三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「NOPE ノープ」

2022年08月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「NOPE ノープ」を観た。
映画『NOPE/ノープ』公式サイト

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『ゲット・アウト』『アス』のジョーダン・ピールが贈る最新作『NOPE/ノープ』大ヒット上映中。平穏な田舎町を襲う、突然の脅威。広大な荒野を覆う巨大な影、青空に吸い込...

映画『NOPE/ノープ』公式サイト

 

 ジョーダン・ピール監督の他の作品と同様、ネタバレ厳禁である。ネタバレした後の収束も他の作品と同じように手際がいいのだが、本作品はそれほどスカッとならない。

 極限状況に直面した主人公と、正常性バイアスによって彼らを信じない人々。チンパンジーの一件は、主人公の兄妹に降りかかる災難のメタファーだと思う。他の動物をある程度は馴致したり調教できたりしても、完全に人間の思いどおりにはならない。多分そういうことだ。

 序盤から中盤にかけては、伏線を散りばめるためなのかどうにも物語の進行がのろのろしている。恐怖感や緊迫感がないから、物語の行方に興味を失いそうになる。簡単に言うと眠くなるのだ。終盤の急激な変化の展開が待っていると知っていたら、すべての伏線を刮目して観ていただろうと悔やまれる部分はあるが、前半に緊張感をもたらさなかったのは制作側の失敗だと思う。ネタバレを観ても、なるほどね、としか感じなかった。

映画「激怒」

2022年08月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「激怒」を観た。
激怒 RAGEAHOLIC

激怒 RAGEAHOLIC

 

 

 諏訪湖に行ってきた。広さはあるが、最深部の水深が5メートルもない水溜りみたいな湖である。天竜川に流出していて、天竜川沿いには伊那や飯田があり、中央本線側には釜無川があって、富士川となる。新宿から中央本線の下りに乗ると、上諏訪駅の4つ手前に富士見駅がある。

 全国に富士見町という地名はたくさんあるが、地方自治体としての富士見町は長野県の富士見町(ふじみまち)だけだ。本作品の舞台は富士見町(ふじみちょう)だから、一応は架空の町ということになる。
 
 富士見町は2005年3月24日に「富士見町安全のまちづくり条例」を制定している。その中には注目すべき条文がある。
・町は、社会に危険を及ぼす集団等の活動の抑止に努める
・町は、青少年の健全育成を図るため、青少年を取り巻く環境の整備その他青少年の健全育成を阻害するおそれのある行為を防止する施策を講じる
・生活安全指導員は、犯罪の発生を未然に防止するための街頭啓発活動を行うほか、生活安全のために必要な活動を行う
 
 本作品と長野県富士見町は無関係だが、上記の条例を極端に解釈して実力行使をすることを想像すれば、誰でも本作品のような自警団に思い至る。
 当然かに思えるような条例でも、その背後に家父長制度的な全体主義があると、人権を平気で蹂躙する方向に走りかねない。戦争は平和の顔をしてやってくる。詐欺師は親切心を装って声をかけるのだ。
 登場人物の終盤の台詞に「どこへ行っても変わらない、日本全国同じだ」という発言があるが、町内会長を顎で使う影の人物が登場するといった、全国的に自警団暴力が広がっていると思わせるようなシーンがないから、現実味に乏しい。
 
 タイトルの「激怒」は、怒り狂って暴力を振るうという、誰でも思いつく「激怒」だったので、ちょっとがっかりした。自警団の暴力に対して暴力で対抗すれば、暴力の連鎖が起きるだけで、非暴力の世の中にはならない。自警団の目を盗んで草の根運動を展開するストーリーでもよかった気がする。静かに地道にレジスタンスを組織していく「激怒」なら、ある種の意外性で受け入れられたと思う。

映画「サバカン SABAKAN」

2022年08月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「サバカン SABAKAN」を観た。
映画『サバカン SABAKAN』公式サイト

映画『サバカン SABAKAN』公式サイト

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 中村雅俊が主演した「俺たちの旅」というテレビドラマがあった。テーマ曲を小椋佳が作詞作曲していて、エンディングの「ただお前がいい」の歌詞の終わりは次のようだ。

 
 また会う約束などすることもなく
 それじゃまたなと別れるときの
 お前がいい
 
 小椋佳の歌には時の流れについての歌詞がよく出てくる。人生は諸行無常、出逢いと別れを繰り返す。曲調はたいてい物悲しい。しかし「ただお前がいい」だけは、物悲しさよりもほのぼのとしたあたたかみがある。
 
 本作品の孝明と竹ちゃんの関係にも、しみじみとしたあたたかさがある。互いに「またね」を繰り返しながら別れる。それは多分、いい思い出に違いない。
 
 子供の頃の想い出には、どこか物悲しさがついて回る。陽光の降り注ぐ暑い夏の記憶も、何かしら肌寒さのような実感を伴って思い出される。それは学校の仕組みのせいかもしれない。学期が三つに分かれていて、それぞれの学期の終わりに長期の休みがある。休みが終われば次の学期、それが終わると再び休みだ。時の流れを否応なしに実感せざるをえないのである。
 しかしそれだけではない。学校には卒業がある。つまり別れだ。校舎との別れ、教師との別れ、同級生との別れ。心を通わせた友だちとの別れは特に辛い。思わず涙が溢れることもある。そしてやがて悟る。さよならだけが人生だ。
 
 小学校時代の同級生と未だに連絡を取り合っている人は少ないと思う。当方も小中学校の同級生は連絡先さえ知らない。学校の友だちの殆どは馴れ合いの関係だ。何の益にもならない。
 しかし本作品の孝明は、竹ちゃんから勇気を教えてもらった。この思い出は孝明の一生の宝になったはずだ。なんだか羨ましい。

映画「凪の島」

2022年08月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「凪の島」を観た。
映画『凪の島』公式サイト

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瀬戸内の小さな島で暮らす少女の心の成長を描いた、ひと夏の物語。Foorinメンバー・新津ちせ 主演!2022年 ロードショー!

 日常生活で凪(なぎ)という言葉を使う機会はあまりない。対義語の時化(しけ)はときどき天気予報で聞くことがある。それぞれ動詞にもなり、凪る、時化るという具合に使う。凪るは、心が落ち着くというときにも使い、時化るは景気が悪いというときにも使う。カツアゲしたチンピラが、取り上げた財布の中身が少ないのを見て「チッ、時化てやがんの」と捨てぜりふを吐いたりする。
 野口雨情が作詞した「波浮の港」には、♫明日の日和は(ヤレホンニサ)凪るやら♫という一節がある。凪るという言葉はいいことに使われている。

 本作品は瀬戸内海の島が舞台である。漁師町だから、凪という言葉はいい意味であり、その名を持つ子供は自然にみんなに歓迎される。凪はその名前の通り、穏やかな心の持ち主だ。
 タイトルの「凪の島」は、凪という女の子が住んでいる島という意味の他に、島全体が穏やかに落ち着いているという意味もあると思う。
 凪の海を凪が泳ぐシーンがとても効果的に使われている。海水浴は入浴と同じように健康にいい。凪はいつも海に癒やされているのだ。

 何事も永遠に続く訳ではない。凪の島も人がやってきたり出ていったり、少しずつ変化している。いつ大地震が起きて島全体が沈んでしまわないとも限らない。
 それでもここで生きる。人を信じて生きていくのだ。人を疑うよりも人を信じる人生のほうがずっと楽である。無償の行為が人々の日常だからこそ、島はいつも凪なのだ。

映画「アートなんかいらない! Session1 惰性の王国」

2022年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アートなんかいらない! Session1 惰性の王国」を観た。
 終映後のトークは「表現の不自由展」の検閲と妨害についてが殆どだったが、作品はアートとは何かという本質に迫る。
 15000年前から5000年前まで、1万年も続いた縄文文化にハマった経験からすると、天皇の歴史はたかだか2000年程度、随分最近のことだと、山岡信貴監督は言う。だから天皇の写真が入ったコラージュを燃やしたからといって、全然大したことではない。こんなことで騒ぎ立てるのはどうかしているという感覚だそうだ。
 その感覚は理解できる気がする。古事記や日本書紀といった神話にしか根拠がない天皇の系図など、怪しすぎるものを簡単に信じてその権威を畏れるという精神性は、子供じみていると言わざるをえない。イエス・キリストの奇跡を信じるのと五十歩百歩だ。
 
 権威の反対側には必ず差別がある。権威主義者はおしなべて差別主義者だ。権威の前で人権を軽んじるから、差別主義者になる。必然である。
 もっと人間は自由なはずだ。権威からはもとより、言葉や概念からも感覚を解き放つことができる。縄文時代はそうだった。ただの鍋や皿に複雑な文様を施す。多分そうすることが楽しかったからに違いない。
 アートとして身構えるから息苦しくなる。商業主義が絡めばなおさらだ。縄文人は何のしがらみもなく、嬉々として造作をしていたのだろう。羨ましい気がする。

映画「荒野に希望の灯をともす」

2022年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「荒野に希望の灯をともす」を観た。

http://kouya.ndn-news.co.jp/

 小さな巨人。その呼び名が彼ほどふさわしい人間はいなかった。寛容と思いやりが心の広さだとするなら、彼ほど心が広い有名人を他に知らない。

 彼が殺されたとき、私はブログに次のように書いた。
 
 *****************
 国境なき医師団の中村哲が撃たれて死んだ。
 国内で有名なボランティアの尾畠さんと同じように、善意しかない人だった。もし尾畠さんが撃たれて死んだら、我々はどのように感じるだろうか。世の中にそんなひどいことをする人がいるのかと愕然とするだろう。
 中村哲が撃たれて死ななければならない理由など、この世に存在しない。にもかかわらず、彼は撃たれて死んだ。世界が彼を殺したのだ。この世の善意を我々が支えきれていないから、彼は撃たれてしまった。
 中村哲が撃たれて死ぬ世の中は、優しさに欠ける不寛容な世の中だ。愛くるしい子猫が惨たらしく殺されるのを黙ってみている世の中だ。生れたばかりの子供が爆弾で殺される世の中だ。ねじれた脚と乾いた涙だけが残る世の中だ。谷川俊太郎でなくても、中村哲が殺される世の中がどれほど酷い世の中であるかは解る。
 我々は我々自身に問わなければならない。どうして中村哲は殺されなければならなかったのか。
 *****************
 
 なんとも情緒的で性急な文章ではあるが、言い訳をすれば、自分も中村哲を殺した側にいる気がして、いたたまれなかったのだ。
 いままた映像の中で観ることができた中村哲は、相変わらず寛容で、自省的だ。低姿勢で柔らかな物腰ながら、内に秘めたエネルギーは無尽蔵で、その行動力は疲れを知らない。
 外国人を殺すための武器を着々と装備する政治家がいる一方、中村哲は武器は平和にそぐわないと一蹴する。暴力に暴力で対応していては、いつまでも平和は来ない。大切にするべきはただひとつ、国の威信や利益ではなく、人の命なんだと、それが平和ということなんだと、力強く主張する。
 
 本作品は中村哲の偉業を紹介するとともに、アフガニスタンやパキスタンの惨状も明らかにする。貧しく、傷ついて、無力な人々の群れ。アメリカは911の首謀者はアフガニスタンだと決めつけて、爆撃し、機銃掃射をする。
 
 人間は自然の一部で、自然の恩恵を受けて生きているというのが中村哲の世界観である。自然を制御できるなどというのは人間の驕りに過ぎない。謙虚に自然と向き合って、自然を理解し、人々が健康に生きられるようにしなければならない。それが第一義だ。医師として病気を治すより前に、健康な生活を取り戻させなければならない。だから井戸を掘る。用水路を建設する。
 
 腹立たしいことがあっても、本作品の中村哲を思い出せば、腹も立たなくなる。正しい人も悪い人も、中村哲は分け隔てなく治した。自然が善人と悪人を区別しないのと同じだ。命に区別はない。すべての命を大切にする。それが平和だ。まさしく中村哲の言う通りである。
 いつか人類が、他人を敵と味方に分けて争う愚かしさに気づいたとき、初めて中村哲の偉大さを理解するだろう。人類はそのときまで滅びずに存続しているだろうか。

映画「失われた時の中で」

2022年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「失われた時の中で」を観た。

 またしても悪名高きモンサント社が登場する。農家を苦しめて世界に遺伝子組み換え作物を蔓延させることで、巨額の利益を生み出しているコングロマリットである。ベトナム戦争の枯葉剤を開発し、米軍に提供していたのだ。最近ドイツのバイエル社に買収されたが、実態は何も変わらない。

 本作品はベトナム戦争の是非ではなく、枯葉剤散布という非人道的な作戦を追及する。あくまでも被害者の側、障害を持って生まれた人とその親兄弟たちの苦しみにカメラを向ける。
 ひたすら悲惨である。自分が死んだら社会が娘を養ってくれるだろうが、それでも娘が先に死んだほうがいいと、母親は正直に告白する。誰も彼女を責めることはできない。人生に何の喜びもなく、ただ苦しみだけがあるのだ。
 しかし終映後の舞台挨拶で坂田雅子監督は希望を失っていない姿勢を見せた。それは夫を亡くした喪失感から立ち直り、後に再び世の中と向かい合うことが出来るようになった経験に裏打ちされた姿勢だ。
 
 ベトナムは社会主義国だから役人の権限が大きい。権力は人間を必ず腐敗させるので、政権交代が起きない政権は必ず腐敗する。統一教会とズブズブの関係の自民党がいい例だ。ベトナムの役人は日本の役人よりもずっと腐敗していて、賄賂を渡せば大抵の正規の書類が手に入る。日本に来る留学生や技能実習生は日本語の能力が皆無でも、書類には日本語能力のランクが記されている。
 逆に言えば、賄賂を渡すことができない貧しい人は、福祉行政の恩恵を得られないということだ。国内に救いはない。かといって加害者たるアメリカは、奇形の子供の誕生と枯葉剤の因果関係を決して認めようとしない。国内でも国外からも救済されず、枯葉剤の被害を受けた人々は一生不幸な人生を送ることになる。
 
 アメリカとソ連のどちらが正しかったのかとか、資本主義と共産主義を比較したりすることよりも、人間の寛容についてもっと考えるべきだと思う。どんな政治体制でも、利己主義と独善と不寛容が蔓延していれば、弱い人、貧しい人は救われない。坂田雅子監督は立派である。ベトナムの枯葉剤被害者の子どもたちのために募金を募り、病院の存続と就学を支援する。
 日本の百貨店のニュースがあった。世界の高級時計展が日本橋三越で開催されている。1億円を超す腕時計が売れているそうだ。1億円あれば、ベトナムの子供が1000人、3年間就学できる。人類は金の使い方を間違えている気がする。

映画「新章パリ・オペラ座 特別なシーズンの始まり」

2022年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「新章パリ・オペラ座 特別なシーズンの始まり」を観た。
映画『新章 パリ・オペラ座 ~特別なシーズンの始まり~』公式サイト

映画『新章 パリ・オペラ座 ~特別なシーズンの始まり~』公式サイト

世界的パンデミック禍、バレエの殿堂に訪れた葛藤と静寂。新エトワール誕生までの軌跡を追った-情熱のドキュメンタリー。映画『新章 パリ・オペラ座 ~特別なシーズンの始...

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 劇場でバレエを観たことは一度もないが、本作品を観ると、何故かバレエの公演を観たような気になる。そして少し感動する。バレエ作品にではなく、ダンサーや演出家の熱意と努力に感動するのだ。

 体力の4要素という考え方がある。瞬発力、持久力、調整力、それに柔軟性である。スポーツや格闘技にはどの要素も必要だが、ダンスにおいては、すべての要素を最高レベルにしておかないと、ポテンシャルを十分に発揮できない。
 そのために気力の充実が必須なのは言うまでもないが、コロナ禍のせいで長い間まともな練習ができない日々が続き、どのダンサーもモチベーションを上げるのに苦労している。気力が充実していないと集中力が散漫になり、能力を出せないだけでなく、怪我をする恐れもある。演出家はそこを一番に心配する。

 バレエ公演の準備から本番までをダンサーや演出家の目線で見せてくれたのは、実に有意義であった。ナタリー・ポートマンの「ブラック・スワン」では、主役を勝ち取るためにダンサー同士が鎬を削る様が描かれていて、バレエそのものはちっとも魅力的ではなかったが、本作品を観て少し見方が変わった。
 ミュージカルやオペラを鑑賞するように楽しめばいいみたいだ。といっても、日本ではバレエのチケットは結構高いので、同じ金額で映画が5本以上観られるなら映画の方を選んでしまう。バレエダンサーの収入がチケット収益に頼らなくていいような文化の保護ができれば、バレエのチケットももっと安くなるし、日常生活にバレエ鑑賞が組み込まれやすくなる気がする。
 しかし文化を保護する気がない日本の政府にはそんなことは到底無理だ。だから優秀なダンサーは海外に流出してしまうのだろう。

映画「灼熱の魂 デジタル・リマスター版」

2022年08月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「灼熱の魂 デジタル・リマスター版」を観た。
映画『灼熱の魂 デジタル・リマスター版』公式サイト

映画『灼熱の魂 デジタル・リマスター版』公式サイト

『DUNE/デューン 砂の惑星』ドゥニ・ヴィルヌーヴ、伝説の出世作 8月12日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテほか全国順次公開

映画『灼熱の魂 デジタル・リマスター版』公式サイト

 

 ドゥニ・ヴィルヌーヴの才能がストレートに現れている傑作だ。ストーリーといい、シーンの章立てといい、わかりやすい上に、それぞれの冒頭からいきなり心を鷲づかみにしてくる。問答無用の理不尽さが画面から溢れ出て、観ているほうの喜怒哀楽を超越してしまう。凄い作品である。

 
 亡くなった母ナワル・アルマンとはどんな人物であったのか。子供である双子のジャンヌとシモンが辿っていく先には、ナワルの波乱万丈の人生が険しく聳え立っている。難攻不落のその頂きを目指して一歩一歩近づいていくが、ジャンヌはあまりの息苦しさに胸がつかえそうになる。

 宗教と戦争はナワルの人生に、不安と恐怖と苦痛とそれに災厄しかもたらさなかった。それでもナワルの心には愛があり、難民だった恋人との間に生まれた子供を生涯愛し続ける。愛の深い人は憎しみも深い。殺された幼い息子のために、ナワルはもぐらにもなった。しかし憎しみの連鎖は、さらなる不幸を誕生させる結果となる。人間の誕生は、愛のはじまりであり憎しみのはじまりであり、不幸のはじまりなのだ。
 
 映画「メッセージ」でもヴィルヌーヴ監督は数学的なアプローチをしていたが、本作品ではジャンヌの職業が大学の数学助手となっていて、監督の世界観の源流に触れた思いがした。映画全体がパズルのように決まった場所にきちんときちんと当てはまっていく様は大変に幾何学的であり、その完成度の高さに思わず唸ってしまった。

映画「ストーリー・オブ・マイ・ワイフ」

2022年08月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ストーリー・オブ・マイ・ワイフ」を観た。
映画『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』オフィシャルサイト

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あなたに会った日から、私は愛を求めた あなたと別れた日から、私は愛を知った 出演:レア・セドゥ、ハイス・ナバー、ルイ・ガレル、セルジオ・ルビーニ、ルナ・ウェドラー...

映画『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』オフィシャルサイト

 

 最初はゲームのようにはじまった。短いハニームーンの後、ジェイコブは船長として数ヶ月の航海に出る。待たされるリジーと待たせるジェイコブ。心配する者とされる者、求める者と求められる者。関係性は常に相対的で誘導的だ。

 この種のゲームは大抵の場合女が勝つ。精神的なタフネスさが要求されるからだ。男は打ちのめされ、女は打ちのめした男の傷を手当する。ゲームは次々に展開し、次第に男は疲弊していく。そして新たな癒しを求めはじめる。別の女だ。
 
 肉体の関係はいい。快感が精神を安心させ、落ち着かせる。それがなくなったらもはや男と女ではない。ただの同居人、または友だちだ。そして都会の生活には金がかかる。金銭問題が加わると、ゲームは一層複雑さを増す。そうなると一瞬でも隙きを見せたほうが負けだし、あるいは隙きを見いだせない場合も負ける。
 
 結婚は健康にいいとコックにすすめられてはじめた夫婦を演じるゲームだったが、幸せの炎はやがて悩みのタネに変化してしまう。人生に大工はいない。素人に修復は難しい。
 はじめは誰もが愛を語るが、年月が経過して色褪せてしまうと、誰も愛を語らなくなる。愛を語らなくなったときこそ、信頼がさらに深まるきっかけとなるのだが、大抵の人はそこまで待てない。愛は朝露のように消えていく。
 
 リジーを演じたレア・セドゥもジェイコブのハイス・ナバーも、大変見事だった。ハイス・ナバーが1980年生まれと、意外に若かったのが驚きだ。レア・セドゥは1985年生まれ。いままさに脂が乗りきっている。