三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

天皇賞 秋

2006年10月29日 | 競馬
 まだ秋の天皇賞が府中の3200メートルだった頃、柴田政人鞍上の牝馬プリティキャストが大逃げを打ってそのまま逃げ切ったり、ホウヨウボーイとモンテプリンスが直線でマッチレースを演じたりと、それなりに見ごたえのあるレースが展開されたものです。グレード制が導入され秋の天皇賞が2000メートルに短縮された最初の年に、前年の三冠馬ミスターシービーがレコード勝ちして東京競馬場は大いに盛り上がり、距離短縮は成功であったように見えました。しかし府中の3200メートルという紛れの少ないコースでの大レースがなくなったことに一抹の寂しさを覚え、同時に今後もアメリカ型の短距離路線が充実してくるんだろう、それに反比例して長距離戦が少なくなったり格を下げられたりしてしまうんだろうな、と思いました。そしてまさにその通りになりつつあります。今後の日本の馬はドバイやアメリカで勝ててもヨーロッパで勝てないような底力に欠ける馬ばかりになってしまうかもしれないと、ちょっと心配です。

 しかし2000メートルになってからの天皇賞も毎年のように面白いレースとなっており、お陰でほとんど馬券が当たりません。シンボリルドルフが「あっと驚くギャロップダイナ」に差しきられたり、6馬身差で1位入線したメジロマックイーンが失格になったり、サイレンススズカが故障してそのまま予後不良となってしまったりと、よく言われるように「府中の2000メートルには魔物が住んでいる」のかもしれません。変わった記録もあって、この10年間では同じ馬が必ず2年連続して連帯したりしています。

バブルガムフェロー(1着、翌年2着)
ステイゴールド  (2着、翌年2着)
テイエムオペラオー(1着、翌年2着)
シンボリクリスエス(1着、翌年1着)
ゼンノロブロイ  (1着、翌年2着)

 今年は入れ替えの年なので去年来た馬は来ない順番です。と言っても去年の1、2着馬は今年は出走して来ないので、この法則自体に何の意味もありません。もしかしたら去年の3、4、5着に来た馬あたりが怪しいかも、なんてぼんやり思ったりしています。
 今年の天皇賞は特別に「悠仁親王殿下御誕生慶祝」というサブタイトルがついているので、それに何か関係のある馬券が来るかも、とは巷でよく囁かれているところです。
 ミスターシービーの翌年から3年間はギャロップダイナ、サクラユタカオー、ニッポーテイオーというマイラーが勝っていて、府中2000メートルはマイラー向きなのか、と思っていたらその翌年からはタマモクロス、スーパークリークという天皇賞馬菊花賞馬が勝ったりして、ステイヤーでも大丈夫な距離なのかと、焦点の絞りにくい分かりづらいレースであることが判明しましたが、大まかな傾向としては、
 マイラー有利
 ステイヤーでもGIで活躍する超一流馬なら通用する。
 ということになろうかと思いますが、ではステイゴールドのような馬はどうなんだと聞かれると例外の1頭としか言いようがなくなりまして、できれば深く追及しないで戴きたい。要するに秋の天皇賞は予想の難しい、馬券の当てにくいレースであると、それだから逆に面白いレースになっていると、そういうことであります。

 さて、今年の天皇賞のよそうですが、もう午後3時を回りましたので早く決めないと買いそびれてしまいます。パソコンで買うので出走5分前までは大丈夫ですけど、あまりぎりぎりも嫌ですしね。
 かつて大川慶次郎さんが言っていましたが、「天皇賞はテンも速く、しまいも速い」レースなので、スピードと最後の直線での瞬発力が要求されます。
 今回のメンバーだとペースはあまり速くなりそうにないので、直線のヨーイドンに向いている馬が有力ということになります。そうなるとどの馬がジリ脚なのかを見極める必要がありますが、これまで使ったことのない脚を使う馬というのもかなりいるので、非常に見極めづらいものがあります。そこでこれまでのレースのデータと印象から、

カンパニー、サクラメガワンダー、トリリオンカット、コスモバルク、インティライミ、ファストタテヤマ、ハットトリック、グレイトジャーニー、ローゼンクロイツの9頭は切れ味で劣ると見てバッサリ切り捨ててしまいます。残った8頭のうち、面白そうなのは、

脚質を転換したローエングリン
前走13着で人気を落としたかもしれないアサクサデンエン
その弟でサンデーサイレンス産駒のスウィフトカレント
全成績5413でまだ底を見せていないオースミグラスワン

この辺りを穴馬と見て馬単か三連単で勝負したいと思います。馬券の締め切りまであと少しなので、結果についてはまた後日。


いつもニコニコ現金払い

2006年10月24日 | 政治・社会・会社

 近くのコンビニで新聞を買おうとしたら、前に並んでいるお客がどうやらEdyだかなんだかのカードを使いたいみたいで、なにやら手間取っていました。残高が96円不足しているということで、その分は現金で払いますと言っていたのでやっと終わるかと思ったら、そのお客が100円玉を出して、お釣りの4円はチャージして下さいと店員に言うものだから、またまた手間取ってしまって、新聞を買うのに10分近く待たされました。カードが使えて便利になったのか不便になったのか、よくわからない出来事でした。

 実は私はクレジットカードをほとんど使いません。クレジット会社が嫌いだからです。クレジット会社というものが自分では何も生み出さないのにただ金を右から左に動かすだけで儲けているというふうにしか思えないのです。クレジットカードを使っても現金で支払っても私の出費は同じなのですが、お店にとっては大きな違いで、約5%の支払い手数料が経費となるかどうかの瀬戸際ですから経費すなわち利益ということでお店の利益が減った分がそのままクレジット会社の利益となるわけです。額に汗して働くのはお店の人たちで、その上前をはねるのがクレジット会社という構図になっています。同じ構図は実は金融業全般に言えることでして、銀行も証券会社もライブドアも村上ファンドも同じようなやり方で儲けています。村上ファンドが「儲けすぎたから嫌われた」というのは嘘で、本当は構造的に嫌われているわけです。たくさん儲けようが少なく儲けようが、村上ファンドのような、人の上前をはねる商売は基本的に誰からも嫌われるのです。知り合いの中小企業経営者は例外なく銀行のことを「諸悪の根源」といいます。ひどい目にあっているからですね。生み出した利益がことごとく銀行に金利として吸い取られて挙句の果てに資金を引き上げられて倒産して自殺に追い込まれたなんて話は日常茶飯事なのです。銀行=資本と考えると、どうやら資本主義というものは金融という怪物を生み出して庶民にいけにえを強要する構造のようです。かといってその構造的矛盾を解決しようとした社会主義共産主義は、スターリンヒトラー金正日のような末路になってしまいます。どう転んでも人類の歴史というものは少数の救われる人と、大多数の救われない人に分かれることになっているようです。
 まあそんなわけで、飲食店にしろ物販店にしろ、そこで働いている人たちはたいてい一生懸命で、中には感じの悪い人もいますが多分疲れきって心が荒んでいるからだと思って、悪く思わないようにしていますし、彼らの利益を減らさないためにもいつも現金で払うことにしています。頑張ったのは彼らであって、クレジット会社ではないからです。

 というわけで、この理屈をご納得いただいた方は、よくしてくれたレストラン、割引しておまけまで付けてくれたお店では、なるべく現金で支払いましょう。クレジット会社を儲けさせてやることなどありません。マイルが溜まる? それはそうでしょう。やらずぼったくりのクレジット会社はとにかくカードを使ってくれなければ話になりませんから、いろんな手を使います。しかしマイルが溜まったからといってどれほどのことがありましょうか。それなりのお得感を味わうまでにはかなりの出費が代償となります。それよりもお客であるあなたのためによく働いてくれた彼らに利益を還元してあげれば彼らの給料が上がるかもしれません。なにより、あなたご自身の会社の売上も、実はクレジット会社に吸い取られていて、あなたの給料が上がらない一因になっていることに気づかねばなりません。

 別に菊花賞が外れて12万円損したからといってやけくそになっているわけではありませんので、念のため。ただクレジット会社の体質と構造が嫌いなだけです。ついでに言えば銀行証券損保生保サラ金などの働かずして儲けようとするすべての資本関連の企業は根本的にクズだと考えています。これらの企業のコマーシャルを流すテレビ局には真実を報道する気などさらさらありません。新聞も同じです。政治家も同じ。
 おとといの補欠選挙で自民党が勝ったのを受けて、国民の信任を得たなどとピントの外れたことを言う幹事長がいました。それに対し、愚かな選挙民たちと決めつける夕刊紙もありました。私たちが注目しなければならないのは、自民党以外に投票した人もたくさんいたということ。数字で言うと、二つの選挙区の合計で自民党が獲得したのは22万票、野党は合計で20万票と、その差は2万票で、日本の有権者の全部が愚かではないということ、創価学会を除けば有権者の半分以上がちゃんと日本の将来を考えて自民党以外に投票したのだということになると思います。そういう方々ができることなら私のようにクレジットカードを使わないでいただけたらいいなと、そう思いますね。何でもアメリカの真似をしてきた日本ですが、アメリカの百倍くらい治安のいい日本ですから、クレジットカードに頼ることはないと思うんですけどね。現金を持っていても大丈夫ですよ。国内なら。
 

 ちょっと思い出した言葉があります。信用創造。クレジット会社は何も生み出さないのではなくて、信用を生み出しているのだと。だからクレジット(=英語で信用の意味)なのだと。そうですか。それはご立派ですが、サラ金並みの取立てはクレジット(信用)のなさの現われなのでは? 信用創造なんてのは金融業者が生み出した幻想に過ぎません。競馬の予想屋の言葉と大して変わらないのです。
 というわけで、次回は天皇賞の予想を書きます。


菊花賞の予想と過去の懐古

2006年10月22日 | 競馬
 どうでもいいことですが、私のブログは前後の関連性があまりないので、今回から新しいブログを一番上に表示することにしました。

去年の菊花賞馬、ずっと前の三冠馬

 凱旋門賞で3着に負けて帰ってきたと思ったらすぐさま天皇賞挑戦ということでびっくりしているところに種牡馬シンジケート51億円なんて話でさらに仰天したと思ったら薬物違反で凱旋門賞失格になりそうな話まで飛び出してきたディープインパクトですが、騒いでいるのはもちろん人間だけで、馬にとってはそんなことは文字通り馬耳東風ですし、問題も一過性に過ぎないでしょうからそのうち落ち着くに決まっていて、問題は残りのレースでどんな結果を出すかということと、種牡馬としてどんな子供を送り出せるかということです。もちろん周囲の人間と競馬会と競馬ファンにとっての問題ですけれども。

 「ダービー馬はダービー馬から」というのはたしかイギリスの格言だったと記憶していますが、吉田善哉さんがあれほどダービーを勝ったことを喜んでいたダイナガリバーは、その後ダービー馬を生み出せずにいますし、マイナー血統で三冠馬になったシンボリルドルフはなぜか一点豪華主義で産駒トウカイテイオーがダービーを勝ちました。ディープインパクトはどうかというと、血統はサンデーサイレンスとノーザンダンサー系の牝馬ということで、サンデーサイレンスほどのアウトブリードではないものの、サンデーサイレンスの直仔の牝馬を除いて配合しやすい血統だと思いますし、伝説の名馬、ノーザンダンサー、ハイペリオン、ミルリーフそれにネアルコなどが小柄であったことを考えると、日本ダービーで出走馬中もっとも小柄であったディープインパクトも同じように大成功する可能性を秘めていると思います。ネアルコ、ハイペリオンというと世界的な根幹種牡馬でして、この2頭の血を受け継がないサラブレッドのほうが少ないくらいで、パッと思い出すのがミスタープロスペクターの祖父ネイティブダンサーですが、その祖先であるシックルの母がなんとハイペリオンの母と同じセレーネであることを考えると、競馬の不思議、血統の不思議を感じてしまいますね。ディープインパクトがこれらの仲間入りできるかどうかはわかりませんが、少なくとも4、5年後に生み出す産駒の1頭でもGIを勝てるといいですね。

 サンデーサイレンス産駒の先輩種牡馬スペシャルウィークはシーザリオを、アドマイヤベガはキストゥヘヴンを、ダンスインザダークはザッツザプレンティとデルタブルースとツルマルボーイというGI馬をそれぞれを産出しています。サンデーサイレンス産駒で小柄というとステイゴールドを思い出しますが、まだそれほどの活躍馬を生み出せずにいます。小柄といえばライスシャワーも非常に小柄でしたが、ミホノブルボンやメジロマックイーンなどの強い馬を差し切って勝ったように精神力は並外れたものがありました。故障で種牡馬に慣れなかったのは残念ですが、同じロイヤルチャージャー系の小柄な馬としてディープインパクトやステイゴールドが種牡馬として成功するのを祈る気持ちです。ロイヤルチャージャーというと種牡馬として活躍しているのはほとんどがターントゥ系ですが、シンボリルドルフの祖父スピードシンボリの父はロイヤルチャージャーの直仔ロイヤルチャレンジャーでした。スピードシンボリには亡くなった調教師の野平祐二さんが乗っていて、孫のシンボリルドルフの調教師となりました。20年前の秋の天皇賞のパドックでは、野平さんがヨーロッパスタイルで正装して帽子をかぶり、岡部幸雄騎手となにやら話していたのがとても新鮮で上品で、思い出すたびに誇らしい、うれしい気持ちになります。競馬そのものの品格を向上させてくれたホースマン、それが野平祐二さんでした。

 ということで懐古趣味もこれくらいにしておかないとディープでコアな競馬ファン以外は読むのをやめてしまいそうなんですが、今回の菊花賞は昨年に続いての三冠馬誕生なるかということが興味の中心になっているので、どうしても20年前のミスターシービーとシンボリルドルフの連続三冠馬誕生を思い出すことになります。本人は至って地味なのに騎乗ぶりは他に類を見ないほど個性的だった吉永正人騎手と、すでに名人の域に達していた岡部幸雄騎手。直接対決はことごとく後輩のルドルフに軍配が上がりましたが、ミスターシービーと松山厩舎、千明牧場のファンも多く、2頭とも種牡馬となり、その直仔同士が対決した皐月賞も、ルドルフの仔トウカイテイオーがシービーの仔シャコーグレイドの追撃を振り切って勝ちました。
 もしメイショウサムソンが三冠馬となってジャパンカップなり有馬記念なりで先輩三冠馬と対決することになったら勝つのはおそらく先輩のほうかなと思ったり、それぞれ種牡馬となって産駒同士がGI競争で対決することになってもやっぱり勝つのは先輩の産駒かなと思ったりします。オペラハウスがサドラーズウェルズ系ということもあって、メイショウサムソンには凱旋門賞に出てほしかった。3歳だから56キロで出れたしヨーロッパのスタミナ勝負となると言わずもがなのスタミナ系がサドラーズウェルズなので、もしメイショウサムソンがディープインパクトに勝つチャンスがあるとすれば今年の凱旋門賞だと、ダービーの直後からそう思っていました。いまさらですけどね。

 メイショウサムソンが三冠を達成する可能性はかなり大きいと思います。菊花賞は3,000メートルのレースですが、ペースによってスタミナ勝負になるときとならないときがあります。凱旋門賞のようにコース自体がタフでペース如何にかかわらずただ走っているだけでスタミナを消費する馬場と違い、日本の整備されたコースではスローペースの場合ほとんどスタミナをロスすることなく、最後の直線のヨーイドンでマイラーでも菊花賞の上位にこれることがあります。今日の菊花賞は多分武豊のアドマイヤメインが逃げることになりそうで、となるとスローペースが予想されますから、3コーナーから坂を下っての直線勝負でも十分上位にこれる可能性があります。というわけでいろんな馬にチャンスがあるので予想も難しい。

消去法
 しかし馬券は買いたいので消去法で絞っていきます。まず前走が準オープンでもない条件戦に出走していた馬がいきなり上位に来ることは考えづらいので前走1000万の2枠の2頭3番シルククルセイダーと4番タガノマーシャル、3枠6番のネヴァブション、7枠15番のアクシオンは消しということになりました。前々走が500万の1枠2番ミストラルクルーズも同じような条件ということで消し。それから前走が休み明けで1秒以上負けた馬、こういう馬は仕上がりが遅れていると判断して、8枠17番のパッシングマークは消し。ダートしか勝っていない4枠8番のマンノレーシング、5枠9番のインテレットは消し。ローテーションのきつすぎる中1週の4枠7番マルカシェンク、夏に使い詰めの6枠11番トーセンシャナオー8枠16番のトウショウシロッコは消し。距離実績で2,000メートルを超す距離を一度も走ったことがないか走っても掲示板に載ったことのない3番、4番、7番、8番、9番、15番、17番(以上重複)、10番フサイチジャンク、18番ソングオブウインドは消し。

馬券
 そうなると残ったのは5頭だけ。
1番トウホウアラン
5番アドマイヤメイン
12番メイショウサムソン
13番ドリームパスポート
14番アペリティフ
 このうち3頭はダービーの1、2、3着馬で、残りの2頭は似たような成績でダービーが6、9着、京都新聞杯が1、2着で、本命サイドの3頭と穴馬2頭ということになりました。中心はダービー馬にするのが普通かもしれませんが、今日は直線の切れ味重視ということで、ドリームパスポートを本命にします。この馬は高田、安藤、デムーロ、四位、横山典といろんな騎手が乗っていますが常に結果を出しているところから素直な性格の馬と判断しました。素直なら折り合いがよくて長距離も大丈夫だろうという都合のいい判断です。

 馬券はドリームパスポートからの馬単を4点、それにドリームパスポートからのマルチ三連単を36点。 今日は10万円くらいしか買えないので1点につき3,000円かな。本命サイドが来たらトリガミですが、それでも当たりは当たりなので十分です。


勘違いの川口政明裁判官

2006年10月17日 | 政治・社会・会社

 犯罪容疑者の人権についてはえらく神経を尖らせるマスコミも、被害者の人権やプライバシーについてはそれほど考慮しない、という問題はよく巷で言われているところです。
 耐震偽装事件の姉歯建築士とは私は何の関係もないし彼の人権やプライバシーを守りたいとも思っていませんが、公判で川口政明とかいう裁判官が姉歯に向かって「弁解になっていない」とか「あなたには切迫感がない」と言ったのには驚きました。
 たしかに姉歯被告の発言は反省とは程遠いものではありました。しかしそんなことは初めからわかっていることで、心証を悪くしたのならそれを判決に反映させればよろしい。ただ黙って被告の発言を聞き、有罪無罪や刑の軽重を決めればいい。もともと裁判なんてそのレベルのものです。
 しかし被告に向かって説教する裁判官というのは、どうも変です。そもそも裁判というのは人間が人間を裁く制度なのですから、人間に他人を裁くことができるのか、裁くことが許されるものなのかどうか、そういった反省が常になければならない。人を裁く人はどこまでも謙虚に、出された証拠や証言を基に虚心坦懐に判決を出すことを心がけなければなりません。原告側や検察側にも被告側にも偏らない、あくまでも法律と判例のみによって、裁かなければならない。もし法律でも判例でも判断できない場合は、裁判官自身の法律解釈によることになりますが、その場合でもあくまでも公平な平静な立場から判断しなければなりません。

 今回の川口政明さんの発言は、そういった裁判制度に係わる人間に必要な反省をどこかに置き忘れてきたような傲慢な発言のような気がします。どうも誰かの発言に似ているなあと思って思い出したのが、石原慎太郎さんの「電車の中でお年寄りが立っているのにその目の前で座っている若者を誰も注意しない情けない世の中になってしまった」という言葉です。
 何度も書きましたが私は坐骨神経痛で電車の中で立っているのが特につらいんですが、それでもお年寄りが目の前に立っていたら、席を譲ります。かといって他の人にそれを強制するつもりはありません。もしかしたらお年寄りが目の前に立っているのに座っているその若者は、私と同じように坐骨神経痛で立っていられないほど痛いのに電車で通勤しなければならないのかもしれないからです。
 目に見えるだけ、自分の常識で判断できる部分だけが真実ではないことに最も気づかねばならない裁判官や都知事という立場なのに、川口政明裁判官は安易な判断で無責任に発言しています。そして誰もそれを咎めない。中には川口政明さんを「立派な裁判官」と勘違いして褒める人さえいます。これでは「裁判や裁判官なんてその程度のもの」と思ってしまうのも仕方がない状況です。国民は自分たちのレベルの政府しか持てない、という格言を持ち出すまでもなく、石原さんのレベルがすなわち東京都民のレベルであり、小泉さんのレベルが日本国民のレベルであるわけですから、仕方のないところではあります。

 レベルといえば、ディープインパクトの凱旋門賞は、彼我のレベルの差を痛感させられるものでした。ちょうど夏前に行われたイギリスのG1レースキングジョージ6世アンドクイーンエリザベスダイヤモンドステークスで日本のハーツクライが負けたのと同じような負け方で、底力という点でいまひとつ及ばなかったというのが本当のところだと思います。競馬ファンとしては、ディープインパクトが怪我をすることなく無事に回ってこれてホッとしています。岡部幸雄さんも同じことを言っていました。勝ってもよし負けてもよし、とにかく無事でよかったというのがほとんどの競馬ファンの本音です。まあ、勝つに越したことはありませんけどね。
 日本では先週の日曜日は秋華賞でした。実は馬券を買おうと思っていたのですが、土曜日に久しぶりに仕事でずっと立っていて、立っているうちにだんだんと神経痛がひどくなり最後には動けなくなってしまって、仕事が終わった後は這うようにして家に帰ったものですから、日曜日は起き上がることができず、馬券を買いそびれてしまいました。レース結果は井崎脩五郎さんの言う、無敗の馬はデータや常識を覆すということわざの通り、無敗のオークス馬カワカミプリンセスが見事に差しきりました。実は予想ではアサヒライジング、フサイチパンドラ、アドマイヤキッス、シェルズレイ、カワカミプリンセスの5頭に○をしていて、この5頭が1着から5着なんですから、普通に買えば当たっていたかもしれません。「かもしれない」というのは「なかった」と同じことでして、買おうと思っていた馬券と買った馬券は往々にして異なるものですし、5頭の中でいちばん気があったのがアサヒライジングとフサイチパンドラで、外そうかなと思っていたのがカワカミプリンセスとアドマイヤキッスですから、買っていたらまた例によって惜しい外れ方をして地団太を踏んでいるのが関の山で、井崎さんの名言「予想上手の馬券下手」がまたしても実現するところだったかもしれません。人間万事塞翁が馬です。

 石原さんや安倍さん、小泉さんといった政治家、川口政明さんのような裁判官の存在も、ひょっとすると「塞翁が馬」なのかもしれませんが、それは歴史にとっての「塞翁が馬」なわけですから、答えが出るのは多分何百年も先の話でしょう。少なくとも現在の私たちにとっては彼らの存在は「塞翁が馬」ではなく「駄馬」以外のなにものでもありません。そのあとを浅はかな「鹿」の群れが追いかけているような気さえしています。石原さんではありませんが、情けない世の中になってしまいました。


痛みに耐えて踏ん張って

2006年10月12日 | 健康・病気
 坐骨神経痛を持っている人間にとって一番つらいのはやはり電車です。特に満員電車。まだつり革や手すりにつかまることができればいいのですが、何もなくてただ踏ん張っているときは本当につらい。揺れる電車で自分の身体を支えるだけでもつらいのに、人の体重までかかってくるのでそれに耐えようとすると腰から爪先まで痺れと痛みが走ります。これは神経痛の人にしかわからない痛みで、悲鳴を上げるほどの激痛ではないけれども耐えるのが困難な情けないような痛みです。
 いつまでも痛い痛いと書いても仕方がないのですが、そういう痛みに耐えている者にとって、電車のドアの前で降りる人に逆らって踏ん張っている人は本当に困ります。痛くて力が入らないので、そういう人を押しのけて降りることができないんですね。そこで「すみません、降ります」と言いながらどいてもらおうとするんですが、もともと満員電車で沢山の人が降りる駅なのにドアの前で踏ん張るような人は、何を言ってもどいてくれないんですね。仕方がないので「降ろしてください、降ろしてください」と叫ぶことになります。相手が女性だったりすると変な誤解を受けるかもしれないなどという余計な心配もしながら、しかし押しのけることができない以上、そうするしかないのでそうします。
 どうして一旦降りて降りる人を降ろしてからまた乗ることをしないのか? その心理がよく分かりません。よく分かりませんが、私自身がそういう時は一旦降りて降りる人を降ろしてからまた乗るその心理はよく自覚しています。飼い馴らされた羊の心理です。車掌のアナウンス「ドア付近のお客様は一旦降りまして降りるお客様を先にお通しくださいますよう、お願い致します」を聞くまでもなく、どうしたら周囲の人に迷惑をかけないようにできるかを考えて、率先して人の都合を優先しています。こういう私のような従順な羊ばかりだと電車の運行もうまくいくんでしょうが、これが国家全体だと、おそらくとうの昔に日本は侵略されていたでしょうね。その方がよかったかもしれないし、よくなかったかもしれない。
 しかし少なくとも私自身は、たとえ日本が侵略されるかもしれないとしても、電車のドアの前で踏ん張って降りる人と乗る人の両方に迷惑をかけるような真似だけはしたくないなと、そのように思っています。それに、電車のドアの前で怒ったように踏ん張っている人を見ると、なぜか金正日を連想してしまうのは、多分私だけではないでしょう。

 1年近くも返してもらえなかった敷金ですが、この間の電話が利いたのか、10月10日に振り込まれてきました。ただ、満額ではなく、なぜか3万円ほど引かれた金額でした。しかし、少額訴訟をしても戻ってくるのは大体半額ちょっとという話だったので、それに比べれば許容範囲かなと思い、納得することにしました。泣き寝入りすることもなくお金や時間をかけるでもなく解決したのは、まだ日本のどこかに少しは良心というものが残っていたのかなあ、と思わせる出来事でした。


心理ブレーキ

2006年10月09日 | 政治・社会・会社

 このブログをはじめた動機というのがそもそも、書きたいことを思い切り書きなぐりたいというものでした。ブログをはじめる動機なんてものは営利目的の人を除けば大体そんなものですよね。飲食店に行ってそこで食べたものがうまかったとか、秋の湖のヘラブナにはこの餌がとてつもなく有効だったとか、または世の中にはこんな馬鹿がいると紹介するとか、そういった個人的な趣味みたいな動機で書きはじめるわけですが、いざ書いてアップした文章がネット上で不特定多数に閲覧される可能性を持つとなると、これがまあ、まったくの腰砕けというか、書きたいことを書きたいように書けなくなります。公開するということは読み手を想定して文章を書くということですから、不愉快な表現や事実とかけ離れていることや嘘やデタラメを書くのが躊躇われるからで、私もそうですが書きながら読むといいますか、書いているその場で文章を検証しながら書いています。

 もし2ちゃんねるに垣間見るようなひどい表現でブログを書いたら、読んだ人は意味がわからなかったり非常に不快な気持ちになったりして二度とそのブログを訪れることはないでしょう。2ちゃんねるでは人を罵倒したり中傷誹謗したりするのが目的のようなところもありますが、個人のブログでそれをやる人はほとんどいません。WEB上に書くということは他人に対して表現することですから、まったく意味不明のことや支離滅裂のことを書くのは意味がないという訳ですが、それだけではなく、書いている本人の心にも自動的にブレーキが働いていると思います。

 こういった自動的な心理ブレーキはブログだけでなく、さまざまな場所で働いています。電車の中で座り込んだりしないとか、人前で裸になったりしないとか、むやみに道でつばをはかないとか、そういったことにはそれぞれ微妙にニュアンスは違いますが、心理的ブレーキの働きによるものです。簡単に人を殴れないのも同じことです。これは共同体が自己崩壊を防ぐために人々に植え付けた心理で、倫理だとか道徳だとか呼ばれています。悪い言い方をすれば囲い込まれた羊であることの条件です。
 しかし全員が羊だと共同体自体がうまく機能しません。よくしたもので共同体には必ず支配層を目指して狼になろうとする人々がたくさん出現します。そのうちの何割かが実際に支配階級となって派閥争いや権力闘争などをしながら共同体を維持していきます。負けた人やハナから諦めている人は羊のまま共同体の中の一要素となるだけです。

 経営者になる教室のようなものがありまして、そこは心理ブレーキを破壊することを目的のひとつとしています。恥ずかしいことの書かれたプラカードを肩から胸と背中の両方にぶら下げて何時間も街を歩かせたりする訓練をして、普通はできないことを平気でできるようにしていきます。この教室を卒業すると、平気で人を罵倒したり殴ったりときには殺したりできるようになるそうでして、経営者に必要な資質のひとつ、「あいつは何をしでかすかわからない」という恐怖の印象を周囲に与える性格になれるそうです。羊のような経営者に比べて狼のような経営者のほうが成功する確率が月とすっぽんくらい違うのは私たち誰もが知っているところでして、経営者にその経営手腕を問う人がいても人格を求める人はいません。経営者であること、支配層であることと人格者であることは相反することですから、経営者に人格を求めてはいけないのは当然のことです。政治や経済の現実で成功者となるためには人格を捨て去らねばなりません。あらゆる心理ブレーキを取り除かねばなりません。それができない人は羊、すなわち弱者として切り捨てられていきます。社会を支配する論理は成功者の論理、強者の論理であって、弱者は強者の論理に従う振りをしつつも弱者である自分を自覚し、その自己撞着を日常生活の中でなんとかごまかしながら生きています。

 社会で成功するため、東大に合格するための本や講座や教室や塾は世の中にあふれかえっているのに、どうして社会で成功しなければならないのかという根本的な疑問に答える人はいません。「このままでは日本は滅びてしまう」と懸念する人はいますが、「どうして日本が滅びちゃいけないの?」という疑問に答える人はいません。それは「どうして人を殺してはいけないのか?」という疑問とまったく同じ疑問でして、答えも実は簡単です。もし人を殺すのを許していたら共同体が共同体として存続するのがあやうくなるから、人を殺してはいけないという心理ブレーキを人に植え付けました。これが道徳であり倫理であるわけでその歴史は共同体の歴史と長さが等しいものです。同じように、共同体の存続が共同体の構成員にとって自分の生命と同じくらい重要なことであるという心理も植えつける必要があります。そこで「このままでは日本が滅びてしまう」ということと「このままではあなたは生きていけなくなる」ということが同義語であるように感じさせるようにしたのです。

 もし仮に経営者教室のようなことがあまねく行なわれるようになって、日本国民全員の心理ブレーキが外されたらどうなるのでしょうか。一度そうなってみれば面白いと思います。誰もが平気で人を怒鳴りつけたり脅したり殴ったり殺したりする社会。暴力団の存在意義がなくなってしまう社会。無法の原始時代のようです。しかし一旦そんな社会が来ても、また歴史が繰り返して元に戻るんでしょうね。個人より組織が強いからみんなが組織を作って組織抗争をしてどこかが生き残りどこかが消えていく。まさに戦後の暴力団抗争そのままです。あれは実は人類の歴史の縮図そのものだったのですね。親分子分を親と子と呼んで「親に手をかける」ことをタブーとして心理ブレーキをかけるところも共同体の存続の手法とまったくそっくりです。

 それにしても巷の親たちは自分の子供を塾へ通わせたりなんとか東大に合格させようとしたりして支配層の仲間入りをさせたがっていますが、もし子供が「私は人に勝とうとか人を従わせようとかするよりも人の役に立つ人に尽くすことを一生低収入でかまわないからやっていきたい」と意志表明したらどのように感じるのでしょうか。
 この疑問についてはまた後日書きたいと思います。


日本人の富士山好き

2006年10月08日 | 政治・社会・会社

 2年位前にシチズンのプロマスターという電波ソーラーの時計を買いまして、これが見た目もいいし、故障もなくガラスもぜんぜん傷つかないすごいガラスでもちろん電波ソーラーだから時刻合わせも電池交換も不要なので大変重宝していたのですが、うっかり高い位置から床に落としてしまって、カレンダーの表示が少しずれてしまいました。そこで買った先の新宿のさくらやウォッチ館に持って行って修理を頼みました。2週間後に連絡があって取りに行ったところ、なんと修理代は無料とのことで本当にびっくりしました。気に入った時計なので1万とか2万とか修理代を覚悟していてそれでも払うつもりでしたが、メーカーから今回の修理は無料ということで連絡がありましたとのことでした。うーん、シチズンさんは偉い。

 その後仕事の件で会社の人と一緒に昼食を食べると全額おごってもらった上に電車で帰る途中の乗換駅のホームから富士山が見えたので今日はなんだかものすごく得をした気分の一日でした。富士山というのは日本人の琴線に触れるもので、♪ふーじーはにっぽんいちのやまーという歌の通りに富士山が日本一の山だと誰もが思っているし実際に高さも大きさも形も日本一です。だから日本人として富士山を誇りに思う人もいるでしょうし、現実の富士山がゴミの山だということを本気で何とかしようとしている人たちもいます。外国から来た人たちが富士山を見てきれいだと言ったり、ジャパンカップに来た馬に帯同してきた厩務員の黒人が、「日本に来てマウントフジも見ることができたし、もう思い残すことはない」とべた褒めしてくれたりすると、自分が褒められたような気がしてうれしくなっちゃう人もいると思います。日本中に富士見荘や富士見町、富士見台なんかがあるくらい、日本人は富士山が好きなんですね。

 その気持ちに水を差すわけではないのですが、どうして日本人は富士山が好きなんでしょう? そしてこの富士山が好きだという心理は外国人にどのように映るのでしょうか? 逆に外国人が自国の自然を自慢する心理は日本人にどのように感じられるものでしょうか? たとえばロシアにバイカル湖という湖があってこれは深さや透明度について世界一であり世界遺産にも登録されていますから地元の人がこれを自慢するのは何の不思議でもないし、そのことで目くじらを立てることもありません。しかし何か違和感がある。どこか引っ掛かるものがある。

 それが何かを考えると、どこか気の遠くなるような昔にまで遡って感情の源泉を探検しなければならない気がします。富士山が見事な山、美しい山なのかどうかは美意識の変遷によって変わってくるのかもしれませんし、あるいはピタゴラスの有名な言葉、「地球は幾何学的に完璧な形、すなわち球でなければならない」に代表される形に対する感覚というものが古来より変わらず、それが富士山のように極めて珍しく完成された形に対して美しいと感ずる感覚なのかもしれません。だから富士山は大昔から美しいのだと。

 美しさとはなにかなどという哲学的な問題をここで論じるつもりはありませんが、ただ単に富士山は美しいと感じるのではなくて、なぜそう思うのか、なぜ日本人として富士山を誇らしく思い、またそれがゴミだらけになることになぜ心を痛めるのかを考えるとき、共同体とその象徴的存在と個人との係わり合いを抜きにしては真相に至ることはないでしょう。
 日本に生まれ日本という国家の共同幻想の中に生き、そこにある富士山を日本一世界一とすることで生まれる帰属意識と共生感が私たちを高揚させるのかもしれないし、日本人の富士山好きは案外そんな単純なところに理由があるのかもしれません。

 危険なのはみんなが日ごろはあまり意識していない富士山が好きだということに代表される感情を利用して国家主義に走ろうとする政治家がいることです。
「関西人なら阪神タイガースを応援するのは当たり前のことだ」
「日本人なら日本のチームを応援するのは当たり前のことだ」
「日本人なら富士山を美しいと思うのは当たり前のことだ」
「日本人なら日本を美しい国だと思うのは当たり前のことだ」
「日本人なら日本を愛するのは当たり前だし日の丸君が代を尊ぶのも当たり前のことだ」
 そういった石原慎太郎に代表される盲目的な国家主義者たちが帝国主義者軍国主義者に変わるのは横断歩道を渡るのよりずっと簡単なことなのです。
 そして権力を握る彼らが国家主義者から軍国主義者に変わるのは単に仮面を外すだけのことで、彼らが仮面を外すというのはとりもなおさず徴兵制度の復活であり赤紙召集のはじまりでもあるわけです。だから彼らを支持する人は自分の子供が兵隊に取られて戦地に送り込まれる覚悟をしなければなりません。
「富士山のどこがきれいなんだ。あんな山はクズだ、バーカ」
 そういう発言をしたら、それは国家に対する重大な侮辱であるとして宣戦布告しかねない人を国家主義者と呼びます。富士山は日本の象徴的存在でありそれを侮辱するのはすなわち日本国を侮辱するのに等しいと、そういう論理ですね。そして日本人の多くがそういう論理に同意してしまう傾向にあるのが現在の日本で、これは本当に危険なことなんです。

 富士山は美しいという感情をどこまでも信じてどこまでもそれが正しい感情であり決して傷つけてはいけない神聖な感情なのだとそのように感じている日本人の感性を打破しない限り、危険を回避することはできないでしょう。日本人は日本という国家と日本人とを別々に考え共同体と個人の関係性の中で冷静に判断すべきことについても、感情で判断し感情的な結論を出しそして感情的に投票し今は国を戦争に追いやろうとする政府を支持しようとしています。誰がどこで歯止めをかけることができるのでしょうか。

 ま、人類全体がそういう流れであり、誰も歯止めをかけようとしていないのが現実でもありますけどね。今日もたくさんの人が殺されたくさんの人が自殺したくさんの人が餓死しています。想像力の欠如が世界を悪くしたと、たしかジョンレノンがそう言っていました。しかし明日もまたたくさんの人が殺されたくさんの人が自殺したくさんの人が餓死するのでしょう。そういう世の中です。富士山を好きな気持ちそれを自慢する気持ち誇りに思う気持ちが、世界のどこかで誰かを殺すことにつながらなければいいのですが。


行間を読むエネルギー

2006年10月05日 | 政治・社会・会社

 もう10月だというのにときどき25℃を超える夏日の日があったりしてどう考えても異常気象なのに誰も大騒ぎしないのはどうしてなんでしょうか。昔「インド人もビックリ」というコマーシャルコピーがあって何のコマーシャルかは忘れてしまいましたが、とにかくインド人は驚かない国民性なんだという噂があった上で成り立ったコマーシャルでしたが、このところ日本人も何があっても驚かない国民になりつつあるような気がします。
 教育基本法を改正する動きがありまして最近日本の首相になったお坊ちゃんがおじいちゃんに教わったことをそのまま実行しようとしているわけです。教育基本法といえば国の政策の根幹にかかわるもので、そんな大事なことをどうも変な方向に捻じ曲げていこうとしているのに誰も驚きません。気づいていないのかもしれないしマスコミが気づかせないようにしているのかもしれないし政府がマスコミにあまり報道しないように働きかけているのかもしれませんが、この動きはかなり危険な動きでして、日本は本気で戦争をしようとしているとアジアを中心に国際的にアピールすることになりかねません。戦争放棄の平和憲法を戴く国民としてこの動きを放置していることは、安倍ちゃんたち戦争大好き人間に国を明け渡して自分たちの命を彼らに預けているのと同じだという気がしています。
 戸塚ヨットスクールのおじいちゃんとそれを支援する石原慎太郎などが日本をまたぞろ軍国主義の国にしようと画策しているのは誰もが知っていることですが、マスコミはそれを報じません。マスコミも商売ですから強いものに巻かれないと何かと不都合が起きるのも理解できます。何を報じて何を隠しておくか何をどのようなニュアンスで報道するかはマスコミの自由でしょうから傍からとやかく言うのは迷惑かもしれませんが、では私たちはどのようにして正しい情報を洩れなく得ればいいのかというと、マスコミを抜きにしては相当困難なことであって、だからお金を払ってテレビを見たり新聞を読んだりインターネットを見たりしているわけです。いうなれば対価を払って情報を仕入れています。であるなら、対価に見合う正しい情報を提供するのが真っ当な商売というもので、お金を腹って新聞を読んでいるのにそこに書かれている情報が正しくなかったり洩れていたり事実と異なるニュアンスでかかれていたりしたら、それは契約違反であり、金を返せと言いたくなります。
 しかし日本人はもはや何事にも泰然としていて、マスコミが正しいことを洩れなく伝えないことにも驚かなくなっています。マスコミなんてその程度のものだと諦めています。逆の言い方をすれば読者視聴者がそうやって諦めているからマスコミは程度がどんどん低くなり、真実を伝えるなんてことをどこかに忘れてきてただ部数を延ばし視聴率を伸ばして増収増益を図ろうとする普通の企業になってしまい、社会の木鐸などという言葉はずっと前に死後になってしまいました。
 とは言っても情報は出してきているわけですから、私たちに必要なのは子供の頃に習った読書の技術、いわゆる「行間を読む」技術です。但し習ったのとは方向性が違っていて、書いた人の奥深い思想を探るのではなくて、政権の介入や金儲け主義や記者自身の遠慮や編集長の会社に対する気兼ねなどを文章から排除して残った真実を拾い集めるような読み方が必要になります。その努力を惜しんでマスコミが報道するそのままを真実として受け取ってしまったら安倍ちゃん慎太郎戸塚校長たちの思うつぼになって日本は戦争への道をまっしぐらに突き進むことになるでしょう。しかし小泉政権の5年間で疲弊しきった日本国民に果たしてそんなエネルギーが残っているのか、甚だ心配ではあります。

 ところで敷金を返してくれなかったマンション管理会社ですが、もともとそのマンションを仲介してくれたのが大手の業者だったのでその本社に連絡を取って何とかしてくれと頼んでみたところ、すぐに電話してくれたようでして、翌日にはその悪質管理会社から連絡がありました。
「勘違いしていました。ごめんなさい。10月10日には振り込みますから」
 10日といえば来週の火曜日ですが、本当に振り込まれるのか確率は五分五分と読んでいます。そもそも引っ越したのが1年前ですから、いまさら「勘違いしていました」と言われて納得できる人はいないと思います。最初から不誠実な対応の会社でしたから、謝ってきたのもこっちの動きを少しの間牽制しておいて、その隙に対応策をとろうとしているのかもしれません。そう思うほど不誠実で感じの悪い会社です。ちなみに中央線のある駅の不動産会社かなんかです。小さい会社みたいだから私に支払う前に倒産してしまうかもしれないし、とにかく銀行に振り込まれるまでは安心できません。しかも金額も問題で、9ヶ月しか住んでいなかったしほとんど帰って寝るだけでしたから部屋もまったく汚れていなかった上に出るときにこれでもかと言うくらいきれいに掃除してきましたから、こちらとしては全額返還してくれないと納得できないところです。はたしていくら振り込まれるのか、あるいはまったく振り込まれないのか、結果は10日以降にご報告します。


安倍支持は危険な心理

2006年10月01日 | 政治・社会・会社
 残念なニュースがいくつか。
 安倍内閣の支持率が異常に高いこと。普通に選挙で選ばれて成立した内閣でもないし海のものとも山のものともわからない内閣なんだから最初は様子見というか、公平な見方をしても支持率30%がせいぜいでしょう。そして30%が不支持、残り40%がどちらとも言えないというのが常識的な結果ではないでしょうか。そこで疑わしくなってくるのがどんな調査の仕方をしたのかあるいは本当に調査をしたのかということで、もしかすると安倍内閣が裏から手を回してそういう支持率を発表させたのかもしれないし、実際に支持率調査の電話がかかってきたりメールが届いたという人を知らないからなんとも言えないところです。最近の新聞記者の不祥事なんかを考慮に入れると実際にはなにも調査していないのに数字だけをテキトーに記事にしたのが真相かもと思ってしまいます。まあ仮に百歩譲って実際に電話をかけたりメールを送信したりして集計したのが事実だとしても、統計学的心理学的に疑問がたくさん残ります。何人に電話やメールをしたのかどんな言い方や書き方をしたのかによって、出てくる数字も答え方も変わってくるでしょう。3人に聞いて2人が支持すると言ったからといって支持率67%ということにならないのは誰でもわかりますが、ではどれくらいの人数に聞けばいいのかというと統計学の専門家にならないとわからないうえに専門家の間でも意見の分かれるところでもありますし、質問の仕方についても「あなたは安倍内閣を支持しますか?」と単刀直入に聞くのと「○○新聞です。安倍内閣の支持率について調査をしています。選択肢が3つありまして、支持する、支持しない、なんとも言えないの3つとなっておりますが、あなたはいかがですか?」と答えを準備してそれを披露してから聞くのとでは答える側の心理も答え自体も異なってくるでしょう。だから内閣支持率のニュースを受ける私たちとしては、それはひとつの情報としてありうるものだけれども必ずしも現実を反映している情報とは言えないとしっかり認識しておく必要があります。

 プロゴルファーの宮里藍のギャラリーがマナーを守らないおかげで応援されているはずの宮里藍がスコアを崩してしまっていること。贔屓の引き倒しというレベルではもはやなく、関西人特有の図々しさを遺憾なく発揮して騒音嬌声怒声カメラのフラッシュを容赦なく浴びせかけることで見事に宮里藍の調子を崩すことに成功しています。宮里藍は松井秀樹と並ぶ強靭な精神力の持ち主でありまたマスコミやファンを敵に回すことが何の得にもならないことをよく知っていますから黙っていますが、もしあれがマナーにうるさい欧米のゴルフ場で起こったらマスコミは強い調子で我が物顔のギャラリーを非難していたでしょう。いまはやりの斉藤投手についても同じことが言えます。たかが国体に出る高校生をそこまでして追いかけるのは精神が病んでいるのかもしれないと思わざるを得ません。あるいはミーハーの追っかけは関西文化圏の特徴なんでしょうか。
 スポーツ観戦をする人のマナーの悪さはいまにはじまったことではなく日本に限ったことでもありません。サッカーのグラウンドになだれ込んで暴力を働くいわゆるフーリガンたちや先日の亀田おとうとの試合で殴り合いをした単細胞たちをはじめとして阪神ファンを頂点とするやかましいだけのプロ野球応援団その他の見苦しい人々。しかし人のことばかりは言えないもので、実は私もときどき競馬場に出かけては「そのままーっ!」と叫んで周囲の顰蹙を買っています。「見苦しいことだとわかっていてもそうなっちゃう」ところがあらゆる公開競技にはあります。しかしそれが見苦しいことであるというのはどんな瞬間も自覚していなければなりません。「見苦しいこと」から「他人に迷惑なこと」に変わるのはなんとしても避けなければいけませんから。

 安倍内閣の支持率、宮里藍のギャラリー、斉藤投手の追っかけ、この三つにはどこか共通するものがありそうな気がしています。それは忘れもしない去年の総選挙のあの驚くべき結果につながった日本人の集団心理というか勝ち馬に乗り長いものに巻かれ電車に飛び乗り行列に並んで人と同じでなければ不安でしょうがないのに少しでも人から抜きん出ようとする迎合主義拝金主義の心理です。救いようのない心理ですね。それがあの訳のわからない総選挙で自民党を大勝させ斉藤選手を追っかけ宮里藍の優勝を阻止ししっかり坊ちゃん内閣を支持する共通の心理である気がします。危険な心理かもしれません。

 かつて日本が戦争を始めたときはまだ生まれていなかったし、たとえ生まれていたとしても当時のマスコミも今と同じか今以上に情報操作をしていたのでしょうから、当時の国民がどのような心理であの戦争に突入していったのかはわかりません。わかりませんが、国民全員が反対していたのでは政権として戦争に突入することもできにくいわけで、マスコミを操作して国民の心理を参戦賛成という非常に発音しにくい方向に導かなければならなかった。そのとき導かれていった国民の心理というのがいま安倍政権を支持している心理と同じ方向を向いているのではないかと、そういう不安を感じているわけです。だから危険な心理かもしれないと思ったのです。

 短命と巷間で予想されている安倍政権ですが、余計なことをする前に早く終わってほしいのと、私たちが受け取る情報を私たち自身が「しっかりと」見極められるようになってほしいと、少なくともマスコミによるいい加減な内閣支持率調査の情報なんかに惑わされないようになってほしいと願わざるを得ませんね。

 ともあれ、もうすぐディープインパクトが走ります。私が競馬場でもっとも感動した応援の声は、地味なおじさんが「走れ、走れ!」と現に走っている馬に向かって大声で叫んでいた声でした。「そのまま」でもなく「差せー」でもなく、ただ「走れ!」とシンプルな応援は運動会で近所の人が子供たちに向かって「走れ走れ」と応援するような素直な心理で、聞いたときには心が晴れ晴れとしました。そんな曇りもこだわりもない精神状態でディープインパクトと武豊の走りを見たいと思います。勝ってもよし、負けてもよし。ひたすらにひたむきにただ走れ、と。
 岡部幸雄さんに習って、Take it easy!