映画「スキンフォード 処刑宣告」を観た。
予想とは違ったが、それなりに面白かった。オーストラリア映画というと、銃乱射事件を扱った「ニトラム」を思い出す。殺戮シーンが前置きも淀みもなくどんどん進んでいくところは、ある意味で爽快だった。本作品でも、変な衒いや躊躇いなどなく、暴力シーンがリアルにあっさりと描かれる。
不老で不死身の女が登場し、周囲にいる人間も不死身にしてしまうという設定だが、どうして不老や不死身になったのかは明らかにされない。不死身であることはいいことばかりのような気もするが、長期間に及ぶと、いいことばかりではないようだ。
考えてみれば、自分だけ不老で不死身だと、周りの人間たちだけが歳を取ることになる。歳を取らない人間は不気味だから、人が離れていく。人生の楽しみや苦しみを味わい尽くしても、まだ生きているから、死にたくなるかもしれない。
しかし親密な関係の相手はどうか。もし配偶者がずっと若くて健康だったら、それはそれで幸せだろう。いつまでも若い相手と身体を重ねられるし、自分が歳を取って弱っても、出会った頃のままの姿で世話をしてくれる。
本人は、世の中の移り変わりをリアルタイムで見られる。歴史を目の当たりにできる訳だ。不老で不死身だったら、世の中を変えることも可能かもしれない。
問題はどの年齢のときに不死身になるかだ。やはり25歳くらいのときがベストだろう。肉体的にピークだし、セロトニンも十分で頭脳が明晰なままだ。子供の頃に不老で不死身になったら、かなり困るだろう。知らない人の前では子供にしか見えないから、行動が限られてくる。
そんなことを妄想しながら、スキンフォードの受難の様子を見ていると、はたと気づいた。幼女に見えるあれは、もしかすると人生の楽しみがなくなって、ただ人を惨殺するゲームで暇つぶしをしているのではないか?
どうやら本作品はシリーズ3作目らしい。B級映画ではあるが、オリジナリティがあるから続編が作られたのだろう。つい観てしまうという類の作品だ。不老で不死身の秘密が明らかになる次回作があれば、見てみたい気がする。
映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を観た。
とても面白かった。幽霊族と妖怪と人間。底流にあるのは仏教と陰陽道などの伝説や精神性である。日本人なら説明不要で理解できる範疇だ。キリスト教にも地獄の概念があるから、海外の人が観ても楽しめると思う。
「呪」の字が書かれた結界がでてくる。「呪」は仏教の経典では「咒」の字が用いられる。他人を呪うという意味ではなく、真言を指す言葉だ。サンスクリットで言うと、マントラである。大真言はマハーマントラと言う。
その真言の力を利用して、妖怪たちを操るのが人間たちである。世界で一番恐ろしいのは人間の過剰な欲望と悪意だというのは、多くのホラー映画に共通する。本作品も例外ではないが、目的は金儲けだけではない。権力志向であり、戦前復帰だ。世界がキナ臭くなってきたこの時代にピッタリの物語である。製作陣の反骨精神が感じられて、とてもいい。
ストーリー展開は大胆で独創的だ。終盤ではあっと驚く真相が登場する。ホラーアニメではあるが、よく出来たミステリーみたいでもあった。お見事。
映画「ほかげ」を観た。
2018年の「斬、」以来の塚本晋也監督作品である。映像が暗めなのと音が大きめなのは「斬、」と同じだが、テーマはかなり違うと思う。
舞台は戦後の焼け跡闇市の時代だ。大空襲の跡が見られることから、場所はおそらく東京だろう。生き残った人たちの典型的な人間模様がいくつか紹介される。度重なる不幸に生きる意欲を失いつつある女、戦場のトラウマに精神を病んでしまった男、独りぼっちになっても逞しく生きていこうとする少年、戦場の理不尽に対する怒りがいつまでもくすぶっている男の4人にスポットが当てられる。
食べるシーンと性交のシーンがあるが、そこは戦後である。性よりも食が優先される。生きることは食べることだ。「生きていける」という言葉は、生命を繋いでいくという意味に限れば「食っていける」という言葉に置き換えが可能である。食欲は生きる気力に直結する。食べる気がなくなることは、生きる気がなくなることに等しい。塚尾桜雅くんは存在感があった。
暴力のシーンもある。「斬、」はほぼ暴力シーンだったが、人を殺すハードルを自らに試すような暴力だった。こちらは暴力に抵抗がなくなった分、心が壊れてしまった話だ。受けた理不尽は自分で決着をつけなければならない。そうしなければ、自分の中の戦争がいつまでも終わらないのだ。森山未來は見事だった。
生き延びようとするエネルギーは焼け跡闇市にも満ちているが、陽の当たらない陰の部分もある。死臭の漂う裏路地には、生きる意味と意欲を失った人々が、ただじっと死を待っている。忘れられた居酒屋の奥では、病気になった女が少年を励ます。自分はもう長くないが、少年には長い人生が待っている。陽の当たる道を歩いてほしい。女が最後に見せる優しさだ。趣里は存分に演じたと思う。
タイトルの「ほかげ」は漢字では火影と書く。火は、戦争のことだろう。ほかげは、すなわち戦後のことだ。本作品に人間ドラマとしての違和感は感じない。つまり、戦後はいまもまだ続いているということである。キナ臭い現代世界に抱いた危機感が、本作品に昇華したと言えるだろう。十分に見ごたえがあった。
映画「春の画 SHUNGA」を観た。
有名な春画である通称「蛸と海女」は鉄棒ぬらぬらという人が描いたことになっている。なんとも人を食った画号は、実は葛飾北斎が春画を描くときに使ったものだ。
本作品で一番お金をかけたシーンは「蛸と海女」を微妙なアニメーションにしつつ、余白に書かれた台詞を男女が情感たっぷりに読み上げる場面に違いない。蛸の声を森山未來、海女の声を吉田羊が担当している。
蛸の親方は、女陰(ほと)を吸いながら、柔らかくて弾力のある、吸盤付きの足を膣の中に入れる。グラーフェンベルグスポットあたりを刺激すると、経験豊富な熟女は喜悦の声を上げて、淫水を吹き出す。蛸は喜々としてそれを飲みながら、更に女陰を攻める。子蛸は熟女の口を吸いながら、次は自分の番だと待っている。淫猥なまぐわいは、終わることがない。快楽に酔いしれる熟女は、いくところまでいくから連れて行ってと願う。
ということで、吉田羊の評価が当方の中で急上昇したのは確かである。
ちなみに、どうでもいい知識だが、通常、クリトリスだと認識している器官は、正式には「陰核亀頭」と言われている。陰茎の亀頭と同じだ。つまりクリトリスの大部分は体内にある。医学的にはまだ謎の多い器官らしい。グラーフェンベルグスポットはちょうど陰核亀頭の裏側に当たる。ここが敏感なのは当然だ。経験豊富な諸兄や、賢明な諸姉の方々は既にご存知だろう。
さて、西洋文化を取り入れた明治政府は、春画を猥褻物として取り締まった。現在でも刑法には猥褻物陳列罪や公然猥褻罪がある。本作品では、江戸時代でも春画は大っぴらには売ることが出来ず、一部の金持ちに裏で売られていたと紹介される。金のかかる多色の絵の具を使ったり、高級な絹の素地に描いたりしていたらしい。買い手が金持ちだから高く売れる。製作にも金もかけられるという訳だ。多分だが、西洋でも事情は同じだっただろう。
日本と西洋で異なる点があるとすれば、と西洋の春画コレクターは言う。超一流の絵師が描いている点だ。西洋でクロード・モネやセザンヌがポルノまがいの絵を描くことはない。しかし日本では、葛飾北斎をはじめ、名だたる絵師が描いている。
だから春画は芸術なのだというが、芸術だったらエラいのかと反駁したい気にもなる。春画もポルノも人間の想像であり、創造だ。営みのひとつである。他人に迷惑をかけたり傷つけたりする訳ではない。理屈をつけずに肯定してはどうか。
江戸時代は大らかだったという声がある。春画を「笑い絵」として、みんなで楽しんでいたというのだ。10月に公開された映画「春画先生」でも同じことを言っていた。しかしそれでも、性行為は秘事(ひめごと)である。フリーセックスが許されているヌーディストの街があったら、誰も春画やポルノを見ないだろう。いや、それでも見るか。
原始時代の人間は、多分動物と一緒で、性欲が生じたら誰彼構わずやっていたに違いない。時も場所も、老若男女さえも選ばなかったはずだ。そこに羞恥心はない。アダムとイブもりんごを食べる前は裸で暮らしていた。
羞恥心は、人間にとっての性行為の地位を上げるはたらきがある。秘事にしていたほうが盛り上がるのだ。それに困ることもある。誰も彼もがその辺でセックスをしていたら、生まれた子供の管理が困難になる。性を大っぴらにしないのは、共同体の都合なのかもしれない。
春画の変遷や作られ方、扱われ方を淡々と紹介した作品だが、いろいろ考えてしまった。なんだか楽しい映画だった。
映画「サムシング・イン・ザ・ダート」を観た。
随分と揺さぶられる作品である。静かだが危うい出だしから、徐々に二人の様子が落ち着いてきたと思いきや、再び不穏な雰囲気になっていく。映画自体はもちろんフィクションだが、主人公ふたりは、ドキュメンタリーを作ろうとしたのか、それともフィクションフィルムを撮ろうとしたのか、だんだん分からなくなってくる。
フィルム製作に関わったか、あるいは出来上がったフィルムを見た人たちのコメントも、時系列がはっきりしないから、おおよその雰囲気が伝わるだけで、決定的なエビデンスにはならない。難解な作品だ。
しかしラストシーンに近づくにつれて、徐々に全体像が見えてくる気がした。哲学的な考察もあれば、都市伝説みたいな宇宙論も登場する。悠久の時間の中でごく短い時間を同じ空間で過ごしたふたり。散発する超常現象は、ふたりの世界観の投影でもあるのだろう。そう考えれば、本作品の本質が天啓のように降りてくる。これはふたつの流浪する魂の記録なのだ。
単にアイデンティティを喪失しただけではない。価値観の全相対化が起きて、世界観そのものを喪失してしまう。そこには等速直線運動や万有引力の法則も含まれていて、逆説的な現象によって終りを迎える。去った者と残された者。それぞれに人生は続くのかもしれないし、既に終わっているのかもしれない。
多重構造のミステリーである。面白く鑑賞できたが、マトリョーシカの風鈴の意味だけは、よく分からなかった。
映画「首」を観た。
戦国時代は全国が戦場で、誰にとっても死が身近だったのだろうと思わせる作品だ。権力闘争がそのまま殺し合いの時代だから、殺すことに抵抗がない。逆に言えば、自分も簡単に殺される訳だ。そうなると、権力闘争と並行して、殺されないための算段が最重要になる。誰の側につくか、誰を家来にするかの選択だが、その本質は、自分を殺そうとしないのは誰かの見極めである。
身も蓋もない話だが、そこは上辺を飾るのが得意な日本人だ。信義という大義名分を浸透させる。精神性には儒教の下地もあるから、信義という概念は受け入れやすい面もあっただろう。権力者は大義名分によって家来の忠誠を推し量る。脅しすかしは当たり前で、ホモセクシャルという裏技も使う。家来は、自分が殺されない範囲で最大の利益を得るべく、忠実な上辺を装いつつ、チャンスを伺う。
権力者同士は信義など信じていない。嘘をつき、相手を陥れようと謀(はかりごと)をする。プロレスのバトルロイヤルと同じで、2位3位連合で1位を倒したり、1位は何もせず、下位の者たちが協力して2位や3位を倒すのを待っていたりする。誰が生き残るかがはっきりしたら、互いに戦って相手を滅ぼそうとする。
戦国時代で敵を滅ぼすというのは、つまり主君の首を取ることだ。家来たちは主君がいなくなったら、もう敵ではない。家来ごと、自分の支配下に置くのだ。家来は自分が弱いことを知っているから、強いものに従うしかない。権力者は家来を選別する。武術に優れているか、あるいは軍師の才能があるか、または芸で自分を楽しませてくれるか。
家来に向かないものは、無頼となってギャングの生き方をする。その場その場で何が自分の得になるかを考えて、徒党を組んだり離れたりする。
要するに、誰も彼もが自分が得をするためだけに生きている。信義というパラダイムを広めて、主君に仕えて成果を上げ、評価されるために生きることがよしとされる。それが武士道だ。武士道は重々しく語られることがあるけれども、なんのことはない、権力者が自分を守るために産んだ言葉に過ぎないのだ。実にえげつない話だが、それが本作品の世界観である。
戦国時代の武将たちが本音ばかりを言ったら、こんな話になるのだろうと想像はできるが、それを映画にしてしまうところが凄い。そして人間が本音ばかりを言うと、喜劇になるのだと思い知らされる。権力者が喜劇を繰り広げている外側では、庶民が米を作り魚をとって全員の食を支えている。重労働と粗食に耐えて、何もいいことがなく死んでいく庶民にとっては、人生は悲劇だ。悲劇の海にぽっかり浮かんだお笑い島で、馬鹿と阿呆が殺し合う。なんだか現代の日本に似ている気がする。
やたらに人が殺され、血飛沫が飛ぶシーンが多い作品だが、不思議に生々しさがない。それは臭いの描写がないからだろう。全体にあっさりした印象である。喜劇に生々しさは不要なのだ。
映画「ロスト・フライト」を観た。
ジェラルド・バトラーは、ベテラン俳優ならではの安心感がある。クリント・イーストウッドをはじめ、ハリウッドの大物俳優には、どんな作品でもそれなりに見応えのあるものにする俳優力というか、人間力みたいなものが備わっている気がする。
本作品は設定もプロットも荒唐無稽だが、ジェラルド・バトラーの存在感と、演じたキャプテンの責任感の大きさが、物語にリアリティを与えている。大したものだ。
弱小のLCC飛行機とその本部という2拠点でストーリーが進むところは、よく考えられていると思う。戦争で言えば、前線とHQ(ヘッドクォーター=本部)であり、前線の状況によっては兵站や増員を工夫する。ポイントは通信だ。状況が分かれば対処もできる。
初対面の副操縦士、面識のあるベテランのパーサー、新人のCA、それに移送中の犯罪者という役の配置が、物語を進める上で重要になっている。そして本部にいる危機管理の専門家と、彼が契約している部隊。役者は揃った。あとは脱出あるのみだ。終盤に向けて、ワクワクする展開が待っている。
緊急事態に蛮勇を発揮した機長は、傭兵部隊からも感服したと褒められるが、本人には心残りがあったようだ。キャプテンとして、すべての乗客、乗員をひとり残らず守らなければならなかったのに、守れなかった乗客と乗員がいる。それが悔やまれてならない。ひっそりと男泣きするシーンに、思わずグッときた。いい作品だ。
映画「NO選挙,NO LIFE」を観た。
フィーチャーされた畠山理仁(はたけやまみちよし)さんは、映画「センキョナンデス」の続編で沖縄知事選を扱った「シン・ちむどんどん」に一瞬登場した。もしかしたら「センキョナンデス」にも出ていたかもしれない。見逃した可能性はある。本作品の冒頭で、畠山さんが着ていたTシャツに「センキョナンデス」のロゴがあった。
畠山さんは夕刊紙「日刊ゲンダイ」にも寄稿していて、フリーランスのジャーナリストを差別する参政党に対する怒りの下りは、昨年読んだ記憶がある。
舞台挨拶で前田亜紀監督が言っていたのが、畠山さんは普段はとても穏やかな方で、長野まで蓮舫に話を聞きに行って、たった20秒でも話を聞けたことが大きな収穫だったとにこやかに笑うほど屈託のない人だという話だが、その畠山さんがただひとつ、怒りを露わにするのは、アンフェアに対してらしい。参政党に対する怒りはもっともだ。
選挙のたびにすべての候補者をもれなく取材していたら、運動期間が限られていることもあって、スケジュールはタイトで殺人的にならざるを得ない。身を削ってまですべての候補者を取材するのも、根っからのアンフェア嫌いに由来するのだろう。有力候補も泡沫候補も、同じように取材する。畠山さんは泡沫候補という言葉は使わない。無頼系独立候補だ。よく考えられたネーミングであり、立候補する人々への尊敬の念が表れている。
選挙のたびに自民党が大勝して、その度に貧しい人はより貧しく、困っている人はさらに困る状況に落とされる。日本の有権者に絶望してもいい話だが、畠山さんは絶望せず、選挙に希望を持っている。それが殺人的スケジュールをこなすバイタリティにも通じるのだろう。いやはや、頭が下がる。
映画「JFK/新証言 知られざる陰謀【劇場版】」を観た。
前半では、ケネディ大統領の暗殺事件そのものに関わる事実を、新しく公開された資料や、人々の証言をもとに追及する。犯人がリー・ハーベイ・オズワルドでないことや、暗殺の首謀者が政府機関であることなどは、既に一般的に知られているが、本作品では、どのようにして事実が隠蔽され、証言が捻じ曲げられてきたか、その恐ろしい実態を明らかにする。
オズワルドが海兵隊で厚木基地に勤務していたことは、今回初めて知った。ロシア語を勉強して、話せたそうだ。マルクス主義に傾倒していたらしい。軍はオズワルドを共産主義者だと認識していた。
後半では、ケネディがなぜ暗殺されたのか、その動機を持つ人物たちに迫る。キーワードは反共だ。反共の組織として誕生したCIAと当時の長官であるアレン・ウェルシュ・ダレス。本作品では限りなく黒に近いグレーとして紹介される。
2019年製作で2020年日本公開のスウェーデン映画「誰がハマーショルドを殺したか」でも、同じようにCIAの陰謀を示唆している。ケネディの暗殺が1963年11月22日、ハマーショルドの航空機事故は1961年9月18日だ。ダレスの在任期間は1961年11月までだが、その後もCIAに対して影響力を及ぼし続けている。ハマーショルドもケネディも共産主義を含む多様性を受け入れて、世界の安定的な平和を目指していた。そしてダレスは強硬な反共主義者だ。
実はケネディ大統領について、誤解していた。就任演説の「国が何をしてくれるかではなく、国のために何ができるかを考えてほしい」というフレーズから、愚かな全体主義者ではないかと思っていた。しかし本作品の最後に紹介される国民向けの反差別メッセージで、本意が別にあることがわかった。
ケネディはリンカーンが奴隷解放してから100年経っても、まだ肌の色で差別する人々が多く存在することを嘆き、国民は不断の努力によって寛容を獲得し、差別をなくさなければならないと言いたかったようだ。つまりそれが、国のために何ができるかを考えてほしいという問いかけの答えである。
白人限定の学校に有色人種を受け入れさせ、ソ連を認め、キューバを認め、平和的な共存を望んだ理想主義者が、ケネディであったという訳だ。日本の総理大臣で言えば、鳩山由紀夫に似ている。ふたりとも金持ちの家に生まれ、ケネディはハーバード大学、鳩山は東大からスタンフォード大学大学院を出て、博士号を取得している。鳩山は普天間基地の移転先を最低でも沖縄県外と主張したが、CIAの脅しによって総理の座を明け渡した。
世界は理想主義を拒否して、戦争への道を再び歩みだした。ウクライナ戦争も、イスラエルハマス戦争も、終わりの兆しを見せない。イスラエルは核兵器使用の可能性にさえ言及している。G7の外相会議は、停戦を議決しなかった。人類は平和の努力を放棄したのだ。人類の絶滅の日はそれほど遠くないのかもしれない。
映画「モナ・リザ アンド ザ ブラッドムーン」を観た。
ニューオーリンズはいつもこう。騒がしい街なのよと笑って見せるグランドスタッフの女性のシーンが凄くいい。たとえ異常な犯罪が発生していようとも、所詮は人間のすること、大したことはない、世はいつもなべてこともなしといった泰然自若ぶりが愉快だ。
映画サイトには、人を操る能力とあったが、心まで操る訳ではなく、本人の意思を無視して身体を操るだけだ。謂わば人間を使う傀儡師である。暴力は嫌いのようだが、暴力を振るう相手には容赦しない。人を操るのは利益よりも被害妄想の補完のためなのだろう。そういう意味では痛快な部分もある。
警官との会話で、ヒロインが実はまともであることが分かる。ではどうして精神病院に10年も幽閉されていたのか。そのあたりは謎のままだ。もしかしたら続編があるのかもしれない。
面白かったのは、警官への質問だ。人間が好きなのか?と尋ねると、警官は好きだと答える。しかしそれが嘘であることはすぐに分かる。
このやりとりから、分かったことがある。人間嫌いは警官になればいいのだ。情け容赦のない取り調べができる。何故か妙に納得した。