三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

大井町線のクレーマー

2007年07月26日 | 政治・社会・会社

午前10時少し前、東急大井町線のホーム。
大きな荷物をゴロゴロと引きずりながら、その親子連れはやってきました。お母さんと子供二人、それにお母さんの妹なのか、若いお姉ちゃんの4人連れです。とても急いでいる様子でした。見るからに仕事ではなくお出かけです。何をそんなに急いでいるのでしょうか。ただ、残念なことにすでに列車は発車寸前でした。改札口から電車の最後部まではかなりの距離があり、次の列車を待つしかありません。
しかし、ドアが閉まり始めるブシューッという音を聞いた途端に、前を歩いていた子供たちが駆け出し、半分くらい閉まりかけているドアに飛び込もうとしました。もちろん間に合うはずもなく、ドアは直前で閉まってしまいました。それを見てお母さんは怒りました。
「危ない! 気をつけなさいよ!」と、周りの人々がみんな振り返るほどの大声でした。
当然、子供たちに向かって叱りつけたのだと誰もが思いました。続いて、軽率な行動で、電車に乗っているたくさんの人たちに迷惑をかけてはいけないと、言って聞かせるのだろうなと想像したのです。
ところが実際はそうではなく、この母親は、電車の車掌に向かって怒鳴ったのでした。そして間髪を入れず、「ちょっと、あんた! 危ないじゃないのよ、待ちなさいよ、待てーっ、コラッ、てめえ!」と、さらに下品に、愚かさ丸出しで叫びました。電車が行ってしまうと、「何、あいつ、バカじゃないの、バーカ!」と離れていく電車に向かって怒鳴り続けます。

クレーマーの心理を垣間見た気がしました。そして今の時代、こういう人が珍しくないような気がして、苦情処理係としてはぞっとします。こんな時代に子供を作ること自体が、相当に前向きの人か、時代の閉塞感も感じ取ることのできない鈍感な人かのどちらかで、前者はともかく、後者の人たちは当然自分たちの行動の善悪も判別することができないおバカさんたちですから、自分のバカな子供がバカな行動をしても、それをとがめだてすることなく、逆にバカな子供がバカな行動をして怪我をしたり死んでしまったりしたら、自分の教育や管理責任について1ミクロンの反省もなく、場所や施設や企業や自治体を心の底から非難します。この、心の底からというところが恐ろしいところでして、自分の責任については1ミクロンも思い至るところがなく、事態を客観的に見ることができないので理屈がまったく通じません。こういう人を相手では、理屈による交渉はハナから諦めるしかなく、苦情処理係は、コロコロと移り変わる相手の感情に付き合い続けるしかありません。子供を連れた家族連れや、ゴロゴロと乳母車を押している母親を見て、もしかしたらクレーマーかもと思ってしまうほど、心が病んでしまうのも仕方のないところです。


金持ちの金持ちによる金持ちのための政治

2007年07月23日 | 政治・社会・会社

社会保険庁の怠慢は労働組合のせいで、その労働組合を支持母体とする野党には、年金問題についてものを言う資格はない、という言い方をする人がいます。例えばこれを、マスコミを引退して何の影響力もない老いぼれ評論家が夕刊紙の片隅で言うのはいいとしても、現役の総理大臣が社会保険庁の怠慢を責めるのは、民間に置き換えれば社長が自分の会社の一部署の悪口を外部に公表するようなものです。その部署の社員はたまったものではありませんし、そんなスケールの小さな社長には他の部署の社員であってもも誰もついて行きません。社会保険庁も行政の一部なのですから、行政の長から大っぴらに悪口を言われたら、反省よりも先ず反発するでしょうし、他の省庁の役人たちもそんなスケールの小さな総理大臣の言うことなど聞く筈もありません。

拉致被害者の救済など、国外に敵を想定できていた間は、敵の敵は味方という感情や、お人好しの日本人の勘違いで安倍ちゃんを支持する人もいましたが、国内問題に対してここまで徹底してお粗末な対応しかできないスケールの小ささを目の当たりにすると、それでも安倍ちゃんを支持するのはオテアライをはじめとする拝金主義の守銭奴たちと、カルト教団の信者、成人式をわざわざぶち壊す頭のおかしな新成人たち、ちゃんとした理由もなしに中国や中国人、韓国や韓国人を毛嫌いすることでゴミに等しい自尊心を満足させようとしている似非右翼とこの期に及んでまだ安倍ちゃんに期待をせざるをえない拉致被害者家族などで、それ以外の有権者でまともな感覚の持ち主は誰一人現政権を支持していません。消費税を上げようとしている魂胆が明らかになってからは尚更でしょう。

消費税を上げるのは安倍政権の規定路線ですが、そもそもこれを言い出した経団連のオテアライは、消費税の引き上げではなく法人税の引き下げを主張していたのです。自分たち大企業から取る税金を減らせ、というのが最初の主張でした。その帳尻合わせとして、ヌケヌケと提案したのが消費税の引き上げなのです。自らの増益のためには国民が苦しむことになる提案も平気で行うその厚顔無恥はまさに守銭奴の面目躍如というところです。金持ちの金持ちによる金持ちのための貧乏人を騙す格差社会維持の右翼政治に、いい加減、終止符を打たないと将来どころか、明日の生活も危うくなるでしょう。


年老いて自殺する子供

2007年07月13日 | 政治・社会・会社

 子供を作らない人が増えているみたいです。その理由ですが、結婚しない人の場合と微妙にニュアンスが異なっているようで、簡単に言うと日本と世界の将来に希望が見えないからでしょう。希望のないところに子供を放り出す訳にはいきません。いま日本で少子化が進んでいるのは格差社会に是正の望みがなく、将来に夢や希望を持てないからです。希望のない社会にしてしまったのは自民党であり公明党でありそれぞれの支持者です。さらに前回の衆院選挙で小泉政権に投票した有権者です。そして投票に行けるのに行かなかった怠惰な人々です。これらの合計を簡単に計算すれば実に有権者の8割が該当します。つまり、少子化をもたらす格差社会は自民党政権が生み出したものですが、実はそれは国民が望んだことなのです。そして困ったことに、ほとんどの人がそれを自覚していません。
 名前は失念しましたが、「人は歳を取って大人になるのではなく子供が出来て初めて大人になる」と、自民党政権の回し者みたいなことを書いている女性(石原慎太郎さんによると人類が生み出したもっとも悪しきもの、即ちババア)がいます。もちろん何の論拠もない空疎な言葉ですが、こういう考え方の背景には人間が子供を作るのは自然で当然のことなのだ、という前提があります。
 人間以外の動物や植物はあらかじめ遺伝子に組み込まれたプログラムに従って子孫を生み出しますが、人間は必ずしもそうではありません。釈迦は、人間が現世に執着して悟りを開けないのは、名前をつけるからであると喝破しました。名前をつけることで愛着が生まれ、愛着があるために現世に執着する。執着がある限り悟りは開けないと、そういうことです。つまり、釈迦は他の動植物はいざ知らず、人間は子孫を生み出して種の繁栄を目指すものではないと言っているのです。
 安倍ちゃんが改正を目論んでいる日本の憲法にも、三大義務以外の義務、結婚の義務や出産の義務などはありません。もしそんな義務を追加したら、一方で推進している格差社会政策との整合性が保てないだけでなく、結婚しない人、できない人、子供を作らない人、できない人から猛反発を食らうことが必至だからです。それでも安倍ちゃんは新しい憲法に結婚出産の義務を謳うかもしれません。それは奴隷を生み出すためです。格差社会を維持するわけだから、社会の底辺にいる人を再生産し続けないといけません。そういう人たちが「繰返し単純労働力」となって上層部の大金持ちや政治家たちを支え続けるわけです。それを「美しい国」と呼びます。
 こんな現実に気づいた人が、子供を作りたいなんて思う筈がありません。そこで安倍政権は何とかごまかして将来に夢や希望を提示して見せます。昔、北朝鮮やブラジルに渡った人々に対して当時の政権が行ったひどい仕打ちと全く同じことを、安倍ちゃんは国民すべてに対して行おうとしているわけです。蛙の子は蛙といいますが、安倍ちゃんは典型的で、気の触れたA級戦犯のおじいちゃんと同じ間違いを、さらにスケールを大きくしてやろうとしています。それもこれも、前回の総選挙で小泉政権を圧勝させた有権者の責任です。年金の行方不明を国民のせいだ!と決めつけたみのもんたではありませんが、日本が近い将来、軍国主義になって他国の国民を殺しに行くとすれば、それは国民のせいだ!と言えるかもしれません。やれやれ。このまま行くと、若い頃から散々働いて税金を納めてきた老人たちが、年老いて働けなくなると国から見捨てられて自殺する、ということがさらに増えていく、どうしようもない嫌な社会になるでしょうね。


生むな、殖やすな、地から去れ

2007年07月05日 | 政治・社会・会社

 旧約聖書の「創世記」に「生めよ、殖えよ、地に満ちよ」という文があります。「創世記」は神が天地を創ったときの記録ですから、そもそも神はすべての生き物を善と見做し、動植物が世界中に広がることを善しとした訳です。その価値観は大洪水のときに神がノアに対してすべての生き物を箱舟に乗せるように命じたことに通じていて、「創世記」の整合性は見事なまでに保たれています。この価値観を極端に解釈すると、グリーンピースみたいに過剰な動物保護に走ってしまいますが、むしろ現代では、すべての生き物ではなくて人類の存続こそが善であると見做されている気がします。つまり人類=善、人類の存続=善、という図式です。そして人類の尊属のために努力すること=正しいことという図式です。これは本当に正しい図式なのでしょうか?

 かつて存在した種がその種を保存しなくなると、その現象を「絶滅」と呼びます。ニュースでよく「絶滅危惧種」という言葉を耳にするとおり、絶滅する動物は数多く、そのほとんどの原因は人類の存在にあります。しかし人類が世界中に分布し繁栄する前にも、たとえば恐竜などの多くの動物が絶滅しています。絶滅することはいわゆる「人工的」な現象ではなく、人類の出現以前から日常的にあった理にかなった現象なのです。進化があり、絶滅があり、そうやって地球の生命史が作られてきたわけで、それは特に善でも悪でもなく、人類がエラそうに食い止めるべき事柄ではありません。絶滅するものは絶滅する。絶滅するものを力づくで抑えることには無理があります。たとえば朱鷺が絶滅しそうだからといって、捕まえてきた朱鷺を狭い空間に閉じ込め、無理やりに交尾させて子孫を残そうとするのは、人類のエゴ以外の何物でもありません。

 かつて恐竜が絶滅したように、人類もやがて絶滅するときを迎えます。永遠の存在も永遠の価値観も、そんなふうに考えることができるという観念があるだけで、実際には存在し得ません。「永遠の愛」なんてものがないことは、大人はみんな知っています。人類にも「永遠」は存在しないのです。個々の人間の生がどんなに激しく猛々しくともそのうちに死を孕んでいるように、人類の存在も、その存在自体の中に人類の絶滅を孕んでいます。

 栄枯盛衰。人類の誕生はある意味必然で、「地球にとって人類はお邪魔虫でしかない」などという言い方をするつもりは毛頭ありませんが、少なくとも人類の存続と繁栄を盲目的に肯定する立場だけは、これからも否定し続けたいと思っています。