三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「おかえり、ブルゴーニュへ」

2018年11月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「おかえり、ブルゴーニュへ」を観た。
 http://burgundy-movie.jp/

 ブルゴーニュの葡萄畑の家族を描いた映画では、2年前に観た「ブルゴーニュで会いましょう」がある。なんだか似たようなタイトルである。家族の再生の物語で舞台が一緒だからどうしても似てしまうのかもしれない。
 カーヴのワインを試飲し、家族が話し合う。収穫祭で羽目を外し、宴の翌日には再び葡萄と向き合う。樽の中の葡萄は生きている。どう育ってどんなワインになるのかは、ある程度は分かっているが、最後の最後にどうなるのか、そこはわからない。期待もあり、不安もある。
 オーストラリアのワイン造りは直ぐに結果を求められるが、ブルゴーニュのワイン造りは10年後、20年後のワインを展望しているという台詞があった。ぶどう畑には葡萄の歴史と人の歴史の両方がある。人は大地に根ざしたいものだ。ふるさとは常に人の心の中にある。ふるさとを失うとデラシネになる。またはボヘミアン、あるいはジプシーとなる。そうなっても、異国の地をさまよいながら心の中にはふるさとの情景がいつまでも生きている。
 ブルゴーニュは世界の土地の中でも、最も素晴らしい土地のひとつである。そこでは世界中の人々が待ち受けるワインの材料が育てられている。ワインを決めるのはぶどう畑であり、ワイン造りをする人々だ。日本酒とワインの違いのひとつは、材料を作る人とお酒を醸造する人が同一人物かどうかの違いである。ワインは葡萄の良し悪しや収穫の時期、除梗率や発酵環境など、様々な条件によって特徴が決まってくる。条件を決めるのは人だ。ワインは畑であり、人なのである。
 畑の持ち味が出ていると同時に造り手の人となりが出ているワインがいいワインである。ワインは人の個性なのだ。きょうだいは互いに本音をぶつけ合うが、相手の人格を軽んじることは決してない。個性を大切にして敬意を払うところにフランスらしい哲学がある。ワインの熟成を10年も20年も待つことが出来るのは、歴史を背景にした深い精神性があるからだろう。いい映画だった。美味しいワインが飲みたい。


「世界まるごとクラシック」コンサート

2018年11月23日 | 映画・舞台・コンサート

 東京国際フォーラムホールAに「世界まるごとクラシック」のコンサートに行ってきた。
 http://www.sekai-marugoto.com/

 東京芸術大学講師の青島広志が司会と指揮をする。演奏はシアターオーケストラトーキョーだ。静かな曲と激しい曲、アップテンポの曲と緩やかな曲と、バリエーションのある考えられた構成で楽しめる。アンコールはラデツキー行進曲だった。
 後半の最初には、サバンの少年ピアニストがジャズというかボサノバみたいな曲を弾いてくれた。これがなかなかいい。紀平凱成(きひらかいる)という子だそうである。
 演奏自体はとてもよかっただったのだが、青島広志のキャラクターが少し鬱陶しい。クラシックはプログラムを見ながら楽しむものだみたいな話をしたり、スタンディングオベーションを要求したりする。
 音楽は人それぞれの楽しみ方があると思う。一緒に客席に座っていても、音楽に向かい合うのは観客ひとりずつである。にもかかわらず司会者が自分の価値観を観客に強要するのは一元論そのもので、ヒトラーと同じ精神構造なのだ。なにより、コンサート会場が一体になるのは反吐が出るほど気持ちが悪い。
 10年続いているコンサートで今年で11年目だそうだが、一度聞けば十分であった。


映画「銃」

2018年11月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「銃」を観た。
 http://thegunmovie.official-movie.com/

 予告編のとおり、コルトパイソン357マグナムという強力な拳銃を拾った若者が、銃によって変わっていく姿を思考実験的に描いている。主人公の行動の描写のそこかしこに本人のモノローグを挿し込むことで、努めて冷静で客観的であろうとする理性と、拳銃という強力な暴力装置を手にしていることの情緒的な不安定さを対比させている。
 拳銃は所持しているだけで罪に問われるから、警察官を見ると、所持がばれて罪に問われる可能性が頭に浮かぶ。一方で、急所に向けて発砲すればほぼ確実に致命傷を負わせることができるから、クズみたいな人間を見ると、撃ち殺してしまおうかと思う。いずれも平静でいるのは難しい。
 逆上がりが出来るようになった子供は、何度も逆上がりをして見せる。人間は何かが出来るようになると、それを試してみたくなるのだ。よく切れる刀を手に入れれば辻斬りをしたくなるし、強力な拳銃を手に入れれば威力を試したくなるものなのである。

 村上虹郎がなかなかいい。人を殺せる武器を持っているという不気味な自信を持ったり、撃てば弾がなくなるし、人に見られたらただでは済まないことを考えて苛ついたりする振れ幅を上手く表現している。拳銃を撃ちたいが撃てない、持っていることを言いたいが言えない。拾った拳銃を冷静に管理出来るつもりが、いつか拳銃に振り回されるようになってしまう。

 拳銃というのは素手に比べれば強力ではあるが、実はあまり大した武器ではない。なかなか当たらないし、急所を外せば反撃される恐れもある。圧倒的に勝つためにはもっと強力な武器が必要だ。そこで武器開発のエスカレーションが始まる。機関銃、グレネード、ロケットランチャー、大砲、戦車、戦闘機とエスカレートしていき、最後には核兵器に辿り着く。
 これまで人を殺傷する目的で核兵器を使用したのはアメリカだけだが、核兵器を持っている国はアメリカ以外にたくさんある。それらの国が、逆上がりが出来るようになった子供のようにならない保証はない。目的も使命もなく生まれてくる人間とは違って、武器は人を殺すために生み出された道具である。持っていると、武器の目的に人間が影響されてしまう。トランプが北朝鮮に対して核兵器のボタンの大きさを言うのは、チンピラがポケットの拳銃をちらつかせるのと同じレベルである。何かあれば引き金を押すのだ。
 コルト社はアメリカの銃器メーカーで有名なゴルゴ13の愛用するM16というライフルを製造している。今年の春にフロリダの高校で起きた銃乱射事件ではM16の民間用であるAR-15が使われた。乱射した19歳の犯人がライフルを手に入れなければ、17人も死ぬことはなかっただろう。銃が人間を狂気の行動に駆り立てたのだ。
 いまはまだ起きていない核戦争だが、人類が核兵器を所持している以上、この先いつ起きてもおかしくない。核兵器は大量に人を殺戮する目的の道具だからである。道具はその目的によって人間を支配する。


映画「僕の帰る場所」

2018年11月20日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「僕の帰る場所」を観た。
 https://passage-of-life.com/

 子供たちの演技は驚くほど上手である。それもそのはずで、父親以外は実際のビルマ人の母子が演じている。上映後の舞台挨拶でそう話していた。当時7歳のお兄ちゃんはそれなりに演技をしていたが、当時3歳の弟は気持ちのままに声を出したり動いたりしていたそうだ。自然な演技は当然である。
 作品は担々としたストーリーだが、頼るあてもない異国の地で身分の保証もなくその日暮らしを続ける心細さが伝わってくる。かといって故国に帰っても仕事はなく、生活の目処が立たない。軍事政権からアウンサンスーチーに権力が移っても、庶民の生活が改善されるまでにはまだまだ時間がかかるのだ。
 そもそも子供たちと豊かに暮らすために世界3位の経済大国に来たのだ。みんなを連れてきた夫としては、帰る選択肢は考えにくい。ビルマで培ってきたそれなりの技術はある。難民認定が受けられれば単純労働ではない職に就くことができる。そう考えてひたすら我慢の日々を送るが、入国管理局はなかなか認定してくれない。
 入国管理局の役人も公務員である。憲法第15条第2項の規定のとおり、すべて公務員は全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない。しかし、ほとんどの役人は自分が国民のために尽力する下僕であることを忘れて、法律の番人だと誤解している。だから番犬が吠えるみたいに、窓口に来た人々に吠える。そういえば先ごろ五輪担当相に選ばれた大臣は「選んでくれた総理大臣のために任務を果たす」と言っていた。大臣が特別公務員であることも知らないのだろう。
 働き方改革では、労働者の権利を守る労働基準法の徹底を図ろうとする労働基準局は何も動かなかった。そして今回の出入国管理法の変更は、犯罪者が入ってくるのを防ごうとする入国管理局の役割と真っ向から対立するはずだが、入国管理局は何も発言しない。
 役人も政治家も公務員である。たしかに権力は政治家に集中しているが、その権力は国民から信託されたものだ。だから一般の公務員も特別公務員に対して物が言えるはずだが、役人は皆、権力を背負った政治家の前に出ると、飼い犬のように尻尾を振るだけである。少しは役人としての矜持を見せたらどうなのだろうか。
 悪意のある政治家と、唯々諾々と従うだけの役人たちのおかげで、日本ではこれからも外国人労働者は低賃金の繰り返し単純労働に従事させられ、資本主義らしい酷薄な搾取をされ続けるだろう。そういう扱いが外国人労働者だけでなく、日本人の99パーセントにまで広がるのはそう遠い先のことではない。


映画「華氏119」

2018年11月20日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「華氏119」を観た。
 https://gaga.ne.jp/kashi119/

 本作品はイラク戦争を仕掛けたブッシュ政権を激しく批判した「華氏911」とは少しニュアンスが異なっている。必ずしも現政権の批判ばかりではないのだ。リベラルと期待されたオバマでさえ、圧力団体に屈して少数者を弾圧している。何故か。
 アメリカは個人の自由と尊厳を謳う憲法を持ちながら、一方では大量破壊兵器を所持しているというジレンマの中にいる。世界の歴史は戦争の歴史である。武器を放棄すれば、戦争には勝てない。しかし武器は個人の生命や自由を脅かす。
 人類に悪意が存在しなければ、武器は必要ない。悪意に対抗するために武器が必要なのだという主張は、一見正しいように見える。しかし合衆国大統領が就任式で誓う聖書には、そんなふうには書かれていない。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、上着を奪う者には下着も与えよとある。ハンムラビ法典のように暴力に暴力で応えることは、いつまでも負の連鎖を生み、人間は自由にも平和にもなることが出来ないのだ。
 アメリカは日本よりもずっと複雑な利権の国である。エディ・マーフィが政治家になる映画「ホワイトハウス狂騒曲」の中で、議員になったエディ・マーフィが、この政策に賛成すればこの団体から献金がもらえる、反対すればこちらの団体から献金がもらえるというブリーフィングを受けるシーンがある。政治家になった途端に誰かの利益のために働くことになることは避けられない。肝腎なのは誰のために働くかというポリシーである。政治家は常に選択し続けなければならない。世界から核兵器をなくそうとした筈のオバマは、どこで選択を変えたのだろうか。
 アメリカの憲法はいざ知らず、日本国憲法第15条第2項には「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」と書かれてある。こんなことは書かなくてもわかりそうなものだが、公務員が国家権力を執行する役割を担っている以上、贈賄その他の利益供与を受ければ、必ずしも国民のためにならなくても、特定の誰かのために権力を濫用しかねないことの戒めである。権力は必ず腐敗するのだ。
 政治家は選挙で選ばれた特別公務員だ。誰のために働かなければならないかは、憲法を読んだことがある人なら誰でも知っている。尤も、日本をトリモロスと叫ぶ暗愚の宰相は一文字も読んだことがないだろうから、知らない可能性が高い。
 あまり大げさに取り上げられてはいないが、日本でも水道の民営化や種子法の廃止など、国民の生活に直接関わって、場合によっては身体や生命を危険に晒す恐れさえある政策が既に実施されている。日本は長いものには巻かれろ、寄らば大樹の陰という精神性だから、「お上のやること」に唯々諾々と従ってしまうところがある。
 選挙にも行かず声も上げないでいると、利権を貪ろうとする悪意の人々に国が蹂躙されることになるのは自明の理だが、かといってアメリカのように高校生の演説に熱狂する姿もまた、ハイル・ヒトラーと右手を挙げるナチスの姿を彷彿とさせて気持ちが悪い。同調圧力というのは、それがどちらの方向を向いても全体主義につながるのだ。


劇団☆新感線「メタルマクベス」

2018年11月20日 | 映画・舞台・コンサート

  豊洲にあるIHIステージアラウンドで劇団☆新感線の「メタルマクベス」を観てきた。
 円形の劇場で、周囲がステージ、客席が回転するという新しい形式の演劇である。主演は浦井健治と長澤まさみ。その大勢の出演者が主にヘヴィメタルの音楽で歌ったり踊ったりする。基になっているのはシェイクスピアの「マクベス」ではあるが、ストーリーはそれほど重視されず、歌と踊りと音楽を楽しむのが主である。笑わせるような台詞や表情もあり、20分の休憩を挟んで4時間の長丁場であったが、飽きずに楽しむことが出来た。終わったときはこちらも疲れたくらいだから、出演者はとてつもない体力の持ち主たちである。ラサール石井を除けば若い人ばかりだったのも頷ける。
 この劇場はとても面白いので、ミュージカルもいいが、喜劇や悲劇を演じれば、群像劇が暗転なしに観られそうである。今後の展開が少し楽しみだ。


映画「生きてるだけで、愛」

2018年11月19日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「生きてるだけで、愛」を観た。
 http://ikiai.jp/

 下田逸郎の「踊り子」という歌に、
♪まわる人生のステージで踊るあなたの手ふるえてきれいね♪
という一節がある。この映画を観て、その歌を思い出した。大ヒットした村下孝蔵の「踊り子」と同じタイトルだったから、忘れないでいる。

 本作品はなかなか理解しがたい作品だが、下田逸郎の歌詞をヒントにするとスッと納得できる気がする。主人公の寧子は、ドストエフスキーの「地下室の手記」の主人公さながら、自意識が高すぎて人と相容れない。中島敦の「山月記」の主人公も同じように自意識が高かった。本作品は、そういう主人公が社会と折り合いをつけようとする姿を衒いなく描く。「まわる人生のステージで踊る」のである。そして一緒に住む菅田将暉の津奈木は「あなたの手ふるえてきれいね」と思うのだ。

 寧子を演じた趣里はいい演技をしたと思う。その台詞は非常に文学的で、それゆえに非日常的で極限的な表現になる。一般生活を営む感覚では理解できないだろう。そのために一般社会との付き合いが非常に困難になる。その辺りを理解することが本作品を読み解く鍵になる。

 同じように自意識が高くて他人と衝突してばかりいた詩人の中原中也は「憔悴」という詩の中で次のように書いている。

 さてどうすれば利するだらうか、とか
 どうすれば哂(わら)はれないですむだらうか、とかと
 要するに人を相手の思惑に
 明けくれすぐす、世の人々よ、
 僕はあなたがたの心も尤もと感じ
 一生懸命郷に従つてもみたのだが
 今日また自分に帰るのだ
 ひつぱつたゴムを手離したやうに

 寧子には一般社会の人々が考えるような幸せは訪れないだろうし、それを幸せと感じることもないだろう。しかし利益や外聞ばかりを気にして生きている人たちの幸せが本当の幸せと言えるのか。引っ張ったゴムのように無理をして社会に合わせようとした寧子は、そのうちにまた自分に帰っていく。それしか彼女の生き方はないのだ。それを否定しないところにこの映画の素晴らしさがある。


映画「ビブリア古書堂の事件手帖」

2018年11月12日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ビブリア古書堂の事件手帖」を観た。
 https://biblia-movie.jp/

 三つ子の魂百までという諺がある。幼い頃の性格は年をとってもそれほど変わらないという意味だ。誰もが胸に手を当てればたしかにそうだと思い至る、理解されやすい諺である。
 大学の時に講義を受けた心理学では、人の性格は気質と気性に大別され、気質は遺伝的なもの、気性は3歳ころまでに形作られる後天的なものという話だった。気質は分裂質、癲癇質、躁鬱質の3つに分類され、気性は強気、中気、弱気の3つに分類されるから、人間の性格は9つのマトリックスで分類されることになる。
 年齢を経て考え方や生活態度が変わることがあっても、性格がそう変わることはない。性格は変わらないからこそ、その人の運命を左右し、悲劇の原因ともなる。だからシェイクスピアの性格悲劇がいまでも演じられ、人々に感銘を与えられる。
 勿論フリをするということはある。しかしフリをすることと性格が変わることは本質的に違う。映画でも演劇でも、物語の間に登場人物の性格が変わることはない。物語が成立しなくなるからだ。

 二重人格や人格の入れ替わりなどの仕掛けがある場合は逆に性格の違いを際立たせる演出がされる。しかし本作品は、二重人格も人格の入れ替わりもない。にもかかわらず、性格がブレてしまう登場人物がいた。
 同じタイトルで数年前に放送されたドラマに比べればかなりマシな出来栄えであり、剛力彩芽よりも黒木華のほうがずっとよかった。しかし本作品のストーリーは途中で真相が大体予想できる作り方で、観客全員が気づいているのに登場人物が気づいていないという変な展開もあり、もしかしたら尺を伸ばすためなのかと疑うほど、全体に冗長な感じがした。加えて性格のブレである。ストーリーを成立させるために性格がブレてしまった部分と、場面を成立させるためにストーリーが変に長くなってしまった部分の両方があったと思う。
 脚本のせいなのか演出のせいなのかはわからないが、観終わると違和感だけが残り、何の感動もなかった。黒木華も東出昌大もいい演技をしていただけに、物凄く残念である。


映画「ヴェノム」

2018年11月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ヴェノム」を観た。
 http://www.venom-movie.jp/

 マーベルの作品はとにかくCGにお金をかけていて、映像と音響の迫力は流石に大したものである。だからなのかわからないが、世界観が子供じみているのがわかっていても、ときどき観たくなる。この映画も予告編のCGがなんとも衝撃的で、観たいと思わせる要素が満載だった。
 ハリウッドのB級映画らしく中身のなさ全開ではあるが、定番のストーリーとアクションで楽しめる。世界の構造は不問にして、悪党だけを退治するプロットは、水戸黄門と同じである。水戸黄門が好きな人はこういう映画も好きなはずだ。逆に、水戸黄門が嫌いだという人はそれほどいないのではなかろうか。その辺りは日本人もアメリカ人も同じだろう。ヒーローが庶民の高さまで降りてきてくれれば喝采を浴びせる。要するにミーハーである。本作品はミーハー受けする娯楽作品なのだ。
 日曜日のシネコンは着席率が80%以上あったように見えた。子ども連れもいるし、高校生や中学生のグループもいる。いつもだと困ってしまうが、たまには世界の問題を棚に上げて、こういう作品を楽しむのもいいと思う。映画館が混んでいたのは、そう考える人が多かったからなのかもしれない。


映画「スマホを落としただけなのに」

2018年11月05日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「スマホを落としただけなのに」を観た。
 http://www.sumaho-otoshita.jp/index.html

 友人、知人、親戚、家族、勤務先、取引先で、スマホを持っていない人を知らない。電車に乗ればかなりの割合の人が一心不乱にスマホを操作している。どんな満員電車でもお構いなしだ。もちろん当方も他人のことは言えない。行き先の駅周辺の地図を確認したり、昼食の店を探したり、知らない言葉の意味を調べたりする。映画やコンサート、レストランの予約もすれば、買い物もする。
 この映画を見る前日に「Searching」を観て、失踪した娘を探す父親のリテラシーの高さ、マシンスペックの高さ、通信速度の速さに感心した。パソコンでもスマホでもあれほどの速さがあれば、もう少し楽ちんなのにと思った。同時にSNSが必ずしもその人の本当の姿ではないという見方を示していることにも感心した。
 本作品はスマホが持ち主の分身みたいになってしまっている現実に警鐘を鳴らすかのようで、SNSやログ履歴、端末やクラウドにアップした画像や動画などから、本来は隠しておかなければならない情報が、悪意のある、リテラシーの高い人間によって悪用される様子を描いている。大げさな台詞や極端な場面が少なく、とてもリアルである。
 ラストシーンは評価の分かれるところだが、スマホを落としたことで招いたピンチを、最後はスマホが救ってくれるというストーリーはよく出来ていて、面白く鑑賞できたと思う。
 考えてみれば、スマホに依存しているつもりはなくても、例えば覚えている電話番号がひとつもなかったり、名刺は全部クラウドにアップしていたりして、スマホがないと仕事ができない場面はいくつも考えつく。ある意味で身につまされる映画でもあった。