特にコメントはしないつもりではありましたが、気になる点が二つあるので書いてみます。
ひとつは「特定秘密」の内容について。
たくさんの人が書いているので定義については述べません。気になるのはたとえば「安倍晋三はバカ」とか「安倍晋三は二桁の掛け算ができない」とか書いたら、それは特定秘密の漏洩に当たるのかどうかということです。二桁の掛け算についてはたしか溝口敦さんがどこかに書いていました。
いまは文字通りバカ話で済むかもしれませんが、来年あたりになるとブログで「安倍晋三はバカ」と書いたら逮捕されてしまうのではないかという気がします。ゾッとしますね。
もうひとつは、日本人の弱さについて。
日本人が弱いのは、孤立に対する耐性のなさだと思います。逆に言うと、個人としての自分自身の人格を組織や共同体と同化することで精神の安定を図ろうとする精神性があることです。それは共同体への依存心であり、日本人に限らず人類に共通の精神性ではありますが、日本人の場合特にそれが強く働いて、共同体に依存しない人を罰するまでにエスカレートします。
次のような行動にそれは見て取れます。
頑張れニッポンと応援する。
ニッポンを応援しない人を非難する。
肩を組んで「六甲おろし」や「闘魂こめて」を歌う。
靖国神社を参拝する。
会社のために休みも取らないで働くことを美徳として称える。
「使えないやつ」と言って同僚や部下、上司を非難する。
戦前の日本人の行動で言えば、
非国民だと他人を非難する。
反体制的な人を密告する。
反体制的な言動をする人の家族を迫害する。
これらの行動に対して、私たちが日常的に仕事として行なっていること、たとえば、プロジェクトを成功に導くためのチームワークやゲームに勝つためのチームプレイも同じようなメンタルですが、これらの場合は役割分担をはっきりして、それを果たすことが求められるのであって、チームに人格を同化させることではありません。チームに精神的に依存してしまうことは目的のためには却ってマイナスに働きます。あくまで個人のプレイの集約がチームとしての働きになるのです。そしてプロジェクトやゲームが終了すればチームに執着することなく個人に戻ります。こちらの行動は正常な行動と言えます。
しかし共同体に依存する行動は正常とは言えません。
個人として自立することよりも、共同体に精神的にも経済的にも依存することで生きている人間は「お国のため」という大義名分の前に自由も財産も差し出してしまいます。そうしたほうが気持ちが楽だからです。孤立し迫害されるのは耐えがたいことなのです。そして指導者にとって依存的な国民ほど扱いやすいものはなく、場合によってはお国のために命を差し出せとさえ簡単に言うのです。
人間の強さは孤立に対する耐性であって、暴力と迫害を恐れないことが「強い」ということなのです。それは他人の権利を守るやさしさであり寛容さでもあります。
組織や共同体に精神的に依存して生きる人は、組織や共同体の利益を一番に考え、他人の権利を忖度することがありません。やさしくないのです。不寛容なのです。そして私が一番心配しているのは、特定秘密保護法が成立する背景には、こうした不寛容な精神が日本中に蔓延しているということがあるのではないかということです。
そうだとすれば、弱い人間たちが共同体の大義名分の下に他人を迫害する世の中が、もうそこまで来ています。心の底からゾッとする年の瀬になってしまいました。