三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「インセプション」

2020年08月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「インセプション」を観た。
 10年前の作品だが、こういう設定のアクション映画は初めてなのでとても新鮮だった。同じことを別の作品でやろうとしても相当に困難だろうから、おそらく唯一無二の作品なのだろう。
 出だしからして難解だ。歳を取った渡辺謙?、いやデカプリオは若いけど?、若い頃の渡辺謙?、デカプリオはあまり変わらないような?などと思いつつ、前知識ゼロだったので何のことかさっぱりだったが、映画はそのへんの説明を後回しにして問答無用の戦闘に突入する。
 エレン・ペイジ演じる女子大生アリアドネのリクルートに絡ませて夢と現実の行き来と夢のコントロール、それにクスリの働きを説明する構成はとてもよく出来ている。理論にはやや無理があるので完全な理解は不可能だが、要するにそういう設定なのだということは理解できる。
 意識:無意識の割合は1:数万と言われているから、人間の脳の働きの殆どは無意識である。夢は大部分が無意識で、殆ど目が覚めたら忘れてしまっているが、中には印象的な夢もあって、家族に話したりすることがある。それは夢の中に意識が入り込むことがあるからだ。そもそも意識と無意識の境界線は曖昧で、同じ脳の働きだから日常的にオーバーラップが起きている。夢は意識の領域とも無意識の領域とも言い難いのだ。
 しかしそんなことを考えているうちにストーリーはどんどん進んで、理由も疑わしい目的のためにプランを立て、仲間を集めていざ実行となる。エビデンスよりもアクションということで、ヒエラルキーのように上から下へ影響を及ぼす複数の世界でそれぞれがそれぞれの役割を果たす。登場人物の役柄が立っているからちゃんと区別しながら鑑賞できるところもよく考えられている。
 世界観や善悪などを考えないで、この不思議な作品のアクションを単純に楽しむのがいいと思う。ハラハラ感もドキドキ感もワクワク感も十分にある。多分何度観ても面白いはずだ。

映画「事故物件 恐い間取り」

2020年08月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「事故物件 恐い間取り」を観た。
 意外に怖かった。この手の映画は巻き込まれた人たちの極限状況が、周囲の人たちの平穏な日常と比べてどれだけギャップがあるかによって恐怖感が違ってくる。一般社会と隔絶した寂寥感や無力を自覚した危機感があれば尚怖い。
 本作品は主人公が平穏と極限を行ったり来たりするし、テレビの企画ということもあって沢山の人々が注目していることから、怖さはさほどでもないだろうと思っていた。亀梨和也と瀬戸康史は表情の乏しいのっぺりとした演技で、この二人だけだったら予想通りの怖くないホラー・コメディになっていたと思うが、相手役の奈緒と不動産屋さん役の江口のりこの怪演のおかげで予想外に怖い作品になったと思う。
 特に奈緒は主役級のはたらきをしていて、演じた梓ちゃんの設定がいい。途中から梓ちゃんの視点で鑑賞したら主人公ヤマメの視点で観るよりずっと怖かった。ということは最初からヤマメの設定を梓ちゃんの設定にしておけば、周囲の誰からも理解されない孤独と孤立に追い込まれるから、もっとずっと怖かったかもしれない。そうなると霊感のない梓ちゃんは主人公を理解できない立場になって複雑な演技が要求されることになるが、奈緒ならこなせそうな気がする。そして孤立無援の主人公を助けるためには不動産屋さんがさらに怪演をしなければならないが、これも江口のりこならやれそうである。最大の問題はそういう孤立無援の主人公を演じるのは亀梨くんには難しいということだ。
 出演者の顔ぶれからすると、それぞれの所属会社の思惑が交錯しているのは誰にでも判る。製作者はかなり苦労した筈で、中田監督の思い通りにならない部分もあったのだろう。「リング」とはかなりテイストが異なっていた。作品としての評価は3.0くらいだと思うが、奈緒の好演と江口のりこの怪演を0.5プラスして3.5としておく。

映画「Mr. Jones」(邦題「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」)

2020年08月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Mr. Jones」(邦題「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」)を観た。
 この8月には第二次大戦当時の映画を4本観た。「海辺の映画館 キネマの玉手箱」「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」「ジョーンの秘密」「この世の果て、数多の終焉」である。そして5本目が本作品だ。5本とも戦争映画としては異色の作品で、それぞれに戦争に対するスタンスが異なっている。
 本作品ではヒトラーが首相に就任した1933年に直接本人にインタビューをしたガレス・ジョーンズという実在のジャーナリストを主人公にして、一時期彼が顧問を務めたロイド・ジョージの名前を有効に活用するなど、あらゆる手を使って真実に迫ろうとした取材の顛末を描く。
 映画の語り手がジョージ・オーウェルであることは作品の後半で漸く明かされるが、これはたぶん最初から分かっていたほうが観やすいと思う。蛇足ながらジョージ・オーウェルは「1984年」という小説でスターリン(小説内では「偉大な兄弟」)をモデルとした独裁抑圧国家の惨状を描いている。本作品の主人公ジョーンズと面識があったかどうか定かではないが、全体のために個を犠牲にするファシズムやスターリニズムを嫌っていた。
 KY(ケーワイ)という言葉が日本で一時流行した。その場の空気を読めないという意味で、あいつはKYだからなどと人を非難するときに使う。また空気を読めと強要することもある。テレビでも「お前、空気読めや」などと芸人が頭を叩かれるシーンを見たことがある。一般人の間でも他人のことを空気を読めないといって悪口を叩くことがあり、それを聞かされる度に違和感を覚えていた。
 空気を読めないと非難されるのは何故か。そもそも空気を読むとはどういうことか。どうして空気が読めないといけないのか。空気を読めないと場を乱すと言うなら、場を乱すことがどうしていけないのか。などと理由を遡って考えていくと、全体のために個の自由や意見を抑制しろというパラダイムに行き着く。それは全体主義のパラダイムだ。問題は「場を乱すことが悪いこと」というのが全体主義の考え方であることに気づかない多くの大衆の精神性にある。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉がある。ツービートのネタで使われた言葉だが、考えてみれば恐ろしい言葉である。違法行為であっても集団のためなら許される(お咎めを受けない)という考え方だからだ。スターリンはまさに赤信号を渡った人間で、ロシア革命以前には反体制組織の資金集めのために銀行強盗を繰り返していた。銀行強盗を国家の指導者に据える国などないはずだが、全体のためにという大義名分によって犯罪者が独裁者になったのだ。
 映画作品としてはジョーンズの活躍を描きたかったのか、その悲劇を伝えたかったのか、あるいはスターリン政権下での膨大な犠牲者の悲劇を伝えたかったのか、焦点がいまひとつ定まらないところが憾み(うらみ)である。しかし全体主義という大義名分を起点に考えれば、ソ連国内の人権無視や虐殺に触れないで国交を樹立したアメリカやイギリスの政策も構造は同じである。もちろん「お国のため」に数多くの犠牲者を出した日本も例外ではない。ガレス・ジョーンズが戦ったのは、世界に蔓延する全体主義のパラダイムであったのだ。

映画「糸」

2020年08月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「糸」を観た。
 中島みゆきの曲が3曲流れる。もちろん映画のタイトルでもある「糸」は何度も流れ、エンディングでは菅田将暉が熱唱する。残りの2曲は「時代」と「ファイト!」である。特に「ファイト!」の使われ方がよくて、辛い体験をしたあとにカラオケで歌われるのが印象的だ。本作品はこの3つの曲の世界観を融合させているように思う。中島みゆきには突き放した厳しい歌もあるが、優しい世界観の歌もある。本作品は少しだけ優しいほうの作品になっている。北海道出身の中島みゆきにちなんで北海道が舞台なのもいい。
 中学生のときに知り合った男女の18年間に及ぶ物語である。出逢ったときから問題を抱えていた少女と彼女を助けようとする少年。麗しくも辛くて儚い恋は、その後の二人の人生に心の灯となって燃えつづける。それは幸せだがやるせない記憶であり、そして生きていく拠り所でもある。二人の中で灯が燃えている限り、二人はずっとつながっている。タイトルの「糸」を上手に昇華させた見事な作品だ。
 瀬々敬久監督は前作の「楽園」ではムラ社会に追い詰められる他所者の悲劇を冷徹に描いてみせたが、本作品では打って変わって人の優しさを描く。キーワードは「泣いている人がいたら抱きしめてあげなさい」である。この台詞を言う桐野香を演じた榮倉奈々は、このシーンだけでも十分に演じた意味があった。
 小松菜奈は上手い。大泉洋と共演した「恋は雨上がりのように」の女子高校生役は出色の演技だった。この人は目が大きなライオンみたいな顔で、何を考えているのか微妙に判らない印象がある。そのせいなのか、得体の知れないような、吸い込まれそうな魅力に溢れていると思う。少女時代を演じた植原星空にも似た雰囲気がある。本作品の不幸な少女時代を背負った悲しいヒロイン園田葵には二人ともぴったりだった。
 そしていまさら言うまでもないが、菅田将暉の演技は天才的で、どのシーンを見ても主人公の心の奥に園田葵がいるのが分かる。もはやどう見ても菅田将暉ではなく高橋漣にしか見えない。他人の不幸を真正面から受け止め、ひたすら誠実な生き方をする主人公に感情移入する人は多いだろうし、人から受けた親切を忘れない健気なヒロインに感情移入する人も多いだろう。鑑賞時は女性客がとても多かったが、物語が進むにつれてたくさんの人が泣いていた。
 生と病気と死、出逢いと別れ、信頼と裏切りなど、多くのテーマが共存した作品で、高橋漣と園田葵のそれぞれの物語にいくつものテーマが鏤められている。そして力強いストーリーが観客をグイグイと引っ張っていく。濃密で奥行きのある作品であり、悲しくも美しい恋の物語は心を浄化してくれるようであった。

映画「シリアにて」

2020年08月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シリアにて」を観た。
 イスラム教徒はタバコを吸わないし酒も飲まない。少なくとも知り合いのイスラム教徒はそうだった。本作品はシリアの庶民の一日を描いているが、おじいさんはチェーンスモーカーで家族の誰もお祈りをしないことから、この家族はイスラム教徒ではなさそうである。
 爆撃を受けたアパートに他の階から逃げてきた親子が一緒に住んでいる。その母親が「神様」という言葉を口にすることから、あるいはキリスト教徒なのかもしれない。そんなことはどうでもいいというなかれ。立場と状況を把握しないことには作品全体が把握できないのだ。
 家族が置かれた状況は微視的にはすぐに理解できる。戦場のど真ん中に住んでいて、タイトルが「シリアにて」だからシリアのどこかの市街のアパートであることは間違いない。母親と娘二人と息子一人、それに母親の父親、家政婦、それに遊びに来ていて帰れなくなった娘の彼氏、上の階から避難してきた夫婦と赤ん坊。
 いないのは普段はとても頼りになる夫で、仕方がないから夫の代わりに妻が気を張って家族を守ろうとしている。外は戦場で、どこから銃弾や砲弾が飛んでくるともしれない。人心は乱れていて、夫と夫の仲間以外は誰も信用できない。家政婦が目撃した光景についてどうするのか、押し入ろうとする悪人たちにどうやって対処するか。次々に究極の選択を迫られる。ほとんどの住民が逃げた街で、アパートにこもることを選択した家族にとって、戦争が終わることだけがただひとつの願いだ。女と子供と年寄りの家族。あまりにも無力である。
 家族の置かれた状況は絶望的で、平和な現在の日本から見れば本当に気の毒なのだが、どういうわけかこの家族に少しも感情移入ができない。どうしてなのかなと考えつつの鑑賞だったが、途中でその理由に気づいた。この家族は母親による専制的な共同体なのだ。戦時中のミニ国家なのである。他人を支配しようとする精神性は戦争へ向かう精神性である。
 独裁者たる母親の判断は、街から逃げ出さないでアパートにこもることを選択したことも含めて、必ずしも正しいとは限らない。加えて、長く続く武力紛争の状況下で子供を作ることも理解できない。戦時下で様々なものが不足する中でタバコを吸い続けることも意味不明だ。ただ戦争が早く終わることだけを願っているだけのこの家族の望む将来の姿が見えてこない。
 シリアの悲惨な状況は理解できたが、主役の家族に共感できないから、どうしても醒めた思いで観てしまうことになる。家族のその後の運命を案じることもない。この映画の精神性がシリアのパラダイムであるなら、この地から戦争を無くすことは非常に困難であると言わざるを得ない。

映画「The Professor」(邦題「グッバイ、リチャード!」)

2020年08月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Professor」(邦題「グッバイ、リチャード!」)を観た。
 いつ頃の話なのだろうか。携帯電話やスマホが登場しないから20世紀であることは間違いなさそうだ。主人公リチャードの愛車は多分80年代のベンツだから、その頃だと思う。
 ジョニー・デップはときどき目を瞠る演技をすることがある。「ツーリスト」や「トランセンデンス」の演技がそれだ。本作品の演技はそれらの作品にも増していい演技だったと思う。デップの魅力は不安定さにある。揺れ動く感情や愛憎、それに世界観。人間とはかくも危なっかしいものなのだなと、彼の演技を見て改めて思う。
 本作品は英文学の大学教授リチャードが肺癌で余命半年を宣言されるシーンから始まる。以降は大学教授とは思えないほどFuck!!を連発。作品の中で少なくとも100回は言ったのではないか。そして実際にFuckもしてしまう。それもゼミの最中でしかも店のトイレでしかもその日会ったばかりの店員が相手ときているから、もうぶっ飛んでいる。このあたりのジョニー・デップはとても楽しそうだ。
 品行方正の見た目をかなぐり捨て、これまで抑制していたことからすべてのブレーキを取り去って、何にでもチャレンジする。タバコもマリファナも浮気も、時には男色まで。そんなやりたい放題の生活の中で、迫る死を少しずつ受け入れていく。癌に蝕まれて徐々に身体の調子が悪くなっていくが、それも含めて世界は不条理で、しかし完璧だと喝破する。あたかもニーチェがこの世のすべてを肯定したようだ。
 英文学の学生たちには、文学は社会にとって大変に重要だと話し、世の中の98パーセントはクソみたいな連中で、文学をやる人間は孤独の道を歩むことになるが、それでも負けないで頑張って欲しいと鼓舞する。自分が鼓舞されたかったように学生を鼓舞するのだ。ジョニー・デップ渾身の演技である。
 ラストシーンはT字路だ。右に行くのか左に行くのか。しばし考える。果たしてリチャードの決断はどうだったのだろうか。次のシーンに驚かされる。ここでも世の中のルールを蹴飛ばすあたり、最後の最後まで破天荒を貫いたリチャードの矜持が垣間見える。見事な人生だ。
 邦題の「グッバイ、リチャード!」は軽すぎる感があり、原題の「The Professor」は固すぎる。作品の最後に出てきた文字「Richard says Goodby」がいい。邦題にすると「リチャードはさよならを言う」とか「リチャードの別れの言葉」といったことになるのだろうが、当方なら、手塚富雄翻訳のニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」に因んで「リチャードかく語りき」にしたい。またはレイモンド・チャンドラーの「The long goodbye」に因んで「リチャードの長いお別れ」でもいい。本当にずっとリチャードが語りつづけ、それが心地よく聞ける映画だった。

映画「おかあさんの被爆ピアノ」

2020年08月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「おかあさんの被爆ピアノ」を観た。
 被爆したあとの広島では、被爆者に対する差別が酷かったらしい。差別は戦後も続き、被爆二世と呼ばれる被爆者の子どもたちにも及んだと言われている。知っている広島出身者は原爆について話したがらないし、有名な反戦歌である「原爆を許すまじ」や「死んだ男の残したものは」を歌いたがらない。原爆は街や人の生命だけでなく、人の心も破壊したのだ。
 ピアノの調律師役の佐野史郎は名演だった。広島弁のイントネーションも完璧で、広島人らしい優しさと磊落さがとてもよく出ていた。穏やかな父母を演じた森口瑤子と宮川一朗太もよかった。特に森口瑤子は被爆二世が味わされた微妙な差別がうっすらと感じられ、嫌な思いをしたことを娘に伝えたくない母の気持ちが十分に伝わってきた。
 ヒロインの武藤十夢がミスキャストである。演技が学芸会なのだ。この人が演じると主人公が二十歳とは思えないほど子供っぽく、穏やかな両親から生まれたとは思えないガサツな娘になってしまって、序盤から不愉快にされた。ピアノを弾くヒロインなら、もっと繊細な感受性を持っていなければならない。同じ台詞でも話し方次第で上品にも下品にもなる。当方がプロデューサーだったら、モトーラ世理奈をキャスティングしただろう。多分まったく違う作品になった筈だ。
 それでもヒロインがおばあちゃんの被爆ピアノとそれに纏わる自分の家族の歴史に触れることで少しずつ気持ちが変わっていくさまは見て取れた。そして森口瑤子が演じた母親も、娘におばあちゃんの思い出を語ることで、長い間抱えてきた苦しみを溶かしていく。本作品の主眼はこの母娘の成長にある。タイトルが「おばあちゃんの被爆ピアノ」ではなく「おかあさんの被爆ピアノ」である理由もそこにあるのだ。佐野史郎の調律師と宮川一朗太の父親がそれを上手に優しくサポートし、物語は穏やかに進んでいく。ピアノを弾かせてほしいという学生たちのシーンは要らなかった。
 被爆ピアノで弾かれる曲は冒頭の「アヴェ・マリア」にはじまり、滝廉太郎の「荒城の月」から野口雨情の童謡、それに「ゴンドラの唄」まで幅広く弾かれるが、なんと言ってもベートーヴェンである。特に「悲愴」が何度も繰り返されるが、少しも飽きない。昨秋にサントリーホールでピアニスト及川浩治さんのリサイタルを聞きに行ったが、五大ピアノソナタと「エリーゼのために」はいずれも高山流水というべき名演奏だった。そのときに聴いた「悲愴」がこれまで聴いた中で一番だったと思う。
 ヒロインはともかく、人が優しさを獲得していくいい話を佐野史郎や森口瑤子の名演とベートーヴェンの曲に乗って観ることが出来たのはよかった。心がほっこりとする温かい作品である。

映画「ドキュメンタリー沖縄戦」

2020年08月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドキュメンタリー沖縄戦」を観た。
 沖縄戦を扱った映画で最も迫力があり、かつリアリティがあったのはメル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ」である。沖縄戦を扱った作品だ。島の切り立った崖を登ると、痩せ細った日本軍兵士が鬼のような形相で銃を撃ち、日本刀で斬りつけてくる。物量で日本軍を圧倒していた米軍だが、個々の戦闘では多くの死傷者を出した。
 本作品は沖縄戦が庶民にとってどのようであったかを教えてくれる。自分たちで掘った避難場所と食糧を日本の軍隊に奪われ、米軍は鬼畜で男は拷問されて殺され、女は強姦されて殺されると教えられる。他に情報のない住民はそれを信じるしかない。米軍が勝って占領された地域の住民は、ガマと呼ばれる穴に集まって隠れるが、出て行って殺されるか、ここで死ぬかの選択を迫られる。チビチリガマでは親が子供を殺し、死にきれなかった者だけが助かった。しかしシムクガマでは、ハワイから帰っていた比嘉平治さんが米軍と話すことが出来たので、強姦も拷問も殺されることもないと判って、全員が助かった。
 教育の問題だと多くの登場人物は語るが、日本軍が自分たちに都合のいいことしか伝えないのは考えれば解ることだ。それを考えなかったのは権力に逆らうことをしない国民性だと思う。沖縄を含めて日本は市民革命で自由と平等が勝ち取られた訳ではない。明治維新はクーデターだし、戦後民主主義は戦争に負けて成立した。日本人は一度も権力と戦ったことがないのだ。そもそも権力を疑うこともしない。それこそが教育の問題で、権力というものが常に流転する相対的なものだという認識があれば、日本の軍国主義教育を鵜呑みにすることはなかっただろう。
 そういうメンタリティは社会全体が建設的な場合には集合として強い力を発揮する。高度成長時代がまさにそれに当たる。しかしいま、下り坂の時代に入り、再び権力者が国家主義のパラダイムの下に人心の集結を図ろうとしている。その危険性に気づかないまま、現権力を支持していると、再び沖縄戦の時代がやってこないとも限らない。
 既に成長が望めない時代になっていることを権力者が認めようとせず、夢よもう一度と朝鮮半島や中国、東南アジアに軍を派遣するようなことになれば、世界はもはや日本という共同体、日本人という民族を残しておこうとは思わなくなるだろう。先の大戦に対する反省を口にせず、代わりに積極的平和主義を主張するような頭のおかしい人間が総理大臣をやっているような国だと、世界は既に警戒を始めているのだ。

Can’t take my eyes off of you 君の瞳に恋してる 歌詞

2020年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム

Can’t take my eyes off of you


Lyric:Bob Crewe
Music:Bob Gaudio
Four seasons
You're just too good to be true I can't take my eyes off of you
You'd be like heaven to touch I wanna hold you so much
At long last love has arrived And I thank God I'm alive
You're just too good to be true Can't take my eyes off of you

Pardon the way that I stare There's nothing else to compare
The sight of you leaves me weak There are no words left to speak
But if you feel like I feel Please let me know that is real
You're just too good to be true I can't take my eyes off of you

I love you baby And if it's quite all right
I need you baby To warm the lonely nights
I love you baby Trust in me when I say

Oh pretty baby Don't bring me down I pray
Oh pretty baby Now that I've found you stay
And let me love you, baby Let me love you

You're just too good to be true I can't take my eyes off of you
You'd be like heaven to touch I wanna hold you so much
At long last love has arrived And I thank God I'm alive
You're just too good to be true Can't take my eyes off of You

I love you baby And if it's quite all right
I need you baby To warm the lonely nights
I love you baby Trust in me when I say
Oh pretty baby Don't bring me down I pray
Oh pretty baby Now that I've found you stay
Oh pretty baby Trust in me when I say

(1967年5月)


Old Black Joe オールド・ブラック・ジョー 歌詞

2020年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム

Old Black Joe

Gone are the days when my heart was young and gay,
Gone are my friends from the cotton fields away,
Gone from the earth to a better land I know,
I hear their gentle voices calling Old Black Joe.

 I'm coming, I'm coming, for my head is bending low,
 I hear their gentle voices calling Old Black Joe.

Why do I weep, when my heart should feel no pain,
Why do I sigh that my friends come not again?
Grieving for forms now departed long ago.
I hear their gentle voices calling Old Black Joe.

 I'm coming, I'm coming, for my head is bending low,
 I hear their gentle voices calling Old Black Joe.

オールド・ブラック・ジョー(三宅忠明:訳)

若く楽しい日は去り、
友もみな世を去って、
あの世に、静かに眠り、
やさしく呼んでいる、オールド・ブラック・ジョー

 今に行くよ、老いたるわれを、
 やさしく呼んでいる、オールド・ブラック・ジョー

心も痛まず、なぜに泣く?
友が去り、なぜため息をつく?
とっくに亡くなった友を、嘆きながら。
やさしく呼んでいる、オールド・ブラック・ジョー

 今に行くよ、老いたるわれを、
 やさしく呼んでいる、オールド・ブラック・ジョー