おいらは、北海道という、大日本帝国⇒米国属領ぬっぽんが唯二(旧蝦夷&旧琉球)が保持しえた侵略地で生まれ、育った。
だから、おいらは、二流の日帝臣民である。
でも、気がつけば、口さがない (google=「口さがない」)。
二流の日帝臣民にて、口さがないとは、僭越である。
口さがない、といえば、京童だ。 一流の日帝臣民だ。 なにしろ、帝がお住いの御所の近くで生まれ、育ったのであるから。
それでも、やっぱり、おいらは、蝦夷っ子のクセに、口さがないのだ。
さて、口さがない京童の街に行って、したことは、おうどんを食べることである。
食べた。 京のおうどん。 なお、今、「きょうのおうどん」と入力したら、「狂のおうどん」と変換された。
おうどん、食べた。 裸のおうんどん。
日替わり(冠詞なし)うどん定食=今日のおうどん定食。 鳥の唐揚げとごはん付き。
そして、気づいた;
煮うどん; 九条ねぎうどん ⇔ とおうどん定食; のおうどん定食
煮おうどん、九条おうどん、とはいわないのだ。
つまり、京ことばでは、裸の名詞 or 裸の「うどん」は使用禁止なのだ。
必ず、名詞としての「うどん」は形容的単語(形容詞に限らない、何らかの追加的情報を与える名詞でも可)に修飾されて使用されるのだ。
google: 裸の名詞。
「煮」うどん、「九条ねぎ」うどんなど。
そして、「素うどん」が、「おうどん」なのだ。あるいは、「の」という助詞=事実上、文=情報提供をさえぎる詞の後の「裸のうどん」の「お」が"つく"のだ。 なお、英語の名詞に(不定・定)冠詞"つく"がという考えは、根本的英語に理解していなのだ、という話は有名。