おらたちがつくった米を
おらたちが食わんにくなる
そんなごとでいいわけねえべえ
百姓でねえ家では
九州から北海道から米を買うどか
おらたちはそれはでぎねえ
おらたちがたんせいこめでつくっただがら
どうして捨てられんべ
そんなごとでは罰あたんべ
あたり一面黄色くなったつうのに
気はふさぐばっかだ
おらたちはおまんまで育っただべ
一粒一粒ありがだいがら
神様に捧げもんしただべ
おらたちは米を食うだ
異形の者としてさばかっちも
おらたちはくたまにしねい
怨霊となってこの世にもどり
死の灰を降らした者を
ひっつかまえてやるだ
なじょしてでも
ひっつかまえてやるだ
やっぱり農林水産省がやらかした。米について1キログラムあたり500ベクレル以上のセシウムが検出されなければ、出荷停止にしないというのは、とんでもないことだ。米は毎日食べるものであって、牛肉と同じ暫定基準値をあてはめること自体が問題だ。会津のような米作地帯では、出荷停止にならなければ、それでOKという空気もあるが、本当にそんなことで良いのだろうか。とくに、子供にまでセシウム汚染米を食べさせようというのだから、民主党政権のやることは常軌を逸している。京都大学原子炉実験所の小出裕章助教の言うように、私のような50代から上の世代は、汚染された米を食べるとしても、影響の大きい子供だけは守ってやるべきだろう。そもそも、暫定基準値なるものがまやかしだ。それを超えなければ安全だという根拠などは、どこにも存在しないし、あくまでも気休めでしかない。「クウはクワエルに通じ、物を口に入れるという生理的な表現であり、タベルはタマワルであって、物を人からもらうという倫理的な表現である」(『倫理学』)と佐藤俊夫は教えてくれたが、3月11日を境にして、日本は安心して物を食べられない社会になったのであり、人間としての倫理観も根本から失われてしまったような気がしてならない。