三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「MINAMATA ミナマタ」

2021年09月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「MINAMATA ミナマタ」を観た。
 
 終始、気持ちをヒリヒリさせながらの鑑賞となった。被害者も日本人、加害者も日本人という図式は、同じ日本人として耐え難いものがある。先の大戦と同じ図式だからかもしれない。
 命や健康は他に代えられない。金持ちは大金を払って自分の健康を買う。その大金は貧乏人が健康を損なってまで無理して働いた成果である。この搾取の構図だけでも納得出来ないのに、その上健康まで害されるのは許しがたい。
 しかしチッソで働く人々は、そのようには感じていなかったらしい。かつてお国のために戦ったように、会社のために体を張る。ひとえに会社が給料を払ってくれるからであり、会社の敵は自分の敵でもあると思っていたようだ。小さなナショナリズムである。相手が外国人ならなおさら容赦しない。高名なカメラマンだろうが関係ない。殴って倒して踏みつけて唾を吐きかける。当時のチッソの社員たちはいまどうしているのだろうか。
 
 テレビでタレントが急な崖を登ったり高い場所の狭い道を歩いたりするのを見るたびに、その映像を撮影しているカメラマンが凄いと思う。どうしてあんな状況で平気で撮影できるのか。聞くところによると、テレビのカメラマンはカメラを構えている限り、恐怖を感じないそうだ。もちろん誇張もあるとは思う。しかし真実でもあるに違いない。レンズとファインダーがひとつのベールのようになって、あたかもテレビを見ているみたいな感覚で撮影しているのだろう。
 
 本作品の主人公ユージン・スミスもまた、ファインダーを覗いている間は恐怖を感じなかったのかもしれない。ジョニー・デップが演じたどのシーンにも、ユージンが怯えている姿はなかった。
 カメラマンは瞬間を切り取るが、同時に時代を切り取っている。魂を傷つけながらシャッターを押すとユージンは言うが、その真意はよくわからない。ただ小説家も似たようなことを言う。魂を削りながら小説を書く。詩人もそうだろう。松尾芭蕉の俳句にも、俳聖の魂を感じる句がある。このサイトにレビューを書かれている諸氏も、本音を書きつけようとすれば多かれ少なかれ、魂を削っているのは間違いない。ユージンの言う意味がそういうことなら理解できる。
 
 かつて原発を誘致した敦賀市長の高木孝一が「50年後、100年後に生まれた子供が片輪になるかもしれないが、原発は金になるんです」と言い放ったが、チッソの経営者も同じ考えだったのだろう。雇用が生まれて人が増え、商店も栄えるし地元が潤う、いいことばかりじゃないかという主張もそっくりだ。最初から原発もチッソの工場も作らなければ、住民は安全に暮らせていたということに思いが及ばないのだろう。原発もチッソの工場も分断を生み、対立を生んだ。沖縄の基地ともそっくりである。
 映画は、同じ構図が世界各地で起きていることを紹介する。一部の人間が儲けるために危険な事業を始める。事故が起きて被害者が出る。利益を優先すれば安全管理が二の次になり、必然的に事故が起きる。郵政を民営化したら郵便物の遅配や誤配、果ては投棄さえ起きてしまった。かんぽ生命は営業成績を上げるために年寄りを騙して契約させている。ノルマを課された局員は、郵便局の制服で安心させて、ひとりから重複していくつも契約させる。テレビCMでは顧客優先だが、実態は利益最優先である。小泉改革の成果は年寄りのなけなしの財を奪うことだったのだ。
 
 人間は結局、自分の利益だけを追求する原始的な生物なのだろう。どれだけ文明が発達して世の中が便利になっても、追い求めるのは自分の利益だ。その欲求が戦争をはじめ、公害を生み出す。そして有権者は自分と同じように利益を追求する同類の政治家に投票する。誰も反省などしないのだ。
 2013年の五輪誘致演説で総理大臣のアベシンゾウは、福島のことを「アンダーコントロール」と得意げに言い、その翌月には水俣病について「日本は水銀による被害を克服した」と言った。被害者のことを微塵も考えない傲慢な発言である。しかしアベはその後の国政選挙で勝ち続けた。
 他人の痛みを共有する想像力、自分の利益が削られても受け入れる寛容、そういったものが世界から失われているのだ。ジョン・レノンがどれだけイマジン!と歌っても、想像力のない人に他人の痛みは想像できない。
 
 アル中のろくでなしだったと思われるユージンだが、チッソの社員に背骨を折られ、片目を失明させられても、訴えることはしなかった。自分に残された時間があまりないことを知っていたに違いない。裁判に費やす時間などないのだ。彼は写真に残りの人生のすべてを賭ける。想像力と寛容を兼ね備えた、尊敬すべき素晴らしいカメラマンだったのだ。ジョニー・デップの名演に拍手。

映画「クーリエ 最高機密の運び屋」

2021年09月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「クーリエ 最高機密の運び屋」を観た。
 
 国家権力の暴力装置はたくさんある。日本で言えば自衛隊、警察、検察、刑務所、厚労省麻薬取締部、法務省出入国在留管理局(入管)などで、人を逮捕監禁する権限を持つ。もちろん逮捕監禁されるのは殆どが違法行為を犯した人間だから、正しく日常生活を営む我々にはあまり縁がない。
 しかし国家主義者が国家権力を掌握すると、これらの暴力装置は違法行為をしていない普通の人々に対しても、些細なことから国家に反逆したという罪で逮捕監禁を行なうことになる。通報が奨励され、通報者に報酬が与えられるようになると、国民は相互監視して、隣人の僅かな行動も漏れなく通報するようになる。息苦しい世の中になるのだ。
 
 実際の運用はどうだろうか。暴力の権限が与えられているのは人間だから、性格や感情に左右される面がある。場合によっては気に入らない人間を引っ張ってきて、時には殴る蹴るの暴行をしたり、場合によっては拷問をする。刑務所や留置場ではストレス発散のために時々囚人を殴ったり懲罰房に入れたり、時には射殺したりするだろう。専用の監察医がいるだろうから病死扱いでチャンチャンだ。
 警察や刑務所以外でも、近頃スリランカ人の女性を殺したことで有名になった名古屋入管や、ペルー人を暴行して後ろ手に縛ったまま放置した大阪入管など、現代の日本の暴力装置は確実に理不尽な暴力を実行している。警察は間違った人間を逮捕しても、間違いを認めたくないから強引に自白をさせる。そのやり方は今でも同じだ。
 取り調べの可視化が叫ばれて久しいが、未だに不十分である。殺人を犯した名古屋入管には被害女性の録画があるにもかかわらず、法務大臣の上川陽子は公開を拒んでいる。何のための録画だったのか。
 
 一番の疑問は、収容者を毎日相手にして何が楽しいのかということだ。刑務所の刑務官は自分たちのことを「先生」と呼ばせていると聞いたことがある。中国語の「先生」は英語の「ミスター」と同じで「~さん」という意味だが、同じ言葉が日本ではお偉いさんに使われるようになった。刑務官がそう呼ばせているのか、受刑者が自分の身を守るためにそう呼ぶのかは不明だが。
 強制収容所では上司の命令で収容者を連れ出したり連れ戻したり、酷い食事を与えたり毛布を奪ったりするようだが、何が楽しくてそんなことをするのか。自分の身を守るためなら、人間は何だってするのだろうか。
 ヒトラーやスターリンなど、政治的に厖大な数の人々を虐殺した指導者は歴史的に非難されるが、それに従った無名の人々はどうなのだろうか。彼らが非難されることはあまりない。生きていくために人間としての尊厳を投げ出したのは不可抗力なのか。
 
 ブラック企業で働く人達がいる。1日15時間拘束で休憩も殆どないような職場である。それでも自分には他に働かせてもらえる職場がないと思ったら、辛くても我慢する。人格をスポイルされても我慢して働く人達が、ブラック企業を支えている。戦前の日本国民と同じだ。
 つまり「お国のため」が「会社のため」に代わっただけで、構図は同じなのだ。それでも政治がちゃんと民主主義を貫いていれば、会社が得た利益をうまく税金で吸い上げて国民に還元することができる。ところが政治が国家主義であれば会社の利益はそのまま国家の利益になってしまい、国民には分配されない。ブラック企業で骨身を削って働いても、何のご利益もないという訳だ。
 ちなみに当方の解釈では、国家主権を国家主義、国民主権を民主主義としている。異論もあるかもしれないが、分かりやすいし、本質をついていると思う。
 
 本作品はとても怖くて、苦しい作品である。普通の市民である主人公グレヴィル・ウィンに、降って湧いたような接触があり、それがCIAとMI6という米英の代表的な対外工作の国家組織なのだから、主人公の不安がどれほどのものか想像もつかない。あっという間に感情移入してしまった。
 そして彼の勇気に感心した。逃げ出さない、放り出さないというウィンの姿勢は、様々な相手に粘り強く商談を進めてきたこれまでの経歴に由来するのだろうか。胸を張って堂々と歩く英国紳士然とした主人公を演じたカンバーバッチの演技力に脱帽である。
 グレヴィルの決して折れない強い心は、現代人の誰もが見習うべきかもしれないが、その強さの源は人それぞれに求めるところがあるだろう。グレヴィルの場合は、彼をリクルートしたCIAの女性エージェントの言葉かもしれない。曰く、核戦争を防ぐためだ。
 冷戦は水面下の情報戦であった。それは国家主義者によって、現代も続けられている。技術の発達とともに形を変え、人間同士の秘密の接触から、軍事衛星やドローンやインターネットなどに取って代わっている。しかし国家間の争いであることに違いはない。グレヴィルやアレックスが目指したのはこんな世の中だったのだろうか。

映画「マイ・ダディ」

2021年09月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マイ・ダディ」を観た。
 
 ムロツヨシはとても上手で面白い役者だと思う。その初主演映画だから期待して鑑賞した。しかし結論から言うと、あまり面白くなかった。泣けないし、笑えない。興奮もしなければ、ハラハラもドキドキもしなかった。どうしてだろうか。
 ひとつは、愛という言葉の使い方を混同しているからだと思う。主人公が牧師だからなのか、やたらに愛という台詞が出てくる。愛の大安売りである。しかし人間同士の愛と神の愛は、異なっている。そのことは新約聖書のルカによる福音書にきちんと書かれてある。少し長いが引用する。
 
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あなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。呪う者を祝福し、辱しめる者のために祈れ。あなたの頰を打つ者には他の頰をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取り戻そうとするな。人々にして欲しいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
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 キリスト教の愛は無限の寛容だ。それが神の愛である。神が愛するように、別け隔てなく愛せとイエスは言うのである。人間同士の愛は、時が経てば風化して跡形もなくなる。しかし神の愛は無限である。
 本作品では主人公の牧師が愛を説くが、神の愛の本質の理解に至っていないままに説教をする。その薄っぺらさが透けて見えるところに、人間的な深みの欠如が感じられる。だから牧師を尊敬できないし、感情移入もできない。
 
 ふたつめは、娘のひかりに愛がないことだ。ひかりは牧師の娘である。聖書や説教に親しんでいる。神の愛についても、一般の中学生よりは理解している筈だ。ならば家の台所事情が苦しいことやそのために父親がアルバイトに勤しんでいることを知って、父親への感謝や愛を持っていなければおかしい。ところがひかりには父を愛する気持ちも感謝もまったく感じられない。自分のことしか考えない我儘娘だ。白血病になったからといって、急に同情できるものではない。それに申し訳ないが、ひかり役の中田乃愛の演技が下手すぎることもあって、こんな娘を愛する父親の気持ちさえ、理解できなかった。
 せめて病院に支払う費用を心配するとか、聖職とアルバイトの他に自分の世話までしてくれる父の身体を案じるとか、そういった場面でもあれば、ひかりに対する見方も少しは優しくできたかもしれない。自分のことはいいから、お父さん無理しないでといったシーンである。もっと言えば、夫の子でない娘を産んだ江津子について、神の愛を父娘で実感するシーンがあればよかったと思う。
 
 ムロツヨシは好演だったと思うが、演出のせいか、空回りしているところが多々あった。主人公が牧師なのだから、思い切りキリスト教寄りに振り切るのもありだった。牧師として聖書の世界から一歩もブレない、落ち着き払って真面目一本槍の役作りも、ムロツヨシなら簡単にできただろう。本作品ではどっちつかずの中途半端な人物像になってしまった。それに、殆ど寝ていないと思われるのにいつでも元気という無限の体力にも、リアリティのなさを感じた。
 探偵の小栗旬に無表情で「結構です」と言ったシーンのムロツヨシが一番ムロツヨシらしかったと思う。あの無表情は他の役者にはないムロツヨシ独特の面白さだ。本作品ではムロツヨシの面白さが十分に発揮されないままに終わった感がある。
 
 奈緒は相変わらず上手だったが、本作品では損な役回りである。演出もくどくて、奈緒のよさが半減していた。本作品ではそこが一番残念である。
 毎熊克哉が歌うシーンは口パクに見えて、胡散臭さを感じてしまった。その後の展開を考えると、胡散臭さは的中していたことになるが、わざとそうしたのだろうか。こんなことを書くと「毎熊克哉さんの名誉のために言いますが、あれはちゃんと本人が歌っています」などとコメントされるかもしれないが、口パクに見えたものは仕方がないと思う。
 光石研は今回はホームレスのチューさん。名脇役ぶりを遺憾なく発揮していた。この人のおかげで、作品が少し救われたと思う。

ピアニスト及川浩治リサイタル「ショパンの旅」

2021年09月27日 | 映画・舞台・コンサート
 サントリーホールでピアニスト及川浩治さんのリサイタル「ショパンの旅」を拝聴。
 <オール・ショパン・プログラム>と題して、演奏と語りを交互に聞かせてくれる。曲目は以下の通り。
 
 ノクターン第20番 嬰ハ短調 「遺作」
 ラルゲット(ピアノ協奏曲第2番 op.21 より第2楽章)
 マズルカ 変ロ長調 op.7-1
 ノクターン第2番 変ホ長調 op.9-2
 エチュード ハ短調 「革命」 op.10-12
 エチュード ホ長調 「別れの曲」 op.10-3
 ワルツ 変ホ長調 「華麗なる大円舞曲」 op.18
 幻想即興曲 嬰ハ短調 op.66
 バラード第1番 ト短調 op.23
 エチュード 変イ長調 「エオリアン・ハープ(牧童)」 op.25-1
 プレリュード 変ニ長調 「雨だれ」 op.28-15
 ワルツ 変ニ長調 「小犬」 op.64-1
 ポロネーズ第6番 変イ長調 「英雄」 op.53
 舟歌 嬰ヘ長調 op.60
 マズルカ ヘ短調 op.68-4
 葬送行進曲(ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.35 より第3楽章)
 子守歌 変ニ長調op.57
 
 アンコールはバラード第4番だった。
 
 及川浩治さんのリサイタルは一昨年も同じサントリーホールで拝聴していて、そのときはベートーベンのピアノソナタ+エリーゼのためにというテーマだった。当時も気合の入った演奏で、今年も同じく気合が入っていた。入りすぎて、子犬のワルツの出だしで失敗をやらかして、再演奏となったのはご愛嬌。何度も聞いている「英雄ポロネーズ」だが、これほど力強い演奏は聞いたことがない。本来は軽やかなこの曲も、及川さんによって力強く壮大な曲になる。素晴らしいリサイタルだった。

こまつ座第139回公演「雨」

2021年09月27日 | 映画・舞台・コンサート
 世田谷パブリックシアターでこまつ座第139回公演「雨」を観劇。
 主演はテレビドラマ「相棒」の「ヒマか?」でおなじみの角田課長を演じている山西惇さん。ヒロインの紅花問屋の一人娘おたかを演じるのは倉科カナさん。
 
 主人公は鉄屑拾いの乞食「トク」である。鉄屑拾いの乞食に拾われて、自分も鉄屑拾いになる。特に五寸釘には敏感に反応して声を上げて拾うのが癖だ。
 ある日、日頃見かけぬ子供人形の年老いた物乞いから、あんたは奥州岩手は平畠の紅花問屋紅屋の若主人喜左衛門にそっくりだと何度も言われる。話によると喜左衛門は半年ほど前に失踪。物乞いはあんたこそ喜左衛門様だと主張して譲らない。否定するトクだが、物乞いの話に出てきた美人との誉れ高いおたかを一度見てみたいと、助平心をおこして江戸から岩手まではるばる出かけていくと、トクを見かけた茶屋の婆が紅屋に連絡。紅屋の使いが迎えに来る。平畠の言葉を喋れないトクに、使いは、天狗にさらわれて頭がおかしくなったんでしょうと助け舟を入れる。これ幸いと、トクは喜左衛門になりすますことにした。
 初めて見たおたかの美しさに圧倒されたトクだが、その晩に久しぶりのセックスとなって、おたかにちんぽを見られると、喜左衛門のよりずっと大きい上に、鈴口のとなりにイボがふたつあると、明らかに喜左衛門ではないことに気づかれる。しかし何故か抵抗しないおたかを押し倒し、トクは三日三晩、おたかとのセックスに明け暮れる。
 文字通り情を交わしたトクとおたか。おたかはトクを本物の喜左衛門扱いし、トクは一日も早く喜左衛門になりきるために平畠弁を習得し、つい鉄屑を拾ってしまう癖を直す。喜左衛門は紅花の栽培に秀でていて、百姓たちは喜左衛門を頼りにしている。トクは紅花栽培の習得にも精を出す。
 うまくいきそうなときに現れたのが江戸のオカマのカマ六。トクはカマ六と一発やったことがあり、そのときにちんぽのイボを知られている。それをタネにカマ六はトクを脅すのだが、トクは隙を見てカマ六を殺してしまう。同じく江戸から来た芸者花虫にも偽物であることを見破られて、こちらも殺してしまう。花虫は本物の喜左衛門と通じていて、居場所を悟ったトクは喜左衛門に毒を盛る。
 これで偽物と証明する人間はひとりもいなくなった。晴れて喜左衛門としておたかと一緒に幸せに暮らせると思ったら、ここからどんでん返しが始まる。
 実はトクに張り付いている使いの者がいて、喜左衛門に毒を持った直後に使いの者が毒を吐かせている。喜左衛門は失踪したのではなく、紅屋も藩も承知の上で隠れていたのだ。喜左衛門は半年前に公儀の死者を殺してしまい、幕府から切腹を申し付けられていた。喜左衛門の紅花栽培の知識やアイデアなしでは平畠はやっていけないと、藩と紅屋が結託して喜左衛門を失踪したことにする。どこかでカタをつけなければならないから、喜左衛門にそっくりの人間を探していて、江戸で見つけたのがトクだった。
 トクの女好きを利用して平畠まで誘導し、トクが喜左衛門ではないことを証明できる人間たちを殺すのを見届け、白装束を着せて白洲へ連れて行く。トクを喜左衛門として切腹を命ずる藩の重鎮たち。見届けるおたか。トクはことここに至っては致し方なく、自分は喜左衛門ではなく拾い屋のトク、乞食のトクであると主張するが、それを証明する人間を自ら殺してしまったことに気づく。
 切腹できないトクは殺されて仰向けに倒され、短刀を腹に刺され、その短刀を自らの手に握って切腹した格好にされる。トクと何度も何度も情を交わしたおたかは、計画どおりとは言えトクの死を素直に喜べない複雑な表情と仕種をする。鈴口のとなりにふたつのイボがあるトクのちんぽが忘れられないのだろうか。おたかの膝の上に頭を置いて死んだトクは、もしかすると一生分の幸せを味わったのかもしれない。
 
 実に深くていい芝居だった。トク役の山西惇さんは、10年前に市川亀治郎(当時)がトクを演じたときはカマ六の役だった。

映画「空白」

2021年09月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「空白」を観た。
 
 本作品を観て思い出したのが、川崎市の万引き中学生の死亡事故である。簡単に説明すると、店主は防犯カメラで万引きを確認、名前を聞いたが何も言わないので警察に通報、警官が連行しようとしたところ、逃げて踏切をくぐり、電車に跳ねられて死亡した。世間はネットや電話、貼り紙等で店主と中学生の双方を非難、中にはチンピラ風の男たちが店を訪れて店主を面罵したという。店主は店を閉めた。
 この事件は法律的な側面と倫理的な側面を区別して別々に考察する必要がある。それに加えて、関わった人々がどのような選択(アンガジュマン)をしたかということが問題になる。
 法的に言えば、加害者は万引きをした中学生だけである。被害者は店主と鉄道会社、事故のおかげで予定を狂わされた乗客である。被害者の数の方が圧倒的に多い。万引きとは即ち窃盗であり、簡単に言うと泥棒だ。泥棒が責められるのは当然だが、被害者が責められることは普通はない。泥棒を見つけて居直り強盗になったところをバットで殴り殺したところで、正当防衛が認められるはずだ。
 倫理的なことを言えば、加害者が中学生であったということで、将来のことを考慮して説諭で済ませられたのではないかという見方がある。それはその場で自分の違法行為を反省して謝罪した場合に限られると思う。店主もそのために説諭の場面を用意した。しかし名前を言うのを拒否された。つまり反省はしない、謝罪もしないという態度である。ならば説諭の機会は断たれたものと店主が判断し、警察に通報したのは実に理にかなった行動である。非難される謂れはひとつもない。しかし店主は世間や中学生の親に謝罪し、閉店してしまった。
 中学生にはいくつも選択肢があった。万引きをするかしないか、発覚したときに逃げるか、素直に謝って許してもらおうとするか、警察が来たら逃げるか、踏切が降りたところで諦めるか、下をくぐって逃げるか。中学生にも事情があったのだろう。考えられる最悪の選択をしてしまった。
 実際に逃げた中学生を追いかけたのは警察官だ。しかし警察官は非難されない。警察官にとって犯人が逃げたら追いかける選択しかないからだろう。
 中学生の親は自分の子供が万引きをした証拠を確認したら、店主に謝罪するという選択はあった。親の動向は報道されていないから不明である。ただ父親は、店が閉店したことを受けて、閉店してくれてよかった、前を通るたびにつらい思いをするからと言ったそうだ。
 
 被害者意識と加害者意識がある。万引事件では被害者意識を持つはずの店主が加害者意識に悩まされ、万引する子供を育てたという加害者意識を持たねばならないはずの中学生の親が被害者意識を持ってしまった訳である。
 加害者意識とは即ち罪悪感である。本作品では急に車の前に飛び出された女性運転手が加害者意識を持ってしまい、最終的に轢き殺したトラック運転手は、不可抗力であるとして加害者意識を持たなかった。
 被害者意識を持った人間ほど厄介なものはない。怒りに直結するからであり、その怒りは簡単には収まらない。モンスタークレーマー、モンスターペアレントなどは、被害者意識に怒りを燃え上がらせた存在であり、加害者に大打撃を与えるか、莫大な補償をされるかしなければ胸のつかえがおりない。
 本作品は事故や事件に関わった人たちの被害者意識と加害者意識を上手に描いてみせた。加えてネット社会の本質も暴く。人間が日頃は巧く隠している悪意が、インターネットではストレートに出現する。現実では常識人で温厚な人と思われている人が、ネットでは冷酷で悪質な書き込みをしたりするのだ。世の中から寛容な精神性が失われていっている証左である。
 
 楽しい作品ではないが、心に刺さるものがあった。古田新太も松坂桃李も名演だったと思う。田畑智子が演じた別れた妻は、常識的で公平で寛容な精神性を代表していて、言いたいことを代弁してくれた気がした。こちらも好演だったと思う。

映画「総理の夫」

2021年09月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「総理の夫」を観た。
 
 何故キスシーンがなかったのか。当然ここはキスだろうと思えるシーンはいくつかあった。その殆どで、妻は顔を夫に向けているのに、夫が避けたように見えた。妻の年齢は42歳という設定だ。演じた中谷美紀の年齢も45歳と近い。昔ならいざしらず、最近の女性は見た目も体力も若いから、40代はまだまだ女盛りだ。ましてやあれほど美しい妻である。キスしないほうがどうかしている。
 原作は未読なので映画の内容からの判断だが、主人公相馬凛子と夫の日和は大学が一緒だったか、幼馴染みたいな関係だ。年齢もほぼ同じだろう。中年夫婦である。出来れば濃厚なキスシーンを演じてほしかった。田中圭か中谷美紀のどちらかサイドからキスNGでも出ていたのだろうか。謎だ。アメリカ映画では不必要なキスシーンがやたらに多いが、本作品ではキスシーンが必要だ。濃厚なキスシーンがあれば、本作品のリアリティが相当に増したと思う。
 
 映画の公開が、たまたま不要不急の総裁選のさなかだったが、外見も中身も美しい相馬凛子に比べて、現実の候補者たちの冴えないこと甚だしい。テレビのアナウンサーが言う、総裁選の勝者が事実上の総理大臣という言い方も引っかかる。その後の衆院選がどうなるかわからないのに、事実上の総理という言い方は、総選挙で与党が勝つことを前提にしている。野党が勝つ可能性もあることを考えると、不正確な言い方である。場合によっては共産党が圧勝して志位和夫や小池晃が総理大臣になる可能性もゼロではない。総裁選の勝者が事実上の総理大臣という言い方は、有権者を誘導している気がする。
 
 作品の評価だが、あまり高評価はできない。主人公の日和が、推定42歳の鳥類学者にしてはおどおど、ビクビクし過ぎている。学者というのはもっと内省的で、分析的である。感情的な行動や突発的な動きはしない人種だ。まして日和は良家のお坊ちゃんだ。泰然自若としているのが自然だろう。しかし本作品の田中圭の演技は、落ち着きがなさすぎである。笑いを取るためであろうとは思うが、笑いのシーンはみんなステレオタイプだった。さあここで笑ってくださいと言われているようである。
 逆に凛子は落ち着き過ぎである。表舞台では政治家として自信に溢れて落ち着き払った態度を取るのは当然だが、裏ではドタバタ、ジタバタしているのが当然だと思う。怒り狂った場面があれば、表舞台とのギャップにリアリティがあっただろう。政策にも演説にも突出した独自性がほしかったが、ありきたりの無難な政策、演説に終始していた。政治風刺映画にもなっていないと思う。
 
 田中圭も中谷美紀も、演技は満点だ。しかし商業主義的な演出によって、それぞれのキャラクターが軽くなってしまった。なんだか吉本新喜劇みたいだった。

画「スパイラル ソウ オールリセット」

2021年09月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スパイラル ソウ オールリセット」を観た。
 
 菅田将暉主演の「キャラクター」で殺人者が告白していたが、人を殺すのは物凄く体力のいることで、ましてや設定通りの殺し方をするとなると、終わったら倒れ込むほど疲れるとのことである。
 本作品は「キャラクター」の殺人者よりももっと猟奇的で複雑な仕掛けで、凡そ重機がなければ不可能だろうと思えるような奇抜で無茶な配置を作り上げている。人間がやるとしたらドウェイン・ジョンソンみたいなごつい男が数人がかりでなければ無理だろう。
 非現実的な殺し方に最初から鼻白んでしまったが、グロい描写には興味がある。欲を言えばグロいシーンがかなり暗かったので、監察医の明るい手術台に持っていって細部までちゃんと見せてほしかった。監察医がテキパキと手際よく捌いていくほどグロさが増すに違いない。それとも特殊メイクの費用を節約したのだろうか。
 
 ミステリーとしての面白さはないことはない。しかし警察署に送られてきたモノを簡単に素手で扱ったり、指紋も取らなかったりと、21世紀の警察にしては対応が雑だ。Fuck you!の言い合いみたいなどうでもいい場面を長くするくらいなら、テンポを遅くしてもう少しリアルな警察のシーンを映してほしかった。
 全体的にリアリティに欠けるから、犯人が割れても驚けなかった。グロいシーンもリアリティがあってこそ気持ち悪かったり怖かったりする訳で、非現実的な方法で殺されても、いや、それは無理でしょうと白けるだけだ。
 モブキャラが無駄に多いのもマイナス。誰が誰かわからないシーンがあった。勝新太郎の「座頭市」みたいに必要最低限の登場人物にすることでキャラクターを浮き立たせれば、いくつかのシーンはもっと光ったと思う。

映画「スイング・ステート」

2021年09月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スイング・ステート」を観た。
 
 選挙に金がかかること、金をかけた方が勝つことは、2019年の参院選広島選挙区のふたりの自民党候補である河井案里と溝手顕正の結果を見れば明らかだ。日本にも選挙のプロみたいなコンサル業者がいて、インターネットでネガティブキャンペーンを展開して相手候補が不利になるように仕向けたりする。そして相応の報酬を受け取る。夫の河井克行が安倍晋三から受け取った1億5千万円はそのたぐいに使われたのだろう。河井案里はまんまと当選した。
 
 本作品の舞台は架空の田舎町ディアラケンの町長選である。普通なら中央政界が見向きもしない選挙だが、現職の対抗馬として大衆受けしそうなキャラクターをネットで発見したとして、選挙参謀の男がスタッフから報告されると、俄然ストーリーが動き始める。
 そのキャラクターはクリス・クーパー演じる退役軍人のジャック・ヘイスティングスである。民主党の選挙参謀である本作品の主人公ゲイリー・ジマーは、紹介された動画を見るなり、ジャックのキャラクターは民主党の格好の宣伝材料になると直感する。早速ジャックのリクルートに出掛けるのだが、一晩泊まって翌朝街に出ると、住民の殆どがゲイリーの名前を知っていて挨拶される。
 そのシーンを観て、この街のネットワークはどれだけ凄いのかと、ゲイリーと同じように訝ったのだが、切れ者のゲイリーなら、もう一歩踏み込んで、どう考えてもその状況がおかしいことに気づいてもよかった。気づけなかったのは、選挙参謀が仕事で獲得票数の数字にしか興味がなく、人々の気持ちに関心を寄せなかったからである。選挙参謀が如何に非人間的な職業であるかがわかる。そして選挙そのものも、非人間的な票読みに堕していることがわかる。
 
 日本の選挙では組織票が票読みの重要な資料となる。しかし考えてみれば、そもそも組織票などという言葉があるのがおかしい。有権者は本来、自分自身の判断で投票を決めるものだ。その前に投票しないと決めるか、あるいは選挙があること自体を知らない人もいるだろう。国会議員の選挙の投票率は50%そこそこだ。
 50%の中に組織票があれば、1票の重さは2倍になる。票読みをするのにまず組織票を考えるのも当然だ。しかし所属する組織や団体の指示で投票するということは、選挙権を売り渡していることに等しい。これは憲法違反ではないのか。
 投票率の低さと組織票の存在というふたつの理由で、日本の選挙は歪んでいる。そしてアメリカの選挙は、宗教が絡むから更に歪んでいる。選挙参謀が商売になる訳だ。
 
 本作品もある意味では選挙の歪みにメスを入れていると言えなくもないが、選挙の歪みはそもそも有権者の自覚不足が原因だ。組織票は結局自分の利益だけを優先している投票行動である。本作品は有権者の責任には何も触れずじまいである。ラストシーンに驚きはしたが、ディアラケンの有権者も自分の利益だけを優先しているのがわかって、あまり愉快ではなかった。

映画「君は永遠にそいつらより若い」

2021年09月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「君は永遠にそいつらより若い」を観た。
 
 敗北主義万歳。そう言いたくなる。佐久間由衣が演じたホリガイは、負けることを前提にして生きてきたと告白する。公務員になれたのも運がよかっただけだと言う。この人生観は素晴らしい。
 
 人を勝ち組と負け組に分けて、なんとしても勝ち組に入れと命じる教育は、負け組を切り捨てる教育である。人をピラミッドのようにランキングして、上位から段々と収入が減少していく社会を保持しようとしている。逆に言うと、人を職業で分類して、高収入の人間がヒエラルキーの上位にいて社会を動かし、下位の人間は繰返し単純労働力として低収入に甘んじる。
 上位の人たちの子供は教育に費やすお金があるから成績がよく、高収入の職業に就くことができる。東大生の親の6割は年収1000万円以上である。しかし下位の人たちの子供は塾にやるお金も参考書を買うお金もなく、場合によっては学校を休んで働かされる。これではよほどの天才を除いて成績が上がらないから、落ちこぼれとなる。親は成績が悪いことを責め、子供はますます内向する。口を利かない子供に腹を立てた親は、暴力を振るったり放置したりする。
 という訳でホリガイが役所で担当することになっている児童福祉司の仕事は、ほとんどランキング下位の人たちの子供が対象だ。自分が負け組だと思っているホリガイには落ちこぼれの子供の気持ちがわかるだろうから、関わった子供は救えるかもしれない。しかしホリガイがどんなに頑張っても、勝ち組負け組のパラダイムがなくならない限り、すべての児童を救うことは出来ないだろう。やるせない人生がホリガイを待っている。
 
 役者陣はみんな好演だったと思う。特にヨッシーを演じた小日向星一が自然な演技で、とてもよかった。主人公ホリガイに大きな機会を与える役で、日常的で無造作な感じが素晴らしい。その反面で苦悩を抱えている様子も見せる。
 このところ映画に軸足をシフトした奈緒だが、いろいろな作品に引っ張りだこだ。この人は独特な台詞の間と、個性的な柔らかい声に存在感がある。映画「はるかの陶」を観て、女優さんとしての大きな可能性を感じた。その後は大活躍である。
 本作品ではホリガイの相手役?のイノギを演じ、友達の少ないホリガイが本音で接することのできる唯一の存在となる。クライマックスのひとつであるホリガイとのラブシーンは、演出だったのだろうが、イノギは大胆にディープキスに挑む。処女の設定のホリガイが受け身でイノギが攻める側になる。観ていて、ここはキスをする展開だろうなと思っていたら、その通りになった。必然的な展開だったのだろう。奈緒も佐久間由衣も見事な演技であった。リアルで美しいキスシーンである。
 
 学校の成績で子供をランク分けする教育が児童虐待の温床となっている。中には成績が悪くても芸術やスポーツで目覚ましい活躍をする子供もいるかもしれないが、そういう子供たちも収入ランキング下位の人たちからは出現しない。芸術もスポーツもお金がかかるのだ。大多数の成績下位の子供たちは、収入上位には行けない。繰返し単純労働力でも熟練工になれば高収入になるような仕組みを作らなければならない。
 加えて、低収入の人たちにも芸術や文化に触れられるような対策も必要だ。政府は予算を使い切るために箱モノを造って終わりにするが、同じ箱モノを造るなら、図書館をたくさん建ててほしい。一駅隣りの図書館にたまに行くが、席が埋まっているから長居するのが難しい。図書館は無料で長く勉強できる場所であり、下位の子供たちに逃げ場にもなる。全国に図書館を増やすのは喫緊の課題だと思う。
 格差が児童虐待の温床であることは誰でもわかっている。格差を是正して収入ランキング下位の人にも、健康で文化的な最低限度の生活を保障する。それが国の役割だ。児童福祉司に激務を課すのではなく、児童福祉司が不要の世の中にしていかなければならない。負け組を自認するホリガイの望みも同じだろうと思う。敗北主義万歳。