戦後民主主義はあくまでも徒党の論理である。自分の頭で物事を考える人間には適さない。そこに属している者たちが、本当は誰一人仲間を信じてはいないのである。表向きは仲間であっても、本心では反目をしあっているのだ。それは大宰治が『もの思う葦』で書いている通りである。「私にとって(ほかの人は,どうだか知らない)最も苦痛なのは『徒党』の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、かえって賞賛を送らなければならぬ義務の負担である。『徒党』というものは、はたから見ると、所謂『友情』によってつながり、十把一からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、まことに小気味よく歩調とか口調とかそろっているようだが、じつは、最も憎悪しているものは、その同じ『徒党』の中に居る人間なのである。かえって、内心、頼りにしている人間は、自分の『徒党』の敵手の中に居るものである」(「徒党」)。サヨクが好きな内ゲバはその典型である。あくまでも信念にもとづいた一致ではなく、徒党でしかないから、同じセクトの仲間を疑って、そのうちに分裂して、血で血を洗うことになるのだ。それと比べると、保守は徒党には与しない。まずは少数派から出発し、地道に説得を積み重ねていくのだ。そこでは「馬鹿らしいものを馬鹿らしい」と言葉にすることができる。絶対的な価値観などは存在せず、あくまでも討論の結果が方向性を定めるのである。日本のマスコミやサヨクは、徒党の好きな人種である。そうしていれば安心感があるからだろう。仲間はずれにされることを極端に恐れる。人と同じように「平和」「民主主義」を叫んでいれば、それでスクラムが組めると思い込んでいる。しかし、実際は隙間だらけの自信にない集団なのである。
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