三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Dunkirk」(邦題「ダンケルク」)

2017年09月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Dunkirk」(邦題「ダンケルク」)を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/dunkirk/

 IMAX2Dで観た。映像はとにかく大迫力である。追い詰められた連合軍兵士が逃げ惑う。ナチス軍は神出鬼没だ。一瞬の判断が生死を分かつ岐路となる。どう判断しても死ぬ時もある。判断などできない場面もある。ほとんど運だ。
 いかなる意味でも戦争は肯定すべきではないが、本作品は戦場の真っただ中に放り込まれた人間たちが、どのようにして生き延びたのか、あるいは死んでいったのかを、登場人物それぞれの表情まで映しながら描いていく。音響も凄まじく、映画館で見るべき作品のひとつである。

 台詞の少ない映画だが、登場人物の口をついて出る言葉が祖国だ。祖国へ帰るという思いでひたすらに生きのびる。聞こえのいい話だし、実際の歴史でも撤退はチャーチルの勇気ある決断だったとか、人的資源を温存できたことで次のノルマンディー上陸作戦の成功につながったとか言われている。
 しかし、祖国という言葉が永遠のパラダイムであるかのように人々の口から語られる限り、争いは何度も繰り返される。祖国を守るために戦うと言えば聞こえはいいが、相手も祖国を守るために戦っているのだ。どちらにも正義はない。そもそも祖国などというものは、地球の歴史上、科学的な根拠は何一つない。人間がでっち上げた共同幻想に過ぎないのだ。
 作品中に何度も登場する生と死の分かれ目の場面では、もはや国家も何もなく、誰もがただ生き延びるために本能的に行動する。誰も他人の死を死ぬことはできない。運がよければ生き延びる。悪ければ死ぬだけだ。英雄などどこにもいない。
 そういう映画であった。


映画「散歩する侵略者」

2017年09月23日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「散歩する侵略者」を観た。
 http://sanpo-movie.jp/

 長澤まさみは単細胞でエロいだけのキャラクターを卒業しつつある。本作品でも強気なだけではない脆さや弱さを抱えた複雑な女心をうまく表現できていた。
 日常的なヒロインとは対照的に、ストーリーは奇想天外に進んでいく。本来の姿を見せず人に乗り移って侵略を進める宇宙人のやり方が面白い。
 人間の意識は身体を媒介とした五感の記憶で成り立っている。記憶の塊を分類し体系化することで世界を認識していく。同じものと違うものを区別出来るようになるのだ。三毛猫とチンチラペルシアでは見た目がかなり異なるが、両者を同じ猫として認識できるのは分類と体系化の能力によるところが大きい。いわゆる概念である。
 概念は人によって異なるものである。人間とは何かについて10人に尋ねたら、10通りの答えが返って来るだろう。様々な概念についての個人個人の捉え方の違いが、即ち世界観の違いとなる。人間とは何か、決定的な答えが得られることは決してない。
 人間は概念をひとつひとつ自分のものにすることで成長していく。ひとりの人間の中での概念は互いに連繋してひとつの思想を形作ってゆくのだ。だからパンドラの匣みたいにひとつの概念だけが思想や世界観を救うことはない。
 終わり方に迷った挙げ句、底の浅い予定調和みたいなラストになってしまったが、映画のアイデアとしては秀逸だし、心理学的な思考実験として捉えれば、なかなかの傑作である。兎にも角にも長澤まさみがとてもよかった。


映画「Demain tout Commence」(邦題「あしたは最高のはじまり」)

2017年09月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Demain tout Commence」(邦題「あしたは最高のはじまり」)を観た。
 http://ashita-saikou.jp/

 オマール・シーは「サンバ」や「最強の二人」を見て、いかにもアフリカンルーツの風貌と優れた演技力を備えた稀有の俳優だと評価していた。本作の演技はそれらに加えて運動神経のよさも発揮した。特にリズム感のよさは抜群だ。
 前の年のひと夏きりの女がやって来て赤ん坊を置いて去ってゆくというアイデアは秀逸で、その後の展開が面白くならないはずがない。本当に冷たいとこだったら赤ん坊を行政に預けて物語が終わってしまう。そうならないであろうことを見越して、女は赤ん坊を男に預けたのである。
 主人公は自信過剰で自己顕示欲が強くて女好きというイタリア映画の登場人物みたいな、男なら一度なってみたいキャラクターである。それが赤ん坊を預かったために人生が変わってしまう。女たちとの薄い関係性から、子供との濃密な関係性に人生がシフトするのだ。
 アメリカ映画だったらドタバタ喜劇で終わってしまうが、そこはフランス映画だ。常に哲学的な反省を忘れない。ロンドンでユーロが使えなかったりする時事的な場面も加えつつ、問題を抱える娘との別れの予感に悩む複雑な男心を描いていく。
 冒頭のポップなイラストの連続に象徴されるように、映画はリズム感に溢れている。それはオマール・シーのキャラクターによるところも大きい。喜びも悲しみもリズムに乗って、時は過ぎていく。


映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名はカメジロー」

2017年09月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名はカメジロー」を観た。
 http://www.kamejiro.ayapro.ne.jp/

 権力は必ず腐敗する。民主主義が保たれるためには政治権力の交代が必須である。民衆は強権に確執を醸すことを忘れてはならない。
 しかし強権は屡々警察その他の暴力装置を用いて反権力の人々を弾圧する。時に名声を貶め、時に拘束して拷問する。強権に対峙し声を上げて反対するためには、死をも覚悟した上でなければならなかった。
 沖縄における米軍は、暴力装置そのものである。戦後間もなくから現在に至るまで、無辜の沖縄の人々を無残に殺してきた。多くの女性が海兵隊に強姦され、多くの子供が暴行されている。
 圧倒的な暴力に対して、反対の声を上げることは勇気のいることだ。夜の闇に紛れて米兵を暗殺する方がまだ簡単かもしれない。衆人の見守る中で正々堂々と米軍を否定する亀次郎は、沖縄人の勇気の象徴であり、拠るべき砦であった。
 亀次郎の強さは暴力をものともせず主張すべきことを主張する精神力にある。明治以来の富国強兵のパラダイムの中で育った彼にとって、ポツダム宣言の次の文言は衝撃的であった。

 宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ

 民主主義を知らなかった人間にとって、何を信じても何を考えてもいい、何を言っても書いてもいい、人間にはその権利があるという考え方は、新鮮そのものだ。そこには自由と人権がある。暴力に屈せず、暴力によることなく、自由と人権を手に入れる。スパルタカスの昔から人間に根源的に宿る思いだ。ポツダム宣言の文言に触れた亀次郎の感動は、現在の我々も共有する感動である。
 国家主義に負けず、組織の大義名分に負けず、友達グループの掟にも負けず、自由と人権を主張しなければならない。友達から無視されても、村八分になっても、会社を馘になっても、逮捕され絞首台に向かうことになっても、なお主張しなければならないのだ。
 亀次郎は沖縄の自由と人権を死ぬまで主張し続ける本物の強さを持っていた。暴力が彼を拘束し貶めても屈することなく立ち上がり続けた。我々も同じ強さを持つことができるだろうか。特定秘密保護法と共謀罪が自由と人権を封じようとしている現在、亀次郎が生きていたらどう行動するだろうか。


映画「ルパン三世 ルパンVS複製人間」

2017年09月09日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ルパン三世 ルパンVS複製人間」を観た。
 http://lupin-3rd.net/mx4d/mamo/

 まさかルパン三世を映画館で見るとは思わなかったが、MX4Dがどういうものかを体験するには格好の作品だと思った。ストーリーは一本道で分かりやすいし、エンディングはお決まりだ。
 さて肝心の4Dだが、開映寸前に行われるデモンストレーションの動きが一番面白くて、上映中にはそれを超える動きはなかった。椅子が揺れても空気や霧が吹き掛けられても、特に臨場感がある訳でもない。足に何か絡みつくような動きや背中やお尻を指圧されるような動きは、何の意味かよくわからない。
 4D体験は一度きりで十分。映画は3.5点で4Dが2.5点。


日の丸君が代が嫌いな理由

2017年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 広島県議会議員の石橋林太郎という人の公式サイトで紹介されていた作文。平成11年、広島の小学4年生の女の子が学校の授業で書いたその作文のタイトルは「日の丸・君が代」。

「私は、日の丸と君が代が嫌いです。
日の丸の赤は日本軍が殺した人の血の色で、日の丸の白は日本軍が殺した人の骨の色だから、私は日の丸が大嫌いです。
そして君が代は、日本軍にそんなことをするように命令した天皇を称えた歌だから、私は君が代も大嫌いです。」

 石橋林太郎はこの作文を書かせた教育を憂えているが、この女の子が作文を書いたのは教育のせいではない。動機はもっと深いところにある。

 昭和天皇に戦争責任があることは、世界的に知れ渡っている。岸信介をはじめとするA級戦犯たちが天皇を騙して傀儡としていたという子供だましの解説を信じている人たちが、国旗国歌法案を作った全体主義の議員に投票し、この国の右傾化を支えている。頑張れニッポン、日の丸万歳とスポーツで応援する精神構造は、天皇陛下万歳と言って他国民を虐殺した日本軍と同じ精神構造であることに気づかねばならない。
 他人や他国への憎悪は暴力や戦争に直結する。国家主義に走ってしまった歴史を反省し、日の丸や君が代を相対化する努力をしなければ、再度の過ちを犯すことになるだろう。安保法が成立し、共謀罪が施行されたいまの時代は、戦前とそっくりだ。東京オリンピックを応援するマスコミがその傾向に拍車をかけている。親の世代は戦争の悲惨を忘れていても、子供は本能的に危険を察知しているのかもしれない。


核兵器廃絶のために

2017年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 北朝鮮の核実験で、防衛論議がかまびすしい。しかし誰も本質的な質問をしない。
 それは、アメリカの核はよくて、どうして北朝鮮の核はだめなのかという質問だ。国連憲章には各国の主権を互いに尊重しなければならないと書かれてあるではないか。
 また、核兵器禁止条約に参加しなかった日本が、どうして北朝鮮の核武装を非難できるのか。
 すべての疑問は、核兵器廃絶を主張しながら、大国の核兵器保有を認めているという構造的な矛盾から生じている。そろそろ本当に兵器のない世界を目指して、本質的な議論を始める時代が来たのではないか。


親に死ねと言われたよ

2017年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 石田ゆり子が自動車のCMでチェッカーズのヒット曲「ギザギザハートの子守唄」を歌うのを聞いてびっくりした。
 出だしの歌詞が、ずっと「ちっちゃな頃から悪ガキで親に死ねと言われたよ」だと思っていたのだ。この歌はリアルタイムで聞いた記憶がなく、テレビ番組で断片的に聞くだけだった。だから「ちっちゃな頃から悪ガキで」を聞いて、続きの歌詞を自分で無意識に作詩していたようだ。親に死ねと言われて居場所がなくなった子供の流浪の物語なのだなと思っていた。
 それが石田ゆり子のCMで「15で不良と呼ばれたよ」だと知ったときは、不良だったことを自慢しているみたいで、なんとなくがっかりした。


映画「A Street Cat Named Bob」

2017年09月05日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「A Street Cat Named Bob」を観た。
 http://bobthecat.jp/

 ロンドンもニューヨークや東京と同じく、格差とホームレスと麻薬の街だ。世界中の他の大都市も同様である。
 資本主義の発達した地域では、企業や個人が不特定多数の不特定な欲求を満たし、それによって対価を得ることで経済が成り立っている。最も多くの欲求を満たした者が最も多くの対価を獲得し、勝ち組と呼ばれるようになる。他者の欲求を満たすことは感謝されることであり、対価を得るだけでなく承認欲求も同時に満たすことができる。人類が資本主義に行き着いたのは、ある意味、必然である。
 しかし一方、企業や組織で働く者は、対価を得るために人格を投げ出さなければならない。承認欲求を満たしながら生きていけるのはごく一部の人たちに限られるのだ。大抵の人はそれが経済の仕組みであり、社会構造であることを知って耐えているが、耐えきれないでドロップアウトする人もいる。ホームレスが生まれ、ジャンキーが生まれる。
 本作品の主人公もその一人だ。ギターを弾いて気ままに生きるが、住む場所と食べ物には不自由している。職にありつけば衣食住は手に入るが自由を失う。自由を失っても、他人が提供してくれる様々なサービスを享受することができるから、なんとか自分を誤魔化して職に就くのだ。
 野良猫の存在でジャンキーのホームレス生活から救われていく主人公だが、それが幸せとは限らない。浮き沈みの激しい社会の中でいつまた沈んでいくかわからない。そしてそれが不幸とも限らない。
 映画を観終えた観客は現実の世界に戻り、自由と隷属の狭間で綱渡りをしている自分自身を発見することになる。


映画「Anthropoid」(邦題「ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦」)

2017年09月02日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Anthropoid」(邦題「ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦」)を観た。
 http://shoot-heydrich.com/

 震える手で弾倉に一発ずつ弾を込める。訓練通りにすれば大丈夫だと自分に言い聞かせる。緊迫する場面で兵士はそうやって恐怖心を克服するのだ。
 第二次大戦を舞台にした映画は山のようにあるが、チェコスロバキアが舞台で暗殺作戦を描いた作品は珍しい。ハイドリヒ暗殺についての作品は、1971年の映画「抵抗のプラハ」までさかのぼる。

 テロで世界を変えられないと主張する人は多い。そういう人にとっては、戦争はテロではないのだろう。しかし武器を持たない一般人にとって、戦争もテロも人殺しという点では同じだ。どちらも大義名分のために武器で人を殺す。規模が違うだけである。
 他者や他国を憎み、差別し、排斥しようとするとテロや戦争になることは歴史が示している。しかし依然として世界はヘイトスピーチであふれかえっている。ヘイトスピーチをする人は戦争をする人だ。そういう人間が権力と武器を手にするとどうなるか。暗愚の宰相が務める極東の島国では、その方向に進みつつある。東京がプラハになる日は近いかもしれない。

 主人公の兵士たちにとっては、暗殺作戦はテロではなくて戦争である。理不尽に市民を虐殺するハイドリヒ。たとえ彼を殺しても次のハイドリヒが現われるだけだとシニカルな見方をすることもできる。しかしナチ中枢のハイドリヒが殺されることは、ナチの絶大な武力にも穴があることを露呈することになる。付け入る隙を世界に示すことになるのだ。ナチはそれが許せない。だから大規模な報復作戦に出る。現金を数えるように人の命を数え、市民の恐怖心を増大させようとする。武力による支配は恐怖心に訴える支配なのだ。
 武器を持たない無抵抗の市民はただ殺される。希望はない。しかし心の中までは武力で支配されることはない。武力に震え上がる恐怖心を克服し、心の自由を保ち続ける勇気だけが、理不尽な武力に対抗しうる人類の最後の手段である。