草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

吉本隆明の原発擁護発言は敵ながら天晴れだ!

2011年08月14日 | 思想家

 吉本隆明の発言は、常に一貫しており、その点では評価できる。去る8月5日付日経新聞に載ったインタビュー記事について、自称サヨクから攻撃されているようだが、マルクス主義を拠り所とすれば、吉本に分があるのではなかろうか。近代主義の一亜流であるマルクス主義は、未来に関してはなはだしく楽観的だ。歴史の発展の法則を云々するのも、そのせいだ。それと比べると、どことなくペシミストなのが保守派である。吉本が「発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは人類をやめろ、というのと同じです」と述べたために、ネット上でもブーイングが起きたようだが、その大半はサヨク側の人間で、裏切られた気がしたからだろう。しかし、吉本は以前からそう主張していたのであり、今さら驚くほどのことではない。もっとも子供たちを巻き込んだ原発事故の悲劇について、目をふさいでいるわけではない。完璧な防禦装置の必要性を訴えてはいるからだ。今回、私たちに吉本が教えてくれたのは、サヨクの反原発運動の限界である。世界中を見渡しても、サヨクが政権を担っている国々では、かえって原発を推進している。時計の針を逆に回すというのは、本来であれば、サヨクよりも保守派の主張なのである。私からすれば、吉本隆明は理論的に粉砕すべき巨人であるが、原発に関して一歩も動じないあたりは、敵ながら天晴れだ。  

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国のため散華した者を慰霊する聖地靖国神社

2011年08月14日 | 思想家

 日本国のために散華した者たちを慰霊するのは、日本人としてあたりまえのことであり、国靖かれと斃れた者たちの霊を祀るからこそ、日本という国家が悠久に続くのである。明治2年に国靖国神社が誕生したことで、国家的敬意が示され、幕末から大東亜戦争まで含めて、ご祭神の数は246万6千余柱に上る。それでいて、位牌や遺骨はどこにもない。死者と生者が自由に往来できる、という日本人の情念に支えられているのだ。石原慎太郎は「礎として斃れていった死者の存在抜きに、今生きている我々の価値観だけで国家民族の命運を決してはなるまい」(『新世紀の靖国神社』「永遠なる時間の輪の中で」)と書いているが、そのことを教えてくれるのが靖国神社だ。おびただしい死は無駄ではなかったし、A級戦犯だとか言って、死者を鞭打ち、死者を選別するのではなく、今こそ死者のかすかな声に耳を傾けるべきだろう。敗戦記念日の明日、私も上京し、靖国神社へ参拝するつもりだ。戦後の日本は、高度経済成長を達成して、経済的には豊かにはなったが、死者との絆は顧みられず、生者の奢りばかりが目立った。そんななかにあって、法律的には国が手を引いたとはいえ、公に死者と対面できる聖地は、唯一靖国神社だけなのである。

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