選択的親子別姓にするということは、死者との絆を失うことである。私たちは「家」を通じて、自分たちのアイデンティティを確認してきた。柳田国男の『先祖の話』では、血族としての家が絶えた場合でも、新たな「家」を建てて、死者を先祖として祀ることを主張した。
それを否定するような風潮は、日本人の国柄を否定することであるからだ。柳田は「少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒のいう無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけには行くまいと思う」と書いた。
また、柳田は「家としての新たな責任、そうしてその志を継ぐこと、および後々の祭りを懇(ねんご)ろにすることで、これには必ず直系の子孫が祭るのでなけてば、血食ということができぬという風な、いわゆる一代人の思想に訂正を加えなければならぬであろう」との見解を示した。
この柳田の論法は、どれだけ「家」が大事であるかを説いている。過去があって現在であり、現在の上に未来は築かれるのだ。選択的親子別姓は、戸籍を抹消し、それによって「家」を断絶させようとする暴論である。
私たちには、それぞれに生まれ育った故郷があり、先祖が眺めていた光景を目にしている。まさしく「祖型」を反復することで一体感を手にし、死者との結びつきを確認しているのだ。その根本にある「家」を断固守り抜かなければ、日本人としての大切なものを見失ってしまうのである。