世田谷区が自転車条例を改正するそうだ。
自転車は温室効果ガスを発生しないエコな乗物である。自転車利用者の利用環境を整えることがまず大事である。自転車専用レーンを設置する、駐輪場を増やす等の対応が望まれる。自転車利用の環境を整えた上で、ルール違反に対しての厳罰化を図るのはいいと思う。自転車が歩道を我が物顔で走り、警笛を鳴らして歩行者を蹴散らすような運転は見苦しいし、年配の歩行者にとっては危険な存在だ。素案にある通りヘルメットの着用を義務化した上で、車両である自転車の歩道の走行を禁止し、車道走行を徹底してほしい。また、違法駐輪は直ちに撤去した上で競売にかければよろしい。自転車にICチップやスマートタグを付ければ持ち主の情報をリンクさせることも変更することも可能だろう。
自転車の利用者を減らすことなく、歩行者の安全も確保する。自転車と自動車の事故を減少させる。そういった目的のためには、自転車利用者が安全な走行をするための講習の受講を義務化することも必要だ。人も自転車も自動車もルールを守らなければ事故が起こる。走行速度が速いほど事故は重大化するから、自転車にも速度制限は必要である。歩道を30キロ時以上の速度で飛ばす自転車を見ると、とても危険だと思う。素案の通り、自動車と同様に自転車にも保険に入ることを義務化したほうがいい。信号無視の自転車は検挙したその場で自転車を没収し、競売にかけて、その収入を自転車利用者の環境向上や人件費に充てれば検挙数も増え、反比例して違反が減るだろう。
纏めると次のようになる。
自転車利用者が使いやすい環境を整えるために駐輪場を増やす。
自転車専用レーンを設置する。
自転車の持ち主情報をICチップやスマートタグで自転車に紐付ける。
自転車利用者に道路交通法の講習を行う。
ヘルメットの着用と保険加入を義務化する。
歩行者の安全を確保するために歩道走行を禁止する。
条例違反に対しては自転車をその場で没収する等、厳しく対応し、競売による収入を自転車利用者の環境向上に役立てる。以上。
渋谷のBunkamuraオーチャードホールでイギリスの少年合唱団LIBERAのコンサートを観た。
https://libera-records.com/
クリスマスソングを中心に、声変わり前の少年たちの美しいソプラノに癒やされる。ただ、それぞれの独唱を聞くと音が震えていたりして、プロの歌手に比べると声量も音程も肺活量も微妙に劣るところがあるが、合唱になると少年ならではの音色がとてもいい。
観客の大半を占めるおばちゃんたちが熱心に拍手をしていた。チケットの価格は手数料込みで10,324円。ま、こんなものかな。
映画「宮本から君へ」を観た。
https://miyamotomovie.jp/sp/
他人の人生を引き受けるのはしんどいことだ。人間は基本的に自分が最優先だから、他人のせいで自分が不利益を被ることに我慢ができない。とは言っても、相手に故意や重過失がなく、被害の程度が小さければ、大抵の場合は相手を責めることなく諦める。それが常識のある大人の理性的な対応である。
もしもすべての人が他人を許さない世の中になったら、それは即ちすべての人が許されない訳で、ホッブズではないが、万人の万人に対する戦いの世の中になる。当然強い者が弱い者を罰する社会になり、歴史は遥か昔のハンムラビ法典から繰り返すことになる。不寛容が蔓延する最近の日本がその道を辿っているように思えて薄気味が悪い。
靖子のすべてを赦し、すべてを受け入れようとする主人公宮本の姿勢は、ともすれば他人の不幸に巻き込まれまいとする現代の男たちにレッドカードを突きつけるかのようである。
男にはプライドがある。女から見たらちっぽけでどうでもいいプライドなのは解っているが、それでも譲れない。宮本自身もそれは解っている。だから葛藤がある。宮本の戦いは表面的にはクズな男たち相手の戦いであるが、本質的には自分自身との戦いでもある。それはサッカー応援団の川平慈英が軽々しく言うのと違って、本当に絶対に負けられない戦いなのだ。池松壮亮はその覚悟とエネルギーを全身全霊で演じる。この人の演技は凄いとしか言いようがない。
蒼井優が演じた靖子は宮本のその辺の事情を察していて、今の宮本は自分を引き受けることのできる器ではないと解っている。物語が進んで宮本が人間として一回りスケールが大きくなり、漸く自分のような強気で感情の起伏の激しい女を受け入れるだけの男になったことを悟って初めて、宮本が広げた傘の下に入ることを決意する。蒼井優は理屈ではなく五感で情緒が揺れる不安定な女心を、そのか細い全身で表現し、池松壮亮の体当りするような演技を、それ以上の演技で受け止める。大した女優である。
靖子が鼻唄で歌っていたのは中島みゆきの「悪女」だと思う。男運の悪い女の歌だ。靖子は男に負けないで気を張って生きてきた。そのせいで少し世の中に対して斜に構えている。まるで野良猫のように人に心を許さないのは、とても苦しい生き方だ。
宮本と靖子がそれぞれどのような人生を歩んできたのかは解らない。しかしこの愛すべきキャラクターふたりの邂逅はそれだけでドラマになる。時系列を上手く前後させて浮かび上がる物語は、虚飾と外聞をかなぐり捨てた本音と本音のぶつかり合いだ。感情が高ぶり、勢い余って叫ぶことになる。演出は過剰ではなくて自然であり、むしろ役者陣のアドレナリンが全開になった結果だと言っていい。凄まじいものを見せられた気がする。
映画「蜜蜂と遠雷」を観た。
https://mitsubachi-enrai-movie.jp/sp/introduction.html
音楽が流れ続ける映画で、音楽に興味のない人には面白くないとは思うが、音楽にまったく興味がない人というのは滅多にいないと思うので、程度の差こそあれ、それなりに多くの人々が楽しめる作品だと思う。
ストーリーと言うべきものは殆どなく、コンテスタントたちの群像劇である。最も重要なシーンは、主人公栄伝亜夜が子供の頃に母親とピアノを引きながら、自然の中にある音楽をピアノを通じて表現できることに気づくところだ。これが蜜蜂のシーンだと思う。次はコンクールを通じて親交が生まれたコンテスタントたちが遠くの遠雷を眺めるシーン。これは見たままの遠雷のシーンである。このふたつのシーンによって観客は、主人公の心に自然と生命の息吹とも言うべきものとの共生感が生まれたことを知る。表現すべきことは既に手に入れた。そして表現するための技術はとっくの昔に身に付けている。あとは心にかかるブレーキを取り去るだけだ。
実は心のブレーキを取り去るのは非常に難しい。それは理性でもあるが、生命の防御本能でもあるからだ。
怒りを覚えたからといって誰彼構わず殴りかかったりしないのは、自分の基本的人権が守られるように他人の人権を尊重するためで、それは理性の働きである。しかしそれだけではなく、日常生活の安定を失うことの恐怖でもある。
恐怖心が少なく、いつでも自在に振る舞える強気な人間が世の中を支配する。それは簡単に言えば暴力による支配だ。暴力的な指導者がエスカレートすれば戦争になる。人間の世の中は理性的ではないのだ。
社会が暴力的だと、恐怖はますます強まり、心のブレーキは強くなっていく。ブレーキが強くなりすぎたら、外に出られなくなる。即ち鬱病だ。
従って我々はブレーキを適度に効かせつつも、ときにはそれを断ち切って自分の心を解き放つ必要がある。そうしなければ前に進めないからだ。
主人公がそうやって一歩を踏み出す再生のストーリーであるが、コンクールに落ちたときには落ちたときの人生があることを作品は同時に描き出す。音楽がすべてだが、コンクールがすべてではないのである。そこに救いがある。
松岡茉優は相当に気合いの入った演技をしていて、自信と不安の間でメトロノームのように振れる気持ちがよく伝わってきた。主役を張るには少し存在感に乏しい女優だが、本作品の演技は一生懸命な、いい演技だったと思う。悲しいよりも幸せな表情が似合う人で、特に月を見て「ペーパームーン」や「月光」を弾くシーンはほのぼのと楽しそうで、心に残るシーンだった。
映画「そして、生きる」を観た。
https://www.wowow.co.jp/dramaw/ikiru/
この8月に東京芸術劇場で芝居「お気に召すまま」を観た。坂口健太郎と満島ひかりが主演のシェイクスピアのラブコメディである。そこそこ笑えて面白い芝居だったと記憶している。
実物の坂口健太郎は背が高く肩幅が広くて腕も太い、いわゆる偉丈夫である。膂力溢れるその肉体から静かに放つエネルギーは、分厚い存在感となって舞台を支配していた。これほど肉体の印象と人物の印象が乖離している俳優も珍しい。
そういう意味では本作品の、寛容で温厚だが生のエネルギーに満ちている主人公清隆を演じるのに最適の配役だったに違いない。リアリティのある、とてもいい演技をしていた。相手役であるもうひとりの主人公瞳子を演じた有村架純は「フォルトゥナの瞳」のときに比べて目に力があった。坂口健太郎に負けない、素晴らしい演技だった。
子供が幼いうちに死んだ両親は子育ての苦しみを味わわない代わりに、子育ての喜びを味わうこともない。子供を引き取った人は子育ての苦しみと喜びの両方を引き継ぐ。いい人間に育ってくれたらそれだけで喜びになるだろうが、反社会的な人間になってしまったら、苦しみは何倍にもなる。自分の子育ては間違いだったのか。本作品では、育てた人と育てられた人の双方の視点が語られる。
運命の女神は屡々残酷になる。登場人物たちの殆どが善人で、他人の立場に配慮し人の気持ちを思いやって、清く正しく美しく生きてきた。なのに悲惨な目に遭う。それはときに人災であり、ときに自然災害だ。
しかし誰も、運命を呪うことも他人のせいにすることもなく、自暴自棄にもならない。ただ日常生活を淡々と、人との出逢いやふれあいを大切にしながら生きていく。別れもまた、出逢いと同じくらい大切な宝物だ。人は別れた人の思い出を大事に心の奥に仕舞い込む。
島崎藤村の詩を思い出した。「惜別の歌」として広く知られているのでご存知の方もいるだろう。
わかれといへば むかしより
このひとのよの つねなるを
ながるるみづを ながむれば
ゆめはづかしき なみだかな
人との出逢いに限らず、事故との出遭い、災害との出遭いは、運命と言うよりも偶然と縁起の為せる現象で、人知の及ばぬところである。恨んでも仕方のないことだ。人はいいことも悪いことも、楽しいことも苦しいことも、すべてを受け入れてただひたすら生きていく。
本作品は人間をやさしく見守り、人生を力強く肯定する。人は泣き、人は笑う。出逢いがあれば必ず別れがある。そうやって人生が過ぎていく。観終わったあとも沢山のシーンが心に残っていて、瞳子の涙と笑顔がいくつもいくつも脳裏に浮かぶ。素晴らしい作品だと思う。
映画「任侠学園」を観た。
https://ninkyo-gakuen.jp
作品としては学園の再生と極道一家という異質の組み合わせによるダイナミズムをバネにしたコメディである。現代の価値観に対抗して任侠道をゴリ押ししていくのが面白い。ときに応じて唱和する「阿岐本組三か条」が傑作だ。
一応西島秀俊が演じた日村が主役だが、人情家で実はちゃっかりしている阿岐本親分を演じた西田敏行を存分に楽しめる作品である。本人がいないところでも日村が語る親分のエピソードに昔のテレビコマーシャルのセリフが出てきて笑える。主題歌は阿久悠作詞の「また逢う日まで」で、これを西田敏行が歌う。上手いのはもちろん、歌声に味がある。
伊藤淳史は脇役をやらせると物語が引き立つ。本作品でも斥候のような役柄で物語を先に進めていく。中尾彬のスーツは如何にもヤクザのスーツという感じで堂に入っている。伊丹十三監督の「ミンボーの女」でも迫力のあるヤクザを演じていて、本作品では往年の武闘派という印象だ。もう少し活躍してもよかった。若手では、葵わかながいい。この人も達者な脇役になるだろう。岡山の奇跡でデビューした桜井日奈子はいまひとつ。光石研が上手に演じた小日向の存在が作品を立体的にしている。
ところどころ笑える楽しい作品である。その上いくつかのシーンは不思議に心に残る。演出と撮影が秀逸だからだと思う。同じスタッフで続編が観たい気がする。
映画「ヒキタさん!ご懐妊ですよ」を観た。
https://hikitasan-gokainin.com
個人的な見解ではあるが、俳優の演技を評価するとき、演じているように見えないことを一番の判断基準にしている。亡くなった樹木希林が名優として評価されるのは実にその点だと思っている。老婆を演じることが多かった晩年も、見えているのはたしかに樹木希林なのだが、映像の人物は役の人物にしか見えなかった。「日日是好日」のお茶の先生は権威主義だが優しさに溢れていて、「万引き家族」のおばあちゃんは狡猾なニヒリスト、「あん」の徳江さんは悲運にめげないで周囲を明るくする太陽みたいな人で、それぞれの役を思い出すと、それぞれの作品が浮かんできて胸が熱くなる。凄い女優であった。
さて本作品の北川景子は樹木希林の域にはほど遠いとはいえ、かなりいい演技をしたと思う。愛する旦那さんの子供がほしいとメルヘンな気持ちで望んだが、いわゆる妊活は大変である。諦めずに真面目に取り組む姿勢に同情してしまう。年の離れた夫役の松重豊がとても上手で、コミカルな中にも年を取った中年男の悲哀がにじみ出ている。味のある役だ。嫌味で高圧的な父親役の伊東四朗が役にぴったりで、ぴったりすぎて逆に笑ってしまった。
全体に面白く鑑賞はできたが、ひとつだけ疑問がある。女性は子供を産みたいものなのだろうか、という疑問だ。少し前に電車の中で18歳くらいの娘とその母親の会話で次のようなやり取りを聞いたことがある。
「あなたも結婚して子供ができたらまた人生が変わるわよ」
「私、結婚はするかもしれないけど、子供は産まない」
「あら、どうして?」
「子供は産みたい人が産めばいいし、それは全然否定しないけど、女性全員が子供を産まないといけない訳じゃない。私は産まない」
「そう」
どうしてこのような会話が生れたのかは不明だが、会話自体はなかなか面白い。ふたりとも民主的な考え方で互いに寛容だ。個人的にはこの母娘に好感を持った。会話自体は母親の「そう」で終了したが、この後の母娘の人生がどうなっていくかについては様々な展開が予想される。一番考えられるのが、娘が結婚して、やっぱり子供がほしいと言って孫ができる話だ。世の中に溢れかえっている話だが、そこでも同じ疑問が残る。女性は子供を産みたいものなのだろうか?
太宰治の「斜陽」の主人公も、妻子持ちの男に「他には何もいりません、ただあなたの子供がほしい」と告白する。未婚の母になることが分かっていても、そのために経済的に苦労することが分かっていても、子供がほしいと言う。当方の知り合いにも未婚の母が数人いるが、彼女たちに絶望感は見られない。一般に男性の方が女性よりも悲観的だ。女性は現状を肯定し、将来に対して楽観的である。自殺者の7割は男性だ。厚生労働省の統計データだからあまりあてにならないかもしれないが、男性の自殺者のほうが多いのは確かだろう。
女性は子供を産み、生れた子供が女性だったら再び子供を産む。その連鎖が人類にとって幸福なことだというエビデンスはない。しかし子供が生まれると誰もがおめでとうと言う。もちろん当方もおめでとうございますと挨拶する。しかし心の中では、子供が生まれることは幸福な出来事かもしれないが、ひとつの不幸が生まれることでもあると思っている。
本作品には子供の誕生を常に歓迎する社会でいいのかという反省はない。そして子供を作ることを無条件で肯定する考え方を前提として物語が成立している。そのあたりがどうしても納得できず、映画を観終わって不可解な気持ちになってしまった。人類はいずれ絶滅すると思っている当方のような人間は社会のパラダイムから外れているのだろう。
映画「Au bout des doigts」(邦題「パリに見出されたピアニスト」)を観た。
https://paris-piano.jp
世間知らずの青年が大人に翻弄されながら、少しずつ自分の道に気づいていき、逆に周囲に影響を与えつつ成長する物語である。卓越した才能が見出されたのは幸運であり、人はそれを運命と呼ぶかもしれないが、客観的には偶然以外の何ものでもない。
才能というのはひと言で言えば、そのことが他に替え難く好きなことで、歌が上手な人は四六時中歌っているし、釣りの上手い人は年中釣行に出掛ける。人を騙すのが好きな人や留守宅に侵入するのが得意な人もいるだろう。善悪は別として、好きこそものの上手なれで必ず上達する。そして壁が訪れる。その道で食べていけるかどうかの壁である。
詐欺師や泥棒は実利のある才能だからそれで生きていけるだろうが、音楽や芸術はどんなに才能があっても、それで食っていけるかどうかは世間の評価次第である。いまでは何百億円もする絵が画家の生前には発表されることも少なく、売られもしなかったという話もある。
音楽の演奏家の場合は生きている間に評価されないと意味がない。コンサートに沢山の人が来てくれて、その多くが演奏に感動してくれることが目標だからである。音楽は人が演奏するから美しい。将来はAIが正確無比な演奏をするかもしれないが、熱量がないから誰も感動しないだろう。
本作品の肝はそのあたりにあって、人がその人生を背負って演奏するから、昔の曲が現在に蘇る。個々の演奏者なりの解釈、個々の指揮者なりの解釈により、クラシックの名曲たちは常に変化していく。だからクラシックはいつも新しく、コンサートに人が行く理由となる。
フランスは芸術と哲学の国だから、個性に対して常に寛容である。その演奏家の出自がどうであれ、演奏するチャンスは与えられるし、演奏のみによって公平に評価される。権威や権力に高圧的に支配される時代でも、芸術は誰に対しても平等でなければならない。そういう精神性のある土壌が羨ましい。権威や権力に極端に弱い精神性の国民が住む極東の小国では、同じ条件の主人公がいても、決して表舞台に立つことは出来ないだろう。
既に日本ではあいちトリエンナーレの事件がに象徴されるような、表現の自由に対する弾圧が始まっている。これがどれほど恐ろしい事件なのか、歴史が明らかにしていくだろう。本質はナチスと同じだからである。日本の芸術家全員が声を上げなければおかしい。浅はかなパラダイムに引きづられて表現の自由を投げ出してしまうのは芸術の自殺行為だ。
本作品はプロットでは若干ご都合主義的な面はあるが、芸術と表現の自由、それに人間の生き方の自由を認める社会風土が伝わってきて、心を和ませてくれる映画に仕上がっている。差別と格差とヘイトが社会風土の主流となってきている現在の日本の息苦しさの中で、一服の清涼剤のようであった。
映画「ライリー・ノース」を観た。
http://riley-north.jp/
復讐というのは恐ろしいほどの意志が必要とされると思う。本作品のように夫と子供を理不尽に殺され、仮にギャング組織に復讐しようと思ったにせよ、実行するには数多くの犠牲を払わねばならない。その犠牲というのは、ひと言で言えば日常である。普通の人の普通の暮らしは、喜怒哀楽を日常生活の雑事に紛れ込ませ、暦と一緒に流していく。日常は人生であり、それを捨て去ることはそれまで暦に刻んだ人生を捨て去ることに等しい。
復讐には、人を呪わば穴二つという面がある。違法行為による復讐は自身を窮地に追い込むことになる。違法行為を行なうことで自分を相手と同じ位置に貶めてしまうことにもなる。かといって復讐の相手を社会的に抹殺するなどというカッコイイことは権力者か大金持ちでなければ簡単にはできない。
だから一般人は恨みの気持ちを押し殺して平静を装いながら日常を生きるしかないのだ。それでも時折は被害を思い出して夜中に飛び起きて怒りに震えることもある。怨恨は一生かけても消えないものなのだ。
さて本作品の主人公は、最初は普通の人がするように、まず法に訴える。しかし世間は四面楚歌だ。イントロのシーンで高級住宅街という言葉が出てきて、主人公が格差を感じていることがわかるが、それも主人公が追い詰められる一因だろう。そして追い詰められた彼女は、我々には決してできないことをやってのける。まさに痛快である。リアリティもあり、見応えがあった。
復讐に向かわず、心の傷を癒やす再生物語にする方向もあったと思うが、本作品はリベンジアクション映画として、それなりの価値があると思う。特に主人公が普通の中年女性であるところがいい。落ち着く場所も現実的だ。警察内部の微妙なコミュニケーションのズレも物語のスパイスになっている。