三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「The Duke」(邦題「ゴヤの名画と優しい泥棒」)

2022年02月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Duke」(邦題「ゴヤの名画と優しい泥棒」)を観た。
 本作品のハイライトは裁判のシーンである。主人公ケンプトン・バントンは、口うるさく文句をまくしたてる妻ドロシーを相手に、鈍重とも言える反応しかできない。それはそうだ。家計はドロシーが家政婦で稼いだ金でまかなわれている。ケンプトンは弱々しい反論をするのが関の山である。
 ところが裁判になると、検事や弁護士の質問に対して才気煥発、水を得た魚のように機知に富んだ発言を繰り返す。ユーモアとジョークが満載の彼の言葉は、観衆を笑わせる喜劇の台詞のようである。それもそのはず、ケンプトンは昼夜を惜しまず戯曲を執筆している。戯曲の台詞はリズムが何よりも大事だ。句点と読点のリズム。長い単語と短い単語のリズム。リズムが整っていれば、俳優は長いセリフをよどみなく話せるし、観客も聞きやすい。法廷にいた人々は、リズムに乗った彼の言葉を、芝居の台詞のように心地よく聞いたのであった。

 ところでBBC放送はサブスクリプションを導入して、受信料を廃止する方向で進めているらしい。大変いいことだと思う。NHKも見習うべきだ。
 いまやインターネットの時代である。テレビや大新聞が正しい情報を伝えていると思っているようなおめでたい人は少数派になった。テレビや大新聞は、大本営発表を垂れ流していた時代と本質的にはそんなに変わらない。大本営発表でない情報は、週刊誌が先に報道して大新聞やテレビが後を追っている。
 当方も当然ながらテレビや大新聞の情報は信用しない。必要な情報はネットで自分から探しにいく。もちろん政権の言いなりにしか報道しないNHKなど絶対に見ない。NHKはアベシンゾウの時代にとことん腐ってしまった。もちろんそれまでも反体制的な報道は一切なかったが、アベシンゾウがNHKを脅すようになって以来、国営放送の本分である国民のための放送を一切放棄した。「皆様のNHK」から「アベ様のNHK」に堕してしまったのだ。
 昔は70%を超えていた紅白歌合戦の視聴率も、今や30%ちょっとが関の山である。嘘ばかりでジャーナリズムの矜持のないNHKの実態に、漸く国民も気づいてきたのがこの数字だろう。もはや公共放送としての役割を少しも果たしていないNHKに、国民から受信料を徴収する権利はない。百害あって一利なし。それがいまのNHKだ。
 ケンプトンが今の時代にいたら「BBCなんぞいらん、ネットとサブスクがあれば十分だ」と大声で言うだろう。そして当然のように受信料の支払いを拒否するだろう。ケンプトンは正しい。

 ロシアがウクライナを侵略しつつあるが、そこで思い出すのが、アベシンゾウとプーチンの関係である。2016年に地元の山口に招いて、3000億円の税金をポンと渡して北方領土の件をお願いしたのに、したたかなプーチンにいいようにあしらわれて3000億円を持っていかれてしまった。
 プーチンは2018年に「前提条件を付けずに平和条約を締結しよう」と提案してきている。北方領土の解決なしに条約を締結すれば、領土問題は既に解決したとみなされる。3000億円の税金を騙し取っておきながら、さらにこんな条約を臆面もなく提案してくるプーチンの面の皮の厚さには誰もが驚いた。
 脳タリンのアベシンゾウもさすがにこれで懲りたかと思ったが、翌年の2019年には「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている。行きましょう。ロシアの若人のために。そして、日本の未来を担う人々のために。ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆けて、駆け抜けようではありませんか」などと仰天の発言をして、プーチンを苦笑させている。「コイツは本物のバカだ」とその顔に書いてあった。
「ウラジミール」とファーストネームで呼ぶ仲なら、今回のウクライナ侵攻についても、仲介役を果たすべきではないかという報道は、当方の知る限りでは確認できていない。もちろん「アベ様のNHK」がそんな報道をするはずもない。見ていなくてもそれくらいはわかる。

 作品の話に戻るが、序盤はケンプトンの人となりがわかるエピソードが紹介され、同時に妻ドロシーのスクエアな考え方、時代に蹂躙されて女性の権利を忘れた気の毒な精神性も理解できる。ヘレン・ミレンはやはり凄い女優だ。中盤からは息子たちも絡んで物語がちょっと進む。息子たちは口うるさくて古臭い母親にうんざりし、年老いても脚本家を夢見る父親のことが好きだ。なんだかんだでいい家族である。
 終盤で冒頭のシーンに戻ったところから、ケンプトンが本領を発揮する。そしてこのレビューも冒頭に戻る。

映画「チェチェンへようこそ ゲイの粛清」

2022年02月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「チェチェンへようこそ ゲイの粛清」を観た。
 ナチスがユダヤ人の他にLGBTの人々を虐殺していた話はかなり知られている。国家主義者はLGBTが許せないということだ。国会議員の杉田水脈が「同性愛者は生産性がない、税金を払って彼らを支援する大義名分などない」と発言したのも、国家主義の文脈としては当然のことであった。国家主義は国家の利益にならないと判断された人間を排除する排除主義でもあるのだ。
 
 国家主義と民主主義の違いについては、難しく考えるといろいろあるのだが、簡単に考えても間違いではない。つまり国家を主とするのが国家主義、民を主とするのが民主主義である。国民よりも国家のほうが大事なのである。国家というのは実体のない共同幻想だから、威信みたいなものを大事にする。国家の威信みたいな言い方があるが、国家の威信という概念を理解できるのは国家主義者だけだ。
 日本では戦後民主主義が政治の主流となって、表向きは国民のための政治をしているように見せているが、ことあるごとに国家主義を宣伝してきた。特にオリンピックをはじめとするスポーツの世界大会で「日の丸を背負って」という言い方をさせている。その言葉に当方は激しく違和感を覚えたが、テレビのインタビューなどでは「日本のために頑張ってほしい」などといった発言が放映されていた。日本は隠れ国家主義の国なのである。
 完全な民主主義の実現が難しいのは、ひとりの人間の中に国家主義的な傾向と民主主義的な傾向の両方があるからだ。多くの人々は、民主主義の完成のためには他人の自由を認める寛容さが必要であることが解っていると思う。
 しかし国家主義的な傾向の強い人は、自分の自由を優先して社会のパラダイムに従わない人が許せない。日本でもマスク警察、自粛警察が多く出現した。他人を村八分にしたり非国民と非難したりする精神性と同じである。
 
 本作品は、国家主義者たちによって排除されようとしている同性愛者を密かに脱出させる組織の活動に密着したドキュメンタリーである。緊迫した場面の連続で、何度も息を呑んだ。特に警官や空港の係官、国境警備隊など、政府の役人とのやり取りの場面が一番緊張した。相手は国家権力である。捕まればもう浮かばれない。
 警官は命令系統上、どうしても国家主義的にならざるを得ない。本来の職務は国民の生命と身体と財産を守ることだが、それらを脅かす人間を取り締まるのが近道だ。警官の多くは本来の職務を忘れて、国民を取り締まることが職務だと勘違いしている。だから軽微な犯罪を取り締まり、悪の本丸を見逃す。悪の本丸には権力者がいるからだ。
 その権力者が差別主義者だったら、警官も当然のように国民を差別する。ロシアのプーチンもチェチェンのカディロフも、国家主義者である。即ち差別主義者だ。だからチェチェンの警官もロシアの警官も当然のように差別主義者になる。自分を国家権力に同化させて、強いと勘違いするから、国民に対して強権的に高圧的になる。
 
 権力は恐ろしい。逆らうとどんな目に遭うかわからない。しかし国家主義の権力者がいたら、勇気を出して逆らわなければならない。逆らって損をする人間のことを逆らわない奴らが笑うだろう。笑われても蔑まされても、それでも逆らう。やがて仲間が増えて、権力は倒される。
 しかし新しい権力もまた腐敗する。そうしたら再び逆らえばいい。そうやって少しずつ権力が浄化されれば、やがてLGBT差別も人種差別も女性差別もなくなる日が来るかもしれない。その日は多分そう遠くない。情報技術の飛躍的な変化が社会のスピードを変えた。歴史は加速度的に変化しているのだ。

映画「GAGARINE ガガーリン」

2022年02月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「GAGARINE ガガーリン」を観た。
「地球は青かった」でお馴染みのソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンと同じユーリという名前の黒人青年が主人公である。宇宙飛行士の資料映像が流れるシーンもある。ユーリは親しみを感じ、憧れを抱いていたのだろう。
 ガガーリンの宇宙飛行の年に建てられたガガーリン公営住宅も築60年。名前の由来である宇宙飛行士はとうの昔にこの世を去った。公営住宅は耐用年数をはるかに超え、取り壊しの調査がはじまる。ひとり暮らしのユーリにとって、この公営住宅とその住民は、家であり家族のような存在だった。他の住民たちと違って、親戚や知人もないユーリには、団地を取り壊されたあとの行き先がない。
 
 人は南の無人島でない限り、人間関係の中でしか生きていけない。人間関係は場所と密接な関係がある。ユーリは団地を出ることができない。そんなユーリをロマのディアナは「意気地なし」という。蛇足だが、ロマはボヘミアンとかジプシーの意味で、日本語で言えば「流浪の民」である。ディアナにとっては流浪が日常であり、別れに慣れている。
 ユーリはディアナとの関係をひとつの絆だと思っているようだが、ディアナにとって他人との間に絆などない。実はディアナが正解で、人と人との間に絆などないのだ。家族の間にもない。日本の殺人事件の半分以上は親族間で起きている。家族の関係は絆ではなく、忍耐と諦めの関係なのだ。年数を経て忍耐の堤防が決壊した結果が殺人となる。
 絆などという言葉を使うのは、他人との関係性に対して根拠のない幻想を抱いているか、甘えているか、またはその両方だろう。ボヘミアンのディアナは人間関係を楽しみはするが、あっさりと捨てられる。そこが甘えん坊のユーリと決定的に違うところだ。
 
 手先が器用で努力家のユーリは団地の中で様々な工夫をするが、団地は確実に取り壊される予定だ。ユーリは団地への依存心を断ち切って、ロケットで外界に飛び出さなければならない。果たして打ち上げは成功するのだろうか。
 ユーリが少しも考えなかったことがひとつある。それはガガーリン公営住宅が建設される前に、その土地に住んでいた人々のことである。農家が牧畜をしていたかもしれないし、第二次大戦のときは戦場になったかもしれない。そのずっと前は貴族が浮気をしていたかもしれない。時間を軸に想像力を巡らせれば、この場所には既にたくさんの出逢いと別れがあったことに気づく。ユーリは悟ることができたはずである。サヨナラだけが人生なのだ。

映画「A Christmas Gift from Bob」(邦題「ボブという名の猫2 幸せのギフト」)

2022年02月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「A Christmas Gift from Bob」(邦題「ボブという名の猫2 幸せのギフト」)を観た。

 監督が代わったせいか、前作に比べて全体的に穏やかだ。社会問題の作品から人情噺に変わった感じで、これはこれで悪くない。それでも、前作で描かれたロンドンの格差問題や麻薬禍のシーンはしっかりある。
 まず序盤でホームレスのストリートミュージシャンが警官に押さえつけられている場面。街角で演奏したくらいで地面に押さえつけられるのは、ホームレスだからだろう。警官は役人だからヒエラルキーに無条件に従うように出来ている。弱い者に強く、強い者に弱い。ホームレスみたいな最弱の相手には暴力も辞さないのだ。ロンドンでもニューヨークでも東京でも同じである。
 麻薬禍のシーンは一瞬だけだが、麻薬の常習者や売人にとって、麻薬から足を洗った人間は「向こう側」に行ったみたいで、不愉快で目障りなのだろう。主人公のジェームズは中毒ではなくなったのだから、本作品ではこのシーンだけで十分なのだ。

 主演のルーク・トレッダウェイは前作と同じく好演。味のある歌声も健在だ。社会に揉まれていないジェームズが時折見せる子供っぽさも上手く演じている。この人はハリウッドのB級映画には向かないが、これからも文学作品や人情物に出演し続けるのだろう。いい俳優さんである。

 動物愛護について、日本とかなり異なるところがあった。ジェームズが猫を飼える資格があるかどうか、ボブが猫としての満足な生き方ができているのかどうかなどを、当局が調べるというのだ。確かに日本でも、ペットを飼って、飼いきれなくなったら捨てるという身勝手な飼い主の問題がある。
 だからといってちゃんと面倒を看ている飼い主を当局が判定して合格不合格を決めるのはやりすぎだろう。そんなところに貴重な税金を投入するのが理解できない。もしもジェームズにボブを飼う資格がないと判定されたら、ボブが当局によってどんな目に遭わせられるのか心配だ。イギリスの保健所は野良犬や野良猫の殺処分はしないのだろうか。獣医は当局は動物をいい環境に置くはずだと言っていたが、それもまた税金がかなりかかる話である。当方には信じられない。
 飼い主の資格を判定するよりも、愛護動物を流通段階で取り締まる方が楽だし合理的だし税金もあまりかからない気がする。日本はそうやっているのだが、動物が高く売れるものだから、悪徳商人が違法に動物を売買するのだ。麻薬と同じである。

 動物を飼う覚悟がある人が飼う資格がある人だと思う。どんなにお金持ちでも、覚悟のない人は飼う資格がない。ジェームズはボブを飼うというよりも、ボブを相棒にしている。それだけで飼う資格は十分だ。要するにそういう映画である。

映画「King Richard」(邦題「ドリームプラン」)

2022年02月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「King Richard」(邦題「ドリームプラン」)を観た。
 一本調子のサクセスストーリでないところがいい。既にウィリアムズ姉妹の大活躍は広く知られているから、順調なサクセスストーリーには誰も興味がない。姉妹がグランドスラム大会を何度も制するに至ったのはどのような道であったのか、本作品はそこに焦点を当てる。
 
 父リチャード・ウィリアムズの存在がすべてと言っていい。決して人格者とはいい難いリチャードだが、その底知れぬバイタリティは家族全員を巻き込んで、ビーナスとセリーナのテニス英才教育を推進していく。バイタリティの源は幼少期から青年期にかけて受けた黒人差別である。差別から抜け出すには世間で認められた価値を得るしかない。つまり金と名声、それに教養である。
 
 子育てに正解はない。温厚で親切で思慮深い親の子供がグレたりすることはよく聞く話だ。トンビが鷹を生むことも稀なことではない。本作品でウィル・スミスが演じたリチャードは、決して暴力的ではなかったし、暴力や怒声で娘を支配するのではなく、ひたすら娘を褒め続けることで自信を持たせようとしていた。
 妻のオラシーンは、あなたがやってきたのは決して娘のためじゃない、自分のためだけなのだとリチャードを非難するが、娘たちはそんなことは最初から百も承知だったと思う。ビーナスが勝ったときに、勝って兜の緒を締めよといったふうな注意をしたのは、家族が自分よりも娘を褒めたからだ。
 自分たちも父親のためにテニスをやっているわけじゃない。好きだからやっている訳で、学業が出来なければテニスをさせてもらえないから、勉強も頑張るのだ。勉強も自分のためにやっている。リチャードが娘たちの人格を認めていたから、娘たちもリチャードの人格を認めた。リチャードにも基本的人権はある。
 
 リチャード・ウィリアムズはまだ存命だから、迂闊なことは言えないが、本作品でウィル・スミスが演じたリチャードは、実物とはかなり違っていると思う。しかしブルドーザーみたいなところは実物と同じに違いない。その圧倒的なエネルギーがあってこそ、テニスの英才教育が成功して、姉妹が成功を収めた訳だ。ウィル・スミスが描きたかったのは、リチャードの人格ではなく、その人間エネルギーが生むドラマだと思う。
 SNS社会での取り澄ました人間性は、自分をよく見せようとでっち上げた人間性だ。生身の人間は怒ったり泣いたり、嘘を吐いたり告白したり、衝突したり和解したりしながら、エネルギーをぶつけ合って生きる。ドラマはそういうところでしか生まれない。

第三次世界大戦

2022年02月25日 | 政治・社会・会社

 ロシアがウクライナに侵攻した。第三次世界大戦のはじまりかもしれない。もし世界大戦がはじまるとしたら、それは第一次、第二次と同様に同時多発的に始まるに違いないと思っていた。

 遡れば、ソ連が解体したときにワルシャワ条約機構も同時に解体して、対抗勢力であるNATOはその勢力を広げないという合意が出来ていた。ウクライナのNATO入りという約束違反を、プーチンは見逃さなかった。加えて、ウクライナは公用語であるウクライナ語を話す国民の割合が少ない。実に7割はロシア語を話すのである。プーチンはロシア語を話すウクライナ東部の民族に対して、ウクライナ政府や極右勢力が弾圧をしていると主張する。

 一方、西側諸国は必ずしも一枚岩ではない。ロシアからの石油が止まればEU諸国は打撃を受ける。アメリカは被害はないが、不人気のバイデンが国内の問題から国民の関心をウクライナに移す目的でロシアを強く非難している。どさくさに紛れてウクライナのNATO入りが決まれば、条約機構の一員である国を守るという大義名分が生まれるから、NATOという名の米軍もウクライナに侵攻するかもしれない。そうなれば第三次世界大戦だ。

 中国の動向も怪しい。世界がウクライナ有事にかまけていれば、その隙を突いて台湾に軍隊を派遣するかもしれない。中国は核保有国だ。軍事力では台湾はひとたまりもない。日本は台湾を独立国として承認していないから、中国に強い態度を取れないが、アメリカも同じだから、日本をせっついて何とかさせようとするだろう。

 日本海で有事が起きると、黙っていないのが北朝鮮である。この機会にミサイルの威力を見せつけようとするかもしれない。場合によってはソウルにミサイルを打ち込む可能性もある。韓国政府は休戦協定を破棄して再び北朝鮮に侵攻するだろう。トチ狂った北朝鮮は日本に向けてミサイルを発射するかもしれない。
 自民党政権は極右の安倍や高市の揺さぶりに弱いから、国内にミサイルが打ち込まれたら、北朝鮮に宣戦布告しようとするだろう。しかし徴兵制がない日本は、現状の自衛隊員が尽きればそれでおしまいだ。やはり宣戦布告は無理で、厳重抗議で済ますかもしれない。すると弱腰だという政府批判が起きて、政権交代が起きるだろう。極右政権だ。その先は考えるのもおぞましい。

 ヨーロッパでロシアとフランスとイギリスが争い、極東で中国と北朝鮮と韓国と日本が争えば、これはもう世界大戦である。しかもすべての核兵器保有国が参加している。映画のレビューで何度も書いたが、世界はバカが利口を支配する構図である。どのバカが核兵器を使用しないとも限らない。

 しかしその前にWEBでの争いが起きるのは間違いない。ハッキングの応酬だ。核兵器を含む現代の軍事は通信によって管理されている。それがハッキングされたら一大事だ。敵国が自国の核兵器を操るかもしれない。そうならないように、外部の通信から独立したAIによって管理された兵器があると、危機だと判断したAIが自動的に兵器を使用するかもしれない。核弾頭付きのICBMやSLBMが発射されたら、世界は終わる。ロシアのウクライナ侵攻が終わりの始まりでなければいいのだが。


映画「リング・ワンダリング」

2022年02月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「リング・ワンダリング」を観た。
 
 上映後のトークで、金子雅和監督は「同じ場所に過去と現在が同居しているイメージ」という意味のことを言っていた。まさに本作品が示す世界観そのものである。歴史は常に土地に紐付いているのだ。
 これは素晴らしい世界観である。ともすれば我々は世界を意識するときに現在の空間の広がりだけを思い浮かべてしまうが、同じ空間に時の流れもイメージする必要がある。我々の世界は四次元時空間なのだ。
 
 役者陣は揃って好演。ミドリを演じた阿部純子の寄り目がちの視線は、こちらの心の奥まで覗かれているようである。この女優さんはもっと活躍していい。猟師役の長谷川初範は久しぶりに見たが、相変わらず線が細い割に存在感がある。安田顕はそれなりの役をそれなりに演じている。達者なこの人にとっては本作品の役は朝飯前だっただろう。
 主演の笠松将は、テレビドラマ「君と世界が終わる日に」の演技は一本調子で疑問だったが、本作品は打って変わって表情豊かに演じている。特に「川内寫眞館」が「川内写真館」に変わった後、写真館を出て神社の御神木付近で佇む演技は、同じ場所で70年以上の時間を飛び越えてしまった不思議な体験を整理できないまま、様々な感情が胸に去来している様子を、とても上手に表現できていたと思う。このシーンが本作品の白眉であり、笠松将の渾身の演技だったと思う。
 
 映画の世界観の話に戻るが、土地に歴史がある、時空間として繋がっているという金子監督のテーゼを敷衍すると、当方がこのレビューを入力している足元でも、かつては誰かが殺されたかもしれないし、誰かの恋が成就したかもしれないし、今生の別れに涙したかもしれない。そう考えると、世界中の過去と現在の人々との不思議な共生感を覚える。その共生感は時間の連続として未来に繋がる。
 本作品は、空間の広がりだけではなく時間の広がりも想像することで、過去に同じ場所で生きた人々の感情や苦悩までも共有するような、そんな飛躍がある。想像力の躍動と言ってもいい。当方にとってエポックメイキングな作品となった。

映画「白い牛のバラッド」

2022年02月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「白い牛のバラッド」を観た。
 監督、脚本、主演のマリヤム・モガダムという女性は本作品ではじめて知った。素晴らしい才能である。テヘランの現在がよく伝わってくる。
 夫を失ったイスラム教徒の女性がテヘランで暮らすことがどういうことなのか、ハンディキャップのある子供を抱えて生きていく勇気はどこから導き出せばいいのか。役所も裁判所も大家も、社会はいずれも冷たい。義理の家族は金目当てで接してくる。主人公ミナはどうやって生きていけばいいのか。
 娘との関わりの中で、ミナは夫が処刑されたことを話せない。だから嘘を話す。嘘が嘘を呼んで、夫ババクに関することは、ほぼ嘘だらけになってしまった。自分は娘ビタに本当のことを話せなかった。教師にそのように説明する。説明するということは理解を得ようとすることだ。しかし自分に嘘を吐いた男のことは許せない。自分がビタに本当のことを話せないことを思い起こせば男の嘘も許せたはずだが、そこまでミナが追い詰められていたということなのだろう。
 
 夫が死んで、遺族がもらえる給付金が月に20万トマンだと役人から告げられるシーンがある。イランの通貨について調べておけばよかったと思ったが、そのあとのシーンで新聞を買うときに、3部でいくらと聞くと6000トマンという答えが返ってくるシーンがあった。新聞が200円だとすれば、トマンは円の30倍くらいである。ということは20万トマンの給付金は月に7,000円ほどだ。給付金にしては少ない。道理で金額を聞いたときにミナの反応が素っ気なかった訳だ。
 夫が無実と分かったときの賠償金は2億7千万トマンほどで、日本円だと900万円くらいということになる。ミナの年齢を考えるとババクは処刑時にはまだ40歳より手前である。日本式の賠償金計算では、それから死ぬまでに稼ぐ金額から夫の分の生活費を引くので、年平均400万円-200万円=200万円×25年で5,000万円くらいとなる。5,000万円×30=15億トマンとなる。2億7千万トマンはやはり安すぎる。
 ミナは夫の命を金で、、、と言っていたが、下世話に考えれば、安すぎたからと見ることも可能である。そして、そんなはした金を求めてミナの娘の親権を求める義理の家族の愚劣ぶりも明らかになる。
 
 ラストシーンの解釈は人それぞれだと思うので、当方なりの解釈を披露してみる。
 レザと名乗った男は牛乳の食品アレルギーである。重度のアレルギーだ。ミナはレザの覚悟を測るために温めた牛乳を飲ませる。レザはミナの真意を知って、意を決して牛乳を飲む。案の定、アナフィラキシーを発症したが、死ぬほどのことはなかった。ミナはレザを許すが、一緒にいることはできない。
 
 イスラム教が政治を支配するイラン。国民全員にイスラム教が強制される。信教の自由はない。中には無宗教の人間もいるかもしれないが、言葉にはできない。国外退去になるか、場合によっては死刑になる。厳格な宗教だから罪刑も厳しい。もちろん極刑は死刑だ。本作品は死刑廃止の問題を正面から問いかける。
 イランの映画は検閲を経なければならないから、イスラム教支配の問題を正面からは扱えない。本作品は鑑賞した観客の誰もが、イスラム教が支配する政治には問題があると気づくように出来ている。脚本と演出の工夫が伺える。マリヤム・モガダムの面目躍如である。
 本作品は、イスラム教支配の社会の中で差別や格差と戦いながら生きていく姿を、検閲をかいくぐりながら上手に描いてみせた佳作である。脚本、監督、主演のマリヤム・モガダムは大変に見事だった。

映画「ウエスト・サイド・ストーリー」

2022年02月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ウエスト・サイド・ストーリー」を観た。
 チンピラのクズ同士が争っているように見える映画だ。そして実際にその通りである。クズのクズたる所以は、自分で考えないことにある。その上、無意味に高いプライドがある。だから反省がなく、うまくいかないのは全部他人のせいだという思考回路になる。

 本作品は、クズたちが社会に蔓延している民族その他の対立という固定的なパラダイムに乗じて、仲間内での地位向上や鬱憤ばらしをする物語で、その精神性は暴走族となんら変わらない。

 ナタリー・ウッドが主演した作品が上映された1961年当時は、多くの問題をロミオとジュリエットに似せたストーリーでミュージカル映画にしたことで高い評価を得られたが、それは当時のアメリカ社会の問題意識があまり進んでいなかったためだと思う。だから作品が問題を明示したことの衝撃は大きかった。当時の人々は暴力に対する耐性があり、銃に対する馴染みがなかったことも、作品が受け入れられた下地となっていた。

 映画には旬があるものとそうでないものがある。言い方を変えれば、時代が移ると色褪せるものと色褪せないものがある。いまは価値観が相対化されたり、新しい価値観が創造されたりする時代である。普遍的な問題に深く斬り込んだ作品だけが100年後も生き残る。残念ながら本作品は生き残る作品でも、旬の作品でもなかったようだ。
 主演の女の子の歌は抜群に上手い。バーンスタインの音楽はいま聞いても新鮮である。しかしそれ以外はひたすら退屈であった。天下のスピルバーグといえども、凡作を作ることはあるのだ。


映画「オペレーション・ミンスミート ナチを欺いた死体」

2022年02月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「オペレーション・ミンスミート ナチを欺いた死体」を観た。
 とても面白かった。登場人物が多くて複雑な物語の印象はあるが、少し整理すれば簡単な筋書きだということが解る。簡単すぎてつまらなくなるのを防ぐために、コリン・ファース演じる主人公ユーエン・モンタギューの家族のストーリーや同僚のチャールズ・チャムリーとの友情の浮き沈み、それにケリー・マクドナルドが演じたジーン・レスリーとの淡いラブストーリーを加えて、ストーリーに厚みを出したのだろう。
 架空の少佐であるビル・マーティンと彼の架空の恋人パム。パムの写真として自分の古い写真を提供したジーンが、パムに感情移入して乙女のような恋心を募らせていくところがとても微笑ましい。女性はいくつになっても乙女なのだ。
 
 それにしてもコリン・ファース61歳、ケリー・マクドナルド45歳である。大人同士もいいところだ。一般的なラブストーリーをかなり超えた年齢の恋愛を描くということは、イギリスもフランスみたいに恋愛におおらかになりつつあるのかもしれない。ただ、ユーエンに妻子がいてもフランス女性なら少しも気にしないところだが、ジーンはかなり気にする。この辺はイギリスも日本と同じく性の自由の後進国だということを表現しているのだろう。それにユーエンとジーンの関係が深くなるとチャムリーとの信頼関係が壊れてしまうから、ストーリーに支障をきたす。そこでこのラブストーリーを物語の味付け程度にとどめたのだ。
 
 イギリス側は連合軍も合わせて一枚岩だが、ドイツ軍は必ずしもそうではない。ナチス諜報部のボスがヒトラーの失脚を狙っているのだ。確からしい偽の情報が彼に届いたらどうなるのか、マトリックスで考えれば結論が出る。ボスが偽の情報を信じるか、信じないか。情報をヒトラーに伝えるか、伝えないかである。
 イギリス側は、ヒトラーがそのボスに絶大な信頼を置いていると考えているが、その見方は少し安易すぎる。ヒトラーはたとえ側近であろうと躊躇せずに粛清する。そして諜報部のボスはナチスの高官だ。日本で言えば高級官僚であり、つまり役人である。役人の本質は既得権益の拡大と保身だ。ボスはヒトラーが自分を切り捨てる可能性があることを常に意識している。
 
 ボスが死体の情報を信じた場合、ヒトラーに伝えるとドイツ軍はギリシアで連合軍を迎え撃つことになる。ヒトラーの失脚を狙うためには伝えないほうがいいが、情報を握りつぶしたことはいずれバレるから、自分の立場が危うくなる。ボスはヒトラーに伝えるだろう。するとシチリアが手薄になって、連合軍の上陸が成功する。
 ボスが情報を信じなかった場合、ヒトラーに伝えると、ヒトラーは偽の情報に騙されてシチリアが手薄になり、連合軍の上陸が成功する。情報の中身が嘘でも、情報そのものは本物だから、自分の立場が危うくなることはない。ヒトラーに伝えなければドイツ軍はシチリアで連合軍を迎え撃つから、連合軍の上陸は失敗するが、この場合、ヒトラーの失脚が遠ざかる。やはりボスはヒトラーに伝えるだろう。
 つまり、どう転んでも、ドイツ諜報部のボスは死体の情報をヒトラーに伝えるのだ。そしてヒトラーは諜報部の見解よりも自分の判断を常に優先する。客観的事実に基づいて判断する限り、死体の情報は真実だと思える。ユーエンたちの作戦はそれほど緻密だったのだ。
 
 ユーエンは作戦は成功すると上官に報告する。その理由を聞かれて「私の直感だ」と答える。上官は、連合軍の上陸作戦をお前の直感に委ねるのかと激怒する。史実はわからないが、本作品においては、ユーエンの直感は正しかった。死体の情報がドイツ側に渡った時点で、作戦の成功は100パーセント約束されていたのだ。そしてチャーチルはどうやら、上官の見解よりもユーエンたちの報告書を信じたようである。
 複雑に見えて実は一本道の物語だが、こういう荒唐無稽な作戦が大人たちによってクソ真面目に実行されるところが非常に愉快である。アメリカ人だったら会話の中で「fuck」や「fucking」や「goddamn」を多用するところだが、本作品の登場人物はそんな汚い言葉はまったく使わない。そこもイギリス人らしくていい。