自己中の息子を助けようと頑張るほど、息子を追い詰める。驚くことに、父親も息子もそのことに気づいている。気づいていないのは、生きていかねばならないとか、自殺はいけないとかいった、自分たちが大前提としていたパラダイムが、逆に自分たちを縛り付けていることだ。もしピーターがニコラスに、生きたいように生きればいい、人生に意味などない、辛かったら逃げればいいし、逃げ場がなくなったら死んでしまえばいいと教えたら、ニコラスの魂はずいぶん楽になったかもしれない。