三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ある秘密」

2022年09月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ある秘密」を観た。
 
ある秘密 : 作品情報 - 映画.com

ある秘密 : 作品情報 - 映画.com

ある秘密の作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。フランスでベストセラーとなった同名小説をクロード・ミレール監督が映画化。第2次大戦下のフランスで、あ...

映画.com

 

 2007年のフランス映画だ。セシル・ド・フランスはまだ若くて美しい。女の情念と欲望が全開のシーンがあって、思わず息を呑んだ。マキシムを激しく誘うシーンだ。ほんの数秒間だが、凄い演技だった。

 第二次大戦時にフランスのユダヤ人がどのように生きたのか、マキシムとタニアの運命は戦争によって大きく歪められた。冒頭ではマキシムとタニアは夫婦となっているが、そこに至るまでの波乱万丈の展開に、少し驚かされた。
 女の恋は上書き保存、男の恋は名前をつけて保存、などと巷で言われているが、本作品はまさにその通りで、マキシムは過去の愛にいつまでも引きずられる。対してタニアは過去を忘れて現在を生きる。
 語り手でもあるタニアの息子フランソワにも妻と娘がいて、愛の物語は連綿と続いていく。厳しかった父マキシムの心の闇は、熊のぬいぐるみに象徴されて、フランソワの記憶の中にいつまでも消えない。
 
 中原中也は「かくは悲しく生きん世に」と嘆いたが、その嘆きは人類に共通する。本作品は煩悩に苦しみながら生きることを半ば肯定し、煩悩以外で苦しめられる戦争を半ば否定する。全否定でないのは、戦争も人間のすることだからだ。

映画「あの娘は知らない」

2022年09月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「あの娘は知らない」を観た。
 
映画『あの娘は知らない』公式サイト|2022年9月23日(金・祝)公開

映画『あの娘は知らない』公式サイト|2022年9月23日(金・祝)公開

いつかくる別れを思いながら、今日もだれかと繋がっているーーー俊英・井樫彩監督が描く「喪失と再生」の物語。福地桃子×岡山天音初共演作品。

映画『あの娘は知らない』公式サイト

 

 伊東は風光明媚な上に海の幸が豊富で、観光地としてはとても優れている。大室山と隣接するシャボテン公園は家族連れに人気の場所であり、一日中楽しめる。本作品に登場した大室山は富士山のような形をした芝生の山で、山頂からの眺望は一見の価値がある。山頂の道は一周約1キロで、ゆったり歩くととても気持ちがいい。

 観光地には観光地ならではの苦労がある。どんな商売でも食っていくのは大変だが、観光地は人を相手の商売だから、客によっては嬉しいこともあれば困ることもある。有り難い客と迷惑な客がいるのだ。旅館の子供は親を手伝うことが多いだろうから、子供の頃から様々な客と接する。親ほどでもないが、困った経験もあるだろう。同じ年頃の子供に比べて、確実に大人びているはずだ。
 本作品のヒロイン奈々がそうで、他人の存在に動じない。一風変わった俊太郎みたいな男が来ても、平常心で対応する。子供の頃から他人の話を聞くことに慣れているのだ。話しやすいから、俊太郎はついつい自分に起きたことを何でも話す。亡くなった唯子も多分そうだったに違いない。
 
 奈々は最低限のことしか話さない。事実が人を傷つけることがあるのを、奈々は知っている。俊太郎も知っている。奈々が話すか話さないかは、奈々の自由だ。強要することも責めることもできない。それは俊太郎の優しさだ。奈々はそう受け取る。
 自殺した人間が必ずしも不幸だったとは限らない。しかし生き残った人間は自分を責めることがある。奈々は俊太郎にそうしてほしくない。唯子さんはあなたの優しさが好きだったんだと奈々は言う。人を好きになることは幸せなことだ、だから唯子さんは幸せだったに違いないと、暗に言っているのだ。それは奈々の優しさである。
 
 傷ついた者同士が互いの傷を舐め合うことが甘えであるかのようなパラダイムがあるが、それは傷ついていない人間の驕りである。傷ついた人に石を投げつけるのは簡単だ。しかし傷ついた人をいたわるのは相当のエネルギーを使う。ときには自分の立場を危うくすることもある。他人に優しくするのは他人に厳しくするよりもずっと勇気がいることなのだ。
 
 すずらんに似た黄色い花はサンダーソニアである。花言葉は「祈り」。

映画「秘密の森の、その向こう」

2022年09月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「秘密の森の、その向こう」を観た。
 
映画『秘密の森の、その向こう』 公式サイト

映画『秘密の森の、その向こう』 公式サイト

時空を超えた、少女の出会いが浮き彫りにする【女性の深淵】。娘・母・祖母 三世代をつなぐ<喪失>と<癒し>の物語。

映画『秘密の森の、その向こう』 公式サイト

 

 不思議な感動がある。差別的な意味合いではなく、この物語は母と娘だから成立した。父と息子ではまったく別の物語になると思う。いや、そもそも物語にさえならないかもしれない。父と息子がたとえ本作品のように出逢ったとしても、互いに関わろうとしないのではないかという予感があるのだ。

 子宮を持つ者同士にしか分からない感覚というか、本作品からはそういうものが感じられる。同じ監督の映画「燃ゆる女の肖像」でも同じことを感じた。竹林のような存在感なのである。竹は一本ずつ独立しているようにみえるが、竹林の竹は地下で殆どが繋がっている。女たちは竹林のように見えないところで繋がっているような気がする。それは生を肯定する精神性であり、母性と言ってもいいかもしれない。本作品を鑑賞された男性諸氏は如何だろうか。どこか理解不能なところがなかっただろうか。
 
 森の映像が美しい。双子のサンス姉妹が作る秘密基地は、色づいた黄色い葉っぱで飾られる。何をするのでもない秘密基地。少女が作ることで子宮のオブジェのようにも思えてくる。マリオンが秘密基地を作っているときにネリーがやってきたのは偶然ではない。
 8歳の娘は微妙な年頃である。ママゴトをするには年長すぎるし、恋をするにはおさなすぎる。ママゴトの代わりのクレープづくり、恋の代わりのお芝居ごっこがとても楽しそうだ。他人と心を通わせた初めての体験に違いない。
 
 邦題の「秘密の森の、その向こう」はややひねり過ぎた感もあるが、決して悪くはない。原題の「Petite Maman」の「プチ」は多義的な意味合いがあるから、訳すのが難しい。「小さい」「幼い」はどちらもピンとこないし、かといって「子供の頃のママ」というのもおかしい。無理に邦題をつけずに「プチット・ママン」でもよかった。何年か経って、本作品を思い出そうとしたときにはタイトルが「プチット・ママン」のほうがすぐに思い出せそうだ。

映画「スーパー30 アーナンド先生の教室」

2022年09月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スーパー30 アーナンド先生の教室」を観た。
 
映画『スーパー30 アーナンド先生の教室』オフィシャルサイト

映画『スーパー30 アーナンド先生の教室』オフィシャルサイト

貧しくても最高学位は取れる!―世界を変える情熱を描く奇跡の実話/原題:Super 30

映画『スーパー30 アーナンド先生の教室』オフィシャルサイト

 

 インド映画は何がなんでもダンスシーンを入れないと気が済まないようだ。本作品にもノリのいいダンスシーンが登場するが、驚くことにその内のひとつはストーリーに重大な影響を及ぼす。こういう仕掛けはボリウッドの得意技で、流石としか言いようがない。

 インドは共和国で民主主義の憲法を制定しているが、国民の8割はヒンドゥー教徒で、カースト制度に強く縛られている。アンタッチャブルの家に生まれたら社会的に上位の職業に就けないし、階級を超えての婚姻は難しい。そのあたりは同じインド映画の「Sir」(邦題「あなたの名前を呼べたなら」)に詳しく描かれていた。
 本作品はそんなアンタッチャブルの生まれでも努力すればのし上がれるという、言わばインディアンドリームの映画である。日本のテレビドラマ「ドラゴン桜」に似たところもある。つまり本質的には「水戸黄門」や「ドクターX」みたいなお約束のストーリーだ。
 バラク・オバマなどのアメリカ人が、本作品のモデルとなった私塾を高く評価したのも、さもありなんだ。カースト制度に切り込むこともなく、人生の真実は何もないが、エンタテインメントとしては結構楽しめる作品である。

映画「川っぺりムコリッタ」

2022年09月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「川っぺりムコリッタ」を観た。
映画『川っぺりムコリッタ』|2022年9月16日(金)全国ロードショー

映画『川っぺりムコリッタ』|2022年9月16日(金)全国ロードショー

『かもめ食堂』荻上直子監督×松山ケンイチ×ムロツヨシ×満島ひかりが贈る、「おいしい食」と「心をほぐす幸せ」。

映画『川っぺりムコリッタ』|2022年9月16日(金)全国ロードショー

 地方の川沿いの町でのひと夏の物語だ。ストーリーが進むにつれて、蝉の鳴き声がミンミンゼミからツクツクボウシ、そしてヒグラシに変わる。

 本作品は仏教的な要素が強い。仏教は魂の救済というよりも、よりよく生きるための宗教だから、人間が生きるということを深く考察する。生きることは簡単に言えば食べること、そして寝ることである。だからなのか、食べるシーンと寝るシーンが多い。
 大したおかずがなくても、ご飯が上手に炊ければ満足な食事ができる。季節の野菜があれば最高だ。夏は夏の野菜。ウリ系の野菜が体の熱を冷ましてくれる。寝苦しい夏の夜を松山ケンイチが演じる主人公の山田は静かに眠る。
 生きるといえば、性生活も忘れてはならないが、本作品の松山ケンイチやムロツヨシには無理だから、その方面は満島ひかりがひとりで引き受ける。南さんはサバサバとした若い母親だが、性欲もあり、心には闇もある。妊婦の腹を蹴飛ばしたいという衝動は、なかなかの心の闇である。しかし理性で抑制しているから大丈夫だと言う。
 大丈夫じゃないのは山田の隣人のムロツヨシが演じる島田だ。こちらの心の闇は、生きていくことに疲れ果てて死んでしまいたいという願いである。欲望を最小限に生きる姿勢は、ほとんど修行中の菩薩のようだ。大雨が降ると川っぺりのホームレスを心配するのは、自分の境遇が彼らと違わないことを自覚しているからだろう。ミニマリストとはよく言ったものだ。毎日小さな幸せを見つけては、もう少し生きていようと思う。
 そのもう少しが積み重なれば、5年、10年となり、何かが分かる日が来ると、緒形直人の社長さんは言う。如何にも仏教的な励ましで、山田には何の慰めにもならないが、いつまでも自分を受け入れてくれるという社長の覚悟はよく分かる。有り難い話だ。
 ブッダの言葉をまとめた「スッタニパータ」には、悪魔パーピマンから「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのもののない人は実に喜ぶことがない」と言われたゴータマが「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない」と返したと書かれている。
 ゴータマの言葉に主人公の山田が従うなら、違うストーリーになってしまうだろう。しかし本作品は仏教でも原始仏教ではなく宗派が分かれて儀式にこだわる現代の仏教に乗っかっているようだ。失礼な言い方をすれば葬式仏教である。山田は悟りを開くのではなく、世の中と折り合いをつける方向に進んでいく。
 山田の告白は甘えの発露にすぎないが、人と関わって生きていく以上、多少なりとも人に甘えざるを得ない。「スッタニパータ」の「犀の角」にあるように誰とも関わらずに生きていくことを覚悟していた山田だが、ハイツムコリッタの住人や職場の同僚や社長とのふれあいの中で、人に甘えて生きていくことをよしとするようになる。それは山田が寛容を獲得したということでもある。他人の甘えも受け入れるということだ。自分を追い詰めなくてもいい。小さな幸せが今日を生かしてくれるのだ。

映画「ヘルドッグス」

2022年09月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ヘルドッグス」を観た。
 
映画『ヘルドッグス』公式サイト 9/16(金)全国の映画館で公開

映画『ヘルドッグス』公式サイト 9/16(金)全国の映画館で公開

出演:岡田准一、坂口健太郎 監督:原田眞人 正義も感情も捨てた、究極のダークヒーロー誕生!究極のノンストップ・クライム・エンタテイメント!9/16(金)全国の映画館で公開

映画『ヘルドッグス』公式サイト 9/16(金)全国の映画館で公開

 

 基本的に人間は強欲だが、大抵は理性で抑制している。身の程を知るという心の働きで、手の届かないものは最初から欲しがらないところもある。若者の自動車離れの本当の理由はそこにあると思う。

 しかし収入が大幅に増加すると、もっといい環境に住みたくなる。広くて清潔でおしゃれな家だ。車庫もついている。すると欲しくなかった筈の自動車が欲しくなる。家族で賑やかに暮らしたくなりもする。配偶者を求め、子供を作る。産めよ増えよのパラノドライブだ。収入が大幅に増えなくても、今後の収入が高止まりで安定して、しかも定期昇給があるなら、同じことである。
 戦後のベビーブームは避妊具の不足が招いた。アフリカの人口爆発も同じだ。インドネシアやフィリピンでも、避妊具の不足のせいで、コロナ禍の状況で期せずしてベビーブームが起きている。しかしコンドームをはじめとする避妊具が行き渡ると、家族計画という名のもとに、出産をコントロールするようになる。ベビーブームの後には少子化が始まり、出生率は2.0を下回った。それでも高度成長期には出生率が2.0を超えている。それは今後の収入が見込めたからだ。
 要するに、少子化が起きるのは、人々が貧しいからであり、貧しさを自覚しているからである。人間は環境適応能力が高い。つまり身の程を知る能力も高い訳で、将来の収入に不安があれば、子供を作ったりしないのだ。若者を豊かにするか、将来の収入の安定を図るか、子育て費用を極端に安価にするかしなければ、少子化の流れが止まることはない。僅かな金額の子供手当を配っても何の意味もないのだ。政府の少子化対策は根本から間違っている。
 
 それはともかく、収入が増えるほど、人間は本来の強欲という本性を現わす。際限のない欲望だ。より大きな家、より高級な自動車、宝石、腕時計など、物欲はどこまでいってもゴールがない。食欲は微小に変化し、高級食材、高級酒を求める。性欲も変化して、セックスの快感を増すために麻薬を使う。いわゆる「キメセク」だ。
 そこでヤクザの登場である。犯罪組織だが、強盗みたいな危ない橋を渡るのではなく、非合法でも需要のある商売をする。非合法なだけに利益は莫大だ。覚醒剤、密猟、賭博など、主なヤクザのシノギが成り立つのは、それらを求める金持ちの堅気がいるからである。貧乏人は宝石や象牙や覚醒剤よりも今日と明日の食糧を求める。腐っているのはどこまでも金を持っている人間たちである。魚は頭から腐るのだ。
 
 そんな状況を踏まえて本作品を観ると、岡田准一の演じる主人公兼高の立ち位置は頗る微妙だ。敵国で活動する現場工作員みたいに、片時も気を抜けない。並みのメンタリティでは一日たりとも過ごせない極限状況にもかかわらず、兼高はリラックスして平常心でいる。平常心だからこそ瞬時に状況を判断して電光石火の技を繰り出せるのだろう。そういう場面がいくつかあり、大変見応えがあった。
 
 深町秋生原作の映画は役所広司が主演した「渇き」に続いて2作目だ。どちらも、人間の不寛容が暴力という形で出現するシーンが数多い映画である。本作品では不寛容に加えてヤクザ同士の権力闘争と警察トップの悪辣な思惑が絡む。ヤクザも腐っているが、警察のトップも腐っている。腐った組織の末端である警官も、基本的な姿勢は保身だ。二言目には「警察官は民事に介入できません」と言い訳して面倒なことから逃げる。保身だけの警官は、市民を守れない。
 
 原田眞人監督の作品を観たのは「駆込み女と駆出し男」「日本のいちばん長い日」「燃えよ剣」に続いて4作目だが、どの作品にも独特の世界観と厚みがある。本作品は俳優陣がいずれも好演で、観終わった後にズシッとくる重さがあった。

映画「手」

2022年09月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「手」を観た。
手 | 映画 | 日活

手 | 映画 | 日活

趣味、おじさん観察。年上好き。同世代の彼と出会って、日常が、心が動き出すー。『ちょっと思い出しただけ』の松居大悟が描く恋愛のリアル。「ROMAN PORNO NOW」第1弾作品。

日活

 セックスと女性の自立を描いたらこうなりましたといった作品である。男は常に能動的で女は常に受け身だと思ったら大間違いだ。セックスで女がどんなに感じても、どんなに深くオルガスムスに達しても、それで女を支配したと思ったら、それもやっぱり大間違いだ。
 女が恋の奴隷だった時代はもう終わった。いまは女もセックスを楽しむ時代である。性器だけでなく手や口でも女に快楽を与えられるように、男を訓練する。男の快楽は女を悦ばせることにある。女の快楽はそのように男を仕向けることだ。
 キスをする前に「キスしていいですか」と聞いたり、入れる前に「入れていいですか」と聞くのは、男の責任逃れである。女がNOと言わないことを見越しての質問であり、男の狡さが丸見えだ。
 
 セックスは個人的なものだから、人によって千差万別である。性格と互いの関係性に大きく影響される。どのようなセックスを望むかも人それぞれだから、セックスのありようは無限と言っていい。
 大江健三郎が描いた性交は、男は挿入時に形而上的な思考をし、女は男の肛門を刺激するというややこしいものだった。心理描写が的確だったから、なるほどこういうセックスもあるのだなと妙に納得したことを覚えている。
 
 本作品のヒロイン寅井さわ子は現代っ子の側面もあるが、世間の価値観にとらわれないニュートラルな心の持ち主である。「ダサい」という言葉はさわ子にとっては褒め言葉だ。
 おじさんたちの好色も狡さも厚かましさも、さわ子は可愛いと思う。世の中の男たちにしてみれば女神のような女である。
 だから誘われる。そしてさわ子は断らない。幅広い年齢の男遍歴の挙げ句に、さわ子はこれまでの自分が本当に求めていたものを知る。それは父の手だ。そこから卒業しなければ、人生に次のステージはない。
 ラストシーンのさわ子の涙とクスリとした笑顔は、女神あるいは菩薩のようなさわ子のこれからの人生が、きっと晴れやかなものになることを予感させる。とてもいい作品だった。

映画「雨を告げる漂流団地」

2022年09月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「雨を告げる漂流団地」を観た。
映画「雨を告げる漂流団地」公式サイト

映画「雨を告げる漂流団地」公式サイト

スタジオコロリドが贈る長編アニメーション映画第3弾『雨を告げる漂流団地』。大ヒット上映中! Netflix全世界独占配信中!

映画「雨を告げる漂流団地」公式サイト

 

 様々なパラダイムに心が雁字搦めになった子供たちを描く。製作者の意図とは異なるかもしれないが、子供たちの独善的な台詞は、独善的なパラダイムに由来していることがよく解る。それは即ち、子供たちの生きてきた環境である社会そのものが独善的だということだ。

 
 子供たちは羞恥心と虚栄心と嫉妬心に支配されて、心が不自由になっている。それが序盤の設定だ。中盤の前半では団地が漂流しはじめた状況に戸惑い、当面の状況を何とか打開しようとあたふたする。中盤の後半では状況が厳しくなり、ヒステリックになったりもするが、みんなで対策を考えたり、リーダーシップを執ったりする。終盤は大団円に向けて子供たちに最後の試練が待っている。起承転結がはっきりしたメリハリのあるストーリーで、作品としてよくまとまっている。
 
 大冒険を終えると、子供たちは時の流れや時代が移り変わることを改めて理解する。それは価値観も時代とともに変わっていくということだ。つまり時代や大人の価値観は絶対ではないことに気づいたのである。子供たちはこれまで自分たちの心を支配してきたものから少しだけ解放されて、精神的に少しだけ成長する。この 少しだけというところにリアリティがあり、とても好感が持てた。

映画「3つの鍵」

2022年09月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「3つの鍵」を観た。
映画『3つの鍵』公式サイト

映画『3つの鍵』公式サイト

映画『3つの鍵』公式サイト

 

 家族の群像劇である。嘘を吐いたり被害妄想を膨らませたりする大人たちと、自分勝手で意外に強かな子どもたち。父親や母親と息子、夫婦と隣人夫婦、夫と妻。それぞれが互いに不信感を募らせて、関係性が危うくなる。しかし中には常識を持つ大人たちもいて、崩壊しそうな関係を執り成そうとするが、一度でもヒビの入った関係は、二度と元には戻らない。

 被害妄想は恐ろしい。正常な判断ができなくなる。戦争を始める人間たちの動機の何割かは被害妄想に由来すると思う。他国が攻めてきたらどうするか。そう考えて軍事に金をかける。しかしいつ攻めてくるか分からない。ならば攻められる前に攻めてやろう。すでに冷静さを失っている。
 
 娘が被害を受けたかもしれない、あるいは父親からずっと被害を受けてきた。いずれも妄想である。しかしその妄想に支配されてしまった人間は、もはや歯止めが効かない。いつまでも相手を恨み、憎悪し続ける。人生は大幅に狭められるが、そんなことを理解できる精神状態にない。
 反論ができない正論を言い続ける父親は、人間の愚かしさを理解していない。裁判官は現実よりも想定の中で生きている。法は理性だ。理性から逸脱しないことが我々の道だと説かれても、息子には父親が自分を追い詰めているとしか感じられない。父親はそれを自覚しないままだ。
 夫の出張が本当に仕事だけだとは、妻は考えていない。性欲の強い夫が長期間の禁欲生活ができるはずがない。疑念が浮かんでも、否定するしかない。そうしないと生活が危うくなるからだ。騙されているかもしれないという被害妄想は、次第に妻の精神を蝕んでいく。
 
 本作品は愚かな人間たちを描いているが、決して他人事ではないと思う。同じような愚かさは誰もが持っている。かろうじて理性によって抑制しているが、少しでもタガが外れたら、何をしでかすか分からないのだ。被害妄想の恐ろしさはその不寛容にある。他人を許さない。そこに人間の不幸があるのだが、人類はいつまでもそれが理解できない。

映画「百花」

2022年09月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「百花」を観た。
映画『百花』公式サイト

映画『百花』公式サイト

大ヒット上映中!そして、愛が残る。母が記憶を失うたびに、僕は思い出を取り戻していく。

 シューマンの「トロイメライ」が何度も演奏される。繰り返されるのは音楽だけではない。様々なシーンが細部を少しずつ変化させて繰り返される。徐々に光が増幅されて、真実を映し出すようになる。スパイラル構造のリフレインが本作品のストーリーを形作っているのだ。そして光が増幅されると同時に、影も濃くなる。

 母と息子は孤独な人生を送ってきた。それぞれの記憶がそれぞれの人生だ。記憶は個人ごとに異なっているから、同じ出来事でも、自分から見るのと他人から見るのとでは異なっている。そこに自分と他者との越え難い溝がある。
 しかし時々、同じことで喜ぶことがある。本作品ではそれも繰り返される。同じ思い出を懐かしんだり、同じ曲が好きだったり、同じ花を見て美しいと思ったりする。しかしあるとき、気がつく。同じものを見ているはずでも、実は人によって見え方が異なっている。人と人とは完全に解り合えることはないのだ。息子にとって封印したい思い出は、母親にとっては人生で最も楽しかった思い出かもしれない。

 誰も他人の人生を生きることはできないし、他人の死を死ぬこともできない。ただ生きている間に他人と心の通う瞬間がある。あるいはそのように錯覚することがある。その記憶は花のように鮮やかに生き続ける。ときどき買ってきては牛乳瓶に飾る一輪挿しも、長い年月の記憶の中では、時空を超えて集まり、そして咲き乱れるのだ。

 よく出来た作品である。花と花火と音楽のリフレインで、母と息子のそれぞれの光と影を見事に照らし出してみせた。