「やっぱりオリンピックはメダルを取らないと、まったく意味がない」
ピンポンの3位決定戦で北朝鮮のカットマンに負けた福原愛の言葉だ。
福原愛を嫌いな日本人はそんなに多くはないだろう。私はそれほど好きではないが、少なくとも嫌いではない。性格も頭もよさそうだし、顔もそれなりに可愛い。それなのに、人生をオリンピックのメダルに賭けている価値観がなんとも哀れだ。勝つことだけに意味があるとする価値観は、敗れた者、弱い者に対して容赦がない。
テレビや新聞の報道もメダルと勝ち負けの話ばかりだ。近代オリンピックを始めたPierre de Coubertinが紹介した、神職者の次の言葉は顧みられることがない。
「L'important, c'est de participer」(「重要なのは参加することだ」)
日本では「オリンピックは参加することに意義がある」と原語よりも積極的な意味合いで紹介されている。にもかかわらず、重要なのは勝ち負けだけという価値観に蹂躙され、忘れ去られてしまった。
「参加することに意義がある」という価値観は、オリンピックのアマチュアリズムに通底し、同じ地球上に生きている様々な人種や民族が一堂に会して、利益を追求することなく楽しく競技することで、人類の親和を図るものである。人類に求められているのは相手を打ち負かすことではなく、相手の立場を慮り、互いに尊重しあって共存していくことだ。
それを再認識するのにオリンピックは重要な役割を果たして然るべきなのだが、残念ながら現在のオリンピックは商業主義に侵されて結果至上主義になり果ててしまっている。2020年の東京オリンピックなど、利権と金儲けと権力欲の三つ巴で生まれた前代未聞の醜いイベントだ。政治家の出世と、土建屋の金儲け、官僚の権限拡大、そしてアスリートの将来設計の、それぞれの思惑が一致して、マスコミも一緒になってオリンピックを礼賛する。ヒエラルキーの下方では、体罰や人格否定が横行する厳しい指導で主体性を失ってしまう子供たちがいる。虐げられた魂はいくつになっても恨みを忘れず、弱い者いじめに向かう。
勝つことだけに意味があるというオリンピックの価値観が、実は世の中の格差を作り出す価値観の現れであることを理解するのは、それほど難しいことだろうか。
今回のオリンピックでは、体操競技で競技を終えた選手が他国の選手にも握手で迎えられる場面だけが唯一の救いだった。
フランス映画「Les Heritier」(邦題「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」)を観た。
http://kisekinokyoshitsu.jp/
フランスの高校の落ちこぼれクラスがコンクールに出る話だ。日本のドラマでも似たようなものを放送している。寺尾聰主演の「仰げば尊し」だ。ドラマは吹奏楽コンクールだが、この映画は歴史コンクールというなんともアカデミックなコンクールである。ちなみに吹奏楽部は日本各地でブラック部活として問題になっているようだ。
映画では、自己中心的だが成績が悪くていじけていて反抗的な生徒たちでバラバラの教室を、熱血おばさん教師がコンクール参加の指導のなかで次第にまとめ上げ、生徒たちに自分たちでものを考える力をつけさせる。ステレオタイプのストーリーだが、実話に基づいているそうだ。そういえばドラマ「仰げば尊し」も実話を基にしているとのことだった。
映画の教室は白人と黒人と東洋人、クリスチャンとムスリムといった人種と宗教の入り混じった生徒たちで、中東のIS騒ぎ以来の難民問題の影も微妙に感じさせる面もあり、日本のドラマよりもはるかに複雑でデリケートな状況だ。
結末は大方想像がついていたが、それでも感動する。それはおばさん教師が一人の等身大の人間として、権威に頼らず、強制せず、頭ごなしの否定もせず、正面から生徒たちに向き合った結果だからだ。
フランス映画は議論の場面が多く、映画そのものが哲学的だ。予算だけ豊富なハリウッドのB級映画との違いは、考察の深さが違う。
そういえば代表的なシャンソン「Sous le ciel de Paris」に次の歌詞がある。
Sous le pont de Bercy
Un philosophe assis
Deux musiciens quelques badauds
Puis les gens par milliers
「ベルシ川の橋の下に哲学者が座り、そして二人の音楽家がいて、それから数千人の人々」みたいな感じの意味だ。多分。
国旗のモチーフが自由平等友愛のフランスでは、哲学は日常生活のなかに普通に存在するようだ。その分だけ、フランスに暮らす人々は精神的に自由である。権威と体罰が大好きな日本とは、自由の質も度合いも違うのだ。