三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「敵」

2025年01月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「敵」を観た。
敵 : 作品情報 - 映画.com

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敵の作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。筒井康隆の同名小説を、「桐島、部活やめるってよ」「騙し絵の牙」の吉田大八監督が映画化。穏やかな生活を送っ...

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 原作を読んだのはかなり前だが、いくつか印象に残っていることがある。まず主人公が渡辺という苗字でフランス文学者の権威となると、渡辺一夫さんが思い浮かぶ。東大のフランス文学教授で、大江健三郎の恩師として知られている人だ。
 カネの切れ目が命の切れ目。そのときは濡れタオルを絞って摩擦を強め、ゆっくりと頸動脈を圧迫しながら首を絞める。一度やってみて、気が遠くなりそうだったから、これでいけそうだと覚悟する。
 原作はうろ覚えだが、本作品の雰囲気は原作そのものだ。映画だから原作のとおりとはいかないだろうが、世界観は忠実に作られていると思う。白黒にしたのは、ある意味で当然かも知れないが、それでも秀逸なアイデアであることに間違いない。

 文化的な権威は、自分が権威であることを自覚していると同時に、権威の基盤がとても脆いものであることも自覚している。それは文化の脆さにも繋がるもので、文学にも流行り廃りがあって、そのときどきの評価が権威を左右することがある。敷衍すれば、人類の存在そのものの脆さにも通じる。
 筒井康隆はパロディとスラップスティックの作家だ。既存の権威を笑い飛ばすのが常だが、本作品では権威者を裸にすることで、俗物と何ら変わらない本質を示し、しかも権威者本人がそれを自覚していることも描く。
 昭和の男の女性に対する態度の本質も暴かれていて、主人公が学者らしく男女平等の姿勢を示そうとしたり、四つん這いで肛門丸出しの状況でも平静を保とうとしたりする様子は、かなり笑える。

 言うなれば老い先短い男の終活の奮闘記なのだが、どこか滑稽で物悲しいのは、人間という存在そのものの滑稽さと物悲しさなのかもしれない。長塚京三は見事に演じきったと思う。

映画「サンセット・サンライズ」

2025年01月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「サンセット・サンライズ」を観た。
映画『サンセット・サンライズ』公式サイト|絶賛上映中

映画『サンセット・サンライズ』公式サイト|絶賛上映中

監督:岸善幸、脚本:宮藤官九郎、主演:菅田将暉の豪華タッグで贈る、泣き笑い“移住”エンターテインメント!

 菅田将暉が演じた西尾晋作は、いまどき珍しい本音の人だ。釣り好き、魚介好きの人は、当然ながら、自然を大事にする。自然災害も自然のうちで、たまたま人間に被害があった場合に、災害と呼ばれる。被災者が大変なのはわかるが、偶然そこにいたから被害にあったとも言える。言い換えれば、誰もが被災者になる可能性がある訳だ。
 だからこそ、共同体は全力で被害者を助けなければならない。しかし現状は被害者を置き去りにして、武器や兵器を買うのに巨額の予算を使う。こんな予算の使い方では、将来自分が被害に遭ったときに、共同体は助けてくれないのだと、誰もが思う。子供を作りたくないと思う人がたくさんいるのは当然だ。少子化は共同体の指導者層の自業自得なのである。
 そういったことを踏まえて本作品を観ると、行政のちぐはぐさが見えてくる。コロナ禍の政府の対応は、いまから考えれば、とても滑稽なものだった。
 そもそも保健体育という科目が小学校からあるのに、感染症の教育は全く行なわれていないのが現状だ。ただ手を洗え、うがいをしろと言われても、応用が効かない。どうして手を洗うのかをしっかり教育していれば、コロナウイルスの蔓延にも、各自が適切に対応できただろう。
 こういうところにも、為政者の「由らしむべし、知らしむべからず」という高慢な態度が見え隠れする。そういう為政者ばかりが選挙で当選するのは、有権者のレベルがダイレクトに反映されている訳だ。やれやれである。

 これといった事件も起きず、坦々としたストーリーが展開する作品だが、東日本大震災とコロナ禍をうまく組み合わせて、登場人物たちの自然災害に対する姿勢の微妙な違いが、人間関係にダイナミズムをもたらしていて、それが力強く物語を牽引していく。上手に作られた作品だ。菅田将暉も井上真央も、とてもよかった。それに菅田将暉の絵が上手なことにも感心した。歌も歌えるし、絵も描ける。才能に恵まれているというのは、こういう人のことを言うのだろう。

映画「アンデッド愛しき者の不在」

2025年01月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アンデッド愛しき者の不在」を観た。
映画『アンデッド/愛しき者の不在』公式サイト

映画『アンデッド/愛しき者の不在』公式サイト

2025年1月17日(金)公開、「アンデッド/愛しき者の不在」公式サイト。『ぼくのエリ』『ボーダー』作者がおくる北欧メランコリックホラー。出演:レナーテ・レインスヴェ。

映画『アンデッド/愛しき者の不在』公式サイト

 ビデオゲームの「バイオハザード」で定着したゾンビの印象も、原作者ヨン・アイビデ・リンドクビストにかかると、まったく違うものになる。
 本作品のゾンビたちは、終始無言だ。アーウーと言いながら千鳥足でヨタヨタ歩いたり、近くの人間に襲いかかったりしない。しかし時折見せる残虐な一面には、空恐ろしいものがある。こちらのゾンビのほうが、よほど不気味だ。映画では一度も観たことのないキャラクターである。さすがは傑作映画「ボーダー二つの世界」の原作者だ。

 本作品の前日に邦画「君の忘れ方」を鑑賞していて、近しい人間の死と、残された者たちの振る舞いについての作品を、期せずして連続して鑑賞することになった。
 人の死を扱う作品が相次いで公開されたのは、偶然ではない気がする。世界にはどんよりとした不安が充満している。民主主義と金融資本主義が、縁故民主主義と強欲資本主義に変化してしまって、自分さえよければいい、いまだけよければいい、カネさえあればいいという刹那的な利己主義が蔓延しているのだ。

 働き者でずる賢くて、しかも運がいい者たちがのし上がる一方、金儲けの才も運もない者たちは、安い賃金の労働でなんとか生を繋いでいくしかない。近しい者の死は、自分の生を顧みる機会であって、それは自分の死を考える機会でもある。果たして自分の生に意味があるのか。

 近しい者がゾンビになって戻ってきたら、その疑問は立体的になる。ただ息をして心臓が動いているだけで、コミュニケーションが取れない存在に、どんな意味があるのか。
 振り返って、自分はどうなのか。ただ労働をして食っていくだけの生活に、ゾンビたちと何の違いがあるのか。強引に敷衍すると、人類の存在に何の意味があるのかという疑問になる。
 そう考えると、人類はゾンビそのもののような気がしてくる。強欲な利己主義者が共同体を牛耳って、他の共同体と衝突すれば、たちまち戦争になるだろう。弱い者は、誰かに殺されるのをただ待つしかない。ほとんどゾンビである。本作品には深い意味があると思う。

映画「君の忘れ方」

2025年01月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「君の忘れ方」を観た。
映画『君の忘れ方』オフィシャルサイト

映画『君の忘れ方』オフィシャルサイト

1月17日(金)より新宿ピカデリーほか全国公開

映画『君の忘れ方』オフィシャルサイト

 昨年は相次いで年配社員が亡くなった。ふたりともひとり暮らしの独身男性で、出社してこないから部屋を訪ねてみると死んでいた、というパターンだった。

 人間が死んだら、人格も何もなくなってしまうことは、誰もが知っている。しかし、ふとした瞬間に、面影が蘇ることがある。幽霊を信じるのではなく、死を消化しきれていないのだ。
 年配の孤独死は、家族を探すことからはじまるが、それは警察の仕事だ。家族から連絡が来ない限り、葬式にも出られない。
 だから二人のお別れ会を催した。二人とも社歴が長いから、たくさんの人々が参加してくれた。社員たちは、それなりに納得した顔をしていた。セレモニーには、それなりの意味があるのだ。

 故人を偲ぶのは、義務でなくて権利だと思う。一番思うのは、あの人たちが生きているときに、何をどのように感じていたのかなということだ。
 人と人とは決してわかりあえないが、想像することはできる。感謝することもできる。死者に感謝することは、死者に対する何よりの弔いだ。

 近しい人のロスに対して、おせっかいな口出しをしてくる人がたくさん登場する作品だが、主人公が懐の深さをみせて、単純に拒否しないところがいい。もっとも、主人公の寛容がなければ、本作品は成立していない。脚本家という設定が、その寛容さを担保している。いろいろと考えさせられる作品だった。

映画「ねこしま」

2025年01月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ねこしま」を観た。
ねこしま : 作品情報 - 映画.com

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ねこしまの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。世界屈指の「猫島」とも言われるマルタ共和国を題材に描いたドキュメンタリー。 地中海に浮かぶ島国・マル...

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 以前、野良猫を手懐けようとしたことがある。駅から自宅への帰り道にある駐車場に、親子らしき数匹のキジトラがいて、見かけるたびに呼びかけていた。すると猫たちもこちらに注意を払うようになったので、次の日から、カリカリ系の猫の餌をカバンに入れて、猫がこっちを見たら、餌を少し置いて帰った。仕事帰りのたびにそれを繰り返していると、徐々に猫が近づいてくる距離が近くなって、呼ぶと走ってくるようになった。
 
 半年ほど経つと、すっかりなついて、手から直接餌を食べるようになった。野良猫に餌をやっていいのかどうか、自治体や地域住民の考え方はあるだろうが、週に何日か、僅かな餌を置いていく人間に頼らざるを得ないほど、野良猫の生活は逼迫しているということだ。短い期間だけ餌をやって、そのあとはどんなふうに責任を取るのかと追及されると、答えようがない。ただ、追及する権利が誰にあるのか、それもわからない。
 
 なついてくれたのはよかったが、休みの日に駐車場の隣の弁当屋に弁当を買いに行くと、猫たちがやってきて当方の足元にじゃれついてくる。中学生らしい女子たちから「何あれ?」と不審そうに見られてしまって、往生した。飼えればよかったのだが、残念ながら住んでいた集合住宅はペット禁止だった。
 餌をやり始めてから一年ほどでその街を引っ越したので、猫たちがどうなったのかはわからない。わからないが、餌をやり続けた一年間の猫との時間は、とても大事な時間だった。一日に数分でも、猫と触れ合うことで、精神的な安定を図れた面もあったと思う。
 
 猫は世界的に同じように振る舞うようで、マルタの猫も日本の猫と同じように、天上天下唯我独尊だ。2022年の邦画「たまねこ、たまびと」のレビューにも書いたが、猫は暴力や暴言を受けても、柳に風と受け流す。決して弱いものいじめをしない。ひとたび自分に被害が及びそうになると、どんな相手にでもひとりで立ち向かう。そして欲望に忠実だ。
 過去を引きずらず、未来に怯えず、淡々と現在を生きる。猫は愛おしい動物であり、長い間の人間との歴史に、無形の価値をもたらしている。そういう存在が虐待されることのない社会にしていかねばならないと、改めて思った。

映画「劇映画 孤独のグルメ」

2025年01月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「劇映画 孤独のグルメ」を観た。
『劇映画 孤独のグルメ』公式サイト

『劇映画 孤独のグルメ』公式サイト

【大ヒット上映中!】テレビ東京開局60周年記念作品。この映画…腹が鳴る。

『劇映画 孤独のグルメ』公式サイト

 テレビドラマはときどき観ていた。劇場版にするほどでもないと思っていたが、さすがは松重豊監督である。食材探しの旅にヒューマンドラマを重ねて、盛り上がる物語に仕上げている。淡々としてはいるが、こと食については貪欲な五郎さんのキャラクターがここでも十分に生かされる。
 パドルサーフィンは由比ヶ浜で見たことがあって、しばらく眺めていたらどんどん遠ざかり、最後は葉山の方まで進んでいたから、意外に長距離を進むんだなと感心した。直線距離にしたら5kmくらいだろうか。五郎さんも、海さえ凪いでいたら、対岸に辿り着けたかもしれない。それにしても、パドルサーフィンが伏線とは驚いた。

 テレビでも食べっぷりのいい五郎さんだが、本作品では、どんな状況でも見事な食べっぷりで、繊細に見えて実は豪胆な五郎さんの人柄がよく出ている。食べることは生きること。いつだって一生懸命に美味しいものを食べようとする姿勢には、とても共感できる。

 午前中に鑑賞したあとに予約した蕎麦屋に行くと、我ながら驚くほどたくさん頼んでしまった。五郎さんの影響に違いない。なにせあの人、たくさん食べるからな。などと思いつつ、さらに追加で注文。お酒も追加。そしてあっという間に完食。なんとなく五郎さんみたいで、気分がよろしい。ご馳走様でした。

映画「ここにいる、生きている。 〜消えゆく海藻の森に導かれて〜」

2025年01月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ここにいる、生きている。 〜消えゆく海藻の森に導かれて〜」を観た。
ここにいる、生きている。 消えゆく海藻の森に導かれて : 作品情報 - 映画.com

ここにいる、生きている。 消えゆく海藻の森に導かれて : 作品情報 - 映画.com

ここにいる、生きている。 消えゆく海藻の森に導かれての作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。日本の海で消失の危機に陥っている海藻を題材にしたドキュ...

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 磯焼けという言葉があるそうだ。磯の海藻が減ったりなくなったりすることを言うとのことで、作品内で紹介されている。海水温の上昇やそれに伴う食藻生物の増加などが原因で、地球温暖化の悪影響のひとつだそうである。
 温暖化の原因は、世界中が電力社会になったことに尽きる。かといって電力なしの生活には戻れないから、発電方法を工夫するとか、徹底した省エネ社会にするといった、国家規模での改革なしには、温暖化を食い止めることはできない。
 本作品では、海藻の復活のために頑張る民間の人々を映し出すが、対症療法の印象は免れ難い。長期的に考えれば、未来の海は、珊瑚も海藻も死滅した、無機質な海になりそうだ。
 本当に未来を考えるのであれば、脱電力社会というドラスティックな思想を実現する以外にない。温暖化懐疑論者のトランプをはじめ、世界の指導者は温暖化対策よりも軍事にお金を使うことに余念がない。絶望的である。

 人間の生涯が一万年くらいあれば、生きている間に環境の変化を実感するから、まったく違った社会になっただろうが、極めて短い人生を送る人間は、今だけ、自分だけよければいいという利己主義から脱却することができない。人類はこういうふうに自滅していくのだと実感させる作品である。覚悟を決められる人は、少ないだろう。

映画「シリアル・ママ」

2025年01月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シリアル・ママ」を観た。
シリアル・ママ : 作品情報 - 映画.com

シリアル・ママ : 作品情報 - 映画.com

シリアル・ママの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。「ピンク・フラミンゴ」などで知られるバッドテイスト映画の巨匠ジョン・ウォーターズが監督・脚本...

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 ビヴァリーでなくても、日常生活で腹の立つことは山ほどある。誰もが一日に一度や二度は怒りを感じる瞬間があるだろう。殺してやりたいとか、死ねばいいのにとか思うかもしれない。心の中では、ホッブズではないが、万人の万人に対する闘いが繰り広げられているのかもしれない。
 ということは、自分も誰かの怒りを買っている可能性は十分にある。お互い様なのだ。大人はそれが分かっているから、自分の怒りを抑制する。所謂アンガー・コントロールというやつだ。理性と言ってもいい。

 そもそも共同体では、万人の万人に対する闘争が実際に勃発してしまったら、共同体そのものの存続が危ぶまれる事態になるから、法律で厳しく取り締まっている。刑法である。他人を殺したり傷つけたり、物を壊したり盗んだりしたら、相応の刑罰が適用される。ただし国家権力が好き勝手に人を取り締まったら、やはり共同体の存続が危うくなるから、刑罰を適用するのは法律に基づかなければならない。罪刑法定主義である。
 刑法には、違法行為に対する抑制の効果があり、罰せられるのを恐れているから罪を犯さないという面もある。それもひとつの理性ではある。

 本作品では、理性を失なって次々に殺人を犯すビヴァリーが、すぐに理性を取り戻して日常生活に戻る豪胆さが描かれる。刑罰に対する恐怖を一切持たない。検事の言う通り、まさにモンスターである。
 ビヴァリーはふたつの意味で象徴だと思う。ひとつは国家権力の権力者だ。専制政治の元首になると、法律は適用されず、どんな違法行為も許される。国家元首でなくても、諜報組織などが秘密工作に従事していることは誰もが知っている。
 もうひとつは、誰もが抱える心の闇の象徴である。他人の権利や人格を徹底的に蹂躙したいと願う黒い心だ。それは被害妄想であったり、独善であったり、アウトサイダーに対する怒りであったりする。多くの人が心の奥底にしまって、決して表に出さないようにしている。

 本作品の製作は1994年で、その後インターネットが急速に世界中に広まり、人々は匿名性の高いネットの世界に心の闇を解放してしまった。SNSや掲示板で他人を攻撃するのだ。その膨大な罵詈讒謗の実態を垣間見れば、ビヴァリーは既に世の中に溢れかえっていることがわかる。そら恐ろしい話である。

映画「ビーキーパー」

2025年01月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ビーキーパー」を観た。
映画『ビーキーパー』オフィシャルサイト

映画『ビーキーパー』オフィシャルサイト

2025年1月3日全国公開|全米No.1メガヒット!!!!!この男、キレたら終わり。

映画『ビーキーパー』オフィシャルサイト

 政治とカネの問題は、日本では江戸時代の越後屋から、伝統みたいに続いている。政策によって利害が左右される法人や個人が献金やら裏金やらで政治家にカネを渡し、政治家はそういう連中が得をするように法律を作ったり、施行令や施行規則によって法律の恣意的な運用をしたりする。カネは天下のまわりものとは言うが、貧乏人の懐にたまることはない。一生懸命に働いて稼いでも、家賃やら生活必需品やらで消えていく。その前に、税金と社会保険料でごっそり天引きされる。粗衣粗食でカネを溜めても、自分や家族が病気になったり仕事を馘になったりしたら、あっという間に使い果たしてしまう。政治家にカネを渡す余裕などないから、貧乏人のための法律や施行令や施行規則が作られることはない。

 アメリカでも、政治とカネの事情はそれほど変わらない。弱い人、困っている人、貧乏人は常に置き去りだ。日本と同じように、そのあたりを感じている人は割といると思う。しかし有権者の多くは、弱者を助ける社会よりも、自分たちが助かる社会を望むから、やっぱり弱者は置き去りにされる。誰が大統領になっても、あまり変わらない。
 それどころか、弱者は、いじめっ子よろしく、自分よりもさらに弱い人をターゲットにしてカネを稼ごうとする。弱者が弱者を標的にした犯罪だ。日本では貧乏な若者が年寄りを襲う。以前からおやじ狩りといった刹那的な犯罪はあったが、ネット時代はおやじ狩りも計画的だ。世も末である。
 本作品を観て、アメリカでも事情は同じなのかと、ちょっと驚いた。資本主義が成熟するとこうなるのか。いや、成熟と言うよりも、行き詰まっているのかもしれない。このまま格差と分断がエスカレートしていくと、マルクスが予言した通り、資本主義社会は内部崩壊するに違いない。

 国家をミツバチの群れに例えた本作品は、引退した秘密工作員が共同体の秩序維持のために異分子を排除する話だが、ひとりの特殊能力の持ち主がヒーローとなって活躍する道は、継続的な展望とは言い難い。
 しかしカネ至上主義の拝金主義者たちを日頃から苦々しく思っている向きには、主人公の活躍に溜飲を下げることができるだろう。斜に構えたFBIのパーカー捜査官の存在が、物語に奥行きを与えている。登場人物にもかかわらず、溜飲を下げたひとりでもある。その意味でも、主人公が快刀乱麻を断つ痛快さは、たしかにある。ジェイソン・ステイサムはまさに適役だった。