いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

昭和の成仏のために;①フィルムあります;; ②秋岡家榮と石田保昭は1959-1961にデリーで共存

2016年03月13日 20時34分07秒 | 日本事情


京都、大原にて。

今の若い人は、カメラのフィルムを装填したことがないひとが多いのだろう。

フィルムカメラ ⇒ デジカメ の大革命を乗り切ったのが、富士フィルム社である。

Google (富士フィルム 事業転換)

あんまり、誉めてもらえてないような気がする。 Appleのように超イノベーションの自発核発生的起業→世界制覇という例が日本になく、「ぬっぽん・だめだ!」の声は多い。でも、老舗の革命乗り切り力は見ものである。

■ 秋岡家榮と石田保昭は1959-1961にデリーで共存

全くどうでもいいことです。この世でこの二人に、ささやかな思いを寄せたのはおいらだけでしょう!

今週知ったこと。 秋岡家榮と石田保昭は1959-1961にデリーで共存していた。

秋岡家榮 (wiki); Google (秋岡家榮 文革報道

石田保昭 (wiki

秋岡家榮(あきおか いえしげ)とは朝日新聞記者。 サンケイ新聞の 我らが柴田穗 記者が、文革の真実を報道してしまったばかりに中国を追放された(愚記事:伝説の文革報道をした柴田穗さんは1930年に東京に生まれた)。このとき、追放されたのはサンケイだけではなく、毎日・江頭数馬、産経・柴田穂、西日本・田中光雄の三記者である(愚記事; 誰か、 田中光雄 を知らないか? 北京帰りの み つ お  )。そして、この後文革真最中も唯一中国で記者滞在が許されたのが、奴らが朝日新聞に他ならない。文革の真実を伝えなかった朝日新聞である。今となっては、林彪事件を確かな情報源から知っていたにもかかわらず秋岡家榮朝日新聞記者は報道せず、隠蔽したことが分かってきている。この件は別記事でいつか。

それとは別途、秋岡家榮の履歴で、秋岡は1959-1962年にデリーにいたのだ。もちろん、朝日新聞記者としてである。

そうあるならば、石田保昭と同時期にデリーにいたことになる。石田保昭さんについては、愚記事の なつかしい本の話; 石田保昭、『インドで暮らす』 を参照。 石田保昭、『インドで暮らす』 には朝日新聞記者は全く出てこない。

両者に共通なのは、無垢な時期に、日帝に参画し、その後、「アジア」との関係で人生を規定していく人たちだ。

なお、両名とも (石田保昭 1930年生まれ、 秋岡家榮 1925年生まれ )御存命らしい。

■ あんまり関連しない記事;
 1942年のデリーに、3000人の日本人がいた