三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ただ悪より救いたまえ」

2021年12月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ただ悪より救いたまえ」を観た。
 
 大韓民国は徴兵制度がある。2年間の兵役で戦争の訓練をするのだ。武器や車両運搬具の取り扱い、近接格闘術などの基本的なスキルを身につける。部署によっては戦闘機や潜水艦の操縦なども学ぶらしいのだが、基本は武器や格闘術で敵を殺す技術訓練、敵を殺すことを躊躇しない心理訓練が中心だ。
 戦前の日本の軍隊と同じだが、満州に侵攻した関東軍がしていたような、無辜の中国人を縛り付けて銃剣で刺し殺すような訓練はしていないと思う。多分。
 兵役のせいなのかはわからないが、韓国のアクション映画は、情け容赦のない格闘シーンが特徴であり、見どころでもある。アクション俳優の多くがムキムキに身体を鍛えている。そういえば「冬のソナタ」のペ・ヨンジュンも脱いだら筋肉が凄かった。
 
 本作品も格闘シーンは隙がない。互いに武器を持てば、よほどの実力差がない限り、無傷ではいられない。「肉を斬らせて骨を断つ」が基本だ。肉弾戦に加えて、強力な武器の使用もあるから、爆発、炎上といったハリウッドのB級映画ばりのシーンもある。そのあたりが本作品の見どころだと思う。
 ただ主演の役者が細すぎて、どうにも強そうに見えないのが憾みである。それに表情も冴えず、行動に見合うだけのエネルギーを感じなかった。韓国の役者事情は不案内だが、もう少しマシな役者がいるのではなかろうか。
 朝鮮系の日本人ヤクザを演じた豊原功補のシーンは暗すぎてパッとしなかった。その弟の殺し屋が主人公の敵役だが、こちらの方はそれなりに強そうだった。しかし日本の殺し屋が単身でタイに乗り込んで、すぐに核心の場所に行けたり、英語が喋れたりするのは、ちょっと都合がよすぎて、やや興冷めだった。
 
 臓器移植について様々な議論があると思うが、当方としては、医学がそこまでやっていいのかという疑問が常にある。人体は人類にとってまだまだ神秘である。医学で解っていることは1%もないというのが当の医学界での常識だ。にもかかわらず患者の身体を切り刻む。解っていることだけで判断するからそんなことができるのだ。インカ帝国で頭蓋骨に穴をあける手術をしていたが、やはり解っているつもりでやっていたのだと思う。
 とはいえ、インカ帝国の穿頭術でも生存率が上がったらしい。現在の外科手術で生存率が上がるのは当然だ。技術が進めば他人の臓器を移植する発想は自然に浮かぶ。移植すれば生きられるとあっては、臓器の価値は上がる。金持ちが優先的に臓器移植を受けられることになるかもしれない。それは不公平だという議論が起こったり、国によって基準が違ったり、臓器の売買が横行したりして臓器移植の実態はカオスとなる。
 
 日本の厚労省が日本の臓器移植手術をどれだけ把握しているのか不明だが、もしかしたら日本でも富裕層の患者の移植手術のために違法な調達をしているかもしれない。日々起きている死亡交通事故や、毎年8万人を超える行方不明者は、臓器を取り出すためなのではないかと、変な憶測まで浮かんでしまった。

映画「水俣曼荼羅」

2021年12月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「水俣曼荼羅」を観た。
 
 6時間の長編で、休憩時間を含めると7時間になる。全体として感動する場面は少なかった。反対に嫌な場面はとても多かった。特に、役人が一方的に人格攻撃を受ける場面を観て、当方自身がかつて会社のクレーム処理をしたときのことを思い出し、胸が悪くなった。クレーマーからよってたかって怒鳴りまくられた記憶である。つるし上げはいじめでしかない。とても見苦しかった。
 役人たちは大抵が水俣病の発生時には役人になっておらず、よく知らない昔のことで、謝れと怒鳴られ、本気で反省していないと内心の自由まで脅かされる。そもそも役人が本気で反省することなどないことは、誰もが知っている。知事や大臣からは、何も約束しないで、兎に角その場をやり過ごせと命じられているのだ。
 
 嫌な場面が多かったのは、公害のドキュメンタリー映画である以上、当然である。そのことで作品の評価が下がることはないと思う。原監督もつるし上げのシーンで原告団が観客から嫌われることは解っていたと思う。
 ひとつ注文があるとすれば、ドキュメンタリーなのに時系列が分かりにくいから、せめて何年に撮影したシーンかぐらいは字幕に出してほしかった。
 
 敢えて書くが、人類の歴史は殺人の歴史である。愛の歴史ではない。戦争でたくさんの人が死んだのと同じように、水俣病でたくさんの人が死に、いまも苦しみ続けている。戦争と水俣病は違うというかもしれない。しかし当方は同じだと思う。戦争のときは国民がこぞって戦争に浮かれていた。水俣病は国民がこぞって無視している。
 知事や大臣は選挙で選ばれている。政治家の仕事は予算をどのように使うかを決めることである。だから衆議院でも参議院でも、予算委員会が最も重要な委員会だ。熊本県知事が熊本県の予算の多くを水俣病対策に使うことが県民の賛成を得られることなのか。環境大臣が国家予算の多くを水俣病対策に割くことが国民の同意を得られることなのか。
 
 本作品には、水俣病患者が要求する補償は県予算や国家予算から支出されることになるという視点が欠如している。予算であるからにはその原資は当然、県民や国民から徴収する税金である。知事や大臣が「反省しました、それでは水俣病の申請者は全員を認定します、一人当たり2億円を差し上げます」という訳にはいかないのだ。
 素人考えでは、チッソを解散して、残った有価証券で水俣病被害者全員に補償、有機水銀のヘドロ対策、債権者への支払い、退職金の支給を強制的に行なう以外の最終的な解決策は思い浮かばない。そんなことが手続きとして可能なのかはわからないが、行政がそんなことをしないことだけはわかる。
 
 諫山孝子さんはたしかジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA ミナマタ」にも出ていたと思う。水俣病は死の病だが、死に至らずとも病状は一切回復しない病気なのだと、改めて実感した。父親の諫山さんへのインタビューで、原監督が「娘を殺して自分も死ぬなんて思ってことはありますか」と聞く。もちろん、そんなことはないという回答を期待したのだと思うし、こちらもそう予想した。しかし諫山さんは「何度もあります」と言う。娘を殺すのは犯罪だが、チッソや国が自分たちを殺しても病気にしても、何の罪にも問われない、自分たちのことはせめて自分たちで決めさせてもらってもいいのではないかと、迫力のある論理を展開する。このシーンには最も共感したし、水俣病患者とその家族の苦しみが最も分かりやすく共感できたと思う。
 
 本作品で不思議だったのが、一般の有権者のシーンが殆どなかったことだ。多分撮影ができなかったのだと思う。水俣病患者を救う政治家を選ぶのか、無視する政治家を選ぶのか。救う政治家を選ばなかったから、多くの人々が救われないままだ。有権者は水俣病患者を見捨てたのである。
 
 原告団のひとりがみかん畑で言う「水俣で水俣病の話をすると嫌われるんです」
 水俣病患者を苦しめているのは他でもない、向こう三軒両隣の普通の人々なのである。

映画「ラストナイト・イン・ソーホー」

2021年12月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ラストナイト・イン・ソーホー」を観た。
 
 恐ろしくもエロティックな作品である。舞台がソーホーというからニューヨークかと思っていたら、ロンドンのソーホーだ。紹介された街は性風俗の歓楽街だが、男はみんなスーツやタキシードで女はドレスである。東京で例えると、歌舞伎町というよりも銀座と浅草と吉原を一緒にして、少しコンパクトにした感じである。わかる人にはわかると思う。
 誰の言葉か知らないが「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われる。時代の象徴が歌だが、歌の変化によって時代もまた変化する、相互的な変化の様子を一言で表した名言である。
 本作品も1960年代の歌がヒロインをその時代に連れていく。ヒロインがいわゆる「見える人」であるところから、同じように自信満々で田舎からロンドンに出てきた少女とオーバーラップする。最初は楽しく、その後は徐々に不幸に、悲惨になっていく。
 1960年代のロンドンは、現在の東京よりもはるかに女性がエロティックに見える。そうでなければ生きていけなかったのだろう。作品に登場する女性はデコルテを露出させて胸の谷間を強調する服装が多かった。ヒロインもそうである。現在の東京ではそういう女性はほとんど見かけない。夏の渋谷にときどき出没しているくらいだ。
 
 ということで、本作品は立場の弱い女性が性的にしか生きていけなかった、かつての不幸の時代を描きつつ、現在のホラーとなっていて、過去と現在の二重構造が興味をそそる。前半は微妙にダレて、大家と実の祖母の二人のおばあちゃんが鬱陶しかったが、後半は一気にホラー感が増して、驚愕のラストに突入していく。服装の変化も見事で、ヒロインが服飾学校の学生という設定が生きている。歌が物語を引っ張り、物語も歌に引っ張られるという、とても洒落たホラー映画である。観客としては、見事にしてやられた爽快感がある。観終わると、何故かリッチな気分になった。

映画「エッシャー通りの赤いポスト」

2021年12月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「エッシャー通りの赤いポスト」を観た。
 
 舞台挨拶の回だとは知らずに鑑賞した。実は舞台挨拶があまり好きではない。登壇者は映画の宣伝のために出ているから、当たり障りのないことしか言わない。そんな表面を取り繕った話を誰が聞きたいのか。
 当方の考えとは裏腹に、実際は舞台挨拶が好きな人がとても多い。今回も意外なほど観客がたくさんいたので、そんなに人気のある作品なのかと思ったら、上映後にわらわらと準備がされて舞台挨拶がはじまった。
 本作品は登場人物が多くて、この日は登壇した5名の他に十数名が座席に座っていて、ひとりずつ挨拶した。少しうんざりだ。当方は作品を観に来ているのであって、役者本人を見に来ている訳ではない。
 舞台挨拶が好きではないといっても、監督ひとりだけが喋るのは、製作の動機が垣間見えて好きである。そういう舞台挨拶を何度か聞いたことがある。先日ヒューマントラストシネマ有楽町で鑑賞した「香川1区」の大島監督の舞台挨拶がそのひとつだった。今回も園子温監督がひとりで語るのであれば、舞台挨拶を聞く意味があったかもしれない。
 
 本作品はオーディションの合格者51人全員が主人公だとのことで、監督が自分の頭の中にある典型をそれぞれの出演者に当てはめてみせた訳である。上手くいっている場合もあれば、そうでない場合もある。出演者の能力に左右されることもあるし、監督との相性によることもある。その両方もあるだろう。だから面白い場面とつまらない場面があって、当方にはつまらない場面のほうが多かった。
 数少ない面白い場面のひとつは、有名女優という設定の登場人物がインタビューでドストエフスキーを読んでいると答える場面で、具体的な作品名を尋ねるインタビュアーに対して答えをはぐらかすところだ。監督にとっての難解な作家がドフトエフスキーということでもあるのだろう。
 この登場人物は、バカっぽく見える自分の外見を返上するために、取り敢えず難しそうな作家の作品を読んでいると言った訳で、同じ知的レベルの取り巻きの反応と同じように「へえー、すごーい」と言ってもらえるとでも思ったのだろう。
 そのあたりは観客も含めた全員が分かっていたから、敢えてインタビュアーに作品名を尋ねさせて意地悪をした訳だ。この登場人物は本作品の中でも知的レベル最下位の設定と想定されるので、もし作品名を答えたら、シナリオ全体が覆ることになる。
 このシーンはある意味で本作品を象徴している。つまり登場人物たちは、誰が上で誰が下なのかを争う。中には自分はあなた方とは違うんですという立ち位置の人間もいるが、他人と自分を比較している点では同類に属する。その他は誰に対してもいい顔をしたい弱気な人物だ。
 
 ただひとりオリジナリティを追求する若い映画監督は、マウンティングと八方美人ばかりの主体性のない人間関係に疲れ果ててしまう。それは園監督が既成の映画関係社会に疲れ果てた姿にも見えた。
 本作品はオーディションをネタとした実験的な作品である。あまり熟(こな)れていないから面白さはいまひとつだが、既存の女優を使わない作品を作ってみせた園子温監督の意欲は、銀幕からひしひしと伝わってきた。

映画「キングスマン ファースト・エージェント」

2021年12月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キングスマン ファースト・エージェント」を観た。
 
 初めて背広を買ったときに、背広という名詞の由来を調べたのは当方だけではないだろう。いよいよ仕上がった試着室で、上着に袖を通して釦を留めたとき、なんとも言えぬ誇らしさのようなものがこみあげてきたことを、些かの恥ずかしさとともに思い出す。
 
 アメリカ人はどこかイギリス人に対して引け目のようなものを感じている気がする。文化でも経済でも圧倒している筈なのに、イギリスに比べてどこか軽い。所詮は移民の国だということなのか、それとも歴史の重味が違うのか。
 それは印象だけではない。これまで当方が交流したことのあるアメリカ人はいずれもノリで話していたし、みんながみんな自分の都合だけを優先していたが、イギリス人やオーストラリア人は論理的な話し方をしていて、自分の都合と同じくらい他人の都合に配慮していた。大人としての度合いが違うのだ。だから大学にしても、日本の皇太子が留学するのはハーバードではなく、オクスフォードなのである。
 日本人の当方と同じように、アメリカ人にとってもサヴィル・ロウの背広は憧れなのではないだろうか。ベタでミーハーではあるが、定番はやはり強いのだ。ディズニーがイギリスのスパイ組織の映画を作るのにイギリス人のマシュー・ヴォーンを監督にしたのも同じで、やはりアメリカ人監督ではだめだということだろう。
 
 マシュー・ヴォーン監督はディズニーの期待に応え、ウィルソン大統領をアホに描いてみせた。これはこれでよかったのだが、実際のウィルソン大統領は理想主義者であった。第一次大戦で武器の性能が飛躍的に向上したために多くの犠牲者を出したことを反省し、戦争の再発を防ぐために国際連盟を設立した。しかし第一次大戦は実質的には終結しておらず、ヨーロッパに火種はくすぶり続けていた。連合国側で参戦して帝国主義の大国に躍り出た日本は、国際連盟の白人優先に不満を抱えていた。20世紀の先進国は、まだ戦争を肯定していたのである。
 
 本作品に登場する各国も、国際紛争を解決する手段として戦争に参加している。国家の指導者が勝手に参戦しているのではない。参戦する指導者を国民が選んでいるのだ。だから国民同士が殺し合うのも、ある意味では仕方のないことかもしれない。ただ、浮かばれないのは戦争に反対し、参戦する指導者を選ばなかった国民である。しかし戦争したい国民と同一に扱われて徴兵される。人殺しをするつもりはないから士気はゼロだ。そして早々と殺される。味方に殺されることのほうが多いらしい。生き残るのは戦争をしたい人間たちばかりだ。かくして戦争の歴史は綿々と続いていく。
 
 本作品はコメディとしての側面に加え、パロディの部分もある。二十世紀の戦争全体を茶化してみせたのだ。国の指導者は軒並みバカまたは傀儡である。そういう指導者を選ぶ国民もアホばかりである。バカとアホの世界が続くから、バカバカしくもくだらない組織を作った。つまりキングスマンそのものも茶化している。
 怪僧ラスプーチンにロシアダンスのような格闘技をやらせたり、推定50歳くらいの主人公に激しいアクションをやらせたりするのも、ある種のパロディだろう。おかげで笑いながら鑑賞できた。マシュー・ヴォーン監督はなかなかやる。

映画「香川1区」

2021年12月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「香川1区」を観た。
 
 クリスマスだというのに、有楽町のヒューマントラストシネマは満席である。3時間近くのドキュメンタリー映画は興味のない人には退屈なだけだろうが、それでも満席になったということは、それなりの人々が日本の政治に危機感を抱いている証なのだと思う。
 
 印象に残るシーンの多い映画で、挙げればきりがないが、特に印象的だったシーンか三つある。
 ひとつはスシローこと田崎史郎に向かって小川淳也が強い口調を浴びせたシーン。急に出馬した維新の候補への働きかけについて批判した田崎史郎に対して、出来ることは何でもやる、政治は甘いものではないと啖呵を切ったのである。結果的には維新の候補に救われた形になるのだが、必死の小川淳也にはそこまで読めなかった。
 二つ目は、平井陣営を撮影しようとして妨害されたこと。反対派や異質な勢力を排除しようとする自民党の本質が見えた。
 三つ目は、小川淳也の娘が話したシーン。文言は正確ではないが、彼女は次のように語った。
 
 お父さんに対するアンチの人がいて、その人と話すことがあったら、お父さんはその人とちゃんと向き合って、何を悩んでいるのか、何を困っているのか、最後まで話を聞きます。必ず聞きます。お父さんはそういう人なんです。
 
 父に対する心からの尊敬と信頼が伝わってきて、落涙を禁じ得なかった。素晴らしい娘さんである。
 
 前作の「なぜ君は総理大臣になれないのか」も、政治家のドキュメンタリーなのに何故か泣ける映画だったが、本作品は前作以上に泣ける。それは我々が、裏表のない純粋な善意や、何ひとつ放り出さない誠実さというものに触れることが、あまりないからだと思う。裏を返せば、我々の日常が如何に悪意と欺瞞に満ちているかということでもある。
 あまりにも正直な小川淳也を見て、もう少しうまく立ち回れないものかと思ってしまうが、そうなってしまうと小川淳也ではなくなってしまうことに気がついた。バカがつくくらいの正直さと誠実さが小川淳也なのである。それは世の中を上手く生きていこうとするときに我々が捨ててしまったものだ。
 

 小川淳也は上手く生きていこうなどとは思っていないようだ。上手く生きるとは小賢しく得をすることである。彼はそんなことには興味がない。困っている人をどうしたら助けられるか。彼の悩みはそれだけだ。だから彼のもとに全国から人が集まる。

 集まったすべての人を彼は疑いもせずに無条件で受け入れる。そして来てくれてありがとうと感謝する。誰のことも拒否しない。誰のことも見捨てない。多数決で51対49で物事が決するなら、勝った51は負けた49を救わなければならない。それが小川淳也の民主主義なのだ。


映画「偶然と想像」

2021年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「偶然と想像」を観た。
 
 濱口竜介監督、脚本による三部作である。いずれも女性の愛と性をテーマにした人間関係を描く。仏教用語で言えば「縁起」の本質に迫ろうとした作品とも考えられる。仏教の「縁起」は原因と条件の関係性を主要概念とするからだ。
 
 第一部は二十代、第三部は四十代の年齢の女性が主人公である。第二部だけは年齢が不確かだが、およそ三十歳前後と思われる。時代設定は現代ないし近未来だ。観客は身構えずに鑑賞できると思う。
 
 古川琴音が演じた二十代は、幼児が自分の存在を主張するように自己肯定感で一杯だ。子供は仕方がないが、大人になってもそういう人は、周囲から見ると鬱陶しい存在である。他人の場所や心の中に、文字通り土足で踏み込んでくる。中島歩の台詞にあったように、ほとんどストーカーだ。他人の価値や権利を認めず、自分との比較で上か下かだけを唯一の価値観とする。常に他人と勝負しているようなもので、本質的に共生はできなタイプである。精神医学で言えば、アベシンゾーと同じ自己愛性人格障害だ。救いがない。
 友人を演じた玄里の台詞回しがびっくりするほど上手かった。古川琴音よりも10歳上の分だけ演技に幅がある。34歳だが二十代の役もまだまだこなせる。注目女優のひとりに加えることにした。
 
 森郁月が演じた推定三十代は、二十代とは逆に自己肯定感の低い役で、自尊感情の強い人に負けて言うことを聞いてしまう傾向にある。不良の手下、いじめっ子の取り巻き、それにブラック企業の社員などが同じ傾向を持つ。どこかで自分を肯定したいが、壁に跳ね返されるばかりで、自分はこんなものだ、こんな人生なんだと諦める。
 芸達者の渋川清彦に棒読みの台詞を読ませたのは、本を読んでいるかのように森郁月に聞こえさせたかったためだと思う。わかりにくいが、森郁月が教授に会いに行ったのは、もしかしたら教授から自己肯定感が与えられるかもしれないという無意識の淡い期待があったためだとも考えられる。そこに必要なのは説法であって、感情ではない。渋川清彦が無感情で話すことに意味があった。
 
 占部房子が演じた四十代は、精神的に安定していてホッとする。とはいえ、心の中では自己肯定と自己否定の相克が常にあり、何かにつけ心を揺さぶられている。相手役の河井青葉が演じる主婦は、心が動かない生活を嘆く。日常にドキドキすることもワクワクすることもないと言うのだ。そこに現れた見知らぬ女が、何か異質なものを持ち込もうとしている。物的には何も変わらないが、精神的には大きく心を揺さぶられる。それが嬉しい。
 占部房子と河井青葉。いずれも四十代の女優で落ち着きがある。演じたふたりのそれぞれの心の中では理想と現実、希望と絶望、執着と諦観といった割り切れなさがあるのだろうが、生きていくことには前向きだ。このふたりの芝居は演技も自然で、いつまでも観ていられる気がした。
 
 本作品は脚本も演出もとてもいいし、役者陣の演技も素晴らしく、たくさんのシーンが心に残った。名作の予感がする。

こまつ座公演「雪やこんこん」

2021年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 新宿の紀伊國屋サザンシアターでこまつ座公演「雪やこんこん」を観た。こまつ座は井上ひさしの戯曲を上演している劇団で、これまでも何度も観ている。

演出:鵜山仁
出演:熊谷真実 大滝寛 藤井隆 小椋毅 前島亜美 村上佳 安久津みなみ まいど豊 真飛聖

 鵜山仁さんの演出はこまつ座ではおなじみである。井上ひさしの人間愛に溢れた戯曲を人情噺に仕立て上げるのが得意だ。本芝居はその典型で、登場人物がドサ回りの一座とあっては、セリフ回しにも磨きがかかる。
 熊谷真実は還暦を過ぎたと思えないほど元気一杯で、主役の座長中村梅子役を存分に演じあげた。マイク無しの肉声の舞台なので、役者の発声が遠くまで響かなければならない。その点、熊谷真実は舞台で鍛えられただけあって、後ろの方の席に座っていた当方にも、その声が強く響いてきた。真飛聖も宝塚仕込みの発声のよさでセリフがちゃんと聞こえた。
 藤井隆の声だけが少し残念で、遠くまで響いてこない。昔渋谷にあったジャンジャンみたいな小劇場だったらよかったかもしれないが、潰れてしまった。

 役者の頬や額にマイクが付いているのは興醒めだ。本劇場や、紀伊國屋ホールくらいの大きさが肉声の限界だろう。そういえば同じこまつ座の「マンザナ、わが町」で土居裕子さんの美しい肉声の歌声を聞いたのを思い出す。もう一度聞きたい。

 本作品は旅芸人の一座がたどり着いた雪の多い町で、旅館と芝居小屋を経営する女将と座長の中村梅子の丁々発止の騙し合いがメインである。互いの本気度を探るためには仲間から騙したような芝居を打つ。だから芝居がかったセリフばかりである。そのリズムが見事で引き込まれる。国定忠治の名セリフを真似したくなる。
 なんだかワクワクしっぱなしの舞台であった。熊谷真実と真飛聖と頑張った藤井隆に拍手。

映画「マトリックス レザレクションズ」

2021年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マトリックス レザレクションズ」を観た。
 
 生憎「マトリックス」シリーズは観たことがなかったので、本作品を観ても何のことかよくわからなかった。いや、チンプンカンプンだったと言う方が正しいかもしれない。
 
 マトリックスという言葉そのものは、何かを分類するのによく使う。たとえば日本酒だ。濃醇と淡麗、辛口と甘口で4種類に分かれる。ある日本酒がどのあたりになるのか、十字を書いて説明すると解りやすい。
 
 しかし本作品で使われている「マトリックス」は主人公トマス・アンダーソンの台詞では彼が作ったゲームの名前らしい。現実と仮想現実を行き来できるゲームだとか。機械と薬物を使うというところから、つまり世界は脳の働きによって認識されているだけであって、その認識こそが世界なのだということになる。唯心論の世界観に近い。
 
 あるシーンが誰かの精神世界で、次のシーンが誰かの精神世界でとなっていき、それが連続すると、元の位置はどこなのかが解らなくなる。迷路をさまよっているようで、現在地もゴールも不明だ。結局何を見せられているのか解らないまま終わってしまった。逃走シーンや格闘シーンのCGはよく出来ていたが、それだけであった。

映画「ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男」

2021年12月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男」を観た。
 
 弁護士ロブ・ピロットの怒りは地の底のマグマのようだ。時折は火山として噴火するが、大抵は見えないところで静かに燃え盛っている。
 
 巨大企業が住民や消費者に健康被害を齎す事例は日本でも事欠かない。一般に公害と呼ばれる事例では、水俣病や四日市喘息、イタイイタイ病などがある。水俣病では現在でも苦しんでいる人がいる。
 現在の日本では公害は話題に上らないが、静かに進行している可能性がある。例えば食品添加物だ。コンビニやスーパーの米に使われているグリシン、パンの製造に使われる臭素酸カリウム、人工甘味料のアスパルテームやスクラロースなどが発がん性を疑われている。臭素酸カリウムはEUや中国では食品への使用を禁止されているが、日本では禁止されていない。
 また、揚げ物に使われているショートニングはトランス脂肪酸であり、不飽和脂肪酸のDHAやEPAと間違われて脳内に蓄積する可能性がある。EUやアメリカのいくつかの州では食品への使用が制限されているが、日本では制限されていない。
 農薬では除草剤に使われているグリホサートが発がん性を疑われている。フランスやドイツなどのヨーロッパ各国や中南米諸国などが禁止しているが、日本は逆に緩和している。アメリカが買わせるからだ。
 
 アメリカン・ドリームという言葉がいい意味なのは米国においてだけだ。アメリカ人の成功というのは有名になること、金持ちになることである。つまり成功者とは名性欲と金銭欲の塊だということである。日本には仏教的な恥のパラダイムがあるから欲をあからさまにするのは憚られるが、アメリカ人は堂々と欲を主張する。トランプが支持される理由がそこにある。
 本作品の登場人物も欲を主張する人ばかりで、デュポン社の顧問弁護士は、デュポン社の企業責任を追及して自分の立場を損なおうとするピロット弁護士に対して「Fuck you!」と、高給取りの企業弁護士にあるまじき言葉を浴びせる。言われたロブは呆れ返ってしまう。当方も呆れ返った。アメリカという国には欲しかないのか。
 大抵の政治家も欲の塊だから、企業からの巨額の賄賂で右にも左にも簡単にブレる。企業はもちろん自社の利益を守ることしか興味がない。そこで働く人々は自分たちの収入を守ることが第一だ。被害者の代表であるロブ・ピロット弁護士は、権力者の敵なのだ。
 
 流石にプロデュースにも参加しているだけあって、マーク・ラファロの演技は圧倒的だ。真摯に粘り強く努力するロブ・ピロットには誰もが感情移入するだろう。最初は夫が理解できなかったが、夫への愛情には変わりがなく、夫の仕事を理解することで少しずつ視野を広げていく妻サラ・ピロット。アン・ハサウェイの演技も最高だった。
 本作品によってアメリカン・ドリームの信奉者が減ることはないかもしれないが、アメリカン・ドリームを果たした人々によって何が行なわれているのかは理解できると思う。何より、本作品がアメリカ映画であるという点が大きい。アメリカにも自浄作用はあるのだ。